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第二話『過去を探るということ』

 宮島 有十。


 これは間違いなく私の名前ではあるけれど、本名ではない。非行敷日本第一支部支部長、鳥小屋 空巣さんから記念に頂戴したものだ。


 記念、というのは非行敷に所属することになった記念のことである。己と世界の両方を不幸にする、人の形を模した疫病神である有能力者に認定され、非行敷に引き取られた私への祝いの品――新しい自分に生まれ変わるため、忌々しい過去を断ち切るための記念品。それがこの宮島 有十という名前だ。


 非行敷に引き取られた子供のほとんどが目も当てられない悲惨な経験をしており、その多くは自身の有する能力が原因で凄惨な目に遭っている。有能力者は他人を、そして自分さえも傷つけてしまう己が能力を恐れ、自分という存在そのものを畏怖し、貶め、卑下する。故に安全な居場所を得られたとしても、まともな人生を送ることがほぼ不可能な精神状態にある。それこそ、何気ない挨拶さえままならないほどに。


 人間は簡単には変わらない。変わりたくても変われない。だからこそ、過去の自分を亡き者として新しい人間に生まれ変わる、という思いを込め、非行敷の子供らにはリネームが行われる。それに伴い戸籍などの記録は全て抹消され、新たな自分を証明する記録が『製造』される。言うなれば、次の試合に向けて気持ちを切り替えていこう、というスポーツ選手を励ます時の台詞と同じ理屈。過去の自分にさようならを言うための第一歩だ。


 現在、私から逃亡を謀っているあの少年も私のように、空巣さんから新しい名前を与えられるのだろう。果たしてどのような名前になるのか、実に興趣が尽きない。肝心の少年はと言えば、私の視界に出たり入ったりを繰り返していた。つまり逃げ回って私の目を逃れては、その度に見つかっているというわけだ。


 しかしこの少年、なかなかどうして諦めが悪い。どう足掻いたところで私の追跡を逃れることは不可能だというのに――私はまだ自分の能力すら使っていないというのに。


「あなた、この街に来るのは初めて?」


 私は少年に問いかける。既に二人の距離は声が届くところまで狭まっていた。彼は慌てて周囲を見渡し、自分が今突き当りにいること、周囲は彼の身長を大きく超えるコンクリートの塀に囲まれ、唯一の逃げ道には私が立ち塞がっていること、つまりは自分が袋の鼠であることを理解する。


「私はこの薄蓑(すすきみの)市に来て三ヶ月経つわ。どの辺りにコンビニがあって、美味しいケーキを作る洋菓子店があって、行き止まりの通路があるのか把握しているの」

「好きに逃げ回っていたつもりが、まんまと誘導されていたってわけか」


 ご名答、と私は拍手をする。そして走り疲れて息を切らしている少年に向けて、もう一度自己紹介をする。


「それでは改めまして、宮島 有十よ。今日から非行敷の、家族の一員として仲良くやっていきましょう、殺人狂さん」

「僕は非行敷の傘下に加わるつもりはない。もう人は殺さないから放っておいてくれ」

「あら、空巣さんとの問答では殺人がしたいから非行敷に加わりたくないと言っていたのに、人を殺さないとなれば誘いを断る理由がなくなるわ」


 少年は押し黙ったまま、じいっとこちらを睨みつけてくる。おかしいことをおかしいと指摘しただけでこのような態度を取られては、私としても反応に困る。せめて動揺するなり言い訳するなり、何がしかのアクションは起こしてほしいものだ。


 このまま二人で目と目を合わせてロマンティックとは程遠い睨み合いを演じていてもいいけれど、空巣さんに「遅くならない程度に」と念を押されたため、さっさと彼を連れ帰る必要がある。


 それに、このままでは『寄り道』の時間も減ってしまうのだから。


「あなた、どうして私を見て逃げたのかしら。私が姿を現した途端、まるで幽霊に出くわしたみたいに」

「――最初から逃げ出すタイミングを伺っていた。たまたまお前が下りてきた時に空巣さんの視線が僕から外れた。だから逃げた」


 いきなりお前呼ばわりとは、随分と馴れ馴れしい少年である。それと最初から逃げ出すつもりだったというその言い訳は、大方とっさに思いついたデマだろう。答えるまでにわずかながら間があったり、露骨に目を逸らしたりと実に分かりやすい。


