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第三話『家族になるということ』

「どうしてあなたは生きたいの?」


 この質問を受けたのが今から一年と数ヶ月前――それは僕という人間の存在理由を問われたのかもしれない。あるいは僕が不死の能力を得たことに対する疑問、皮肉のようにも思えた。


 どうして生きる理由を持たない僕が不死身の体を手にしたのか。有能力者に成り果ててまで生にしがみつこうとするその意志は、如何なる思いに端を発しているのか。どのようなレゾンデートルがあって、ありとあらゆる死傷を拒みながら生存を続けるのか。


「不死、か」


 有十はちらりと視線を寄越し、不死がどうかしたの、と首を傾げる。


 別に、どうもしないよ。僕はそう言って彼女の歩幅に合わせて歩き出した。


 結局、僕の逃亡劇は未遂に終わった。喫茶店を出てすぐ有十に追いつかれ、暴力的な手段を取ったら空巣さんが現れて返り討ちにあった。最初から抵抗せずに従っていれば膝蹴りを食らわずに済んだのに、と思わないでもないが、もしものことを考えても仕方がない。やれるだけのことはやった。後は風の吹くまま気の向くまま、というやつだ。


 僕は空巣さんと有十に連れられ、夕飯の買い出しのためショッピングモールに赴いていた。この近辺では一番大きな店なのだと有十は言い、僕を帰りの荷物持ち係に任命した。


「ハンバーグは好きか、道開」


 自分の名前を呼ばれたのだと気づかず、ぽかんと呆けていた僕の頬を人差し指で優しく突き、空巣さんは同じ質問を繰り返す。ハンバーグは好きか、卵は大丈夫か、何かアレルギーを持ってはいないか。矢継ぎ早に投げかけられる問いに僕は逐一頷いてみせる。大丈夫です、アレルギーもありません、ハンバーグは大好物です。ひとしきり訊き終えた空巣さんは「それは良かった」と満足げに微笑むと、商品棚からパック入りの卵を取り、買い物かごの中に入れた。


「空巣さん、食材は何もここで買わなくたっていいじゃない。いつも宅配でまとめて送られてくるでしょう……、帰りの荷物が重くなるだけよ」


 買い物かごを載せたショッピングカートの取手に肘をつき、空巣さんの動きに合わせてカートを押していた有十は不満露わに愚痴る。荷物を持つのは僕の役目であり、有十には何の不満もないはずだが――彼女の僅かに膨らんだ頬を見て、空巣さんは僕にそうしたように指でつん、つんと突く。


「今日から家族が一人増えることをまだ仕入れ先に伝えていなくて、な。人一人増えた程度で不足はしないだろうが、余分に買っておいて損はあるまい。余った食材は別の日にでも使えばいいのだから」


 そ、と素っ気ない返事をする有十。カートの取手にぐったりと体重を預ける彼女の姿を見て、空巣さんは微笑みを浮かべる。傍から見れば何の変哲もない母と娘のようだ。


 親の買い物に子供が付き合う、珍しくもないよくある光景。


「有十、買い物に付き合ってくれたお礼に好きなおやつを買ってあげよう」


 本当に、と問いかける有十の目は宝石みたいに輝いていた。


「ただし二百円以内だ。道開も一緒に選んできなさい」


 確かに親子らしいやり取りではあるものの、この歳になって『おやつ』というのも抵抗がある。喜びのあまり飛び跳ねている有十の手前、突っぱねるわけにもいかないが。


 まず有十が先行して菓子売り場へと向かい、僕は彼女の後ろについていく。道中、ワゴンに山積みにされたポテトチップスや煎餅の袋を見かけたが、有十は目もくれなかった。値段を考慮すれば細々とした菓子類よりも、こういう大袋サイズの方が安上がりで量もたくさんあるはずだが、彼女のお気に召さなかったらしい。


 僕達が(というより有十が)足を止めたのは、知育菓子が並んだ棚の前。付属のカップに少量の水を入れて混ぜたり、チョコレートやグミを自由に形作って遊んだり、いかにもな商品が陳列している。


「こういうお菓子が好きなのか」


 そう問いかけようと思ったのは、決して有十を馬鹿にするためではない。僕なりに彼女とのコミュニケーションを図ろうと思ったのだ。しかし案の定というか、有十はむくれた様子で詰問する。


「子供っぽいと思ったでしょう」


 いや、うん、と曖昧な答えを返す僕に、有十は「どっちよ。はっきりしなさい」と詰め寄る。正直に「子供っぽい」と答えると、やれやれと言わんばかりに彼女はかぶりを振った。


「知育菓子の楽しさを忘れた大人にはなりたくないわね」


 知育菓子を一つ一つ手に取ってはパッケージに見惚れる有十の姿は、歳幼い子供と何ら変わらない。自分が彼女の親にでもなったかのような、母性本能に近い何かを擽られる。


「道開はどれにするの?」


 有十は知育菓子のコーナーに向かって両腕を伸ばし、手をひらひらと揺らしている。まるでこの中から選べと言わんばかりに、ここ以外の選択肢は認めないとばかりに。


「どうして知育菓子限定なんだ」

「誰かに買ってもらうお菓子と言えば、これしかないでしょう」

「別にどれでもいいだろう。板チョコでもポテチでも、値段が二百円を超えなければ好きなものを選んで――分かった。分かったからありえないものを見るような目で僕を睨むな」


 有十に振り回されてはいるが、こういうのも兄弟や姉妹のやり取りみたいで悪い気はしない。ふとそんな思いを抱き、そして僕は有十の存在を素直に受け入れていることに気づいた。彼女との何気ない会話を楽しみ、表情豊かにコミュニケートできている。


「付き合いってやつは怖いな」


 僕は有十と同じ菓子を手に取る。彼女は僕の言葉に少し首を捻っただけで何も言わず、ショッピングカートを押す空巣さんの姿を探し始めた。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


