前編
「お姉様、お止めください」
姉のベアトリスが1人の男子生徒と口論しているのを見かけ、アリアンナは仲裁に入った。
アリアンナとベアトリスはランディーニ王国の双子の王女である。
向き合う容姿はそっくりで、2人を知らぬ者は見分けることが出来ないであろう。しかし2人と少しでも関わった者は容易に見極めることが出来た。どんなに容姿が似ていても、向かい合った際に感じるものが全く違うのだから。
2人には生まれた時から手に紋様があり、周囲に大きな影響を与えていた。
姉のベアトリスの左手の甲には“怨恨の紋様”。妹の右手の甲には“敬愛の紋様”。2人の前に立つ者は皆紋様の影響を受けてしまう。
意味もなくベアトリスに不快感を抱いたり、憎悪を抱く。
自然とアリアンナを慕い、敬意を示す。
ランディーニ王国に生まれる王族の双子は、必ずこの紋様をそれぞれもっていた。本来なら生まれてすぐにこの2つの紋様は封印されるのだが、2人は16年間紋様の影響を背負って生きてきた。
そして今日も姉のベアトリスが周囲に悪意を振りまいていると気づき、アリアンナは姉を戒めるために翻弄されていた。
妹のアリアンナの姿を認めると、姉のベアトリスはいつものように溜息をつき呆れた顔を向けた。
今日は貴族学院の入学パーティーで、新入生達の晴れの舞台である。そのような日に、大勢の前で口論をしてはパーティーは台無しである。それに相手は隣国キャレイ王国の第三王子ダミアンであった。些細な諍いで済めば良いけれど、こじれでもしたら国際問題になってしまう。
「あら、アリアンナ。どうしたのかしら?そのように声を荒げてはみっともないですよ」
原因を作ったのが自分であるにも関わらず、いつものようにベアトリスがアリアンナを見下すように小言を言ってきた。いや、実際見下した目をアリアンナに向けている。
その目だけが僅かに2人の容姿で唯一異なっていた。姉のベアトリスはその性格通り、まなじりが僅かにつり上がりキツメの印象がある。対して妹のアリアンナのまなじりは僅かに下がり、柔和な雰囲気を醸し出していた。
姉の持つ紋様の影響もあるだろうが、アリアンナは姉がいつも自分を見下す目がどうしても許せなかった。
「お姉様、私達は王族です。この学院で模範となる存在です。にもかかわらず、このような場で口論など恥ずかしい真似はお止めください。それにお相手はダミアン様ではありませんか。ご自分の立場を理解なさって下さい」
アリアンナは相変わらずなベアトリスの態度に苛立ちを覚えて、一息に捲し立てた。本人も理解はしているが、全く迫力のない目つきで睨みつけて見せる。同じ顔立ちであるのに、どうしても姉のように迫力を出すことが出来ない。それでも立場上、アリアンナが注意をしなければならないし、ベアトリスには自分の立場を理解してもらわなければならない。姉の愚行を注意出来るのは、同じ王族で双子の妹である自分だけなのだからとアリアンナはベアトリスに向き合う。
「そうですね。皆様の注意を引いてしまったようですし。可愛い妹のアリアンナのお願いですし。私は下がった方が良いですね」
会場中の目がアリアンナ達に向けられていた。ベアトリスが周りの学生達を見回す。姉と目が合った学生の何人かが怯えた表情を浮かべた。中には、今にも泣き出しそうな顔をしている女性ともいた。
「お姉様ッ!今日はせっかくの晴れの日です。雰囲気を悪くするような振る舞いはお控えください」
姉の振る舞いに非難を示すと、ベアトリスは「フッ」とアリアンナに冷笑を浮かべた。アリアンナを小馬鹿にするような振る舞いはいつも通りであるが、姉に対して苛立ち、悲しみ、屈辱など様々な感情が入り乱れて、アリアンナの目に涙が滲んでしまう。思わず涙目で姉を睨む。
「アリアンナ様、どうされました?」
皆の注目を集める中、友人のエドリックが声をかけてきた。
エドリックはアリアンナとベアトリスと同学年の上級貴族である。明るめのブラウンの髪をいつも通りオールバックにしている姿は、同い年とは思えない程大人びている。普段は優しい笑みを浮かべているけれど、大事な物や人を守るべき時は、今のように相手を射殺すような鋭い目つきを向ける。その差に心を奪われる女性も多い。背も高く、女性としては背の高いアリアンナ達よりも頭1つ以上高い。エドリックの父親は財務局の局長をしており、幼い頃からアリアンナ達とも交流があった。それゆえベアトリスに物怖じせず、これまで何度もアリアンナを助けてきていた。
「あぁ、これはベアトリス様。ご機嫌麗しゅう」
エドリックがベアトリスに今気づいたように振る舞い、一礼してみせる。動きは優雅であったが、大仰であったため舞台役者の様に思える程である。
「ご機嫌よう、エドリック。相変わらず視野が狭いようですね」
「どういう意味でしょうか?」
顔を上げたエドリックがベアトリスに問いかける。その声には僅かに怒気と不快が混ざり合っていた。取り囲む者達にはわからなかったであろう悠然とした声色であったが、付き合いの長いアリアンナだからこそエドリックの心情に気づくことが出来た。そして同じくベアトリスもエリックの反応に気づいたようだった。ベアトリスの目に嘲りの色が滲み出た。
「言葉通りです。アリアンナしか見えていないようですから。同じ顔の私には気づかれなかったようですし」
「人は美しいものに目を奪われる物です。仮に外見が似ていても、その本質から輝く美しさが違えば美醜は明らかです」
「あら、エドリックは王族ともあろう者が大勢の前でみっともなく大声を出すアリアンナの方が美しいと?」