 空巣さんであれば嘘を嘘と見抜いた上で、あえて根掘り葉掘り問い詰めたりはせず真摯に対応するのだろうが、生憎と私は彼女のように器用ではない。


「あなたの言葉は信用に値しないわね。空巣さんとのやり取りの最中でも逃げ出せるタイミングはあったはずよ。店員を人質に取って強引に退路を確保する、という手段も取れた」


 更に言えば、何か特別な理由がなければそもそも空巣さんの呼び出しに応じるはずがない。偶然彼が誘いに乗ったと考えるよりは、彼も空巣さんと同じように、何かしらの思惑があってあの喫茶店に足を運んだと考える方が自然だ。


 非行敷は殺人狂である少年に言伝という形で待ち合わせ場所と時間を伝えた。その言伝を任された人間は何の危害も加えられることなく(念のためにと有能力者を使者に抜擢していたらしい)、それどころか彼は伝言に従って喫茶店を訪れた。空巣さんが繰り返し呟いていた『白々しさ』は、非行敷が少年にアプローチをかけた瞬間から存在していたのだ。


「何にせよ、あなたをこのまま逃がすわけにはいかないわね。手荒な真似はしたくないの、だから大人しくついてきて」

「強硬手段に出る羽目になるのは僕の方だ。頼むからもう構わないでくれ、お前を傷つけたくはない」

「良い台詞ね、好きになっちゃいそう」


 私はゆったりと、勿体ぶるように右手を彼に向けた。


 掌が視界に映る少年の上半身を覆い隠した瞬間、彼は私から見て右に飛び跳ねた。髪は乱れ、跳ねた後の体勢も滅茶苦茶な状態であったにも関わらず、彼は何かを避けるように急遽その場を離れた。


 そんな彼の行動に対し――正直に言えば、私は感服した。流石は殺人狂と呼ばれるだけのことはある。とっさに回避行動を取った彼の判断はとても正しかった。


「でも詰めが甘い」


 尻餅をついた体勢から立ち上がろうとする少年の体が小さく痙攣する。続けて頭、手、足の順に、全身が不規則なリズムで震える。


 彼は今、必死に動こうとしている。見えない力に押さえつけられ、微動だにしない体を無理に動かそうと抗っているのだ。


 私は少年の足を見る。爪先は地面に触れておらず、足場を探そうと小刻みに揺れている。ほんの数センチメートル触れるか触れないかという位置で、彼の体は重力の働きを無視して宙に浮いていた。


「一回目の攻撃を避けたのは素直に褒めてあげる。でも続けて二回目があるとは思わなかったみたいね」

「攻撃」

「そ。私もあなたと同じ有能力者、奇怪な特殊能力を有する者よ。でも私の能力はあなたの不死身の力と違って、少しだけ攻撃的なの」


 少年の能力はまだ『人間の体の神秘』という言葉で納得できなくもない。もしかすると、彼の体を調べてみれば不死の理由、その手がかりが掴めるかもしれない。しかし私の力は別だ。ありとあらゆる専門知識を引っ張り出してみても説明のつかない、常識外れのマジック。タネも仕掛けもありはしない。


 自信たっぷりに、私は己の能力を明かす。


「私はね、引力と斥力を思うままに発生させて操ることができるの」


 引き寄せるか遠ざけるか、ただそれだけの能力と言ってしまえば簡単だが、これがまた使い勝手の良い力なのだ。何と言っても引き寄せる対象(あるいは引き離す対象)だけでなく、対象が寄ってくる(もしくは遠ざかる)物や人さえも私が指定できるのだから。


 引力を操る能力と言われたら、例えば遠くにある物体を『自分』の手元に引き寄せる力を想像するだろう。物体が引き寄せられた先には当然私がいる。仮に物体をA、私をBと呼ぶならば、私の能力はAとBの両方を任意で設定できる。斥力も同様だ。


 要するに、斥力で少年を私から遠ざけることはおろか、近くに転がる小石から少年を遠ざける、という芸当も可能なのだ。更に補足するならば、斥力と引力は同時には使えない、なんて制約も存在しない。異なる力を同時に、対象も好きなだけ選んで発動可能。少年が身動きを取れないのは彼の近くに存在するコンクリートの壁が、電柱が、囀る小鳥が彼の接近を拒絶するように斥力を発するBとなり、そうして全方位から放たれた見えない力がAに該当する彼を頭からつま先に至るまで強く圧迫しているからだ。