「珍しいものだ」


 買い物袋を両手に抱える僕は、空巣さんの言葉に耳を傾けつつ、今にも袋から零れ落ちてしまいそうな食品類を空いた指でちょびちょびと押し戻していた。


「我々非行敷は世間の『枠組み』から漏れ出た有能力者の救済を目的としているが、立て続けに有能力者の受け入れを行うことは滅多にない」


 空巣さんの瞳は僕を捉え、次いで有十を見据える。


「有能力者である事実を巧妙に隠蔽し、社会に溶け込んで生活を営んでいる者は意外に少なくない。あるいは能力を扱いきれず周囲に何らかの被害をもたらし、罪の意識から自ら命を絶つ子らもいる。そういう事情もあって、半年に一人保護するのがやっとの有り様だ。君達二人を無事に保護できたのは、僥倖と呼ぶ他ない」

「非行敷で生活している有能力者の人数は」

「私が支部長を任されている日本第一支部には、君達を合わせて十三名の有能力者が寝食を共にしている」


 十三人。世間一般では名称さえ知られていない、漫画やアニメにでも登場しそうな超能力者達が間違いなく存在している。それも一人や二人ではなく、十三人も。


 この人数にしてもほんの一握りでしかないのだろう。空巣さんが言ったように、僕のような人様に迷惑をかける社会不適合者でもない限り、有能力者の多くは非行敷に頼らず、非行敷の実態を知る機会もないまま平々凡々と暮らしている。本当に非行敷と必要としている有能力者は、僕みたいなはぐれ者だけなのかもしれない。


「社交的で順応性の高い有能力者は、非行敷に頼らず生きていくことができる。だが、それもほんのしばらくの間だけだ。非行敷は全ての有能力者にとって、なくてはならない存在なんだよ」


 思わず考えが口に出ていたのか、それとも空巣さんが僕の思考を読み取ったのか、彼女は僕の胸中を察し、こう続ける。


「人の手に余る力を有するからこその有能力者。力の一時的なコントロールは可能でも、完璧に制御することは不可能に近い。手入れの行き届いていない電子機器の如く、必ずどこかで暴発を起こす。それは一分後かもしれないし、余命幾ばくかという時かもしれない。いつ起こるか分からない能力の暴発に対処するのもまた非行敷の使命であり、その対象は非行敷に所属する有能力者に止まらず、我々は率先して暴発の危険性に怯える有能力者を探し出しては適切なケアを行っている。例えばカウンセラーによるカウンセリングを重ねることで当人のストレスを取り除く。それは暴発の予防、更には暴発後の症状の緩和にも繋がる。暴発も能力と同じく、有能力者の精神状態と密接に絡み合っている、というのが非行敷の見解だ。しかし――我々は未だ暴発そのものを無力化する術を見つけられないでいる。有能力者は誰もが暴発の脅威に晒されている」


 君達とて例外ではない、と空巣さんは言う。


「特に有十の能力は攻撃的で、私の見てきた有能力者の中でも群を抜いて珍しい。もし仮に有能力者同士が命を賭した争いを開始したならば、君は高確率で生き残るだろう」

「縁起でもないこと言わないでよ」

「冗句だ。しかし、自分の能力はそれだけ強力なものであるという認識は持っておいてくれ。能力が強大であればあるほど、想定される暴発の被害は半端なものでは済まない――体調に異変を感じた時はすぐ報告するように」

「空巣さん。その『能力の暴発』というのは、具体的にどのようなものなのですか」


 僕の問いかけに、何がおかしかったのか、空巣さんは丸めた手で口元を覆いくすくすと笑う。


「それでいい、道開。君は有能力者についてもっと知識をつけるべきであり、それ以前に興味を抱くべきだ。そうだな、暴発を説明するのにうってつけの少女がいるのだが――残念ながらお喋りはここまでのようだ」


 空巣さんは歩みを止め、眼前に迫る巨大な建造物を見上げる。


 それを見た第一印象は『城』である。手に持っていた買い物袋をうっかり落としてしまいそうになる程のインパクトを備えた雄大なる居城――否、『屋敷』がそびえ立っている。まるでフランスにあるというアンボワーズ城、クルーの館の方が適切か。城とも屋敷とも見紛う物件が市街地のど真ん中に建っていれば観光名物にでもなったのかもしれないが、僕達は買い物を済ませた後、街を離れるように移動し、案山子の見張る田畑をいくつか横切り、森林といっても相違ない樹木の生い茂った通りを抜けた。木々は僕達が通れるだけの安全な道を確保しつつも、馬鹿でかい屋敷の全貌を人の目から見事に隠してしまっている。日当たりが悪いのかといえばそうではなく、周囲をぐるりと取り囲む大木と屋敷の間には走り回って遊べるだけの広々とした空間が確保されている。


「ここが非行敷日本第一支部だ」


 空巣さんはこう付け加える。


「そして、今日から君の帰る家となる」


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 大きいということは、的が狙いやすく殺しやすいということ、そのシルエットが見上げるくらいに巨大であるからといって委縮する必要はない、見かけ倒しもいいところ――。


「それでも、僕にこの屋敷は殺せそうにないよ」

「独り言が多いのね、道開は。私でよければ話し相手になってあげるわよ」


 有十の憐れむような視線を受け、大きさ云々の話が単なる僕の妄想なのだと気づく。


 僕達は屋敷の一階を歩きながら、建物内部の様子を見て回っていた。屋敷というよりは古代の神殿で見られる、大樹と見紛うような柱がだだっ広い天井を支えており、四方の壁には歴史の教科書で見た覚えのある絵が――『最後の審判』に似たフレスコ画が描かれている。床には古びた緋色の絨毯が敷かれ、踏みしめる度に絨毯の柔らかな感触が足の裏に伝わってくる。


 空巣さんの姿は見当たらない。屋敷に足を踏み入れると同時に有十へ目配せすると、すぐ上の階に行ってしまった。途方に暮れていた僕に有十が案内を申し出てくれた結果、現状に至る。


「前もって空巣さんに言われていたのよ、仕事で手が離せないからあなたの世話をするように、って」

「監視の間違いだろう」


 どうかしらね、と有十は笑う。一度は自分を殺そうとした危険人物を相手に、あろうことか笑顔を向けている――有十は僕が怖くないのか、と率直に訊いてみたところ、


「随分と今更な質問ね」


 それでもやはり、彼女は困ったように笑う。


 一階を見て回り、二、三階へと続く豪勢な階段の他にめぼしいものが何もなく、その広大な空間を持て余していることを確認すると、僕らは階段を上がり始める。金と紅の彩色が眩しい螺旋階段を一段、また一段と上る中、有十は手摺の映し出す丸みを帯びた屈折の世界を掌で覆い隠す。