「アリアンナ様の美しさは、その心根です。ベアトリス様のように立場をわきまえず、いえ、立場を利用した傲慢な振る舞いを私は美しいとは到底思えません」
嫌味を交わし合ったベアトリスとエドリックが笑顔で向き合う。優雅とも言える笑みを浮かべている2人であるが、その場の誰もが凍える程冷たい空気を感じていただろう。
「一体何事ですか、エドリック」
極寒とも言えるベアトリスとエドリックの間にフィネガンとグラウコが飄々と入ってきた。フィネガンはシャンパンの入ったグラスを、グラウコは料理がのった皿を持って。
フィネガンはアリアンナよりも1つ年上の最高学年で、1年後には卒業して成人する。マットブラウンの髪をセンターで分けている。髪は長めでサイドは耳が隠れており、後ろ髪は紐で縛っている。清潔感を好む貴族としては、髪を伸ばしている男性は少ない。しかし容姿、性格、振る舞い全てが爽やかなフィネガンに長髪だからと不快感を持つ者はいない。積極的にリーダーシップを取るわけではないが、彼は皆から頼りにされていた。最大の理由は話術と洞察力にあった。様々な揉め事を彼は互いの主張を詳しく聞くことで、妥協点を示し説得してきた。父親は法務局の副局長で、彼も幼い頃より交流があった。1つではあるが年上ということもあり、常にアリアンナ達を見守るようにしていた。
グラウコはアリアンナの1つ年下で、注目を浴びている者の中で最年少になる。黒髪の短髪で騎士に多い髪型である。実際、グラウコの家は代々騎士団に所属してきた。ハメット家といえば知らぬ者はいない名門騎士の家柄であり、グラウコは現騎士団長の次男である。背はフィネガンと同じくらいであるが、鍛えた身体のため大きく感じる。寡黙のためわかりづらいところはあるが、長年つき合ってきたアリアンナ達は彼の優しさと強さをよく知っていた。アリアンナ達の中で最年少ということもあり幼い言動を見せることも多く、顔立ちも体格に似合わず、まだ幼さが大きく残っていた。
「エドリック、貴方は揉め事を諫めに来たのですか?大きくしに来たのですか?ベアトリス様の振る舞いはいつもの事でしょう。落ち着きなさい。そもそも発端は何ですか?」
フィネガンがエドリックからアリアンナに向き直り問いかける。アリアンナはいつものように自分の元に助けに現れてくれた3人に安堵を覚え、僅かに涙が溢れた。アリアンナの涙を見たエドリック、フィネガン、グラウコの3人の目が一瞬険しくなる。そんな3人の様子に気づかず、アリアンナは事の発端となった姉の行為を説明し始めた。
「それが、お姉様がダミアン様と言い争いをしていたのです。理由はわかりませんが、このような晴れの場を壊すような真似、見て見ぬ振りなど私には出来ません。それで、お姉様に注意を」
アリアンナの視線に釣られるように3人が一斉にベアトリスの方を見る。そこにはベアトリスがアリアンナ達を悠然と微笑んでいた。しかしもう1人、ダミアンの姿はそこにはなかった。
エドリック達がダミアンを探して辺りを見回すが、姿はどこにも見当たらない。
戸惑うアリアンナ達にベアトリスが「フッ」と嘲笑う。
「ダミアン様の姿は見えませんね。アリアンナ、何か見間違えたのでは?言いがかりは困ります」
ベアトリスの嘲笑するような言葉にアリアンナが愕然とした表情を浮かべる。あまりの言いように泣きそうになる。しかし貴族が人前で感情を露わにするわけにはいかない。ましてアリアンナは王族である。俯き、必死に涙を堪える。
そんな悲痛なアリアンナの姿にエドリック達の目に怒りが宿る。3人は顔を見合わせると頷き合い、ベアトリスと対峙した。
「ベアトリス様。どうやらダミアン様はこの場から去られてしまったようですね。事の真偽が確かめられず残念です。せっかくの機会でしたのに」
「あらあら。エドリックはアリアンナの妄言を信じるのですか?私は諍いなど起こしていませんよ」
「何をヌケヌケと。これだけの証人がここにいるのです。ベアトリス様が騒ぎを起こしたのは明白です」
「そうでしょうか?注目を浴びたのはアリアンナが大声を出したからではありませんか。仮に私がダミアン様と話をしていたとしても、どなたも私とダミアン様がどの様な話をしていたか知らない筈です。諍いなどなかったのですから。聞いていただいてもかまいませんよ。ただし証言をする際は、神に誓ってくださいね。私にはコレがありますから」
ベアトリスが左手を持ち上げてみせる。肘まである手袋に隠れているが、ベアトリスの左手の甲には呪いの紋様がある。“怨恨の紋様”をもつ者はあらゆる者から憎まれ厭われてしまう。ベアトリスはこの紋様をもって生まれてきた。幼子の時は周りに不快感を与える程度であったが、年を重ねるごとに悪化していった。今では全ての者から意味もなく疎まれていた。関係が深ければ深いほどその傾向は強い。それ故、簡単な聞き取り程度では虚偽の証言ばかりが集まってしまう。それがわかるからこそベアトリスは“神の誓約書”を持ち出した。もし“神の誓約書”の誓いを破れば、神罰として体に傷が刻まれる。
ベアトリスの紋様のことは貴族の誰もが知っており、知っているからこそ誓約書の提案を拒否することは出来なかった。かつてベアトリスは冤罪をかけられたが、“神の誓約書”のおかげで免れたことがあった。偽証をした者達の体に傷が浮かび上がったため、ベアトリスの無罪が証明されたのだ。
エドリックが奥歯を噛みしめ、悪鬼を睨むような目をベアトリスに向ける。“神の誓約書”を持ち出す以上、おそらくベアトリスの言葉通り口論の証言は得られないだろう。神罰の傷をもつ者は神を侮辱した者と見なされる。ベアトリスに冤罪をかけ暴かれた学生達や教師は将来の全てを失う羽目になった。そのことを知っている学生達は、それ以来エドリック達がベアトリスを断罪しようとも協力してくれなくなってしまった。
