後編
「女王陛下。キャレイ王国第三王子ダミアン殿下の件で、キャレイ王国より書簡が届きました」
ベアトリスは学院時代からの側近の一人、ユベロスから書簡を受け取る。封を開けて中身を読んでいくが、進むにつれ顔が強ばっていった。
「陛下。キャレイ王国は何と?」
ベアトリスは顔を上げると正面に立つユベロスを見た。
続いて、書務室の中にいる他の側近達にも目を向ける。ここにいる側近の半分が、学院時代からベアトリスの側近として働いてきた者達である。彼らは、かつて“怨恨の紋様”を持っていたベアトリスに対して抱いてしまう悪感情を殺し、主のために仕えてきた最も信頼できる側近達である。もう半分は、ベアトリスが若くして王位に就いたことで、補佐のために就けられた者達である。“怨恨の紋様”を持っていた頃のベアトリスとは接していないため、互いにわだかまりなく接している。
ベアトリスは彼らを見回した後、書簡の内容を説明した。
「キャレイ王国は、ダミアン殿下の犯罪について、国が支払うことはないと。代わりにダミアン殿下の母、ヴィクトリア第二王妃の生家であるウッジャー家に補填させるとのことです」
「そんな馬鹿な!罪を犯したとはいえ、ダミアン殿下は王族ではないですか」
「キャレイ王国は我が国と対立しても良いと!?」
「王子の失態の責任を王家ではなく、母親の生家がとるのですか?」
ベアトリスの説明に、側近達が驚きの声を上げた。静かに側近達の反応を見ているベアトリスであったが、自身もまさかキャレイ王国がこのような対応をしてくるとは露とも思っていなかった。内心は驚きと怒りで満ちていた。
「どうやら、向こうの勢力争いに利用されたようですね」
文官長ベッカムに視線が集まる。
ベッカムは少し考え込むと、ベアトリスに視線を向けた。
「女王殿下は、キャレイ王国の意図がわかりますか?」
恒例の抜き打ち試験である。
ベアトリスと学生以来の側近達は、優秀とは言え未熟であった。ベアトリスは現在20歳。彼らも同年代である。先代国王が国を混乱させたことにより、卒業と同時にベアトリスは王位に就いた。当然側近に就いたのは信頼厚いユベロス達であったが、いかんせん知識不足と経験不足は明らかである。
それ故、若い女王とその側近を補佐するために、各部署より有能な者達が集められた。そして、彼らの役割は補佐だけではなく、教育も兼ねていた。
「キャレイ王国の内外の情勢を考えれば、答えは導かれますよ」
ベッカムの助言を受け、ベアトリスは手を組み熟考する。時が止まったかのように微動だにしないベアトリスであったが、突如羽ペンを摑むと近くにあったメモ用紙に浮かんだ言葉を書き込んでいく。言葉を見ながら、ベアトリスはいつものように考えをまとめて正解を導き出していく。
「わかりました。
ウッジャー家を軍務局局長から下ろすことが目的ですね」
ベッカムが「それで」と続きを促す。
取りあえず、答えは正解であったことにベアトリスは安堵する。しかし、まだ予断は許さない。理由を説明できなければ、罰が待っている。
「キャレイ王国は北に隣接する小国アデボラ国と50年近く小競り合いを続けていますね。国力を考えるならば、キャレイ王国はアデボラ国をとうの昔に併合していてもおかしくありません。それが、未だに戦争が終わらないのは代々将軍職を務めるウッジャー家が無能故。たしか、無謀な特攻を仕掛けては、罠にかかったり、反撃を受けて大きな被害を出していた筈です」
ベアトリスは確認を求めてベッカムに顔を向けると「そうですね。それで」と返された。やはりこれだけでは合格点には達しないようである。ベアトリスは回答を続けていく。
「王家としてはウッジャー家を排除したいと考えてはいるものの、王族並みに力を持っているためままならない。自国だけでは対処できないので、他国、ランディーニ王国を巻き込んだというところでしょうか。
王子が他国に麻薬を持ち込み、その国の貴族を害したとなれば、当然国際問題になりますからね。
そう考えると、ダミアン王子は母親のヴィクトリア王妃に溺愛されているのでしょう。そしてヴィクトリア王妃は生家のウッジャー家に対して大きな発言力を持っている。もしくは、今なおウッジャー家を排除できないのはヴィクトリア王妃という存在からでしょうか?