「埒外の数の人間を殺してきた殺人狂が目の前にいて、怖くないと言えば嘘になる。事実、あなたにナイフを向けられた時は失禁しちゃいそうだったもの。でもね、何故かは私にも分からないのだけれど――あなたが傍にいると安心するの。恐怖なんてどうでもよくなるくらい、ほっとする」

「安心」

「空巣さんと一緒にいる時と同じ感覚。いいえ、空巣さんに初めて出会った時、私はあなた以上に彼女を、そして他人を警戒していた。それなのに、あなたとはまだ顔を合わせて半日と経っていないのに、まるで親友みたいに気兼ねなく話せるの」


 どうしてなのかしらね、と言って微笑む彼女に、僕は何も言わなかった。


 ――言えなかった。


「二階は寝室。あなたの部屋も準備してあるから、早速案内するわね」


 階段を上り終えた先、左右に分かれて伸びる廊下を右、左の順で見渡す。床には薄橙色のカーペット、階段側の壁には各部屋の扉が、反対側には窓がずらりと並んでいる。窓はそう多くはないが、扉の数は目視で数えても三十は下らない。有能力者は全部で十三人、空巣さんの分も含めれば部屋の数は十四もあれば事足りるので、過半数の部屋は空き部屋のまま放置されているのだと有十は言う。


 茶色い木製の扉には三桁の数字を彫った銅版が取りつけられており、有十は一一九号室の前で足を止める。


「ここがあなたの部屋。必要なものは空巣さんがある程度揃えていると思うけれど、足りないものがあったら言ってちょうだい」


 ガチャン、と小気味良い音の後に続く、金属同士の擦れあう不快な音色。扉の軋む音に思わず顔をしかめるが、有十は慣れた様子で入室する。彼女に続いた僕を出迎えてくれたのは靴箱であった。そういえば靴を履いたまま屋敷中を歩き回っていたな、と今になって思う。玄関で靴を脱ぎ、素足か靴下を履いたまま移動する習慣が身についている者にとって、ここでの生活は慣れるまで苦労するだろうなと他人事のように考える。


 靴箱は部屋に入ってすぐ右手にあり、反対側にはクローゼットがある。掃除したばかりなのだろう、中には新品と思しきプラスチック製のハンガーと防虫剤がぶら下がっている。


「あら、良い風」


 クローゼットから声の聞こえた方へ目を向ける。清潔感溢れる純白の壁に、開け放たれた窓。外から吹き込む風に緑色のカーテンが揺らめき、部屋中に新鮮な空気をもたらす。シングルベッドと年季が入った勉強机、冷蔵庫が揃う様はビジネスホテルの一室を彷彿とさせる。


 清涼な風を一身に浴びながら、有十は部屋の中心でくるくると回っていた。黒髪が自分自身の回転と風によって不規則に乱れ、しばらくすると一方向にすらりと伸びる。大きく開いていた瞳を閉じ、両手を広げてバランスを取りつつ緩やかに回り続けた。


「あなたは私が――してあげる」


 唐突に耳元をくすぐる、酷く淀んだ声。この世のものとは思えない不気味な雑音を伴ったその言葉は、肝心なところで大音量のノイズが走る。


 幻聴だ。分かっている、この声は誰が発したものでもない。有十は相変わらず微風と戯れていて、話しかけてきた様子はない。


「地獄がどこにあるか、知ってる?」


 視界が捻れる。足元が覚束ない。まるで泥沼を歩いているような感覚。


 幻聴は吐息をたっぷりと含みながら囁く。言葉の一つ一つが僕の全てを狂わせていく。


「正解は頭の中、なんて詩的な答えじゃない。地獄とはこの世界そのもの。私達は地獄に生まれ、地獄で死んで地獄に召される。予期しない不幸と不運にその身を焼かれ、いつ死ぬかも分からない地雷原に生きる――」

「まるで天国みたいね」


 たまたま幻聴に呼応する形で有十はそう呟き、ベッドに飛び込んだ。毛布に包まれ、干瓢巻きの干瓢のように毛布からちょこんと飛び出す彼女の顔は、幸福に満ち満ちている。


「干したての毛布と布団。天国はここにあったのね」

「――ああ」


 幻聴は止んだ。僕が存在しているのは紛れもなく現実の空間であり、僕の視界を占領するのは現実の世界。


 『彼女』に言わせれば、地獄が広がっていた。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 幻聴は今に始まった症状ではない。随分前から、心の隙を突くように現れ始めた。いや、心の隙という表現は語弊があるかもしれない。そもそも『心』などという形を持たない概念に隙も何もあったものではないだろう。


 幻聴は決まって僕が冷静な時に囁きかけてくる。興奮している時でもなく、絶望している時でもない。漫然と生きる僕の背後を取り、心安らぐ暇など与えないとばかりに、僕にはその資格がないと言わんばかりに、現実を幻で塗り潰す。


 何が原因でこうなったのかは分からない。後悔か、悲哀か。それとも僕は全くの正常で、幽霊か何かが本当に話しかけているのかも――なんて想像は馬鹿げているか。


「僕はどうすればいいんだろう」


 そう問いかけてみるが、返事はない。幻聴は既に消え失せ、有十は毛布に包まれたまま眠りについてしまった。案内役が眠りこけてしまっては元も子もないというのに、彼女は安らかな寝息を立て熟睡している。


 有十はこのまま放っておくとして、僕はまだ見学していない三階を目指すことに決めた。窓を開けたままでは有十が風邪をひくかもしれないと思い、窓の外に広がる自然を一望し、彼女を起こさないようゆっくりと閉める。細心の注意を払いつつ抜き足差し足忍び足――扉まで辿り着いた瞬間、腹の虫がぐるぐると空腹を訴えた。思えば今日は喫茶店で頼んだパンケーキしか胃に入れていない。もう少し腹持ちの良いものを選ぶか、空巣さんの好意に甘えてもっと食べておけばよかったと後悔しつつ、腹の音で有十の眠りを妨げてしまわないように、速やかに部屋を出る。


