絵と日常
客が絵を置いて行ってから数年が経過した。
民宿の主人は客室に飾っていた絵についてほとんど忘れ、日々の雑事と余暇の中ですごしていた。
毎日はどこか退屈で、空虚に感じていたある日。部屋に泊まった客から絵について尋ねられた。
品の良さそうな初老の男性客は、以前客が残していった絵を指さして言った。
「ご主人。もしかしてこの絵は、ヨシヤの作品じゃないですか?」
「ヨシヤ……? そんな名前の青年だったかなぁ。──いえ、名前は聞かなかったな」
「小杉崎良也の作品だと思いますよ。──ええと、これだ」
スマホを取り出したその客は、主人に画面を見せた。
そこには数枚の絵が表示され、客が画面を拡大すると、サインの部分がアップになって、部屋にかかっている絵に記されたサインと同じものが表示された。
「へえ、あのお客さん、立派な画家になられたんですねぇ」
そう言うと初老の客はにっこりとほほえんだ。
「そうですね。数年前までは無名の画家だったのですが、ここ最近になって各地を旅し、そこかしこに絵を描いて置いていく若い画家がいるという話が評判になって。きっとこれからも彼の絵は評価されて、ますます価値が上がっていくと思いますよ」
主人はそんなこととは知らず当たり前のように、絵があることすら意識しなくなっていたが、客の残した絵が評価されていることを知ると、自分の事のようにうれしい気持ちになった。
ひさしぶりに宿に泊まりに来た客が結婚したと聞いたときのような、そんな他人の幸福を目の当たりにして、見ている側も幸せな気分になるような。
民宿の主人はその絵を見ると、あの不思議な印象をもつ客を思い出し、客のひとりひとりがそうした、自分にはない可能性をもっているのだと改めて思うのだった。
いままで民宿の主人として働いてきた彼は、いろいろな人に出会ってきたことに思いをめぐらせる。
ある人は思いつめたような顔をして不倫していたり。
またある人は災害で家を失ったのを機に旅に出て、自らの人生を振り返りつつ、新たな生活拠点を探している途中であったり。
大学を卒業する仲良しのグループが、離れた場所にあるスキー場へ行くために民宿を利用したり……
そこには人それぞれの想いと、人生の軌跡が感じられ、民宿を営む主人の人生に多くの色を添えていったのだった。
そこに一枚の絵が加わった。
一人の旅行客が残していった一つの作品には、そんな何気ない日常を切り取ったような、民宿の主人が愛する地元の、特別でないことが特別な、愛すべき日常の風景が描かれているようだった。
朝から昼。そして夜が訪れるまでの長い一瞬。
それらを一枚の絵に収めたような絵画は、良也という画家が残したものながら、まるで自分の半生を描いていったようだ、と民宿の主人は思った。
何気ない日常の、変化の乏しい生活の中にある、微妙な季節の移り変わりすら見てきたような絵には、青々とした稲穂が収穫の時期を迎えた黄金色に変わり、そして借り入れられたあとの夕暮れの様子が描かれた、三つの状態が混じり合っていた。
ふらりとやって来た客が残した一枚の絵。
描かれた日常の風景には、そこで暮らしている人には感じられないような、当たり前の中にひそむさまざまな美しい変化と、そこに暮らす人々の息吹や祈りまで閉じ込めたもののように思われた。
日々見届けては忘れてゆく風景。
その中には小さな町で暮らす幸福が、まだまだ気づかれずに眠っていると感じさせるのであった。
民宿の主人は客の残した絵を見るたびに、自分の住む地域や、人間関係について、新たな発見を期待するようになった。
当たり前の日常などなく、そこにはつねに新しい経験と、いままで積み重ねてきたものが交わる、ささやかな幸福の日々が待っているのだ。──そんなふうに感じられるようになっていたという。
またあの若者に会ってみたいものだ。主人はそのように考え、また新しい日を迎えるのだった。
その新しい日々は、かつての平坦なものとは違って、なにやら期待に満ちたものに変わっているのを感じていた。
何か特別なことがあるわけでもなく、けれどもそこには未来へつづく毎日がある。そんな話。
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