エドリック達はこうして何度も同じような屈辱をベアトリスから受けてきた。アリアンナの涙を見て「今度こそは」と息込んだが、今度も証拠を得ることができない。己の無力さに悔しく、エドリックは爪が食い込むほど拳を強く握りしめた。
そんなエドリックの肩を叩いて「落ち着け」とフィネガンが囁き、1歩前に出てベアトリスと対峙する。
「今度はフィネガンですか?どうして私をそれ程までに貶めたいのでしょう?」
目の前のフィネガンにではなく、遠巻きに窺う他の学生達に向けてベアトリスは訴える。「私は無罪である」「呪われた運命に翻弄される悲劇の王女である」と。当然その訴えが相手に響くことはない。“怨恨の紋様”が彼女の全てを否定する。そのことはベアトリスが一番よく知っている。それ故、悲劇のヒロインの様な振る舞いは彼女にとって目の前の4人を嘲笑するための戯れである。彼女の言葉は相手には一切響かないのだから。
「ベアトリス様。今日はせっかくの新入生歓迎パーティーです。この場で身分の最も高い貴方が騒いでいては、主役である新入生が楽しめません。どうでしょう。我々は別の部屋で過ごすというのは」
「そうですね。これ以上情けない姿を見せたくないでしょうし。よろしいですよ」
フィネガンの提案をベアトリスが了承を受けると、フィネガンはエドリックにドアの前に立つ使用人に別室を用意させるよう指示を出す。小間使い扱いされたことが癇に障ったエドリックが「何故、私が?」と不満を露わにする。冷静さを失ったエドリックをこの場から去らせるため、フィネガンはエドリックに耳打ちで彼の弱点を突いた
「これ以上ベアトリス様のペースに呑み込まれては、私達だけではなくアリアンナ様にもご迷惑がかかるのだぞ」
もちろんフィネガンが言った言葉に嘘はなかった。ベアトリスとダミアンが口論をしていたか不明の現段階では、大声を上げたアリアンナの無作法が騒動のキッカケであった。明らかに嘘をついているのが明白でも、証明できなければ「非は因縁をつけてきたアリアンナ達である」というベアトリスの言い分が真実なのだから。
不満ながらもフィネガンの言葉に従わざるをえないエドリックが、もう一度ベアトリスを睨みつけると指示通り使用人に向かって行った。
「アリアンナ、貴女の友人は過激で無礼な人が多いですね。少し付き合いを考えては」
「お姉様ッ!私の友人を悪く言わないでください!それに、エドリックもフィネガンもグラウコもお姉様の友人ではありませんか。幼い頃、私達5人でよく一緒に過ごしたではありませんか。なぜそのように悲しいことを仰るのですか」
アリアンナが悲痛な顔を浮かべて、全てを拒絶しようとする姉に訴えかける。「お姉様は独りではない」「昔のお姉様に戻って」「“怨恨の紋様”になど負けないで」と思いを込めて。
誰もが嫌悪するベアトリスに向かい、一番辛い目に遭わされたであろうアリアンナが必死に愛を訴えかける姿に、周りで見ていた者全てが心を奪われる。美しさのあまり言葉を失う者。愛の深さに感動し涙を流す者。思わず祈りを捧げる者。会場にいる大勢の者がアリアンナの愛に信仰心とも言える思いを抱いていた。
そんな中、ベアトリスは表情なくアリアンナを静かに見つめていた。
「どうした?」
用件を終えて戻ってきたエドリックがフィネガンに問いかけた言葉で、沈黙が破られ時が動き出した。誰もがアリアンナの深い愛情を身に受けたことで戸惑いを感じていた。
しかし常にアリアンナと一緒にいることが多いフィネガンとグラウコは早々に正気に戻る。これまで数えきれぬほどアリアンナの愛情深さを感じてきた。何度も彼女の言葉や心根に満たされてきたのだからこそ、今他の学生が戸惑っている感覚は3人にはいつものことで当然の感覚であった。故にすぐに正気に戻ることが出来ていた。
「いや、いつもの事だ。後で詳しく教えてやる。それよりも今は別室に移ろう」
その場におれず、アリアンナの愛情を感じることが出来なかったことを悔しがるエドリックをフィネガンはなだめる。エドリックは3人の中で最もアリアンナの愛情深い言動に夢中であった。せっかくの場から遠ざけてしまったことでエドリックがしばらく嫌味を言い続けることがフィネガンには容易に想像がついていた。面倒とは思うが、適当にあしらっては余計に拗れてしまうことは経験済みである。出来る限りエドリックの気の済むようにさせて、早く解放してもらう方が得策なのもフィネガンは理解していた。しかし今はベアトリスの罪を明らかにする方が先である。フィネガンはエドリックに別室に移るよう促す。
エドリックはアリアンナの事を聞けない不満を感じながらも、フィネガンの言う通りアリアンナをエスコートして歩き出す。その後ろをグラウコが続く。そしてフィネガンに促されてベアトリスが歩き出す。ベアトリスを逃がさないようフィネガンが最後尾につき、5人は会場を後にする。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。特に新入生の皆、すまなかった。場を汚してしまった者は退出させるので、この後は十分楽しんでくれ。改めて新入生諸君、入学おめでとう」
最後にフィネガンが会場に残った者達に向き直り挨拶をした。扉を閉めると、フィネガンは先を進む皆を追いかけた。
扉が閉まる音にアリアンナは思わず立ち止まって振り返る。ベアトリスと目が合った。