 部屋から十分に離れたことを確認し、僕はわざと大きな足音を立てながら廊下を歩く。幻聴が祟って狂ったように見えなくもないな、と苦笑しながらも、周囲に僕がここにいると知らせる。


 無音。僕以外の人間の気配は感じられない。足音を聞きつけ、扉を開けて様子を伺う人間が一人や二人いてもおかしくはないだろうに、誰も姿を晒そうとはしない。最初は『偶然』で済ませていた違和感――たまたま出会わなかっただけだという考えを改める必要があるのかもしれない。


 この非行敷には十四人の人間がいる。僕と有十、それに空巣さん。それでは、僕達以外の人間は果たしてどこにいるのか。


「三階、行ってみますか」


 全階層を繋ぐ巨大な螺旋の路を上る。意識しなくてもこつん、こつんと足音が反響し、余韻を残す。最上階に当たる三階へ辿り着くが、見た目は二階と変わらず、部屋と窓ばかりが目につく。しかし僕の鼻は、二階にはなかった香ばしい匂いを嗅ぎ取っていた。


 疑似餌に釣られた魚のように頭(というより鼻)が先行して匂いの根源に向かう。白熱灯で照らされた廊下の突き当たりには、『食堂』と書かれたプレートのぶら下がる扉があった。奥に進むと、寝室より一回りも二回りも大きな部屋があった。木製のレトロな長机と丸太を模した椅子がいくつも並び、部屋の隅には四六インチの薄型テレビがバラエティ番組を放映している。


「道開か、丁度良かった」


 どこからともなく出現したエプロン姿の空巣さんに驚いていると、彼女は入口とは別の扉を指差す。この食堂は扉を挟んで調理場と繋がっているのだ――そう説明しながら扉を潜り、今度はトレイを抱えて現れる。トレイの上には味噌汁やほうれん草のおひたしなどの料理が載せられ、空巣さんは一皿一皿長机に並べていく。僕の視線は巨大なハンバーグと山盛りのキャベツ、それにつやつやと輝くご飯に釘付けになっていた。ハンバーグの肉汁とデミグラスソースが混ざり合い、皿の中心へ流れていく過程でキャベツと絡み合っていく様子を観察している内に、腹の虫が再び自己主張を始める。


「そういえば有十はどうした?道開の案内を任せていたはずだが」

「干したての毛布と布団が余程気に入ったらしく、僕の部屋で爆睡しています」

「全く困った奴だ。先に食べておいてくれ、私も片づけを済ませたらすぐ戻る」


 困った、と言いながら顔を綻ばせる空巣さん。調理場に戻る彼女の背中を見送った後、僕は言われた通り食事にしようと手頃な椅子を選び、腰掛ける。椅子は形こそ丸太を模しているが、臀部の触れる部分にはクッションが取り付けられているため、座り心地は良好だ。


 食事時に相応しい静寂――とはとても呼べない、テレビ番組の司会役が見せるオーバーリアクションは不思議と気に障る。合いの手を入れる芸人やゲストの声もまた不愉快極まりない。僕は苛立ちを鎮めながら立ち上がり、テレビの真上にちょこんと置かれたリモコンを手に取る。ボリュームを下げるだけでも良かったのだろうが、僕は迷わず電源ボタンを押した。暗転した画面にうっすらと映る自分の姿を確認して満足すると、小走りで愛しのハンバーグの許へ向かう。


 椅子に深く腰を下ろしたところで、箸が見当たらないことに気づく。手掴みで食べるわけにもいかないので辺りを見渡すと、机の中心に大量の箸がこれでもかと敷き詰められたケースと、大きな塔を形成するように重ねられたコップ、そして麦茶の入ったボトルを発見する。ケースの中から箸を一膳と、塔を崩さないようコップを一つ取り、そこに麦茶を注ぐ。これで食事の準備は整った。箸を人差し指と中指で挟んだまま両手を合わせ、食材に、そして料理を作ってくれた空巣さんに感謝の意を捧げる。


「いただきます」


 まず一口目は一際目を引いたハンバーグからと空腹が騒ぎ立てる。箸で掴むにはあまりに大きいハンバーグを切り分け、それでも大きすぎる塊を口に運び、豪快に咀嚼する。丹念に、消化に支障が出ないようにしっかり噛んで味わう。


「――あたたかい」


 美味しいだとか、ジューシーだとか、そういうありふれた感想は出てこなかった。かえって失礼になるとさえ感じたからだ。


 あたたかい、とは料理の温度を指摘したのではない。落ち着ける場所に腰を据え、清潔な皿に盛られた料理をゆっくりと味わう。当たり前のようで当たり前ではない、まるで遊園地に行った後のふわふわとした曖昧な幸福感を、料理を通じて味わっている。溢れる幸せで体の芯から温もっていく感覚、それが『あたたかさ』の正体である。


 それから僕は黙々と箸を進めた。ほうれん草を噛み、味噌汁の具をご飯と一緒に味わい、千切りキャベツは肉汁に浸してハンバーグと共に食す。もぐもぐと咀嚼する音が止むと同時に空巣さんが姿を見せるが、皿の上には米粒一つ残ってはいなかった。


「あの、ご馳走様でした」

「気に入ってもらえたようで何よりだ」


 彼女は両手に持っていたマグカップの一方を僕に差し出す。中を覗き込むと、黒く濁ったコーヒーが湯気と独特の香りを発している。豆に詳しくない僕ではコーヒーの種類を判別することはできないが、喫茶店で頼んだものとは異なり、果物に似た甘い香りが漂う。


「君がコーヒーを嗜む人間で良かった。私一人のために豆を仕入れるのは悪いと思ってインスタントで誤魔化していたが、これで言い訳が立つ」

「有十は飲まないんですか」

「苦い飲み物は総じて罰ゲームのためにある、というのが彼女の意見だ。私にとってはこのコーヒーこそが最高の贅沢であり、ご褒美であるというのに」

「有十はまだまだ子供ですね」


 僕と空巣さんは揃って吹き出す。食後に家族と語らい、共に笑う。これはこれで家族らしい光景ではないだろうか。


 ――そう思った途端、空巣さんの姿が渦巻いてマグカップの中に溶けていく。目に映る部屋の様子が打って変わり、壁には剥き出しの胃や腸が満遍なく張りつき、血と汚物が蒸気を発する。甘い香りが瞬く間に消え去り、口の中に鉄の塊をねじ込まれたような、不快な味が広がる。