賠償金を払わせてウッジャー家の力を削っても良いでしょうし。逆にウッジャー家が断れば、ヴィクトリア王妃との関係に亀裂が入り、排除しやすくなるでしょうし」
「お見事です」
ベッカムから合格をもらい、ベアトリスの緊張が解ける。最近は合格出来ているが、女王の座にに就いたばかりの頃は間違えることや及第点に届かないことも多かった。そのたびにユベロス達も一緒に説教され、教えを受けてきた。あの時の不甲斐なさは忘れられないため、未だに抜き打ち試験には緊張してしまう。
「それで女王陛下、如何なさいますか?」
ベッカムから新たな問いが投げかけられた。しかし今度は試験ではない。ランディーニ王国としての、ベアトリス女王としての方針を求められている。正解はないけれど、失敗することは許されない。
ベアトリスは再びキャレイ王国について考えを巡らせる。ただし、今度はランディーニ王国とキャレイ王国の関係についてである。先程と同じように思いついたことをメモ用紙に書いていく。今度は1枚で終わらず、2枚3枚とメモ用紙に様々な言葉を書いては、眺めて思案と検討を繰り返した。
元々一案としては考えていたことではあったけれど、キャレイ王国からの対応で覚悟を決める。
「キャレイ王国からの書簡に対してですが、私の方針を言います。
キャレイ王国が責任を放棄し、ウッジャー家が肩代わりするのであれば、賠償金は前回提示額の倍を要求します。キャレイ王国が我が国を利用するのであれば、こちらも向こうの勢力争いを利用するまでです。キャレイ王国で内乱が起きようとも、我が国との関係が悪化してもかまいません。自国の勢力争いに息子を捨て駒にして、他国を巻き込むような国とは友好関係を結べるワケもありません。それに麻薬を合法としている国です。むしろ関係を悪化させ、疎遠になった方が良いと考えました。
以上の事を各局に伝えなさい。そして各局の都合を勘案して、私の方針にどのような利害が生じるか報告させなさい」
ベアトリスの言葉を記したメモを持って、文官のコーディリアが部屋を出て行く。
コーディリアの退出を見送ると、残った側近全員がベアトリスに向き直る。一瞬の沈黙の後、最初に声を出したのはユベロスであった。
「女王陛下、よろしいのですか?2年かけて、他国との関係も少しずつ改善の兆しを見せ始めたのに。キャレイ王国だけでなく、その他の国との関係も悪化してしまうのではないでしょうか?」
「私は女王陛下の方針に賛同します」
ユベロスの意見に答えたのは文官長のベッカムであった。
「文官長・・・。その、失礼を承知で申し上げますが、文官長の見解は従姉妹のドレッタ嬢に対しての私見が多分に含まれているのではないですか?」
「確かにユベロスの申す通り、私怨が含まれていることは否定できない。ダミアン王子はドレッタを麻薬中毒にしたのだからな。否定はしているが、キャレイ王国はダミアン王子がランディーニ王国で騒ぎを起こすことを知っていた。いや、起こすことを目的に留学させたと私は考えている」
努めて冷静に答えているが、ベッカムの目は酷く冷たいものであった。ダミアン王子を拘束してから3年経ったが、未だに怒りが収まらないらしい。
3年前、ダミアン王子は麻薬により、ランディーニ王国の令嬢3人を麻薬中毒にし、1人を殺した。
そして麻薬中毒になった令嬢の1人が、ベッカムの従姉妹であるドレッタであった。
ダミアン王子は留学した当初はおとなしかったけれど、1年を過ぎた辺りから幾人かの令嬢と交遊するようになった。キャレイ王国では自由恋愛と言われているらしいけれど、我が国では複数の相手と恋愛関係になることは不道徳とされている。
“秘密の恋愛”という甘美で背徳的なものに魅了されてしまった令嬢が、ドレッタ達被害者である。
