第六話『役者が揃うということ』
「あなたには生きる資格があるのかしら」
隙を突いて襲いくる幻聴に、場所も時間も関係ない。普段は耳障りなだけで実害はほぼ皆無なのだが、最も気が抜けてリラックスしている時――つまりはベッドに寝転んで睡眠を取っている時に聞こえる幻聴は、鮮明な幻覚を伴って現れる。
起きている時にも幻覚が見えることはある。しかしそのほとんどが大量の血や臓物といったスプラッター映画を彷彿とさせる現実味のないものばかり。ところが就寝中の幻覚は夢を侵食して同化し、はっきりとした輪郭と色彩、それにノイズの混じっていないクリアな声色を携えてやってくる。
「人殺し、殺人狂、人類史上最低の実名なき殺人狂。これだけ蔑まれてもまだ図々しく生きようとするなんて、どれだけ生に未練があるのよ。犠牲になった死者に、その遺族に申し訳ないと思わないの……」
口調こそ有十にそっくりだが、違う。これは有十ではなく『彼女』の言葉だ。
だから僕は言い返す。
「お前は全部知っていながらそういう意地悪を言うんだな、とんだ性悪女だよ」
耳元に息を吹きかけ、笑う幻聴。
「だって、この結末はあなたが望んだことじゃなくて……」
「分かっている。僕は、僕という人間はとうの昔に消滅霧散している」
「そしてあなたは私になった」
「僕はお前になれたかな……」
「全然駄目ね、まだまだ努力不足。頑張り屋さんのあなたなら、もうちょっとだけ頑張れるんじゃないかしら」
「分かった、やってみるよ」
幻聴が段々と遠ざかっていく。幻覚も僕に背を向け、夢の奥深くにある真っ黒な空間へ吸い込まれて消えていく。
「私はいつだってあなたを見ているわ。だって私はあなたを――しているもの」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
起きたばかりの寝ぼけ眼で部屋の様子を眺めている内に、はっきりと覚えていたはずの夢の内容が記憶の海に溶け、薄れていく。僕はどんな夢を見ていたのか、どうしても思い出せない。
「悪い夢ではなかったな、多分」
ベッドから上体を起こし、うんと背伸びをする。カーテンの隙間から漏れ出た日差しが、僕の体に斜線を引いている。
――私立都原高等学校での一件から、早一週間が過ぎた。一週間も生活すれば非行敷の暮らしに慣れるかと思ったが、それは慣れるというより嫌でも慣らされるといった方が適切かもしれない。
短いようで長い一日の中で、顔を合わせる人間が空巣さんと有十と六花の三人だけという異様な日常。他の有能力者は依然として部屋を出る気配がなく、少しばかり退屈であった。
「それならちょうどいい場所がある。学校だ」
朝食のカツサンドを頬張っていた僕に、空巣さんはそう助言してくれた。
「もうしばらくここでの生活に慣れてからでも遅くはないと思っていたが、時間を持て余しているというのであれば予定を早めて学校に通ってもらうとしよう」
学校。思えば中学校の卒業式以来、学び舎に足を運んでいないなと感慨に耽っている内に、カツサンドが残り一つになってしまった。六花に朝食の食べ過ぎは控えるよう言われたばかりなので、最後の一つはゆっくりと時間をかけて味わい、空腹そのものではなく空腹感を満たすよう努める。これで空巣さんに追加で料理を作ってもらうような事態には陥らない――はずだ。
「非行敷から最も近いのは公立の舘上高校だが、あの学校は編入試験がとにかく難しい。中学校を卒業して一年と数か月のブランクがある君では、試験を突破するのは厳しいだろう」
都原高校はどうですか、と僕は提案する。
「六花の通っているところか。あの学校は生徒の学力に合わせて学級を編成し、そのレベルに応じて授業の進み具合を調整している。道開さえよければ、すぐにでも手配できるだろう」
お願いします、と頭を下げると、
「任せておきなさい。ただし学校に通うと決めた以上、勉学を怠るような真似は許さない。特に君の場合、編入した後の勉強に取り組む姿勢が重要になってくるだろう。やりたい部活が見つかったなら参加してもいいし、委員会活動に精を出すのもまた青春だ。だが勉強だけは疎かにしないよう心がけてくれ」
「もしテストで赤点を取ったらどうなるんです……。まさか塾や予備校とか」
「その必要はない、私が教える」
「空巣さんが」
「私は高校で教鞭を取っていたことがある。非行敷で働く前の話だ。学生時代は教師を目指していたからな」
元々教職に就いていたと暴露されても、不思議と驚きはなかった。教師と非行敷の職員、この二つの仕事には子供を相手にするという共通点があるからだろうか、教壇に立つ空巣さんが容易に想像できてしまう。
しかし教師として奮闘していた彼女が、どうして非行敷の職員に転職することになったのだろう。非行敷日本第一支部支部長の座に就くまでの経緯を訊いてみたところ、空巣さんは快く質問に答えてくれた。
「私がまだ教師であった頃、非行敷の『上層』からアプローチを受けた。当時はそれなりの有名校に勤務していて、その中でも成績上位者を選りすぐって編成されたクラスにおいて、担任と地理歴史科の授業を担当していた。その分待遇も良かったが、非行敷はその三倍出すと言って私を引き抜こうとした」