 リモコンを操作していないのにテレビの電源がオンに切り替わる。デジタル放送が普及した昨今ではめったに見ることのないスノーノイズが映し出され、やがてその中に人の姿が浮かび上がった。


 幻聴。それだけではない、遂に幻覚という体を伴って僕を蝕もうとしている。


「あなたを――したい」


 まただ、また肝心なところで幻聴が途切れる。何百という羽虫が耳の周りを飛び回っているような、あるいは耳の中で芋虫が這いずり回っているかのような騒音がスノーノイズの雑音さえかき消してしまう。それさえも幻聴で、どこからどこまでが本当に聞こえている音なのか、僕には分からない。


「道開」


 僕を呼ぶ声が、幻聴と幻覚を遥か彼方の無辺世界へと追いやってしまう。


 次第に元いた世界の風景が蘇り、自分でも気づかない内に空巣さんを見つめていた。彼女はコーヒーの中に溶けてはいない。壁に臓物は見当たらないし、テレビの画面は真っ黒なままだ。


 空巣さんは真剣な顔つきでこちらを見つめ、大丈夫だ、大丈夫だと繰り返し呟く。


「ここには私と君しかいない。怖いものは何もない」


 彼女の口ぶりから察するに、僕が幻覚症状に襲われていると察したのだろう。僕が見たもの、聞いたことについて問い詰めるような真似はしないと彼女は言い、少しでも安心させようと言葉をかけ続ける。


「すみません、見苦しいところを見せてしまって」

「気にするな。目の焦点が定まらず、体が痙攣していただけだ。見苦しいというほどのことでもない」


 そう言われると、一体どのような事態に陥れば『見苦しい』と思ってもらえるのだろうかと気になってしまう。色々と試してみたい衝動に駆られるが、その好奇心さえ彼女には見透かされそうなので止めた。


「――そういえば」


 食堂に来るなり綺麗さっぱり忘れてしまっていたが、僕は他の有能力者を探すために三階に来たのだ。だがそれらしい人影は見当たらず、食堂にも空巣さんしかいなかった。


 これは一体どういうことなのか、他の有能力者達に何があったのか――意を決し空巣さんに解答を求めると、彼女から笑顔が消えた。俯き、やたら味の濃いコーヒーを飲んだ時のような苦悶に満ちた表情を浮かべる。


 少し間を置き、空巣さんは語り始める。


「有能力者は淘汰される運命にある」

「淘汰」

「不思議だろう……、他者より優れた能力を有していながら、その実、有能力者は常人よりも脆く弱い。肉体的な意味ではなく、精神が繊細で壊れやすい――飴細工のように儚いその心は、生来のものではない」


 生まれながらに脆弱な精神を持つ人間などいない、と彼女は口調を強める。


「『社会』という規範、枠に収まらない『有能力者』という異端はその生存権を剥奪される。世界が彼らを追いつめると決めたように――数十年に渡る調査の結果、有能力者が生まれた家庭の九割は何らかの問題を抱えていることが判明した。貧困、ネグレクト、虐待。生まれてすぐ親に捨てられ、トイレやロッカーの中で発見された子もいる。これがどんなに恐ろしいことか、道開には分かるか」

「有能力者は機能不全家庭で誕生しやすい、ということでしょうか」

「そう考える方が自然だろう。しかし非行敷の見解は違う。少しオカルトじみた話に聞こえるかもしれないが、見えざる『神の意思』とでも形容すべき力が有能力者に不幸と災難と苦痛を与え、この世界から排除しようとしているのではないかと睨んでいる」


 神の意思。


 日本人は宗教と聞けば胡散臭い新興宗教を連想してしまうため、どの国よりも宗教文化が入り乱れた生活を営んでいるにも関わらず、宗教そのものに懐疑的であるらしい。確か新聞のコラムか何かに書いてあったと記憶しているが、もちろん僕も例に漏れず、神様などという存在を信じてはいない。宗教だって定まったものを持っているわけではない。


 僕は「にわかには信じがたいですね」と言って首を横に振る。


「私とて本気で信じてはいない。だが機能不全家庭に限らず、一般的な家庭に生まれた有能力者も後々何かしらの問題に巻き込まれる傾向にある。自分を残して家族が全員事故死した、なんて話は珍しくもない。そうして拠り所を失い、己が有能力者であるという事実を知らないまま成人する前に命を絶つ者もいる。君や有十がそうであるように、有能力者のほぼ全員が未成年者であることには『成人するまで生きたくても生きられない』という事情が存在する――神の仕業にでもしなければ説明がつかないのだ」


 仮に空巣さんの言葉を信じ、世界を都合の良いように操る『神』が実在したとして、お空の向こうにおわす神様とやらに有能力者を淘汰する権利があるのだろうか。


 神は人間を救済すると誰かが言った。しかし神は有能力者を篩う。


 僕達は、有能力者は、人間ではないのか。


「そのための、空巣さんのいう『神の意思』ってやつに抗うための救済策が、非行敷なんですか?」


 空巣さんはくっ、くっ、と喉の奥から引きつった笑い声を絞り出し、


「本当のことを言えば、非行敷は君が思う程ご立派な組織ではない。非行敷が創設された表向きの理由は身寄りのない子供の救済、その裏には有能力者を保護するという目的が隠されている。しかしてその実態は、有能力者を社会から隔離するための牢獄に過ぎない。有能力者が如何に不幸だ悲惨だと喚こうが、一般人にとってはただの化け物でしかない」


 気を悪くしないでくれ、と断った後、彼女は話を続ける。


「サーカスに飼われたライオンと同じだ。そのライオンがどのような状態にあるかなど関係ない、放っておけば『人間』の迷惑になる。だから頑丈な檻に閉じ込め、適度に餌を与えて満足させ、あわよくば芸を仕込んで利益を得ようという――非行敷は傲慢な人間達の、偽善で成り立っている」