ダミアンは彼女たちに麻薬の快楽を覚えさせていた。キャレイ王国では合法であっても、我が国では違法行為である。本来であれば、犯罪者として拘束に至らずとも、キャレイ王国に強制送還させることは十分可能である。
しかしたった1人の存在、アリアンナによってそれは行われなかった。
アリアンナは、ダミアンを「本国から1人離れて寂しいのです」「少し情熱的な方なのです」と擁護してしまった。
これにより、アリアンナの持つ“敬愛の紋様”の影響を強く受けていた国王は、ダミアンを放置してしまう。結果、4人の令嬢の未来を奪うことになった。
ベッカムの持つ怒りは、ダミアンに対してだけではない。アリアンナとカンティン前国王にも強い怒りを抱いていた。
「私もベッカムと同じ見解です。キャレイ王国は、ダミアン王子が騒動を起こす前提で、我が国に留学させたのでしょう。死者を出すまで騒ぎを大きくするつもりであったかはわかりませんが。
それとユベロスが懸念している他国との関係については、詳しくは各局の報告次第ですが、その後の対応次第でどうとにもなります。確かに関係を改善する必要はありますが、へりくだる必要はありません」
「承知致しました」
ユベロスが頭を下げる。
ベアトリスが全員を見回すと、各々納得した表情で頷いた。
「よろしい。ユベロス、他に報告はありますか?」
「はい。定例のアリアンナ様の状況報告が届きました」
ユベロスが書類の束をベアトリスに手渡す。
ベアトリスの気分が一気に下降する。
学院卒業後、危険思想を修正すべく、アリアンナは王宮の片隅にある屋敷に軟禁されている。
学院時代、アリアンナは君主制や封建制度、身分制度を否定するような発言を公にしていた。そして“敬愛の紋様”の影響を強く受けていた者達は、アリアンナの主張に賛同したり黙認していた。それが、現在ある自分たちの立場を否定するものであるにも関わらず。
当然王女の発言を戒めない国王に対し、紋様の影響を受けない貴族達は反発し始め、周辺国は内乱の勃発を危惧し始めていた。
その危機的状況を打破するため、カンティン国王は王位を下ろされることになった。そして貴族学院卒業と同時にベアトリスが王位に就いた。
ただ、それだけでは周辺国に対して示しがつかない。故に、元凶であるアリアンナとカンティン前国王、ローゼファニー前王妃を軟禁して政治に関わらせないようにしている。
“敬愛の紋様”が消え去ったことで、カンティンとローゼファニーは正気に戻ったが、アリアンナは違う。自分の思想は、今も尚正しいと信じている。公の場に出すことなど出来るはずもなかった。
「アリアンナは相変わらずのようですね」
書類を半分読んだところで、ベアトリスが溜息と共に落胆の言葉を漏らす。
アリアンナには国政に関わる書類と偽り、心理テストを続けている。2年もの間、側近であるエドリック、フィネガン、グラウコから指導や進言を得ているにも関わらず、危険思想は全く変わっていなかった。
「女王陛下。アリアンナ様の監視員の1人から、エドリックについて報告があります」
「なんでしょう?」
「アリアンナ様のお考えが全く変わらないことと、自身の立場に嫌気が差しているようです。言葉遣いや態度が荒れ始めていると」
「そうですか。トリエンテ家にエドリックの状況を伝えておきなさい。エドリックのことはトリエンテ家が対処すべきことです。私達は問題を起こしたのなら、それなりの罰を与えるだけです」
「承知致しました。
それから、これは個人的な見解ではありますが、ダミアン王子の咎をアリアンナ様にお伝えなさっては如何でしょうか?ダミアン様が麻薬をもって令嬢を害していたこと。ベアトリス様が新たな被害者を出さないように目を光らせていたこと。これらを伝えれば、考えを改めるのではないでしょうか?」