 正直なところ、自分でもどうやってこの能力を発揮しているのか、そもそも力の出所はどこなのか、まるきり分からない。心当たりさえない。常識を逸脱しておきながらその仕組みを理解していないというのは、どことなく不安な気持ちになる――かと思いきや、全くもって気にならない。


 テレビを見ながら、その直方体の中にいくつの部品が組み込まれているのか、それらの部品はどこで、どのようにして作られるのか、と疑問に抱く人間はそう多くはないだろう。テレビは『テレビ』として出荷され商品棚に並んだ時点で既に『いくつもの機器の集合体』ではなくただのテレビであり、その構造は誰の目にも留まらないよう四角い外装で覆い隠してある。見えないのでは疑問の持ちようがない。


 私の能力も同じだ。『引力と斥力を操る能力』という情報しか知り得ておらず、能力の仕組みは開け方の分からないブラックボックスだ。


「ところで」


 益体のない思惟もここでおしまい。


「あなたに訊きたいことがあるの」


 少年の言葉はない。ただ苦しそうに身を捩り、斥力を振り払おうともがいている。


「まず、どうしてあなたは私を見た途端に逃げ出したのか。一応返答してもらったけれど、私は信用していない」


 少年は沈黙を返す。


「次に、一回目の攻撃を何故凌ぐことができたのか。あなたが見せた迷いのない回避行動は、初めから私の能力を知っていた、みたいな動きだったのよね」


 静寂。少年は決して口を開こうとしない。


「沈黙は最悪のコミュニケーション手段よ、分かってる?そして最後に」


 私はずいと彼に肉薄し、透き通ったヘーゼル色の瞳を覗き込む。


「私ね、ここ数ヶ月非行敷で過ごした記憶しかないの。それ以前の――自分がどこで生まれ、どんな人と出会い、何をしてきたか――過去の記憶が一切存在しない」


 俗に言うところの記憶喪失であるが、この記憶喪失には奇妙な点がある。それは私が日本語を介して会話を行い、箸を用いて食事を取っていること。つまり日常生活に関する記憶は失われていないのだ。己を含めた『人物』と『人生』に関する記憶だけが、忘却の彼方に追いやられてしまった。人と人との繋がりの記憶、それは人間が生きていく上で最も失ってはいけない大切なものだ。


「だから私は、私自身について色々と調べているのよ。私が何者で、どういう人間だったのか。そして今、私はあなたという手がかりに出会えた」

「僕が」


 長らくの沈黙を破り、少年はため息混じりに呟く。


「お前の過去について知っているとでも」

「私を見て逃げたこと。私の攻撃を躱したこと。この二つの疑問はどちらも『過去の私を知っていたから』で説明がつくわ。あなたは過去の私と何かしらの因縁があったから思わず逃げ出し、過去の私と相対したことがあるから能力を知っていた。どう、当たってる?」


 どう、と自信満々に尋ねておきながら、内心私は怯えていた。


 推理自体に間違いはないと思う。目前の少年は間違いなく私の過去を知っている。問題はその関わり方だ。


 過去の私は、あろうことか数多の命を奪い去った殺人狂と関わりがあった。それも知人や友人といった希薄でほのぼのとした関係などではなく、殺人狂の方が私を見て逃げ出すような、私が彼に対して能力を使用するような、そんな関係。


 私の勘違いであってほしい。そう考える一方で、彼が私の過去を知る人物であってほしいとも願っている。相反する願望を抱き、私は今か今かと少年の返答を待っていた。しかし彼は私の期待を裏切り、想定外のアクションを起こした。


 少年はふっ、と気合を入れるように短く息を吐き、体を勢いよく捻る。私はとっさに距離を取るが、能力の方は滞りなく彼を抑え込んでいるため、彼が体を大きく動かすことは叶わない。


 しかし、少年のささやかな抵抗は目当ての物を取り出すには十分だった。

彼の上着の袖口からするりと銀色の刃が飛び出す。大振りながら丁寧に磨き上げられた刀身、木製の柄。袖に隠されていたそれはナイフであった。


 ナイフは少年の手に届かず、そのまま足元まで落下していく。刃がつま先まで迫ったところで、彼はほんの一瞬だけ私の拘束を逃れて足首を素早く動かした。すぐさま足の拘束をより強固にしたが間に合わず、結果としてナイフの柄が爪先に当たり、ナイフはゆっくりと回転しながら少年の鼻の先まで飛び上がった。