 偽善だと空巣さんは言うが、それはむしろ恐怖ではないだろうか。有能力者に対する恐れ、異常な力を駆る怪物への怖れが、有能力者を飼い殺すという手段を選ばせた。


 怖いから先に手を出す。怖いから駆逐しておく。怖いから一所に閉じ込めて管理する。神が有能力者を淘汰し、社会が有能力者を拒絶し、人間が有能力者を迫害する。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。


「話を戻そう。己の心安らぐ拠り所を求め、やっとの思いで非行敷に辿りついた有能力者の多くは既に心身共に打ちのめされ、衰弱のあまり心を閉ざそうとする。同じ有能力者同士で挨拶を交わすこともままならないほどに」


 そういうことか、と僕は真相に至る。有能力者達の『姿』が見当たらないのも得心がいった。一般人が有能力者を恐れているというのならば、有能力者も一般人を恐れている。どちらが加害者で被害者なのか、先に手を出したのは一般人か有能力者か――その境界は既に失われた。


 怖いから引っ込み思案になる。怖いからコミュニケーションを拒否する。怖いから自室に引きこもって息をひそめる。僕、有十を除く有能力者は誰も彼もが己の殻に閉じこもり、自室を不可侵の砦としているのだ。


「団欒の場を楽しむための食堂も、利用してくれるのは有十だけだった。他の子達には自室まで料理を運んでいるが、食べさせるのも一苦労だ」


 非行敷はもっと和気藹々とした場所なのだと思っていた。有十と空巣さんの二人しか見ていない僕には、有能力者が揃いも揃って引きこもるという深刻な状況を想定することができなかった。


「本当はとっくに気づいていたのでしょう?あなたも他ならぬ有能力者なのだから」


 突如襲い掛かる幻聴に、僕は心の中で言い返す――違う、僕の『傷』は他人につけられたものではない。自ら望んで傷つき、自分の意思で『彼女』との繋がりを守ろうとした。だから疑心暗鬼にもならないし、引きこもるいわれはない。


 もう一人の例外である宮島 有十の場合、記憶喪失のせいで心の傷も何も残ってはいないのだろう。非行敷に引き取られるまでの経緯を知らないからこそ、彼女は部屋を出て活発に動き回っている。記憶喪失は悪いことばかりではないという証明だ。


「幻滅、したかな」


 空巣さんは力なくそう呟く。顔を合わせる度ににこにこと笑っていた彼女の顔から笑みが消え、僕は言いようのない不安に襲われる。空巣さんの落ち込む姿など見たくない、そう思ったのだ。


「私は不甲斐ない女だ。君達を保護するだけで、満足に救ってやれない」

「空巣さん、そんなことは――」

「だが私は、君達を傷つけるような真似だけは絶対にしない」


 空巣さんは顔を上げた。その目に、顔に負の感情は一切見受けられない。


「非行敷など関係ない、私は私個人の意思で君達を守る。我が命と誇りにかけて、君達有能力者を救ってみせる。それだけは理解してほしい」


 宣誓みたいだ、と僕は思った。僕だけに向けたものではなく、眠りに落ちている有十に、外界との接触を断っている他の有能力者達に、保護を求めて未だ不条理と混沌の直中にいる子供達に向けた、宣誓。


 分かっていますよ、空巣さん。僕はあなたのように芯の通った人を嫌いになれない。


 率直に言えば、好きだ。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 食堂を出た後、僕は三階巡りを再開した。空巣さんはやるべき仕事がまだ残っているので、引き続き案内役はなしだ。


 階段を上ってすぐ食堂まで脇目も振らず直進したので、その間にある部屋のチェックから始めようと思い、まずは食堂を出てすぐ左手の扉を開ける。食堂のようなプレートは見受けられないが、一目で書庫だと分かった。僕の背丈を軽く超える本棚がずらりと並び、隙間なくみっちりと本が敷き詰められている。フィクション、SF、ミステリーなどの現代小説に始まり、絵本、郷土の歴史書、図鑑。中高生向けの参考書や赤本まで揃えてある。


「こういう場所にいると気が滅入るな」


 本は適度に嗜むが、見渡す限り本しか視界に入ってこないという状況を僕はどうにも好きになれない。図書館や書店のように本棚と本棚の間に十分な間隔が取られ、自由に見て回れるスペースがあれば話は別だ。しかしこの書庫の通路は人一人通るのが精一杯で、酷く息苦しく感じられる。


 次の部屋の探索に向かおうとした矢先、本棚の前でうずくまる影を捉えた――人だ。有十と空巣さん以外の人間に、有能力者にようやく出会えたのだ。


「こんばんは」


 なるべくはっきりと、悪い印象を持たれないよう快活に声をかける。爽やかな少年像を頭の中に思い描き、その理想と今の自分を重ね合わせる。すると影はもぞもぞとうごめき、白い肌が魅惑的な顔をこちらに向けた。


 女の子だ。その女の子は僕の全身を嘗め回すように視線を動かし、


「人殺しに用はありません」


 きっぱりと言い捨て、即座に顔を背けてしまった。


 人殺し。そうか、それもそうか、と思わず笑い出しそうになるのを堪え、彼女のそっけない態度に一人納得する。例えるならば、眼鏡をかけた状態で必死にその眼鏡を探しているような、そういう類の馬鹿らしさだ。


 よくよく考えてみれば、空巣さんや有十の反応が異常だったのだ。何百何千という桁外れな人数を殺してのけた殺人鬼を前にして、会話を試みようとする時点でどうかしている。もっとも、僕を殺人狂と知りながら逃げ出す素振りも見せなければ怯える様子もなく、膝を抱えて座り込んだまま動かないこの少女も十二分におかしいのだが。


 このまま引き下がるのも妙に悔しい、せめて名前くらいは聞き出してやろうと思い、僕は自己紹介を始める。


「僕の名前は――」

「『人類史上最低の実名なき殺人狂』ですよね、空巣さんから聞いています」

「それは渾名というか蔑称というか、今は夢路 道開が僕の名前だ」


 少女は僕に見向きもせず、そうですか、という素っ気ない返事で強引に会話を終わらせてしまった。


 君の名前は、趣味は、好きな食べ物は、もしかして本が好きなのかな。頭の中で用意していた質問の数々は言葉として紡がれることなく、まとめて頭の隅っこに吹き飛んでいってしまった。