ユベロスの進言はベアトリスも考えてことがあった。しかし、どうしてもアリアンナが意見を変えるとは思えなかった。
「進言は有り難いですけれど、おそらく無意味でしょう。事実、周囲の反応が変わって2年も過ぎているにも関わらず、そのことを問題視していないようですから。それに、どの様なものであろうとも、アリアンナには情報を一切教えるつもりはありません。アリアンナにとっては、私は悪しき存在ですから」
「女王陛下。私はアリアンナ様と直接関わったことがありませんので、わからないのですが。これまでも、アリアンナ様の話題の中で『女王陛下は悪しき存在』と仰っていましたけれど、全て“怨恨の紋様”の影響の筈。なぜ紋様が消え去った今でも、女王陛下が悪しき存在なのですか?」
ベッカムの問いは、ベアトリスが幼い頃よりアリアンナに対して頭を悩ませてきた問題であった。
「紋様を持つ者は相手の紋様の影響を受けません。事実、私がそうでした。問題はアリアンナの性格や考え方と“敬愛の紋様”にあります。アリアンナはとても優しい子でした。慈悲と博愛を周りに振りまいて、正しい人であろうとしていました。正しいことを言うアリアンナは、常に称賛されて育ってきました。“敬愛の紋様”の影響ですね。結果、アリアンナは絶対正しい存在となります。そして、絶対正しい存在の周りにいる者も正しくなくてはなりません」
「それは前国王やエドリック達のことでしょうか?しかし、それがなぜ、女王陛下が悪しき存在ということになるのですか?」
「正しき存在が“怨恨の紋様”の影響で悪意を持つことは、アリアンナにとって正しくないことだったからですね。
アリアンナは常に『お姉様、悪意を振りまくのは止めてください』『“怨恨の紋様”に負けない強い心を持ってください』と言っていました。ユベロス達は聞き覚えがあるでしょう」
ユベロスを始め、学院からの側近達が頷く。当時は、2人の持つ紋様の影響で、アリアンナの言葉に疑問を持つことはなかった。しかし、今ならアリアンナの言葉はおかしいと断言出来た。
「紋様は周囲に影響を与えるのであって、当人が紋様の影響を受けることはありません。しかしアリアンナは、何故か私が紋様の影響を受けていると信じています。
おそらく、正しき者は正しくなくてはならない。悪感情を持つという正しくないことは、正しき者にあってはならない。しかし現実は悪感情を持っている。ならば、それは“怨恨の紋様”ではなく、悪しき存在の私によるものである。正しき者が“怨恨の紋様”の影響を受ける筈がない、心が弱い訳がないと考えているのでしょう。
結局アリアンナにとっては、紋様の有無など関係なく、私は悪しき存在でなくてはならないのでしょう。これまでの心理テストからも、そのような考えが見てとれますし。
自分が信じたいものだけを信じ、自身は絶対正しき者であるアリアンナに、ダミアン王子のことを告げても信じないでしょうし、都合の良い様に受け止めてしまうでしょう」
「なるほど。そうでしたか。
しかし、それでは“敬愛の紋様”の影響を受けなくなったエドリック達3人を、アリアンナ様はどの様に思っているのでしょうか?今まで通り、全てを肯定しなくなったことに戸惑いを感じないのでしょうか?」
「何と言えば良いのか。フィネガンへの接し方は変わらないのですが。エドリックには、時折感情的になり大声で喚くことも。もっともこれは、エドリックが現状に不満を募らせ、アリアンナ様の考えを真正面から完全否定しているという言い方にも問題があるのですが。ただ同じように否定されても、フィネガンとエドリックとでは明らかに接し方に差があります。グラウコは口数少ない故、揉めるようなことはないそうです」