三倍、というのは給料のことだろうか。教師の給与の相場には詳しくないが、仮にひと月あたり二十万から三十万くらいとするならば、その三倍で六十万から九十万という大金が支払われる計算となる。実際は税金や年金、その他諸々差し引かれるのだろうが、それでも一教師にとって破格の待遇に違いない。もしかすると僕が知らないだけで、有名校に勤める教師は普通にそれくらい貰っているのかもしれない。
「当時の月収が約八十万、それを考えると――どうした、道開」
今度ばかりは驚かずにはいられなかった。ちょうど口に入れたばかりのカツサンドが咀嚼する間もなく口から飛び出し、見事皿に着地した。唾液でぬらぬらと光を反射しているカツサンドを見ながら、驚きの余韻で激しく咳き込む。
「空巣さん、すごいですね」
何が、と呆気に取られている空巣さんにまたもや僕は吹き出した。
そういえば、非行敷の予算はかつかつだと六花が言っていた。非行敷は何が何でも――ひと月およそ二百四十万円払ってでも空巣さんという人材を確保したかったと見えるが、彼女を雇う資金でより多くの人間を集めた方が良かったのではないだろうか。
「今更言うまでもないが、非行敷の保護対象はただの子供ではない。有能力者という存在に生まれた子らを救う役割は、一般的な教師やカウンセラーでは荷が重すぎる。自慢に聞こえるかもしれないが、非行敷の職員は皆、卓越した技能と知識を有している。見ようによっては私達職員の方が有能力者だと思われてしまうほどの、な」
なるほど、と僕は頷く。誰でも彼でも雇うわけにはいかず、かといって職員としての資格を持つ人間が進んで仕事を引き受けてくれるとも限らない。だから大金を積んで空巣さんを確保しようと目論んだ。
「話を戻そうか。つまり非行敷は私を、こう言ってよければ金で釣ろうとしたのだ。しかし私は金に困ってなどいなかったし、当時の月収でさえ貰い過ぎて扱いに困っていた。だから一度はその話を蹴った。その時の私は、非行敷に何の興味もなかったからな。それから程なく、ある子供が私を訪ねてきた。そうだな、あれから何事もなく成長していればちょうど今の道開と同じくらいの歳か。当時まだ小学生だったその子は非行敷に資金を援助している富豪の娘で、私に非行敷で働くよう頼みに来たのだ。『あなたはもっと多くの子供達を救うことができる。その義務と責任がある』と言って――最初は子供に私の何が分かるんだと思いはしたが、すぐに反省したよ」
生まれて初めて子供に苛立ちを覚えた、と空巣さんは呟いた。その顔には、息子や娘の自慢話をする父母のような優しい笑みが浮かんでいる。
「それはきっと、その子の言葉が正しかったからだ。学び舎を離れ、非行敷で働き始めてから私は救われた気がしたよ。ただ子供に勉強を教えるだけが『教師』ではなく、形式的なコミュニケーションで子供の全てを知った気になり、的外れなアドバイスをするのが『教える師』ではないと気づかされた。もう一度あの子に会うことがあれば、是非ともお礼を言いたいものだ」
「会う機会がなかったということは、その子は有能力者ではなかったんですね」
「さあ、どうだろうな。彼女に出会ったのは本当にそれきりなんだ。それに先程も言ったが、その子は非行敷に莫大な資金援助を行っている富豪の娘だ。それが何を意味するか、道開には一度説明しただろう」
何のことかさっぱり分からず、僕は空巣さんとの会話を振り返ってみる。
非行敷の話、有能力者の話、暴発の話。非行敷は有能力者を保護する施設という一面を持ちながら、その実、不可思議な力を有する異端者を一所に押し込め、社会に悪影響を及ぼさないよう隔離する役割を担っている。そして非行敷は、有能力者を怖れ、あわよくば利益に繋げようとする偽善者の援助によって成り立っている。空巣さんはそう言っていた。
僕達はサーカスのライオン。芸を仕込まれ、火の輪をくぐって観客を沸かせるエンターティナーだ。がおー。
「その富豪、西都原は典型的なそれだ。援助を受ける側の私が言うのも何だが、西都原は自分の娘が有能力者であると分かったその時は我々非行敷に委ねることなく、私腹を肥やすために利用するだろう。一見すると危険極まりない能力も、使い方によっては金を生み出す資産になり得るからな。あるいは恐れをなして我が子を始末するか――今のところ、そういう話は私の耳に届いていない。だからあの子は有能力者ではないはずだ」
「そういえば、空巣さんは有能力者なんですか」
「私か、私はただの人間だよ。そして道開、君も有能力者であると同時に人間だ。私と君との違いなんて、ほんのちょっぴり怪我の治りが早いか遅いか、それだけのことに過ぎない」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
「私ね、『虐殺の文法』が使えるのよ」
それは幻聴ではない。以前『彼女』が言った台詞、二人揃って読書に明け暮れていた時のことである。彼女は突如自慢げにそう言うと、満面の笑みを浮かべた。
「お前は本当に伊藤計劃の作品が好きだね」
彼女が読み終えた本に多大な影響を受けるのは知っていた。登場人物の口癖であったり、仕草であったり、または思想であったり。最初は何を真似ているのか分からず適当に聞き流すのだが、後に彼女から本を借りることでその内容を理解し、共に語り合う。それが僕達の日課であった。
とりわけ彼女が好む本は、特異な能力が取り扱われる作品。しかも彼女なりのこだわりがあって、ファンタジーやライトノベルではなく一般的な現代文学の中から好みの小説を選び出すのだ。そう、その時も彼女の手にあったのは伊坂幸太郎の『魔王』だった。
