page 6『小さな歯車』
荷車の車輪がギシギシと音を上げている。暴れ馬は右へ左へと体を揺らし、首都の広い道を駆け抜けて行く。道行く人は、何事かと首を伸ばすとその光景に目をギョッとさせ橋へと飛び避ける。しかし、タツミは自信の耳にした言葉をうまく処理できていない。彼の額には困惑の汗が垂れる。
「キャラクタ能力が使えないって……え!?」
キャラクタ。
物語において『名前』や『役割』を与えられた者。
彼らは何かしらの異能力に目覚める。
私たちの世界の言葉で表現すると、『主人公』に当たる人物こそ領主の器を持つ者であり、彼らは総じて強力なキャラクタ能力を扱うことが多い。
タツミの驚きも無理もなかった。領主であるスカーレットが能力の使えないキャタクタなど、まさに前代未聞なのだから。
「スカーレット様は領主でしょう!?」
「ええ。そうよ。でも彼女は使えないの。その能力を上手く扱うことができないのよ!」
そんなばかな、と言葉にしなくても分かるほどの表情を浮かべる。それならば、どのようにして領を統べていたというのか。アリアとの勉強の時間で、他領について触れた時のことを今一度思い出す。しかし、いずれの領も領主が能力を使えないなどありえなかった。むしろ、圧倒的な力を持っていることが多い。
そこで、『赤ずきん』の評判を思い出す。リルが秩序を保ち、フェアラートが規律を審判する。
なるほど。スカーレットは希望である。象徴である。しかし、それは比喩などではなく、本当にその通りなのだ。あたかも彼女が領を回しているようで、本当は領主補佐の二人が真の舵取り役なのだろう。
苦虫を潰したような表情を浮かべる。アリアの声と共にいつもの表情に戻った。
「タツミ君! あそこ右に行って!」
彼女が指差したのは路地だ。しかし、馬車は大通りの一本道を突き進んでいる。
「方向が違いますよ!」
「このまま進むとしたら正門からしか出られないわ! そこに行くなら路地を通るのが近道!」
「分かりました」
二人は路地へ走る。路地には左右の家のものだろう木箱や樽が置かれている。タツミは軽い身のこなしでそれらを飛び越えた。着地の衝撃をスムーズに受け流すために、脱力した状態で前転。曲がった足を伸ばす力を加速へ繋げる。後方からの声。
「はぁあー! 無理ー! タツミ君、ちょっと私ここ早く越えられない! 私に構わず行って!」
「はいッ!」
顧みずに走り続ける。路地をまっすぐに進む。障害物はかわす。すると、大通りへと飛び出した。未だ騒ぎに気がついていない人が自由に動いている。見事に正門の前だった。
瞬間。轟音と共に全ての人の視線がそちらへと向いた。馬車が露店の品物を蹴散らして獰猛に突進していた。
「逃げろォォ!」
誰かの声が、全ての人の体を動かした。まるで磁石のN極同士を近づけたかのように、馬車の周りから人が離れて行く。馬車のための一本道となった時、その進路に立っているのはタツミだった。
「どけどけどけぇえええええ!」
馬車を操作する男が叫ぶ。笑みを浮かべていた。歯を見せ、舌を出した笑み。精々、彼はこう思っているのだろう。目の前の正門を通れば勝利、更に目の前のガキを轢き殺せば勝利、と。
しかし、同様にタツミも笑みを浮かべている。彼らがそう思っていることが手に取るように分かったからだ。そして、その言葉に心の中で返答してみる。
残念だったな。お前たちの負けだ、と。
悪党の男はぞくりと背筋に虫が這ったような感覚を感じた。恐怖していた。目の前の青年に彼は心底恐怖していたのだ。静かなハンターを目の前に、その殺意を一身に充てられているような気分だ。青年はそれで男たちを意気消沈させる気でいた。
一方で、そんな感覚は彼を余計に興奮させた。
「邪魔だガキャアアアアアア!」
「うわぁあ!」
間一髪の所で横に回避する。左腕が少し馬の体を掠めた。一瞬、なくなったと錯覚するほどに腕が痺れた。そして、なんとか受け身を取る。その腕を地面についたが不意に激痛が走った。
「イテッ!」
腕が震える。痛みでピクピクと震えている。深く息を吐く。
タツミはすぐに立ち上がり、馬車を追った。左腕を庇いながら走る。馬車は見る見る内に門の外へと出て行ってしまう。