ベッカムの問いにユベロスが答える。
アリアンナの印象と言えば“博愛”“慈悲”であるが、ユベロスの話からは想像もつかないのだろう。側近達の唾を飲む音が聞こえた。
特定の相手を優遇、特別視しているアリアンナが想像できないのであろう。
そしてアリアンナの思考についての議論が始まった。側近達が、各々自分の考えを口にしていく。
しばらく様子を見ていたベアトリスであったが、内心は全く興味がなかった。
アリアンナが他者の意見を全く聞き入れないことをベアトリスは知っている。
アリアンナの慈しみは、全てを肯定される余裕から生まれていることをベアトリスは知っている。
アリアンナについては十分すぎるほど悩み、煩わされてきた。排除できた今、これ以上アリアンナについて悩み考えたくはなかった。
「アリアンナについてはもう良いでしょう。それよりも大事なことがある筈です。ユベロス、次の報告を」
ベアトリスの言葉を受けて、側近達が口を閉じる。
名を呼ばれたユベロスが、「失礼しました。こちらが最後の案件です」と持ってきた残りの書類をベアトリスの執務机に置く。
ベアトリスが一番上の書類を手に取ると、とある貴族の釣書であった。
現在、ベアトリスが一番頭を悩ませている問題である。
「女王陛下も、もう20歳です。結婚と世継ぎのことを考えれば、お相手をそろそろ決めておかないと」
ユベロスの言葉が胸に突き刺さる。
18歳という若さで王位に就き、様々な困難な問題に当たってきた。これまで培ってきた力に、優秀な臣下達の補佐もあり、順調に解決してきたけれど、この問題だけは非常に困難を極めていた。
学院時代に相手を見つける者もいたが、多くは卒業後に様々な縁故によって結婚する。両親の縁故や職場の上司からの紹介である。
けれども、ベアトリスにはその機会を得ることがなかった。紋様による混乱がなければ、ベアトリスも今ごろ、王族として仕事に従事しながら相手を紹介されていたことだろう。しかし、王位についてからは、やるべきことが山積みであった。そして最近ようやく国内外の問題が改善され、余裕が出来たので結婚相手を探し始めたのであったが、事態は難航していた。
元々、“怨恨の紋様”のせいでベアトリスに苦手意識を持つ男性は多かった。それが女王の伴侶ということで、同年代の男性ほとんどが臆してしまったのである。
(38歳ですか・・・。やはり10歳以上離れた方ばかりですね)
これまでの釣書も年の離れた方ばかりであった。当然その年で独身など、ワケありばかりである。毎度、王家直属の諜報部による但し書きが加えられていたが、無視できないものばかりであった。
大抵が王配目当ての権力欲からのものであった。そして30歳過ぎの独り者など、自尊心と自己評価だけは高い無能ばかりである。
手に取った釣書を見ると、地方領主フェンテス家の次男であった。年は離れているけれど、上級貴族であるため、身分に問題はない。しかし諜報部による但し書きに『好色(私生児多数)』と記されている。将来問題を起こすことがありありと予想できる。
次の釣書を手に取る。
ジェフリー=ヘーリング(35歳)。外務局所属で20歳からイスハーク共和国に派遣。32歳でイスハーク大使館一等書記官に任命される。
経歴を見ると非常に有能な人物であった。「なぜ、これだけの男性が?」とベアトリスは疑問に感じたが、但し書きを見て理解した。同時に怖気を感じた。
『20歳の時に王宮に出向いた際、当時のベアトリス王女を見かけて一目惚れした模様。そのことをはばかることなく公言。危険と判断したカンティン前国王が他国に長期派遣させるよう外務局に命令し、現在に至る』
(ヘーリングが20歳の時って、私が5歳の時では?)