「あら本当よ。まじよ、まじ」
「『まじ』なんて言葉を使っている時点で無理だろうよ」
彼女は笑い、僕もつられて笑顔になる。
僕と彼女と数冊の本があるだけで、僕の世界には何もなかった。でも、それで良かった。それ以外に何も要らなかった。
僕には彼女が、彼女には本があればそれだけで幸せだった。
「幸福って有限なのよね」
まるで僕の回想を覗き見していたかのように、タイミングよく幻聴が語りかけてくる。うるさい、とどことなく手を振り、幻聴を追い払う。
僕は自分の部屋にいた。寝間着をベッドに放り投げ、張りのある新品の制服に着替えているのだが、どうにもネクタイの結び方が分からない。あれやこれやと四苦八苦していると、有十が部屋に飛び込んできた。
「着替えは済んだ……」
「ノックもなしに突然入ってくるんじゃない」
「何を慌てているの、自慰行為でもしていたのかしら」
「恥じらいもなく自慰とか言うなよ。見ての通り、自分で自分の首を絞めていたんだ」
首、と言って彼女はネクタイに視線を向ける。ぐるぐると首に巻かれたネクタイを見て笑い出すかと思いきや、
「ああ、ちょっとこっち向いて」
言われるがまま有十の方を向くと、彼女は慣れた手つきでネクタイを締めてみせた。首に圧迫感はないし、何よりネクタイに偏りがなくて格好良い。
「はい、これでオッケー。これからは自分一人で結べるように練習しておきなさい」
「ありがとう、次こそは一人でやってみせるとも――だから後で結び方教えて」
はいはい、と有十は満更でもない様子でため息をつく。
部屋の隅に置かれた革製のバッグを手に取ると、まだ一ページも開いていない新品の教科書の重みがずっしりと伝わってくる。バッグや教科書だけではない。ノートに筆箱に上履きに、その全てが新品、ぴっかぴかの転入生だ。
「様になっているじゃない。それじゃ、私は部屋に戻って二度寝を堪能するわ」
そう言って部屋を出ようとする有十は、よくよく見てみれば寝間着姿のままだった。お前は学校に行かないのかと訊いてみるが、彼女は大きな欠伸を見せた後、
「私はいいのよ、出席日数足りてるもの」
「そういう問題じゃないだろう。いいか、勉学を怠れば空巣さん直々の授業が――」
有十はぐいと距離を詰め、僕の言葉を遮って額をとん、と人差し指で小突いた。
「学校に着いたらまず、職員室前に張り出されている二学年一学期中間テストの結果を見てみることね」
不気味な薄ら笑いを浮かべ、有十は悠々と部屋を出てしまった。彼女の後を追って部屋を飛び出すが既にその姿はなく、仕方がないので一人階段を下りていく。有十を学校に連れていくのもそうだが、できれば学校までの道のりを彼女に案内してもらいたかったのに、見失っては一人で向かう他ない。度々土地勘のなさが露呈する僕だが、今度こそうまく辿り着けるはずだ。そう信じたい。
玄関に着いた僕を出迎える先客が一人――群青色の生地に白色のラインが目立つセーラー服を纏った六花は、両手でバッグを抱え、可愛らしい微笑みを向ける。
「遅かったですね」
「えっ、と、ああ、うん」
今の今まで六花の存在を忘れていた、とは流石に言えない。心の中ではごめんなさいと頭を下げながら、さも当たり前のように彼女の許へ歩み寄る僕を、六花は訝しげに見つめる。
「お兄ちゃん、不気味の谷を脱しきれないロボットみたいな顔をしています。何かやましいことでもありましたか……」
「ういーん、がちゃん。何もないよ、何でもないよ」
「ロボットの真似ですか、それ」
「ロボット工学三原則守るよ。ういーん、ういーん」
六花の珍獣を見るような憐みの視線に耐えながら、両手両足をかくかくと忙しなく動かし、どうにか誤魔化すことに成功した。遅れてこみ上げる恥ずかしさに悶えながら、僕達は学校へと向かった。
思い返してみればこの一週間、つまりは六花と出かけて以来一度も彼女と顔を合わせていなかった。六花を狙う存在がまたいつ襲ってくるか分からない以上、彼女は不用意に出歩くべきでないと僕は判断した。しかし六花は僕に忠告されるまでもなく、それどころかこの機会を待ってましたとばかりに自室へ引きこもって読書に熱中していたのだ。六花は身を隠していたのにどうして読書をしていたと断定できるのかと言えば、襲撃を受けたその日、帰宅してすぐ僕の買った本を「しばらくお借りします」という断りと共にひったくられてしまったからだ。そのせいで僕はまだ自分の買った本に手をつけていないし、そもそも返してもらっていない。帰ったら六花に本を返すよう催促しなければ。
「お兄ちゃんと一緒なら、大丈夫ですよね」
ぼそりと呟く六花の顔には、明らかな不安と恐怖心が見て取れる。同じ有能力者に狙われたのだから無理もないだろう。
僕達は同類である『主将さん』から攻撃を受けたことを、空巣さんに黙っていた。理由としてはまず、僕らを襲ったあの青年が有能力者で『なくなっていた』ことが挙げられる。彼自身も驚いていたが(青年は目覚めてすぐ能力が使えないことに驚愕しどこかへ走り去ってしまった)、彼の『手に掴んだものに加速をもたらす』能力、《魔弾遊び》は消滅してしまったのだ。これでは空巣さんに彼が有能力者であったと信じてもらうのは難しい。それどころか、僕が何の罪もない一般人を弄ったように思われてしまう可能性だって十分にあった。