ベアトリスの目には、いつもの侮蔑や嘲り、怒りのようなものはなかった。初めて見る姉の目にアリアンナは微かに恐怖を感じ、エスコートしていたエドリックの腕を強くつかんでしまう。アリアンナの心情を悟ったエドリックに優しく手を包まれたことで、アリアンナは気持ちを落ち着かせることが出来た。
静寂が包む廊下を進む中、アリアンナは姉のことを想う。
(いつまでもこのような事を繰り返してはいけない。お父様は「ベアトリスの事は父と母に任せなさい」と仰っていましたけれど、悪くなる一方ですわ。このままでは、伝承の『紋様は破滅をもたらす』通りになってしまいます。そうならないためにも何とかお姉様を説得して、昔の優しかったお姉様に戻してさしあげないと。お姉様が少しでも私の話に耳を傾けてくださるようになっていただければ。紋様に負けない強さを持ってくだされば。そうすれば、きっとお姉様を助けられる)
使用人の案内でアリアンナ達は応接室に到着した。
ベアトリスが上座に座り、アリアンナが下座に座る。
2人が着席するのを入り口で待っていたエドリックがいつものように不満を口にする。
「ベアトリス様。そろそろ上座をアリアンナ様に譲られては。姉と言っても双子ではありませんか。全てにおいてアリアンナ様の方が優れているのですから」
「エドリック。私は学院に入ってから一度も最優秀を誰かに譲ったことはありませんよ。同学年の貴方はご存じでしょう?それとも自分より下の者しか見ていないですか?格下の者を見て「自分は優秀である」と思い込みたいのですか?」
激昂したエドリックが1歩踏み出すが、隣にいたフィネガンとグラウコに肩をつかまれ先に進むことが出来なかった。どのような理由があろうとも、王族に手を上げては死罪は免れない。フィネガンとグラウコの手が肩に食い込み、痛みにエドリックの顔が歪む。同時に頭が冷え、踏み出した右足を下げて元の位置の戻る。
「お姉様ッ!なぜそのようにいたずらに相手を傷つけるのですか!」
友人を傷つけられたことに、アリアンナは姉に対して怒りを覚える。そして同時に悲しみも感じていた。廊下で考えていた姉への想いがさらに強くなる。
「エドリック、私は妹ですから下座で結構です。そのような気遣いは無用ですよ」
姉の顔を見つめたままアリアンナが後ろに立つエドリックに声をかけた。その直後、後ろから何かを叩く音が2回続いたが、姉を見ていたアリアンナは何の音か知ることが出来なかった。
部屋に入る早々場が荒れたが、会談時の形式通り、エドリックとフィネガンがアリアンナの後ろに立つ。護衛役のグラウコはそのままドアの前に控える。
学生とは言え、王族と上級貴族が一触即発の状況になったにも関わらず、使用人が部屋の奥にある食器棚からティーセットを2人分取り出して飲み物の準備を進めていた。
学院では、未来を担う貴族の模範となるような振る舞いを、学院の運営に携わる全ての者に求められている。それ故、学院で働く事が出来る者は一流の者ばかりであった。紅茶を淹れる彼女も上級貴族の出で、学院の礼官過程を最優秀で卒業している。
「私の分は結構です」
先に届けられていたポットからお湯を注いで紅茶を注ぎ始めた使用人にベアトリスが声をかけた。使用人は動きを止めてベアトリスに顔を向ける。控えている者は別として、会談の場で飲み物を断ることなど常識的にあり得なかった。使用人はベアトリスにその真意を求めるが、ベアトリスが答えることはなかった。それでもこの場で最も位の高い者の言葉である。使用人は「かしこまりました」とだけ答えると、アリアンナにだけ紅茶を差し出した。そして場を整え終えた使用人が壁際に控えようとしたところ、フィネガンが部屋から退出させる。
学生とは言え、王族同士の話し合いである。それにフィネガン達がこれから行うのは、王女であるベアトリスの断罪である。相手が彼女でなければ大勢の前でもかまわないが、ベアトリスの狡猾さに勝てるとは限らない。万が一のことも考え、フィネガンは使用人を退出させることにした。
「失礼しますね」
使用人が部屋を出るとベアトリスが立ち上がり、自分の分の紅茶を淹れ始めた。いつもならベアトリスの侍従がすべきことではあるが、今回は話の内容を知られたくないことからフィネガンがベアトリスとアリアンナの側近候補を同席させなかった。毒や嫌がらせを警戒して、ベアトリスは自分の世話は侍従にしかさせていなかったため、今はベアトリス自ら紅茶を淹れざるを得なかった。王女自ら紅茶を淹れるのは無作法ではあるのだが、“怨恨の紋様”の弊害であるため見過ごされている。
「それで、今日はどの様な用件で?」
紅茶を淹れて席に着いたベアトリスがアリアンナに声をかける。
気分を害していたアリアンナは、パーティー会場でのやり取りがなかったかのように尋ねてきたベアトリスの言葉にさらに怒りを募らす。
「お姉様ッ!いい加減、人を挑発するような言葉遣いは止めてください。穏便に事を済まそうとしているのに、何故そのような態度を取って場を荒らすのですかッ!」
「事を済ますも何も、問題は何も起きてはいないではないですか。貴方達が騒いだせいでパーティー会場の空気が悪くなっただけです。私は何もしていませんよ」
「ダミアン様を責めていたではありませんか。あの時のダミアン様は明らかに顔色を悪くしていました。お姉様のせいで国際問題に発展でもしたら、どうするのですか!」
「その件については、貴女の見間違えで話はついたでしょう。証人どころか、相手のダミアン様からの訴えもないのですから」
「お姉様は王女なのですよ。その立場や迫力に萎縮してしまうこともあるではないですか」