 少年は大きく口を開くと、ナイフが地面と水平に並んだ瞬間を狙い、柄を噛んだ。呆気に取られていた私の存在など気にも留めず、彼は頭をほんの少し下げた状態で左右にぐいと捻る。頭部は斥力で固定されているため僅かに振れるに止まったが、白刃は大きな弧を描き、軌道上にある両腋に食い込んだ。刃はやすやすと皮膚を切り裂き、肉を掻き分け、骨をも両断した。彼の両腕は破損したプラモデルのようにぽろりと体から外れ、それでも引力と斥力の絶妙なバランスによって浮遊している。


 そしてほんの一瞬きの間に『それ』は現れた。


 彼の肩口から腕が伸びていたのだ。それも先程切り捨てたものではない、新しい腕だ。映画に登場するエイリアンよろしく緑色の体液にまみれて滑っていたり、血管が浮き出ていたり、そういう異常は全く見当たらない。あえておかしな点を挙げるとすれば、各腕のすぐ隣に切り捨てたばかりの腕が浮いていることだろうか。


 少年は口にくわえていたナイフを落とし、新しい右腕で柄を握る。そこで私は、何故彼が自分の腕を切断したのかを遅まきながら理解した。私の能力によって固定されたのは宙に漂っている古い腕であり、新しい腕はその対象外――。


 つまり、自由に動かせる。


 しまった。気付いた時にはもう、投擲されたナイフの刃先が私の眉間に触れていた。


「きゃああああっ!」


 悲鳴が喉の奥から飛び出す。反射的に繰り出した斥力がすんでのところナイフを弾き飛ばし、僅かに傷ついた眉間から垂れる血が線となって顔を伝う。


 動悸が止まらない。心臓がばくばくと拡大と縮小を素早く繰り返し、異常な速さで血液を循環させる。とめどない呼吸は酸素を全身の隅々まで行き渡らせ、一匹の動物としての生存本能を呼び覚ます。緊急事態にあって脳はごちゃごちゃと深く考えることを止め、体だけがしっかりと大地を踏みしめて少年の方を向いている。


 これが、殺し殺されるという状態――普段安穏と生活している私達が上がることのないステージ。少年が殺人狂としての実力を遺憾なく発揮できる独壇場。


 落ち着いているのかいないのか自分でもよく分からない状況にありながら、私の目は冷静に少年の動きを追っていた。少年を縛っていた斥力はナイフを投擲された際に思わず解除してしまったらしく、彼は凝り固まった体を解きほぐすため、大きく背伸びをしていた。次いで上半身を前に倒し、指先で地面にちょこんと触れる。


「呑気にストレッチをしている場合かしら」

「――面影はあるが、やっぱり違うか」


 少年は落ち着き払った様子でそう呟くと、私に向かって真っすぐ歩き出す。


「来ないで、それ以上近づいたら本気を出すわ。最悪、殺してしまうかもしれない。あなただって死にたくはないでしょう」

「いいや、僕は今すぐにでも死んでしまいたい」

「わけが分からないこと言わないで!」


 全力全開で周囲に斥力を発生させる。私に近寄るもの全てを拒絶し吹き飛ばすように。それでも少年は止まらない。確実に私との距離を縮め、地面を滑っていたナイフを拾う余裕さえある。


「投げて駄目なら、直に喉元描掻き切ってやるよ」


 ナイフの切っ先を私に向けたまま、彼は前進を続ける。斥力という不自然な突風にあおられながらも一歩、また一歩と距離を詰める。


 ――甘く見ていた。


 殺人狂などという現実味のない存在に対し実感が湧かなかった、という理由はあるかもしれない。私の能力をもってすれば誰であろうと拘束出来る自信もあった。例えそれが不死の体を有する殺人狂であろうと、だ。