これまで送られてきた釣書の男性が真面に思える。これまでは下衆であったり無能、低俗な者と王配に相応しくないとされてきた者ばかりであった。しかしジェフリー=ヘーリングは違う。ベアトリス本人が生理的に受け付けなかった。ただ単におぞましかった。
そして但し書きはさらに続く。
『この釣書を送った後「15年もベアトリス様を想い続けてきた。私はこの純愛を実らせてみせる」「ベアトリス様は20歳になられてしまったけれど、産まれる娘は間違いなく可愛らしいであろう」と酒の席で発言』
恐怖でしかなかった。
はしたなく「ヒッ」と声を漏らし、釣書を放る。
初めて見せるベアトリスの怯える様子に、側近達が驚き目を見張る。
机の上に舞い落ちた釣書をユベロスが手に取る。ユベロスの口から「うわぁ」とはしたない声が漏れた。ユベロスから憐れみのような目を向けられるが、ベアトリスはそれどころではなかった。
全身が粟立つ。
袖や襟で隠れていなければ、あられもない姿を見られていたであろう。
恐怖と不快さで吐き気を感じる。
釣書すら目に入れたくなく、視線がさまよう。
「これは、酷いですね。
女王陛下。少し早いですが、休憩に致しましょうか。ケトラ夫人も到着されていますでしょうし」
ユベロスの気遣いを素直に受け取り、ベアトリスは立ち上がる。ユベロスがベッカムに渡した釣書を見ないよう、向かう扉に意識を集中させる。無意識に進む足が速くなる。
「女王陛下。片付けは我々がしておきます」
「よろしく」
部屋の中央に立つベッカムとユベロスに答えると、ベアトリスは側近達を引き連れ部屋を出た。
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「顔色が悪いですね。疲れているのですか?しっかりと休みは取れているのですか?」
ソファーに座ってすぐ、ベアトリスは叔母のレノーラ=ケトラから心配される。執務室からこの応接室までに顔色が戻らなかったらしい。本人が思っている以上に、ジェフリー=ヘーリングの釣書に衝撃を受けていたらしい。
「ベアトリス姉様、大丈夫ですか?」
心配そうに、レノーラの隣に座っているミカエルが声をかけてきた。
「大丈夫ですよ」
安心させるように、ミカエルに微笑んでみせる。
「本当ですか?母上の言う通り、顔色が悪いように見えますが。無理をしているのではないですか?」
「大丈夫です。先程、少々気分が悪くなるものを見てしまいまして。2人の顔を見たら良くなったのですけれど、まだ引きずってしまっているようですね」
問題ないことを示すように、ベアトリスは優雅に紅茶を飲んでみせる。ただ、いつもよりか幾分、紅茶の香りに意識を向けて心を落ち着かせた。
「それなら良いのですが」
安心したのか、ミカエルが前のめりになっていた体を戻す。そして息子がベアトリスを心配する姿を見て微笑ましく感じたのか、レノーラがミカエルの頭を撫で始めた。13歳の男の子らしく、照れて「止めてください、母上」とレノーラの手を払いのける。
2人の微笑ましい姿に、ベアトリスの心は温かくなっていった。
「レノーラ様もミカエルも、今日はよく来てくれました」
「こちらこそ、時間を取っていただきありがとうございます。仕事の邪魔になっていなければ良いのですけれど」
「滅相もない。こうして気楽にお話できるのはお二人だけですから」
ベアトリスが王位に就いた際、紋様を消さなかったことで国を混乱させた責任をとらせるため、当時成人していた王族を全員引退させることにした。表舞台に出ることは一切禁止したほどである。
血縁関係の中で唯一ベアトリスに会えるのは、レノーラとミカエルだけである。
ベアトリスとアリアンナが生まれた時、レノーラはすでにケトラ家に嫁いでいた。故にカンティン前国王が紋様を消さなかったことに対して意見具申できる立場になかったと、責任の範囲外であった。
これまでレノーラはケトラ領から出てくることは滅多になかった。ミカエルの出産と子育て、ベアトリスの貴族学院への入学と時機が合わず、交流は全くなかった。しかしベアトリスの卒業と入れ替わりにミカエルが入学したことで、レノーラは王都に居を移した。若くして王位に就いたベアトリスを心配してのことであった。
周りに臣下しかいなくなったベアトリスにとって、2人の存在はとても心安まるものであった。
話は主にミカエルの学院生活についてであった。