王女という立場が、ベアトリスの性格が、そして“怨恨の紋様”が他者にどの様な影響をもたらすのかを正しく理解させようとアリアンナは姉に向かって訴える。
「場や立場をわきまえずに、害意を振りまくことは止めてください」
反省の色が全く見られない姉に向かって、アリアンナが叱りつけるように言い放つ。
それまで真面にアリアンナに向き合っていなかったベアトリスの目が真剣味を帯び、冷たいものに変わった。突然の姉の変わりようと迫力に、その目を向けられたアリアンナは恐怖を感じてたじろぐ。アリアンナの後ろに立っていただけのエドリックとフィネガンも、直接その目を向けられたワケでもないのに、その迫力に思わず息を呑んでしまう。
「アリアンナ。ダミアン様はキャレイ王国の王子です。貴女の先程の発言はダミアン様を侮辱するものです。王子が他国の同年の王族に脅されて逃げたなど醜聞でしかありません。ダミアン様に恥をかかせるつもりですかッ。貴女の発言こそ国際問題に発展しかねません。発言には気をつけなさい!」
「そ、そんな。私はそんなつもりなど」
「貴女がどの様な考えを持っているかなど関係ないのです。悪し様に取られるような発言をしないことが大事なのです。言葉1つで窮地に立たされることもあるのですよ。特に王族である私達の発言は大きな影響を周囲に与えます」
「そのようなこと、お姉様に言われなくてもわかっております。ただ、お姉様は人を信用しなさすぎです。だから皆、お姉様から離れていくのです」
アリアンナの言葉にベアトリスが目を細め、感情のない冷たい目を向けた。アリアンナはダミアンのことを注意されたとき以上の姉の変化に驚く。しかしその迫力に怯んでいては姉を正すことが出来ないと勇気を振り絞る。手を強く握り絞め、キッと姉を睨み返した。
「お姉様、話をはぐらかさないでください。お姉様が悪意ある振る舞いをするせいで皆が困っているのです。確かにその紋様の影響もあるでしょう。けれど、お姉様が心を強く持ちさえすれば、紋様の呪縛になど縛られることはないはずです。他者を恨み、憎むようなことは止めてください。心を強く、正しくお持ちください。昔の優しいお姉様に戻ってください」
途中から涙を流しながらアリアンナは切実に訴えた。その言葉には、姉を見つめる目には一切の迷いも悪感情もなく、ただただ愛情溢れる善意だけがあった。
散々姉に悪し様に罵られても、姉を救おうと健気に愛を語る姿に後ろに控えているエドリック達は心打たれる。エドリックはアリアンナの心根に感動して涙を流していた。フィネガンはアリアンナの愛情深さに驚かされていた。グラウコはアリアンナの折れない心の強さに感服していた。
しかしベアトリスにアリアンナの想いが伝わることはなかった。
ベアトリスの目は、心は冷めたままだった。
アリアンナの言葉がベアトリスに響いていないことを最初に気づいたはフィネガンであった。
「ベアトリス様は、アリアンナ様が貴女をお救いになろうという心がおわかりいただけないようですね。なぜそのように拒絶されるのですか。アリアンナ様の仰る通り、何故悪意を振りまくのですか」
「これはおかしなことを。私を嫌うのは貴方達ではないですか」
「そんなことはない!アリアンナ様の仰る通り紋様の呪いに負けず、貴女が悪意を振りまきさえしなければ。全て貴女の弱さが招いていることです」
フィネガンに続きエドリックがベアトリスを責め立てる。特にエドリックはアリアンナを信奉するあまり、王女であるベアトリスに対しての敬意がなくなっていた。公の場であれば、即刻退出されてもおかしくはない。
「他人から恨まれようと、私は皆を愛せというのですか?」
「そうではありません。お姉様が皆を愛し慈しめば、皆もそれに応えてくれるのです」
「アリアンナ様の仰る通りです。アリアンナ様の愛情を何故受け入れて理解しないのです。それは貴女が愛を知らないからだ」
ベアトリスは目を細め、感情の見えない瞳でエドリックを見据える。興奮しているエドリックはベアトリスの変化と己の失言に気づいておらず、ベアトリスを睨み続けていた。
「ならばエドリック、貴方がそれを実証して見せてくれますか。王家の秘術には、この紋様を他者に移すことが出来るものがあります。互いの同意がなければ叶わぬ故出来ませんでした。しかし私を弱いと罵るエドリックなら、容易く呪いの力をはねのけることが出来るでしょう。受けてくれますね?」
思いも寄らぬ言葉にエドリックが後退る。明らかに怖じ気づいていた。アリアンナ、フィネガン、グラウコの3人が心配そうな顔をエドリックに向ける。ベアトリスは感情の読めぬ表情を浮かべてエドリックの返事を待つ。
王族でないエドリックにベアトリスの言葉が真か嘘かはわからない。アリアンナは姉の言葉に驚いた顔をしているが、アリアンナは知らない可能性もある。大きく動揺してしまっているし、無表情のベアトリスからエドリックは答えに窮してしまう。冷や汗が流れ、自分を見つめる4人の目がさらに焦りを強くした。呼吸が荒れ、胸が苦しくなっていく。真っ直ぐ立っていいられなくなり、大きく体が揺れた。「受けて見せます」と答えなければいけないと思うのだが、エドリックは言葉を出すことが出来なかった。呼吸が乱れ、胸を押さえながら怯えた表情でアリアンナに助けを求める。
しかしアリアンナは困惑した表情を浮かべるだけで何も答えなかった。
「嘘ですよ」
アリアンナ達が一斉にベアトリスに顔を向ける。
ベアトリスがこれ見よがしに呆れた顔を4人に見せた。
エドリックがベアトリスの言葉に安堵して崩れ落ちる。床に膝をつき必死に息をする。その姿を見て