僕は元殺人狂であり、空巣さんとの約束を破ってナイフを所持していた。自衛のために使ったと訴えたところで、言い訳に過ぎないと一蹴されてしまえばそれまでだ。
だから僕らは内緒にしていた。空巣さんは気づいた様子もなく普段通りで、六花が学校にも行かず引きこもっていたことについては、
「ここ最近は何かと慌ただしかったからな。学校に通う頻度も増え、私以外の人間――道開とも積極的に関わるようになった。目覚ましい成長の反動、といったところか。少し休養を取ればすぐ顔を見せるだろう」
と言って苦笑していた。
空巣さんの代わり、とまでは言わないが、六花には僕が全て解決してみせると宣言しておいた。空巣さんが学校へ編入することを勧めた際、私立都原高等学校を指定したのは彼女の護衛を務めるためである。
「任せろ」
僕は六花の頭を軽くぽん、ぽんと叩く。何の気休めにもならない言葉と動作ではあるけれど、何も言わず不安にさせてしまうよりは幾分ましだ。そう思った瞬間、僕の脳裏にある光景が浮かんだ。
それは学校を舞台にした有能力者同士の闘争。絶対にありえないとは言い切れない。六花を狙う相手は間違いなく有能力者の存在を知っている。それどころか、別の有能力者が敵に回っていると考えた方がいいだろう。相手が有能力者を差し向けてくる以上、僕達も能力で応戦せざるをえない。主将さんとの戦いが良い例だ。
かつて有十が縁起でもないと切り捨てた、有能力者と有能力者が相争う事態。そんなものが実現してしまえば、有能力者ではない学校の生徒にも危害が及ぶ。仮にそうなってしまった場合、僕はどうすればいい。主将さんとの接触がこれから始まる戦いのゴングであったならば、僕は無事に六花を守り切れるだろうか。
「お兄ちゃん、学校が見えてきましたよ」
悶々と物思いに耽っている間に、どうやら目的地へ到着したらしい。電車に乗ったことさえ気づかなかったというのだから、我ながら凄まじい集中力である。
一度はくぐった校門を通り、学校の全体像を見渡す。何の変哲もない、ごくごく普通の学校だ。四つの校舎が一定の間隔を空けて建ち並び、校舎と校舎の間を行き来するための渡り廊下が見える。その奥に建つ一際大きな建物――どうやら体育館と思しきその建造物の向こう側には、運動場があるとみた。
このまま学校観察を続けていたいところだが、僕の視線は今、校舎の屋上に佇む人影に釘付けになっていた。
各校舎の上からこちらを見下ろす四つの真っ黒なシルエット。逆光では説明のつかない濃度の黒で全身を塗り潰した人影は、その周囲すらもぼんやりとした暗黒に取り込もうとしている。輪郭すら曖昧な彼らの表情は窺い知れず、そもそも人であるかどうかも怪しい。
それでも分かる。人影は僕達を見下ろし、そして笑っている。
お兄ちゃん、と声を震わせ、六花が僕の制服の裾を掴む。わずかに震える小さな手を優しく握り、僕は人影に睨みをきかせる。
登校初日に鳴り響く闘争の鐘。敵は四人、こちらは二人――否、六花を戦わせるわけにはいかない。彼女の能力は未知数な上に、相当危険な力であることはまず間違いない。それが彼らとの戦いに有効に作用するのであれば是非とも使ってもらいたいところではあるが、逆に六花自身を傷つけてしまうような能力である可能性も捨てきれない。博打に出て六花を危険に晒すくらいなら、端から僕一人で対処して僕だけが傷つけばいい。
だから実質的には、四対一。
「何あの連中、四天王でも気取っているのかしら」
そう言って僕と六花の間に割って入ったのは、屋敷で二度寝に勤しんでいるはずの宮島 有十であった。両腕を組み、好戦的な彼女はふふんと楽しそうに鼻を鳴らす。
「有十、お前」
「空巣さんに頼まれたのよ。あなたとそこの、三枝 六花で合っているかしら、あなた達二人の様子がおかしいから見張っておくように、って」
空巣さんの目敏さには心底感心するというかなんというか、ちょっとした恐怖まで感じてしまう。やはり空巣さんは有能力者なのではないだろうか。相手の心を読む、みたいな能力を持っていたり――しないか。
「お兄ちゃん、あの、あの、この人は」
おろおろとうろたえる六花。自分から接触すると決めていたはずなのに、肝心の相手が突然現れたせいで動揺しているのだろう。
「宮島 有十。有能力者としてはおそらく僕の百倍頼りになる。人間としてはまるで頼りにならないが」
「上げて落とす、お笑いの基本ね。こんな時に自己紹介というのも気が抜けるけれど、はじめまして、ごきげんよう」
差し出された有十の手を、六花は恐る恐る握り返す。初対面が無事に済んでほっとしたのも束の間、人影の放つ何かが凄まじい勢いで僕達に向かってきた。風を切り、僕達の足元に突き刺さる。
それは一枚のトランプだった。深々と地面を抉って突き刺さるそれを抜き取るのに少しばかり苦労したが、驚くべきことにそのトランプは至って普通のプラスチック製であった。仮に屋上からトランプを投げたとして、これでは地面に刺さるどころかひらひらと宙を舞うのが籍の山だろう。有能力者でもない限り、不可能な芸当だ。
僕がトランプを手にしたことを確認して満足したのか、四つの人影はほぼ同時に姿を消した。手分けをして屋上まで急げば、四人の内三人の素顔を知ることが可能だろう。しかしそれこそが敵の狙いであったならば――僕達がバラバラになったところで襲い掛かる手筈ならば、単独行動は控えるべきだ。心配しすぎではないか、と思われるかもしれないが、僕が敵ならばそこまでやる。僕が思いつくことは他人だって思いつく。警戒は過剰なくらいが丁度いい。