2年生では惜しくも最優秀になり損ねてしまったこと。ニルセン帝国発祥の“戦棋”という盤上遊戯が男子学生の間で流行っていること。1年生の下級貴族の令嬢が、身分を弁えずに上級貴族の令息を誘惑しようとしていることなど。
そしてミカエルの話を聞いたベアトリスとレノーラが、自分たちの学院生活を思い出し語っていた。
楽しい語らいが続いていたが、突然レノーラが一番聞かれたくないことを尋ねてきた。
「ところで、ベアトリス様はご結婚のご予定は?お立場を考えれば、そろそろお相手を決めないといけないのでは?」
ベアトリスの脳裏にジェフリー=ヘーリングのことが浮かび上がる。心を落ち着かせ、必死になってジェフリー=ヘーリングのことを頭から追い出す。
「ベアトリス様大丈夫ですか?」「ベアトリス姉様、大丈夫ですか?」
レノーラとミカエルに同時に心配されてしまった。一目で具合が悪くなったことがわかるほどだったらしい。
隠すほどのことでもないかとベアトリスは、いくつか釣書が届いているが好ましい相手がいないことを話した。
「そうなのですか。不甲斐ない殿方ばかりですね。これほど美しく聡明なベアトリス様に、ただ臆すだけなんて
ミカエル。貴方もそう思いませんか?」
「えッ!?あッ、あの、そう、ですね。母上の仰る通りかと」
レノーラの問いかけに歯切れ悪く答えるミカエル。先程までの楽しそうな様子は消え去っていた。
「どうしたのですか?何か言いたいことでもあるのですか?」
レノーラの問いかけに、ミカエルは言おうか言うまいか迷う姿勢を見せる。しばらく様子を見ていると、神妙な顔でベアトリスを真っ直ぐ見つめてきた。
「送られた釣書の中に、ベアトリス姉様が気になった人はいたのでしょうか?」
「いいえ。先程も言いましたけれど、なかなか良い人がいませんね。かなり年の離れた方ばかりです。出来るのならば、同世代の方が良いとは思うのですが。“怨恨の紋様”のせいで、未だに私に苦手意識を持っている方が多いようで・・・」
「そ、そうですか。いないのですね」
ミカエルの反応に側近達の間に緊張が走る。
ベアトリスは不思議に思い、側近達に目を向けるが、殺気だった様子ではない。ベアトリスが感じた緊張感はすでに消え去っており、皆平然としていた。
護衛が動かなかったので危険はないのであろうが、緊張感の正体がわからないことにベアトリスは気持ち悪さを感じた。
(今のは何だったのでしょう?まぁ、後で確認すれば良いでしょう。それにしても、レノーラ様の目が輝きましたけれど、どうされたのかしら?)
佇まいも表情も変わっていないけれど、レノーラの目が、雰囲気が大きく変わった様に感じた。
(好奇心・・・のようですが、それだけではないような)
「ベアトリス姉様。お聞きしたいことがあります」
俯いていたミカエルが顔を上げて話しかける。
「何でしょう?」
ミカエルが突然声を上げたこと、幼さがありつつも覚悟を決めた男の顔に、ベアトリスは内心たじろいでいた。
誤魔化すように微笑みをミカエルに向ける。
すると、ミカエルは再び俯いてしまった。
ミカエルが必死に声を出そうとしているが、言葉が出てこないようであった。声はか細く弱々しいけれど、強く握られた拳から、強い決意のようなものは見てとれた。
「ミカエル、言いたいことがあるんでしょう。しっかり相手の、ベアトリス様の目を見て言いなさい」
ミカエルが勢いよく顔を上げ、驚いた表情でレノーラを見つめる。
レノーラは穏やかにミカエルに微笑んでいる。それはとても優しく温かなものであった。
しばし見つめ合った後、ミカエルは「はい、母上」と言うとベアトリスにもう一度向き直った。
顔を真っ赤にして、真剣な表情で見つめてくる。
その真剣さが伝わったのか、ベアトリスの顔も自然と赤くなる。
何故か周りから熱い視線も感じ始めた。
「ベアトリス様。5年待っていただけないでしょうか。5年後、ベアトリス様に相応しい優秀な成績を修めて卒業した暁には、結婚を申し込みたいと思っております。
私は未だ13歳の若輩者ですけれど、生涯をベアトリス様と共に歩みたいと思っています。
私の想いを受け取ってはいただけないでしょうか」
突然の告白にベアトリスは言葉を失う。
頭が沸騰し、自分でも顔が熱くなったことがわかった。
目を逸らして、現在の状況やミカエルの発言を考えるが、頭が回らず答えが出ない。
状況を整理しようとミカエルを見ると、真剣な眼差しでベアトリスを見ていた。
真っ直ぐミカエルを見ることが出来ず、下を向いて視線から逃れる。
(えっ!?どういうこと?私、ミカエルに思いを告げられたのですか?