アリアンナが激怒した。
「お姉様ッ、あんまりです!エドリックを苦しめるなんて。どうしてそんな酷い真似が出来るのですかッ!」
「こちらの都合を鑑みず、己の都合のみを押しつけるものではありません。まして、自分が厭い出来もしないことを他人に当然のように強要するからそのような目に遭うのです。己が分を弁えなさい」
アリアンナの言葉には目もくれず、ベアトリスは執拗にエドリックを責める。
降り注いだ言葉にエドリックは立ち上がるどころか顔を上げることも出来ない。
「お姉様ッ!どうして、そう人を傷つけることが出来るのですかッ!エドリックが可哀想です!止めてくださいッ!」
姉の暴挙を止めようとアリアンナは必死に叫ぶが、ベアトリスは一瞥もくれなかった。
姉の非道な姿に、アリアンナは顔を覆い涙する。
いつもなら、アリアンナが悲しむ姿を見ると真っ先に立ち向かっていくエドリックも、心が折れてうずくまったままである。
グラウコは振り上げようとする右腕を必死に押さえて耐えていた。
フィネガンは皆を見回す。グラウコが寸前のところで理性を保ってくれているのが唯一の救いであった。どんなに非道であろうと、一貴族が王族に手を挙げることは許されない。
そして、たった一手でアッという間に形勢を決してしまったベアトリスの手腕に恐れを抱いた。自分以外の3人が戦力にならない状況になってしまったが、フィネガンはここで引くわけには行かなかった。
元々フィネガン達3人はアリアンナと違う目的でこの部屋にいた。アリアンナは姉を救おうと懸命であるが、3人はベアトリスを排除しようと目論んでいた。ベアトリスの紋様が、その効力を弱めるワケなどないのだから。年を重ねるごとにその効力は悪化している。それは幼い頃より過ごすことが多かった3人がよく知っていた。だからこそ、これ以上紋様の影が悪化してアリアンナの心に深い傷をつける前に、少しでも早くベアトリスを排除しようとしてきた。
まずはアリアンナの想いを汲んではみたが、フィネガンの予想通り無意味に終わっていた。それどころか、思ってもいないほど形勢は悪化してしまった。
フィネガンは大きく深呼吸をして気持ちを切り替える。例え僅かでもあろうとも、この場で少しでもベアトリスの力を弱めようとフィネガンはベアトリスに立ち向かう。それがアリアンナの想いとは違っていなくても。
「落ち着いてください、アリアンナ様」
頼もしい声にアリアンナがフィネガンを見上げる。姉と対峙したフィネガンの顔には怒りも悔しさもなく、真っ直ぐな正義感だけがあった。思わず魅入ってしまったアリアンナの視線に気づかず、フィネガンとベアトリスの一騎打ちが始まる。
「ベアトリス様、よろしいでしょうか?」
「かまいません。この場を設けたのは貴方の提案なのですから。何か目的があってのことでしょう?」
自分に一瞥もくれなかった姉がフィネガンには応えたことに、アリアンナは思わず姉に見入る。そして一拍おいてフィネガンに何か思惑があり、そのことを察していた姉に気づく。どういうことかと2人を見るが、自分を一切見ない2人にアリアンナの困惑は増していくだけだった。
そして状況はアリアンナの想いとは違うモノへと変わっていった。
「ダミアン様の件は、ベアトリス様の非を追求できるモノがありませんので、今のところは置いておくことにしましょう。しかし、ベアトリス様の非道な振る舞いにいくつもの訴えがあるのは事実。正させてもらいます」
フィネガンは真っ直ぐとベアトリスと向き合う。そんなフィネガンを見て、ベアトリスは愉快そうに笑みを見せた。
「あら。そうなのですか?私、人に恨まれるような振る舞いをした覚えがありませんのに」
ベアトリスの挑発にフィネガンの心が揺さぶられることはなかった。正しきことを成すために、アリアンナのため引いては国のためにと、心を強く持ちベアトリスと向き合っていた。
「先日、侍女のモイラ嬢を解雇しましたね。彼女がベアトリス様の侍女となってから日は短かったと聞いています。王女の侍女となって間もないにも関わらず解雇されては、彼女が親族や世間からどの様な目で見られるかおわかりの筈です。なぜ、彼女の将来を閉ざすような真似をなさったのですか」
「そうですね。大きな理由が2つあります。1つ、モイラ嬢は失敗が多い。1つ、モイラ嬢はアリアンナの侍女になりたがっていた。父親のニール=オジャラ様の意向で私の侍女になるよう言われたようですが「アリアンナ様の侍女になりたかった」と他の側近達によく不満を漏らしていました。今はアリアンナの元にいるのでしょう?希望が叶って何よりではないですか」
「お姉様ッ!何故そのように人を突き放すのですかッ!王族の侍女になって緊張しない者はいません。誰にも失敗はあります。長い目で育てようとは思わないのですかッ!それに、側近達が働きやすいように環境を整えるのは主の務めです。お姉様は、不満を持たれたということに真摯に向き合うべきです」
「アリアンナ様の仰る通りです。ベアトリス様は他人の非を責めるよりも、まずは己が非を見つめ直すべきではないですか?これまで、何人もの側近を辞めさせてきたとお思いですか?彼女たちの将来を鑑みて、ご自分の側近として迎え入れるアリアンナ様に感謝すべきでは?ベアトリス様の暴挙が問題にならないよう、後始末をされているのですから」
「言ってることがわかりませんね。仕事を覚えようともしない者は、真摯に仕事に携わっている者に対して迷惑でしかありません。それに至る所で主を批判する側近を、何故仕えさせ続ける必要がありますか」