敵が集団でかかってくるなら、こちらも集団で応戦する。僕一人で六花を守り切れるかという不安もあったが、有十がいるなら話は別だ。彼女の『引力と斥力を司る』能力は対人戦において遺憾なく実力を発揮する。特に相手を束縛して情報を引き出したい時には。一度は僕の束縛に成功しているその能力は空巣さんのお墨付きだ。
拾ったばかりのトランプを投げ捨てる。くるくると回転して地面に落ちたトランプは、片面に描かれた不気味な絵柄を僕に見せつける。
ジョーカー。
道化、あるいは切り札。
道化師はキングの機嫌取りという立場にあって、君主に意見する権利を有していたという。トランプゲームにおいてもジョーカーはキングに優越する。しかしそのトランプの絵柄は派手な化粧が目を引くピエロの姿などではなく、十数本の青いチューブに繋がれたままベッドに横たわる哀れな人間の姿であった。
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私立都原高等学校の掲げるモットーは『全国で一番成績を伸ばす学校』である。勉学に力を入れていることは明々白々であるが、しかしてその実態は天才秀才ばかりが集う学校というわけでは決してなく、成績上位者から最下位まで隈なく網羅しましたと言わんばかりに生徒の成績はまちまちである。むしろ入学時においては、全国平均以下の生徒の方が多いそうだ。
ところが入学してからの成績の伸びは著しく、卒業生の大半は見事志望校に合格、就職を志す生徒はそのほとんどが手に職をつけて卒業している。昨年は東大合格者を数名輩出したとか何とか――物は言いようだが、確かに『全国で一番成績を伸ばしている』と言える。
更には二次試験で惜しくも不合格となった生徒、就職先の見つからなかった生徒のために卒業後も手厚く面倒を見ているらしい。浪人生には試験対策、就活生には就職先の紹介やSPI対策などなど。要するに、僕みたいな勉強のできないやつに優しい学校なのだ。
学級はどの学年も六つに分けられ、一、二、三組は理系クラス、四、五、六が文系クラスとなっている。そして数字の小さいクラスに成績上位者が振り分けられ、各クラスの学力に見合った授業を行うシステムとなっている。
有名校を目指す者には基本をそこそこに、応用問題を解き切る力を身につける授業を、就職を希望する者には一般教養を含めた基本的な知識を獲得する授業を提供する。一見すると生徒を学力で差別しているようにも思えるが、生徒にしてみれば自分の望む水準の勉強に取り組めるので、このクラス編成に文句を言う人間はそう多くない。
六花は一年二組。一年生はまだ文理のどちらを選択するか決まっていないため、一組から順に入学試験の成績が良かった者を振り分けている。それを考えると、六花はよく頑張っている方なのだろう。
有十は二年一組。僕は彼女に言われた通り、職員室前の廊下に張り出された第二学年一学期中間試験の結果を確認したのだが、宮島 有十の名は合計点数と共に画用紙の一番上に大きく書かれていた。点数はまさかの満点。たまたま傍を通りかかった生徒の会話を盗み聞きしたところ、
「それにしても、この間の中間テストやばかったな。数学赤点だったもん」
「数学か、おれも似たような点数だったな。他の教科もそうだが、今回のテストは難関大の過去問から大量に引っ張ってきたらしいぜ。一組の連中も相当苦戦したらしい。そんなの、おれ達に解けるわけねえよ」
「つうか習って間もない単元から出すなよな」
「言えてる、言えてる」
彼らの話を聞いて、僕は有十に対する考えを改めることとなった。
それで僕はといえば、事前に受けた編入試験の結果から、一年六組に籍を置く運びとなった。当然といえば当然の結果なのだが、まさか実年齢より一学年下の学級に割り当てられるとは思いもしなかった。考えてみれば、高等学校は義務教育ではないのだから何も不思議なことはないのだけれど。
六花とは一歳違いながら同級生、有十とは同い年なのに先輩後輩の関係となったわけだ。
「これからは宮島先輩と呼びなさい、道開くん」
僕の隣で偉そうに踏ん反り返っている有十は無視するとして、僕はバッグの中から巾着袋を取り出す。
学校で過ごす時間の経過は驚くほどに早く感じられた。自分のクラスで自己紹介をして、クラスメイトとも親交を深めて、午前の授業の終わりを告げる予鈴が鳴るまでの時間は、まさしくあっという間であった。その後、有十、六花の両名と合流した僕は屋上で昼食を取ることにした。
今手にした巾着袋の中には、大きな弁当箱と保冷剤が入っている。両手で掴んでも余りある巨大な蓋を外し、中身を覗き込むとそこには天国が広がっていた。ぎゅうぎゅうに敷き詰められた白飯に、色彩豊かなおかずがこれまた大量に盛りつけられている。
「お昼はそんなに食べない、って言っていませんでしたか……」
「朝飯の量を抑え始めてから、昼も夜もよく食べるようになった。以前ほど食べ過ぎることもなくなったし」
「摂食障害か、それに類する症状にかかっていたのかもしれないわね」
「まじか」