 ところが実際はどうだ、相手は己の腕が千切れるのも構わず私を殺しにくる。再生能力があるとは聞いていたが、一瞬で両腕を丸々修復できるなんて想定外だった。


「待って、お願い」


 半泣きになりながら必死に声を絞り出した時、少年の姿はすぐ目の前にあった。手に握られたナイフの刀身が夕暮れの光を反射し、真っ赤に輝いている。


「質問に答えて。あなたは私の過去を知っているの?どうしても知りたいのよ」

「知ってどうする」

「あなたは、自分が何者か分からずに生きていくことが辛いと思わない?何も知らないまま死ぬことに耐えられる?」

「過去にそれ以上辛い思いをしたならば、全てを忘れて生きていく方が幸せだと僕は思う」


 ナイフが、私の首筋に当てられる。口だけが動き、肝心の体はぺたんと地面に座り込んだまま動かない。恐怖のあまり、足の力が抜けてしまったのだ。


 能力を使っても倒せない、立ち上がって逃げ出すこともできない。


「でも、心配する必要はないよ」


 首に突きつけられたナイフが僅かに揺れている――驚くべきことに、少年もまた震えていた。歯を食いしばり、両目に涙を溜めている。


「お前を生かしたのは、間違いだった」


 その言葉の意味を、彼が今にも泣き出してしまいそうな表情をしている理由を考えるより先に、ナイフは夕焼けの空を切り裂くように振り上げられ、そして私の命を奪わんと振り下ろされた。


⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


「言い忘れていたが」


 とっさに目を瞑った私には、その言葉を発した人物が何者であるかを視認できなかった。しかし目を開けるまでもなく、聞き慣れた女声から空巣さんであると私には分かった。恐る恐る目を開くと、そこにはやはり彼女の姿がある。群青色のチェスターコートを風になびかせ、少年の手の上からナイフの柄をがっちりと掴んでいた。


「今後一切の殺人を禁止する。衣服に刃物を仕込むのも駄目だ」


 空巣さん、と安堵の声を上げると、彼女は少年から目を離さずに答える。


「何度も言っているだろう、有十。有能力者は自分の能力を過信する傾向にある、と。確かに君達の能力は驚異であるが」


 空巣さんは押さえていた少年の腕を思い切り手前に引っ張ると、そのまま彼に背を向ける。続いて右の腋で少年の前腕を挟み込み、自身の右腕に彼の肘が当たるよう更に深く引き寄せる。


 少年は強引に引っ張られたせいで体勢を崩し、空巣さんのなすがままに振り回されている。彼が大きくよろめいた瞬間を狙い、空巣さんは肘を軸に少年の腕を折り曲げんと力を込めた。本来曲がるべき方向とは逆に向かって倒れる腕はみしみしと不気味な音を立て、襲いくる激痛に耐えかねた少年は悲鳴を上げる。遂には全身の力が抜けたようにがくんと前のめりに倒れ、地面に膝をついた。


「人体の修復、とても良い能力だ。それに両腕を切断する痛みに耐え得るだけの精神力が備われば、有能力者をも軽々と殺める無敵の殺人狂となるだろう。だがな、少年」


 空巣さんは少年の手を放す。好機とばかりに少年は体勢を立て直すと、かろうじて落とさずに済んだナイフを深く握り直し、彼女の背中目掛け突き出した。


 だが私には見えていた。空巣さんがその背をナイフに刺し貫かれるより先に身を翻し、刃の側面をそっと平手で押しのけ軌道を逸らすと同時に彼の懐へと飛び込み、鳩尾に膝蹴りを叩き込む瞬間が、まるでスローモーションの映像を見るようにはっきりと映った。


 人間の体が奏でるべきでない鈍く重みのある音が辺りに響き渡り、少年はいよいよ崩れ落ちた。それに対し空巣さんは、呼吸を乱すことなく淡々と話を続ける。


「少年、君は自分が有能力者であるというのに、有能力者という存在についてまるで理解が足りていないようだ」


 彼女の言葉はおそらく少年の耳には届いていない。彼は今、苦痛に顔を歪ませながら地面をのたうち回るのに精一杯なのだから。


「不死身の有能力者は何も君一人だけではない。私は過去に二人、不老不死の名を冠するに相応しい有能力者と出会った。詳しい経緯は省略するが、過去に似た能力が見つかっている以上、能力への対処法も存在する。その二人にも当てはまるが、君のような有能力者は体の損傷は治せても、負傷に伴う苦痛の方は消せない。痛みは傷が癒えた後もしばらく感じ続けている。ならば痛みだけを――気合いや根性などでは到底耐え切れない衝撃を与えてやれば、傷つけられなくとも闘う意思を奪うことはできる。そういう時に格闘技が真価を発揮する。とりわけ肉弾戦に特化した空手道やボクシング、加えて投げ技や関節技を極めた柔道、レスリングなどは護身術の一環として大人も子供も学んでおいて損はない。武術による痛みは刃物や銃器の類と違って体に『残る』からな」