「我々王族は、多くの者に支えられていることを忘れてはいけません。皆に感謝すべきです。国は王族によって機能しているのではないのです。王族、貴族そして平民がそれぞれの役割を持ち、支え合っているからこそ成り立っているのです。貴族達が仕事をこなし、生活を整えてくれる。平民達が生きていく上で必要な物を作り、揃えてくれる。私達は彼らによって生きていくことができるのです。そのような傲慢な考えはよろしくありません」
「相変わらず、自分が何を言っているのかわかっていないようですね。平民が貴族、ましてや王族と同じとは」
「わかっています。お姉様こそ、ご自分がどれだけ傲慢であるかを何故理解しようとすらしないのですか!とにかく、気に入らないからと言って、簡単に側近を解雇するのは二度としないでください。次はお父様に申し上げます。これはその者だけでなく、その者の家の問題にもなることですから。王族への信頼に関わります。感情で周りを振り回すような真似は控えて下さい」
アリアンナがキツく言い渡すとベアトリスは静かに紅茶に口をつける。平然とした表情から、その心情をフィネガンは読み取ることが出来なかった。アリアンナの言葉に怯んだのか受け流したのかわからない。しかし王女であるアリアンナが声を荒げてまで説教したのだから、これ以上フィネガンが口を出せる状況ではなかった。それにベアトリスが口を閉じたということは、これ以上の話し合いは平行線のまま無意味であるという意思表示とフィネガンには思えた。
「それならば」とフィネガンは咳払いをして、決定的な問題点を突きつける。
「そういえば、ベアトリス様は平民から金銭を搾取しているらしいですね。噂を聞いたときは「まさか」と思いましたが、調べてみたら事実だったとは。それも定期的に。かなりの金額を」
この件については誰にも言わずフィネガンが単独で調べたため、アリアンナも項垂れていたエドリックも驚き、フィネガンを見上げた。背中では、後ろのグラウコが息を呑む気配を感じる。僅かであったが、一瞬ベアトリスの眉が動いたのをフィネガンは見逃さなかった。
「ついにベアトリス様を出し抜ける」と確信したフィネガンはベアトリスに詰め寄る。
「王族が平民から金銭を搾取されているなんて、王族の権威を貶める行為ではありませんか。妹のアリアンナ様はご存じなかったようですが、国王陛下はご存じなのでしょうか?このことをご報告したら国王陛下はどの様にご判断なさるでしょう」
「あら?私を脅迫なさるおつもりですか?」
王族を脅迫など、かなり危険な行為である。ましてアリアンナは清く正しい、心根の美しい方である。フィネガンの行為は卑劣と感じるであろう。しかし、正しくあるためには手を汚すことも必要とフィネガンは考えていた。大切なものを守るためには絶対の覚悟が必要であると。そして、4人の中で手を汚すことが出来るのは自分だけであると。
「まさか。王族を脅迫など、そのような恐ろしいこと考えた事もありません。私は事実を語り、疑問を口にしただけです」
フィネガンはベアトリスを真正面から見つめる。すでに覚悟は済んでいる。正義のためでもない。国のためでもない。アリアンナのためだからこそ、迷いも恐れもなくあっさりと覚悟を決めることが出来た。例えアリアンナに忌み嫌われようと親友を怒らせてでも、アリアンナが幸せになるためならばと。
「そうですか。どのように調べたのかわかりませんが、随分と事実を歪んで捉えているようですね。出所は・・・。まぁ、見当がつきますね。それにしても、フィネガンともあろう方が、偽の情報をつかまされたのか、都合の良いように事実をねじ曲げたのか。いずれにしてもフィネガンらしくない失態ですね」
「今更白を切るおつもりですか?先程も申しましたが、ベアトリス様が平民、とある商人から相当な額の金銭を搾取していることは確認しています。言い逃れは出来ませんよ」
フィネガンは強気な態度を崩さずベアトリスに相対する。王族を脅迫するような真似をするのだから、この件については念入りに調べた。わざわざ変装して平民街に足を運び、フィネガン自らその商人から事実を聞き出したのだ。噂話を真実と捉えて追及するほど愚かではない。しかし相手はベアトリスである。言葉1つ間違えれば、逃げられてしまう恐れは十分ある。認めさせ、アリアンナの前から排除するまでは、一瞬たりとも気を抜くことは出来ない。フィネガンは気を引き締め直す。
「その商会の毎月の収支額、ベアトリス様の遣われてきた費用、さらに毎月あてがわれている公金を見比べれば事実は明白です。商会の方と公金はすでに確認しています。ベアトリス様の毎月遣っている金額もおおよそではありますが把握しています。少なくとも、公金以上の金銭を遣っていることは明らかです。私の調査に不満なのでしたら、しかるべき機関に調査してもらっても良いのですよ」
大事にするのはフィネガンの本意ではなかった。あくまでブラフである。大事にした結果、ベアトリスが裁かれれば、アリアンナは姉を救えなかったことを悔やみ続けることが容易に想像できた。それに王族の汚点にもなる。アリアンナがベアトリスのことで悲しみ、傷つくことは避けたかった。
フィネガンは心臓が縮み上がりながらも平然と振る舞い、ベアトリスが諦めて引いてくれるのを待つ。
ベアトリスは何も言わず、真っ直ぐにフィネガンに見続けた。全てを見透かされそうな目に不安と恐怖が生まれるが、必死に押さえ込む。時間がいつもより遅くなった錯覚にとらわれる。フィネガンは千載一遇の機会を逃さないため、全身全霊をもって耐え続けた。
2人が見合ったまま時が止まったような中、アリアンナが耐えきれずに「お姉様?」と声をかけた。