過食症だろうと何だろうと、この弁当を食べないという選択肢はありえない。というのも、僕達三人の昼食を用意してくれたのは空巣さんだ。朝から手間暇かけて作ってくれたのだと思うと、空巣さんのことを一時でも怖いと感じた自分に死刑を宣告したくなる。それでもやはり、僕は死ねないのだけれど。
弁当箱に付属していた箸を取り、「いただきます」と三人で声を揃えて合掌する。まずは卵焼きを摘まんで口に放り込み、冷えても美味しい空巣さん特製の卵焼きにたまらず舌鼓を打つ。
「沁みる」
卵焼きが沁みるってどういうことよ、という有十の突っ込みに、六花が声を抑えて笑う。頬がほんのり熱くなるのを感じながらも箸だけは別の生き物のように躍動し、ものの数分で弁当箱の中を空にしてしまった。
有十と六花も程なく食べ終え、手持ち無沙汰の僕はぐるりと辺りを見渡した。僕達三人の他に誰もいないのかと思ったが、少し離れた場所でおにぎりを口にくわえたまま読書に耽っている女子生徒の姿を捉えた。六花もその生徒の存在に気づき、西苛ちゃん、と大きな声で呼びかける。
その西苛という少女はおもむろに顔を上げ、六花に軽く手を振った。知り合いなの、と尋ねる有十に、六花は嬉しそうに答えた。
「西苛ちゃんとは図書室でよく顔を合わせるんです。彼女は図書委員で、私は本を借りる常連で――友達、と呼べるほど親しくはないんですけれど」
謙遜と思える六花の台詞は、そのままの意味で彼女と西苛が友人に満たない関係であることを示している。真に友人であるならばどちらかが相手に駆け寄って一言二言交わしてもよさそうなものだが、西苛が手を振ったきり、言葉はない。おそらく六花にとっての西苛は、そして西苛にとっての六花は『知人』なのだろう。話せる時には話すが、必要のない会話は控えるという、極めて希薄な関係。
「ねえ、あなた」
おかしなことに、有十の声が西苛のいる方向から聞こえてくる。先程僕達のすぐ近くにいたはずの有十は西苛に目の前まで移動し、言った。
「今朝、屋上から私達を見下ろしていたのは何故かしら……」
僕も六花も、開いた口が塞がらなかった。
屋上から僕達を見下ろしていた。それはつまり、この少女が校舎の屋上で不敵に笑っていた人影の一人で、六花を狙う敵であると、有十はそう言ったのか。
嫌疑をかけられた西苛は手に持っていた文庫本をそっと閉じ、硬いコンクリートに腰を下ろしたまま立ち上がる気配もなく、有十をひたと見据える。
「君が何を言っているのかまるで分からないし、さっぱり見当もつかないが、それでも君はぼくを疑って時間を浪費するのかな。宮島 有十ちゃん」
「恍けるつもり……」
「心当たりがないといえば恍けているのかと怒鳴りつけ、心当たりがあるといえば洗いざらい吐けと追いつめる。警察はこの手法で数多くの冤罪を生み出してきたわけだが、どうかな、君も同じ間違いを犯してみるかい」
西苛は落ち着いていた。物怖じすることなく堂々と有十を見上げ、淡々と言葉を紡ぐ。
「そう、言葉では駄目みたいね」
有十が大きく開いた右手を西苛に向ける――と同時に僕は彼女の許まで走ってその手を掴んだ。西苛に話を聞かれないよう、屋上から下の階に続く階段まで有十を引っ張ると、一体何をやっているのだと彼女を問い質す。
「別に確証があって彼女を疑っていたわけではないの。でももしかすると彼女があの人影の一人で、私達を監視していたのかもしれない。だから」
「わざと決めてかかったように質問を浴びせ、ぼろを出すのを待った。期待通りの反応ではなかったから、能力を使おうとした」
「使うふりよ。私がそんな危ない人間に見える……」
僕は黙って有十の鼻をつまみ、ぐりぐりと上下左右に捻って回して最後に軽く押し込んだ。ふが、ふが、と息を詰まらせて咳き込む彼女はさておき、西苛には謝っておかなければならない。あのそっけない反応を見るに、彼女は六花を狙う敵の一人ではないのだろう。うちのおてんば娘が喧嘩腰で話しかけてすまなかった、とりあえずけじめとして鼻ぐりぐりの刑に処した、と。
しかしタイミング悪く、五分後に午後の授業が始まることを知らせる鐘の音が校舎内外に鳴り響いた。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
午後一番の授業は数学。
授業内容に全くついていけない、とまでは言わないが、シャープペンシルを握ったのも久しく、思うように頭が働かない。人間は一年と数ヶ月勉学から離れると相当苦労する羽目になるのだと、僕は身をもって思い知った。どうやら読書だけでは駄目らしい。
読んで書いて考えて、そこまでやって勉強なのだろう。
「連立、不等式!」
つい口に出してしまうくらいに、僕は今この言葉を憎んでいた。この世界から消え去ってしまえばいいのに、と心の中で念じながら例題を睨みつける。握り締めたシャープペンシルは今にも折れてしまいそうだ。
不等式は分かる。連立、と聞いて真っ先に思い浮かぶ連立方程式だって問題ない。
だが連立不等式、こいつは何だ。何故不等式が二つある。つまり範囲が二つになるということか。しかし教師が黒板に記した答えはたった一つ。何故だ、代入か。それとも合体したのか。何をどうすれば正解といえるものが導き出せるのか。そもそも数学における『答え』とは何だ。それは僕が生きるこの世界の真理なのか。
こういう時は素直に質問するべきだと頭では理解しているのだが、一人手を上げ、授業を中断し、他の生徒の注目を浴びてまで教師に質問をする勇気が僕にはなかった。かといって授業後に訊いていたのでは、今この時間が無駄になってしまう――。