「殺してしまいなさいな」


 また幻聴か、とこの時ばかりは呆れる。少し気を抜くとこれだ。


 ところが幻聴はタイミングを見計らっていたのか、少女が話す直前を狙ってそう言った。そのため、少女の言葉は幻聴と奇妙な一致を見た。


「『どうですか、いまなら子供を殺せそうですか』」


 台詞それ自体に脈絡はなく、少女にも幻聴が聞こえていたとは思えないので、ただの独り言なのだろう。しかし、僕はそのフレーズに聞き覚えがあった。そこで彼女の独り言に――否、ある著書から引用された一文に対し、こう答える。


「確か『虐殺器官』だよね」


 少女は目の色を変えて僕を見つめ、その童顔にうっすらと微笑みを浮かべる。


「殺人狂さん、本、好きなんですか」


 まさか僕が訊こうと思っていたことを先に質問されるとは思わなかったが、これは嬉しい誤算だ。殺人狂さん、と呼ばれるのは仕方がないとして、相手から話を振ってくれたのは非常にありがたい。


「それなりに、ね。知り合いにとんでもない読書狂いがいたものだから、よく『彼女』が持っていた本を借りて読んでいたんだ」

「読書狂いに殺人狂、ですか。良い知人に出会えましたね、お似合いですよ」


 皮肉たっぷりの刺々しい言い草だが、警戒心は幾分和らいだようだ。少女はすっくと立ち上がり、頭一つ分は身長差のある僕を見上げた。


「私は三枝(さえぐさ) 六花(りっか)

「僕は」

「もう聞きました」


 二度も名乗る必要はありません、と彼女は言い捨てる。


 正直に、包み隠さず言わせてもらうと、なかなかどうして面倒な子だ。ペースが掴めないというか、これは僕のコミュニケーション能力に問題があるのか、単に彼女が冷たいだけなのか。


「今、私を面倒な女だと思いませんでしたか?」


 ――ごめんなさい、と僕は素直に謝った。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 三枝 六花。年齢は十五、屋敷から少し離れた私立都原(みやこはら)高等学校に通う高校一年生だ。


 彼女も他の有能力者同様、過酷で凄惨な人生に打ちのめされた子供の一人である。ところが彼女の場合、日がな一日引きこもっていてはいけないと自らを律し、休み休みではあるが学校に通い、勉学に励んでいる。それにもう一つ、彼女には僕や有十を含めた非行敷の有能力者達と違う点がある。それは名を変えず、親から与えられた三枝 六花という名前を使い続けていることだ。六花の強い希望でリネームは行われなかったらしいが、彼女はその理由を語らなかった。


 また、暇な時間を見つけては書庫の本を読み漁っているそうだ。今日も学校で溜まったストレスや疲れを癒すべく安寧の地である書庫に赴いたところ、僕が現れた、という運びらしい。本を読んで疲れを癒す、と考えるあたり、彼女は根っからの読書家だ。


「初めてです、この屋敷で空巣さん以外の人とお話したのは」

「宮島 有十に会ったことは?」


 誰だそれは、と言わんばかりに首を横に振る六花。


 僕は空巣さんの言葉の意味を――有能力者を保護するだけで救えていないという事実を、改めて実感する。


「殺人狂さん」

「その呼び方はちょっと」

「では、夢路さん」

「『さん』は要らないよ、年齢近いし」


 書庫の隅で埃を被っていたパイプ椅子を引っ張り出し、僕らは揃って腰を下ろしていた。天井にぶら下げられた白熱電球がゆらゆらと不規則に揺れ、じいっと僕の顔を覗き込む六花を妖艶に照らす。


「あなたは、私のお兄ちゃんに似ています。特に鼻の高さが」

「突然話が変わったな」

「いえ、お兄ちゃんに似ているので、今日からあなたのことを『お兄ちゃん』と呼ばせていただこうかと」


 それでは殺人狂と一緒くたに同じ呼び方をされる彼女のお兄さんに申し訳ない、と伝えたところ、六花は感情を込めず呟く。


「別にいいんです、もう死んでますから」


 僕は馬鹿か、と心の中で自分を叱咤する。非行敷に引き取られた子供達は皆一様に辛い体験を経てここにいる。家族を亡くした者だって当然いるだろう。六花との会話がどこかぎこちないのは、僕の配慮が足りていないことが一番の原因であるとようやくながら確信する。


 僕は素直に頭を下げた。二度目の謝罪を受け、六花は困った様子で苦笑いを浮かべる。


「あなた、本当に殺人狂さんなんですか。これくらいで動揺するなんて、全然『らしく』ないですね」


 これくらい、なんて軽く口にして笑ってはいるものの、瞳だけはぼんやりとどこか遠くを見ていて全く笑顔にそぐわない。過去の記憶に思いを馳せているような、そんな目だ。


「私の過去に興味津々、といったご様子ですね」


 僕が六花を観察していたように、彼女も僕の心意を探っていたらしい。お互い知らないことばかりで気にしない方が難しいというのに、それに加えてお兄さんが亡くなったという話を聞いてしまっては、無粋と分かっていても詮索せずにはいられない。


「聞きたいですか、どうしてもというのなら教えてあげてもいいですよ」


 無理に冷静を装っていると一目で分かるくらいに、彼女の声や表情に明らかな動揺が見て取れる。強がらなくてもいいのに、と思うがしかし、それはきっと彼女なりの心遣いなのだろう。


 僕に足りていないのは、結局はこの『思いやり』の一言に尽きる。他者を慮ることができないから不用意な発言を連発し、六花に気を遣わせている。


 思いやる心とはつまり、他者を傷つける悪意とは相反するものだ。殺人狂に最も縁のない感情というべきか、生憎そんなものは持ち合わせていないとつっぱねることもできただろうに――今の僕は必死に頭を捻り、どうすれば六花を傷つけずに済むか、アイデアを絞り出そうとしている。殺人狂という肩書はかなぐり捨て、六花の問いにどう答えるべきか、思いを巡らせている。それは昨日の僕には微塵も存在しなかった思いやりそのものだ。