アリアンナの声を聞き、ベアトリスが溜めていた息を吐き出す。反論しないベアトリスの反応を見て、フィネガンはついにベアトリスに勝ったことを確信した。
「これからはアリアンナ様の負担にならないよう、ご自分がアリアンナ様の姉であるに相応しい振る舞いを心がけてください。よろしいですね」
フィネガンの勝利とも言える言葉に、落ち込んでいたエドリックの顔に、ほんの僅かだが喜びの色が入る。グラウコは緊張感が解けたのか、大きな溜息をついていた。アリアンナは状況がよくつかめていないようで、困惑した表情を浮かべた。
険しく困難な道ではあったが、ついに目的が達成したことに、文字通りフィネガンの肩の力が抜ける。今はまだ僅かであるが、達成感が確かに感じられた。
フィネガンはエドリックとグラウコに振り向き、ついにベアトリスの上に立つことが出来た喜びを確かめ合う。アリアンナは未だに困惑しているようだ。アリアンナの望む形にはならなかったため、この後たくさん怒られるだろうとフィネガンは考える。同時にアリアンナならきっと赦してくれるだろうとも。
全てが終わり、退出の挨拶をしようとベアトリスに向き直った。
「フィネガン、先程から貴方が申している商会はパント商会ですね?どの様に話を聞いたのかわかりませんが、私はあの商会の共同経営者です。契約書も交わしておりますよ。毎月の売り上げから私の分をいただいているだけです。搾取など、言いがかりは止めていただきたいですわ」
フィネガンの思考が停止する。ベアトリスが何を言っているのかが理解出来なかった。しばしの後、ようやくベアトリスの言葉が理解出来たが、心で受け入れることが出来ない。
「う、嘘です。その、そのようなことは、調べれば、す、すぐにわかりますよ。は、はったり、です」
「調べてもらってかまいませんよ。ただ、どの様な結果になっても逆恨みは止めてくださいね。それではお父様に報告して、フィネガンの望み通り調べてもらいましょう。ただし、私を冤罪で貶めようとしたことには、当然責任を取ってもらいます。まぁ、それなりの覚悟を持っているようですし、言うまでもありませんでしたか?」
「そ、そんな筈は・・・。私は、確かにこの目で、確認して、ベアトリス様の不正を・・・」
「フィネガン、貴方は自分の美点を“公正な見地に立つ”ことと考えているようですが、本当にそうでしょうか?」
「ど、どういうことでしょうか?」
「今回の調査をする際、私の弱みを握るという考えから始まったのではありませんか?結論ありきの調査で、都合の良い様に分析したのでは?都合の悪い点は、無意識に見逃してしまったのではありませんか?」
フィネガンはなんとか反論しようとするが、ベアトリスの言葉に反論出来るだけの自信を表すことが出来なかった。自分がベアトリスの不正を見つけようとしたのか、不正となるように辻褄を合わせようとしたのかわからなくなってしまった。
「そもそも、貴方は本当にこれまで公正な立場で物事を見ていたのでしょうか?自身が正しいと考えた結論から理屈を捏ねていたのでは?」
「そ、そんなことは、ない。私は、常に、公正な立場で・・・。そう、そうとも。私の判断は常に皆の賛同を得てきた。それは私が公正であったからに相違ない」
「何を言っているのです。学生の身でフィネガン・サルディの言葉に異を唱えられる者がいるとお思いですか。学年主席であり、上級貴族サルディ家の後継ぎ。そして後ろ盾には王族のアリアンナ。いかに納得いかなくても、口を閉じる以外の選択肢はないでしょう。貴方がしてきたことは、立場を笠に着て、己が意見を押し通してきたにすぎません。私のことを“傲慢”と評す者もいらっしゃいますけれど、フィネガン、貴方の方が相応しいのではなくて?これまで、どれだけの方をその権力で黙らせてきたのでしょう。幾人の方が、貴方の勝手な理屈に煮え湯を飲ませられたのでしょう」
ベアトリスの言葉に衝撃を受けたフィネガンがよろけて後ろに倒れそうになる。すんでの所でグラウコが支えて転倒を防ぐが、フィネガンが自分の足で立つことはなかった。そのまま力なく崩れ落ちてしまった。口に手を当てて何やらブツブツと呟く。フィネガンの目は精彩を失い、対峙していたベアトリスも守るべきアリアンナも映していなかった。
フィネガンが言い出した商会のことは理解出来ずに呆然と聞いていたアリアンナであったが、ベアトリスの言葉が何を意味するかだけは明確に理解出来た。助けを求めてエドリックを見るが、愕然とした表情でフィネガンとベアトリスを見ている。グラウコは体が小刻みに震えている。拳をキツく握りしめ、天を仰いで何かに耐えているようだった。フィネガンの目は泳ぎ、焦点が合っていないようだった。口の中で何かブツブツと言っているが、アリアンナには聞き取ることが出来なかった。名前を呼んでも反応すらしてくれなかった。
「お話はもうよろしいかしら?」
姉が立ち上がろうとするのを見て、アリアンナは「何か言わなければ」と思うが、何を言えば良いのか思いつかない。ただ1つ、何もしなければフィネガンとは会えなくなることだけははっきりしている。
「よろしいようですね。それでは」
姉が立ち上がった。
アリアンナは縋るように姉の左手をつかむ。
姉を見上げると、何の感情もない目でアリアンナを見下ろしていた。
アリアンナの心は恐怖に染まる。
そして一心不乱に願った。「“怨恨の紋様”よ、消え去って」と。
アリアンナとベアトリスの願いが重なり、2人の紋様が光り始めた。
光は強さを増していき、部屋全体を包み込んだ。
光は全てを消し去った。