客の描いた一枚の絵
民宿にやってくると、男は引き戸をたたいて中に入り、民宿を管理する老人と言葉少なに会話していた。
「予約した小杉崎です」
「ああ、小杉崎さんですか、ようこそ。しかし、こんな季節にお客さんがくるなんてあまりないことです」
見た目よりも元気そうな老人はそう言って彼を部屋まで案内する。
「この町はすてきな場所ですね。大きな国道もありますが静かで、空気もよく、安心できます」
「な──にもないところですがね」
主人はそう言って笑ったが、客の言葉に満足した様子だった。
民宿の主人は食事の時間などを説明すると部屋の鍵を彼に渡した。
「ごゆっくり」
彼が案内された部屋は畳みのある小さな部屋。
布団のしまわれた押し入れと、窓際にある小さいフローリングには椅子とテーブルが置かれ、茶菓子に急須、茶碗にポットなどがあった。
小さな和室に荷物を置くと小杉崎良也は民宿を出て行った。
小さな町を歩いて回り、畑や住宅街から離れて山へ近づくと小川などをのぞきこんだりしながら、自然を満喫しているようであった。
ときには民家と民家のあいだにある道を通り、空き地にいた野良猫たちと語り合ったり、気の向くままひなびた田舎町を散策し、ときおりカメラを構えて写真を撮影していた。
それから三日ほど彼はその民宿ですごした。
幸いにしてその三日は晴天がつづき、彼は毎日毎日、飽きもせず町を散策した。時間をかけて山を登ったり、小川に足を入れて冷たい水を感じたりして、田舎の雰囲気や自然とのふれあいを心から楽しんでいた。
良也は田舎町の景色を好み、町から眺める田畑や山などの風景を、何時間も同じ場所に座って眺めていた。
彼はそうして二日間を、財布の中に時間だけはたっぷり持っている富裕層のようにすごし、三日目は民宿の中で長い時間をすごしていた。
民宿の窓際に座り、スケッチブックを片手に窓からの景色を眺めていた良也。
数日間の思い出を胸に、彼は窓から見える風景を紙の上に描き、旅で得た豊かな気持ちを色彩で表現した。
四日目の朝に、彼は民宿の主人にお金を支払うと、スケッチブックから切り離した一枚の絵を差し出した。
「もしよければ、これを部屋に飾ってください」
それは泊まった部屋から見える景色の絵。
シンプルな風景画だが、朝日と夕日が混じり合ったような不思議な色彩の絵に、民宿の主人はすなおに「おや、よく描けているじゃないですか」と、その絵を褒めた。
良也は満足そうに頷き、その絵を置いて民宿を出て行ったのだった。
絵には小さなサインが記されていた。
主人はべつに客の残した絵に価値があるとも思わなかったし、かといってそれを捨てようとも考えなかった。
せっかくだからと、ちょうどよい額縁を用意すると、客の残した絵を客が泊まった部屋に飾ることにした。
それからしばらくして夏がやってくると、地元で開かれる祭りを見に宿泊客が多く訪れるようになった。祭りの前後は民宿にとって書き入れ時の一つだった。
二人の若い男女が絵のかけられた部屋に泊まったとき、その絵を調べてくれたことがあった。
「う──ん、有名な画家ってわけじゃなさそうですね。けっこういい絵だと思ったんだけどな」
若い男がそう言ったが、絵やサインを画像検索などしても、ヒットする情報はなかったらしい。
「まあ、数ヶ月前に泊まった若い人が描いていったものですから」
「そうなんですか? わたしはこの絵、好きですよ」と、女性客も絵を褒めていったのだった。
そんなことがあったが、その後は絵について語る客は出なかった。
民宿の主人も部屋を掃除するたびに絵が目についていたが、やがてそこに絵がかかっていることに慣れると、すっかり絵のことを忘れてしまった。