 空巣さんはその場でくるりと反転し、私に爽やかな笑みを投げかける。


「有十はもっと平常心を保つ努力をすべきだ。有能力者の能力は当人の精神状態によって如何様にも変化を遂げる。普段の有十であれば少年をより強固に、そして安全に拘束できていたはずだ。しかし今回は己の過去を知ろうと急くあまり、彼の反撃に対して必要以上に動揺してしまった。能力は冷静に、かつ沈着に使用して初めて本来の力を振るう」

「うう、全部見ていたのね」

「当たり前だ、私は保護者だからな。過去を知りたいという欲求までは否定しないが、本当に大切なことは何か、覚えているな」


 私は大きく頷く。


 本当に大切なこと、それは過去に囚われるのではなく今を生きること。十の記憶を失ったのであれば、また一から獲得していけばいい。空巣さんにそう教わり、教訓として心に刻んでいたはずなのにすっかり忘れてしまっていた。


「さて、少年」


 空巣さんは少年へ向き直る。彼は幾分落ち着きを取り戻したようで、胸部に手を当てたまま深呼吸を繰り返している。私を殺そうとした時――震える手でナイフを握り、涙声ながら止めを刺そうとしていた時の面影は、全く残っていない。


「君が有十に刃を向けたことについては不問としよう。最初にけしかけたのは彼女の方であり、無理にでも連れて来いと言った私の責任でもある。そして有十の過去についてだが、本当に知っていようがいまいが、今それを言う必要はない。我々はつい先程出会ったばかりで、家族になったばかりだ。少しずつ、自分のペースで打ち解けていけばいい」


 少年は猜疑心の強い野良猫の如く、突き刺すような視線を返すばかりで何も言わない。


「まだ警戒を解いてはくれないか。それならば」


 空巣さんは少年をそっと抱き寄せた。母が我が子を愛しむように、両者は密着する。体格はほぼ同じであるというのに、空巣さんの方が少年を包み込んでしまいそうなくらいに大きく見えるのは何故だろうか。


「繰り返す。君が過去に何を行い、そして君の身に何が起きたのかは訊かない。君はせっかく平穏なる日常を享受できるチャンスを得たというのに、自らその機会を放棄しようとしている。だから私は君に言う」


 君は、幸せになってもいいんだ。


 空巣さんだけが与えてくれる確証。自分のような出来損ないでも幸せになっていい、という言葉による免罪符。それで少年の罪が帳消しになるわけではないし、私の記憶が蘇るわけでもない。しかし非行敷に引き取られて間もない頃の私は、この一言に救われた。誰も彼も知らない人間ばかりで不安に押し潰されそうになっていた私を救い、支えてくれた。


「そうですか。もう、いいんですか」


 少年が今どのような表情をしているのか、私には分からない。彼は空巣さんの首と肩の間に顔を埋め、誰にも表情を見せまいとしている。ただ、何となくではあるけれども――悪い表情はしていなかったはずだ。そう思わせるほどに、彼の声色は安らかなものであった。


「ああ、そういえば」


 一体どのくらい、私達はそこにいたのだろう。辺りは既に薄暗く、ほんのちょっぴり肌寒くもある。


 空巣さんは少年との抱擁を中断し、いつ手放したのか、地面に転がるナイフを拾いあげる。すぐ傍には少年が自ら切り離した両腕が丸々残っているが、数秒と経たない内に砂塵へと変わり、そよ風に流されて消滅した。


 彼が殺害したとされる被害者に何度も突き立てられたであろう凶器を眺め、私は彼の過去について考えを巡らせる。彼の狂気を体現し続けたそのナイフは、人を刺し続ける過程で何を見てきたのだろう。彼は殺人によって何を達成しようとしたのだろうか。空巣さんがコートのポケットにナイフを仕舞ったところで(抜き身のままで危なくないのだろうか)、私は考えるのを止めた。


 空巣さんは少年に笑いかけ、


「君に新しい名前をプレゼントするのを忘れていた」

「名前は、その」

「知っている。君は時と場所、状況によって名前を変えながら生きてきた。今の君にとって本名など何の意味もない。一部の人間からは『人類史上最低の実名なき殺人狂』とまで蔑まれてきた君のために、とっておきの名前を用意した。受け取ってくれるか……」


 少年が頷くのを確認し、空巣さんは「ごほん」とわざとらしく咳払いをする。


「夢への路、その道を開くと書いて『夢路(ゆめじ) 道開(みちひら)』。少し個性的な名前になってしまったが、決して悪くはないと思う」

「夢路 道開」


 良いですね、と言って少年は――道開は笑った。


「良い名前です」


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