「式だけで考えようとするから混乱するんだよ。それぞれの不等式を数直線上に表してごらん。等号を含む不等式には黒丸を、等号を含まない不等式には白丸を描くんだ。すると二つの範囲が重なる部分が出てくる。そうそう、分かるように斜線を引いて。そこが答えになるんだ」
「なるほど、後は不等号を使ってこの範囲を示せばいいのか――あれ」
僕はシャーペンをノートに走らせるのを止め、左を向いた。そこには片肘をついて僕を見つめる少女、西苛の姿があった。
「何で隣に……」
「君がどうして戸惑っているのかはそれとなく察しがつくけれど、一応説明しておくね。ぼくは午前中からずっと君の隣の席に座っていたよ。ぼくのクラス、ここだもの」
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西 西苛。
一年六組に在籍していながら、その学力は一組の生徒と比べて勝るとも劣らない、というより本来一組に組み分けられるべきところを、本人の希望で無理に変えたらしい。西苛曰く、「ああいう、如何にも『私達勉強できます』みたいな雰囲気を醸し出す連中の蔓延る空間には片時もいたくない」とのこと。
勉強自体は嫌いではないと言い、僕のように勉強のできない生徒の面倒を見るのが六組における自分の役割なのだと、彼女は誇らしげに胸を張った。
「昼はごめんな、有十が迷惑かけて」
放課後、僕は西苛に頭を下げた。彼女はにっと白い歯を見せて笑い、かぶりを振る。
「別に気にしちゃいないよ。ぼくは副生徒会長だからね、どんな生徒にも寛容な態度で接するのも生徒会の仕事の一環さ」
「副生徒会長……、六花は確か図書委員と言っていたはずだが、違うのか」
「兼任しているんだ。生徒会はぼくが思っていた以上に暇で退屈だから」
「兼任ね、随分とアクティブだ」
ここ数日は非行敷の面々としか話をしていなかったため、西苛との会話はとても新鮮に感じられた。僕はもうしばらく、せっかく出会えた話し相手との雑談を楽しむことにした。
「そういえば昼食の時に何か本を読んでいたみたいだけど、西苛も六花と同じ本好きなのか……」
「いきなり呼び捨てとは、女の子の扱いに慣れているんだね、道開くんは。本は、まあ人並みには読むね。六花ちゃんにはとても敵わないよ」
「二人はその、友達、なんだよな」
確認するように、僕はそう言った。
六花と西苛の関係は決して親しいと呼べるものではないと僕は判断した。六花があえて西苛との距離を取っているような、どこか引っ込み思案な印象さえ受けた。余計なお節介だと思われるだろうが、僕個人の意見としては、六花にはたくさん友達を作ってほしい。
六花と僕、それに有十の三人が一緒にいた時もそうだ。六花は僕に話しかけはしたが、有十とは極力言葉を交わそうとしなかった。六花の言葉に有十が興味を示すだけで、その逆は一切なかった。有十はまるで気にしていなかったけれど、良い兆候とはとても言えない。
六花からアプローチができないならば、僕が橋渡しをしてやればいい。そう考えての言葉だった。ところが、西苛の返答は僕の予想を良い意味で裏切ってくれた。
「そうだね、六花ちゃんとは仲良くさせてもらっているよ。ぼくも彼女も内気なものだから、頻繁に喋ったりはしないけれど、それでも仲は良いと自負している」
期待以上だ。西苛は六花のことを友達として認識している。単にシャイであるというだけで、二人の関係は決して希薄などではなかった。どうやら僕の早とちりだったようで、何だか申し訳なくなってきた。
「ぼく、あまり友達多くないから。六花ちゃんみたいによく顔を合わせる相手って数えるくらいしかいないんだ」
「それは意外だ。副生徒会長なんて役職に就いていれば、嫌でも知り合いが増えそうなイメージがあったけれど」
まあ、うん、と言葉を濁す西苛。その表情に陰りが差す。
触れてはいけない話題だったのかもしれないと自分の無神経さを反省し、何か別の話題に切り替えようと頭を働かせる。しかし僕の思いも空しく、西苛は語り始めた。
「実は最近、学校全体の様子が変なんだ」
「変、というのは」
「空気がぴりぴりしている、って表現すればいいのかな。皆おくびにも出さないけれど、怯えているんだ――この学校に紛れ込んだ怪物達に」
怪物。西苛はそう呟いて背を向けた。窓から差し込む真っ赤な夕陽を浴びながら、話を続ける。
「道開くん、君は超能力者の存在を信じるかい……」
西苛の目の前にいるよ、と暴露してみたところで、からかっているようにしか聞こえないだろう。そこで僕は「もしかしたらいるかもな」と曖昧な言葉を返す。
「ぼくは見たんだ。超能力者同士が教室で争っている光景を――目の前で起きた出来事なのに、夢でも見ていたんじゃないかと疑わずにはいられない。びっくりするような速度で吹っ飛ぶ椅子に、それをくらっても平気な顔で佇む人間の姿をぼくは見た。それも一度や二度じゃない。何十人という生徒が超能力者を目撃しているんだよ。巻き込まれて怪我をした子だっている。皆が皆、互いを警戒しているんだ。お前が怪物だ、近寄るな、って。だから余程信頼しあっている関係でもない限り、他の子と仲良くなんてしていられないんだ」
西苛のいう超能力者、怪物とはおそらく有能力者のことだ。そして学校を舞台に敵対し、何の躊躇もなく能力を使用し、何も知らない生徒まで巻き込んでしまっている。