 一日と経たない内に、空巣さんや有十と触れ合うことにより僕は変わり始めたのかもしれない。改心への第一歩を知らず知らずのうちに踏み出していたのかも分からない。真相はひとまず放っておくとして、僕は思いやりの塊ともいえる空巣さんを真似てみることにした。僕がそうしてもらったように彼女の心情を察し、無理に踏み込もうとしない。分からないことは分からないまま、まずは仲を深めるところから始める。


「いや、今は遠慮しておくよ。まだ僕達は出会ったばかりで、お互い相手の好きな食べ物や好きな音楽も分かっていない有り様だ。だから焦らず、少しずつ、仲良くしていこう。いずれ六花が僕のことを信用に足る人間だと――家族の一員だと認めてくれたその時は、六花に何があったか聞かせてほしい」


 声が震えて、つい上擦ってしまった。気障っぽい台詞は、言葉にするだけでも冷や汗をかくくらいに緊張してしまう。格好悪いったらありはしない。


 それで六花はというと、驚いたように目をぱちぱちと瞬き、次いで腹を抱えて笑い始めた。それは敵意や侮蔑の感じられない、純粋な笑い声であった。笑い転げて目から溢れる涙をそっと人差し指で拭い、彼女の弾けるような笑顔は優しい微笑に変わる。


「本当、お兄ちゃんそっくり」


 六花はそう言って席を立ち、そのまま出口へ向かった。手招きしながら進む彼女に従い、僕も書庫を後にする。廊下に出た僕らは、のんびりと屋敷の中を歩き回る。どちらかが先導するのではなく、少し僕が前に出ては六花が追い越し、僕がまた追いつき、そんな意味のない競り合いに興じる。


 無論、その間無言だったわけではない。六花は自分の家族のことを、独り言の如くつらつらと語り聞かせてくれた。


「私はごくごく普通の、一般的で面白味の欠片もない家庭に生まれました。頑固で家族思いのお父さんに、口が悪くて人一倍優しいお母さん。それに奥手な私と、そんな私にいつも手を差し伸べてリードしてくれたお兄ちゃん。後になって分かったことですが、本当は幸せな家庭だったんです」


 でも、と六花は視線を落とす。


「お兄ちゃんは知っていたんです。私が有能力者に覚醒する素質を秘めていたことを、お兄ちゃんは自身の能力で察知したんです」


 六花が有能力者の才覚に魅入られると分かっていた。つまり六花のお兄さんは、有能力者に目覚める可能性があるかどうかを見分け、判別する能力を持った有能力者であった。そして六花がまだ有能力者になっていない段階でその素質を彼女に見出した、ということであろうか。


 僕の推論に、六花は頷く。


 有能力者の能力には、僕のような己の体に作用するものもあれば、有十のように外部に働きかけるものもある。お兄さんの力はこれらとはまた一線を画する、実に興味深い能力だ。


「お兄ちゃんは言いました。『お前の能力は決して目覚めさせてはいけない。世に出してはならないものだ』って――その数日後に、お父さんもお母さんもお兄ちゃんもみんなみんな私の前からいなくなりました。家にも行きつけの青果店にも職場にも学校にも、どこにもいませんでした。それからすぐ空巣さんが迎えにきて、家族は皆死んだと伝えられました。身寄りをなくした私を非行敷で引き取ると言われたのもその時ですね」


 六花の話を簡潔にまとめると、彼女の能力は何か危険を孕んだものらしく、その詳細にお兄さんがいち早く気づいた。ほぼ同時に家族が姿を消し、残された六花は非行敷に引き取られた。ここからはただの推測だが、空巣さんと六花のお兄さんには何らかの繋がりがあったのではないだろうか。そうでなければ、『六花の家族は亡くなった』と空巣さんが言い切ったことに対する説明がつかない。


 六花とお兄さんは、空巣さんが以前言っていた『社会に一時的に溶け込んでいる有能力者』に該当する。そして空巣さんは、有能力者が必ず暴発を起こすとも言っていた。だから空巣さんは六花のお兄さんと接触を試みた。お兄さんは自分の妹が有能力者になり得る資質を備えていることを己の能力で知り、おそらく対処しようとした。

だが、最後は両親共に消えるという不可解な結末を迎えた。


 本当に空巣さんの言うとおり、彼女の家族は死んでしまったのか。そもそも空巣さんであれば、六花のお兄さんが有能力者で六花も後々有能力者になると判明した時点で何らかの処置を――二人を両親から引き離すという強引な手も含めて――講じることができたのではないだろうか。どうして事後処理、後手に回る結果となったのか。お兄さんと空巣さんがコンタクトを取っていたという僕の推理は間違っているのではないか。もしそうならば、空巣さんが六花の家族の死を断定できたのは何故なのか。六花の家族が命を落とす瞬間を、空巣さんが目撃していたとでもいうのか。


 謎が謎を呼び、蟻地獄のように思考と推測の渦が真実を飲みこんでしまう。


「あなたがやったんじゃないの?」


 また幻聴だ。


 僕が六花の家族を殺害した、なんて可能性はありえないと一番よく分かっているくせに、幻聴は僕に似て白々しいことこの上ない。僕が幻聴を真似ている、と言えなくもないか。


「お兄ちゃん」


 六花が呼びかけてくれたおかげで、幻聴に襲われた時のぬかるみに沈んでいくような感覚が徐々に消えていく。そして僕達がとある部屋の前に佇んでいることを、普段と変わらない自分で認識する。


「今日はもう遅いので、私は寝ます」


 分かった、と頷き、ふと部屋の番号を見る。一〇二という数字が彫られた銅板に見とれていた僕を、六花はほぼ顎の真下から見上げつつ、小悪魔的な笑顔を見せる。


「覚えましたか。また会いたくなったら、いつでも会いにきていいですから。誰も話し相手がいない可哀想なお兄ちゃんのために、仕方なく付き合ってあげます」

「何で上から目線なんだ」

「兄妹ってそういうものですよ」


 六花はくるりと背を向け、部屋の奥へと消えた。僕は少し遅れて「おやすみ」と呟き、未だ僕の部屋のベッドを占領している知育菓子大好き娘を起こしに行こうと決めた。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

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