ちょっと、なんでこんなに心臓の音がうるさいのです?
落ち着きなさい。冷静に。冷静に)
しかし激しい鼓動は収まる様子もなかった。
仕方なく、ベアトリスは心を殺して顔を上げる。
目の前にいたミカエルが大人びて見える。少し前まで幼く感じていた雰囲気はなかった。
ベアトリスの目の映るのはミカエルのみ。周りの景色は映らず、なぜかミカエルが輝いて見えた。
「あ、あの、あのですね」
ミカエルの言葉に応えなければと思うのだが、何を言えば良いのかわからず、ベアトリスは返事に詰まってしまった。
必死に言葉を探すが見つからない。
時間が流れ、焦りが募る。逃げ出したいとも思うけれど、ミカエルの気持ちから逃げてはいけないと踏みとどまる。
ただベアトリスに、迷惑に思ったり、どの様に断ろうという考えは自然と浮かぶことはなかった。
「ベアトリス様。返事はまだ結構ですよ。ただ、息子にも、機会を与えていただけないでしょうか。
もちろん、息子が卒業するまでに良い方が見つかれば、気にせずその方とご結婚ください。息子もベアトリス様に相応しくなれるかわかりませんし」
「そ、そうですか?そう、ですね」
ベアトリスは、レノーラの助け船に必死にしがみつく。この場では返事をしなくて良いことに喜びすら感じていた。
それならばとベアトリスはこの件を終わらせようと、急ぎ話を終わらせようとした。
「わかり、ました。ミカエルの気持ち、うれ、嬉し、く思います。
良い人はまだ見つかっていませんので、貴方のことも考え、て、おきましょう」
「あ、ありがとうございます。必ずベアトリス様に相応しくなってみせます」
「は、はい」
最後の返事は、威厳ある女王ではなく、恋する乙女のようであった。
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国民から祝福の言葉を投げかけられながら、ベアトリスとミカエルを乗せた馬車が王都を走る。
美しく聡明な女王を、若く端正な貴族が射止めたことに国が熱狂した。
これまでは毅然とした姿を見せてきた女王が、相手の男性に向ける顔は、ただの1人の女性であった。恋に落ちた女王の姿は輝き愛らしく、男も女も関係なく魅了した。
昨日開かれた祝賀会では、2人の結婚を祝うため、多くの近隣国から各国代表者が参加していた。ベアトリスが王位に就いてから8年、近隣国との関係は良好なものに戻っていた。
2人の結婚を皆が喜んでいた。
臣下。国民。他国。
そして両親のカンティンとローゼファニーも。2人は誰にも気づかれず、厳しい監視の下、ひっそりとパレードを眺め、娘の結婚を喜んでいた。
ただ、アリアンナだけは違った。
アリアンナには姉の結婚のことすら伝えられなかった。
彼女は閉じ込められた部屋の中で待っていた。
自分が女王として迎えられる時を。
フィネガンから求婚される時を。
姉がいなくなり、全ての国民から愛される時を。
自分の愛で皆を救う時を。
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若くして王位に就いたベアトリスの治世は、永く40年も続いた。その間ランディーニ王国は他国との関係も非常に良好で、非常に豊かな時代であった。
ベアトリス女王とミカエル王配の関係は仲睦まじいものであった。27歳に王子を、29歳に王女を1人ずつ儲けた。女王という多忙な地位にありながらも、家族との時間をとても大事にしていた。
57歳の時に体調を崩したことを機に退くことを決意。翌年、王子に王位を譲る。
引退後は、夫のミカエルと共に国政から離れ、静かに療養生活を送った。
家族や多くの臣下に愛され、惜しまれながらも、63歳で息を引き取る。
葬儀には、多くの国民が悲しみ涙を流した。
ベアトリスは、ランディーニ王国で最も愛された女王であった。