想定を上回る最悪の事態だ。有能力者同士の闘争の火蓋は、既に切られていたのだ。
未知の力を使役する者達による熾烈な抗争。有能力者である僕もまた、この争いに加わる資格を持つ存在であり――そして今、僕の闘いが始まろうとしていた。
「後ろに隠れて!」
西苛は僕の言葉を聞いて即座に駆け寄る。何も訊かずこうして指示に従ってくれたのはありがたい。それにしても、またもや守るもののある戦いになってしまった。
廊下から僕達を見つめる人影が二つ。一人は見覚えのある坊主頭の青年で、もう一人は僕の知らない女子生徒だ。
西苛は女子生徒を睨みつけ、「西都原」とその名を呟く。
「それに久佐加 三藤くんも」
掴んだ物体に加速をもたらす能力を有した青年、三藤。能力が消えてしまったと嘆いていた彼が今更何をしにきたのかは知らないが、相変わらず濁り切った目をぎょろぎょろと泳がせている。女子生徒の方は相方の奇行を気にも留めず、トランプを弄んでいた。
「西苛、こいつらの狙いは多分僕の足止めだ。どうにか隙を作るから、二年一組の宮島 有十に会ってこう伝えてくれ。六花を連れてすぐ非行敷に戻れ、僕はしばらく『遊んで』から帰る、って」
「君、非行敷に住んでいるのか」
西苛の同情と憐憫を含んだ声に、そういえば非行敷は『表向き』には行き場のない子供達を引き取る施設だったな、と苦笑する。彼女には、僕が親のいない可哀想な子供にでも見えたに違いない。
「空巣さんは元気かい」
え、と間の抜けた声を発するより先に、『それ』は僕達に降り注ぐ。こういう時に限ってナイフを非行敷に忘れてきたため、僕は弾丸の如く襲い掛かる注射針に対して抵抗する術を持たなかった。
合計七本の太い針が体のあちこちに深々と突き刺さる。穿たれた傷口から無色透明の液体が漏れ出ては床に滴り落ちている。幸い、西苛には一本も刺さらずに済んだようだ。
注射針を通して流し込まれた液体について考えている暇はない。僕は廊下に出ると、針を投げてきた張本人と向かい合った。突き出された掌底を避け、その薄気味悪い顔面に肘鉄をお見舞いする。
「西苛、今だ!」
三藤の顔を立て続けに殴りつけ、駄目押しで鳩尾に膝蹴りをくらわせる。彼が白目をむいてくずおれたところで、僕は声を荒げた。
「走れ!」
二年生の教室へ向かう西苛。トランプの少女が西苛を追いかけようとするが、僕という壁に行く手を阻まれる。
「彼女は関係ない。狙いは六花だろう……」
少女は答えない。代わりにトランプを四枚、左手の指と指の間に挟み込んで大きく振りかぶる。そのまま投げるつもりだったのか、はたまた別の目的があったのかは分からない。何故なら彼女が腕を振り切る前に僕が接近し、その手に握られたトランプを全て叩き落としたからだ。
「西都原、だったか。少し手荒いことをするが、自業自得だと思って諦めてくれ」
あ、と少女が口を開いた瞬間、柔らかな唇と綺麗に生え揃った歯を指で押しのけ、右腕を喉の奥までぐいとねじ込んだ。飛び込み台からプールに飛び込むように、温かな肉を掻き分けていく。
「お、おあ、あがああ――」
少女は必死にもがき、苦しんでいる。己の口から飛び出る腕を爪で引っ掻き、上着のポケットからトランプを取り出しては何度も叩きつけてくる。先程から何十回も金的に蹴りをもらっているが、その程度で僕は怯まない。玉が潰れたって構うものか。
多少傷つけられたくらいで、怒りが静まるはずもない。
「く、くうひい!はがあうああ!ほえ、あええ!」
「何なら食いちぎってみればいい。無理だろう……。限界まで顎が開くと、閉じるのに苦労するんだよ」
食道から迫り上がる吐瀉物が少女の口から溢れ、当然ながら僕の腕もゲロ塗れになってしまった。ぬるぬると滑る液体の中に混じる白い粒を指で押し潰しながら、それでも僕は腕を引き抜かない。
「ゲロぶちまけようが失禁しようが知ったことか。全部喋って反省してもらうまで続ける。話す気になったら声をかけてくれ」
慈愛さえ孕んだ安らかな声色に、僕は自分がとても落ち着いた状態にあることを察した。だから幻聴が聞こえてきても驚きはなく、むしろ安心したくらいだ。
「女の子の口を犯すなんて、いけない子。窒息死するんじゃない……」
「大丈夫、心配要らないよ。その辺の調整はうまくやるから」
「ふうん。ところで、その子の生徒手帳が落ちているわよ」
幻聴がアドバイスを寄越すことはめったにない、というよりこれが初めてではないだろうか。女子生徒の口に手を突っ込んだまま、足元にぽつんと落ちている生徒手帳を爪先で開き、その顔写真と名前を確かめる。
「溝辺 結城」
――西苛は彼女を見た時、西都原と呼んだ。聞き間違いではない、確かにそう言ったはず。
「わらひはひがう!」
溝辺 結城は吐瀉物の滑りを利用し、強引に口から腕を引っこ抜く。その目に涙を溜め、咳き込みながら必死にこう訴えた。
「私は西都原じゃない、西都原はあいつだ。西都原 西苛だ!」
西都原 西苛。その名が連想させるのは西 西苛と名乗ったあの少女。僕は彼女の名前を聞いたが、生徒手帳や出席簿を直接目で見て確認したわけではない。してやられたわね、と僕を嘲笑う幻聴。悪寒という百足が背を這い回り、体が震える。
そして、六花の悲鳴が木霊した。
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