しかし、馬車が正門外の一本道を走っている時。突如として馬がそのエンジンのような脚を止めた。慌てるように、逃げ出したいとでも言うように、頭を振る。馬の鼻息が荒くなっている。
「な、なんだ!?」
「おい! どうしたってんだ!」
男たちは混乱している。その間にもタツミは馬車へと近づいている。彼はただの召使いである。何ができるという訳ではない。しかし、彼は確信を持った目をして近づいてきている。そのことに気がついたのは、スカーレットと子供を押さえつけている男だった。
「あいつがもうそこまで迫ってるよぉお」
「うるせー! くそっ、何でこいつら急に止まりやがったんだ!」
「早くしろよ! このままじゃヤバイ。何がヤバイって、あの犬が嗅ぎつけることだッ!」
男たちは焦っていた。後悔もしていた。何故スカーレットを誘拐してしまったのか。あの時は興奮して、目先の利益だけに囚われていた。よく考えてみればスカーレットを人質にするということは、領最大の戦力を敵に回すということなのだ。
「おい! お嬢様を離せ!」
タツミは追いついた。いつまでも立ち往生する彼らに追いつくのは容易である。ただし左腕は手負い状態だった。
男たちは考えた。目の前にいるのは召使い。彼が来たところでやはり何もできないだろう、と。逆にこの男をなんとかしなければ、すぐに足がついて犬がやってきてしまう、と。
思考はすぐに行動へと変換される。
リーダー格の男が剣を抜き、馬車から飛び降りようとした。
──オオカミが視界に映った。
瞬間、剣と男の頭頂部の髪の毛が空を舞っていた。
狼がいた。黒い毛並みに巨大な体躯。鋭い爪と鋭い牙を覗かせ、青い瞳を光らせる。彼が纏うのは『赤ずきん』を象徴する赤いジャケット。
『赤ずきん』の秩序を取り締まる者。《迅狼》リルが馬車の荷台に立っていた。
「リル!」
スカーレットの嬉しそうな声。
一方で、三人の子悪党は震えていた
「おい。覚悟はできているのか」
唸るような言葉が体に突き立てられた。
当然、彼らに覚悟などなかった。ただ成り行きで子供を攫っただけなのだから。そして、更に成り行きでスカーレットを攫っただけなのだから。
「いえ…できてない…っす」
「そうか」
「できてないけど……」
男たちはニヤリと笑った。二人は剣を抜き、折られてしまった彼はナイフを取り出した。彼らは人攫いの覚悟はなかったが、少し違う覚悟をしていた。
「もう引くに引けねえ! 何とか切り抜けるぜ!」
「くたばれやァ!」
リルの首へと振り下ろされる。
「危ない!」
しかし、漫画のコマのように、瞬き一瞬の次の場面ではリルの首が飛ぶ、などということはなく見事な回し蹴りが腹部へと突き刺さっていた。
サッカーボールを思い切り蹴ると凹む。そして、ボールの反発とキックの威力により弾き出される訳だが、まさしく彼はそれだった。リルの長く大きな脚が男の腹へとめり込んだと思えば、エビのように空中を泳いだ。校則で背後の木に激突すると、白目を向いて気絶した。
「な!? 何だ今の蹴りは!?」
「次はどっちだ!」
半身を引き、後ろの右足を少しだけ浮かせた状態で構える。
その姿はまさしく歴戦の格闘家と言っても同義である。彼らは一瞬怯むも、やはり後先ない状態では不可能はないらしく、二人がかりで飛びかかる。前にナイフ、後方に剣。リーチを考えれば妥当だ。
「オラ、死ねええ!」
「そりゃああ!」
恐らく常人ではこの攻撃を避けられない。前衛のナイフは小回りが効く。左右にかわしてもすぐに追い討ちを受けてしまう。更に、リーチのある剣が追い討ちをかける。逃げ場がないのだ。
そう。常人であれば、の話だった。
リルの体は獣と同様に、獰猛でしなやかである。
巨大な体躯に相応しい長い手足を持っている。
彼は瞬時にその場に屈んだ。巨躯が急に視界から消え、彼らは混乱した。その隙が命取りとなった。
鞭のような足が二人の脇腹を撃ち抜いた。体を横方向に「く」の字に曲げ、飛ばされた。地面に数回バウンドする。見事に伸びていた。
「ふぅぅ……」
息を吐く。ゆっくりと戦いの構えを収めた。
スカーレットと子供の縄を解く。そこへタツミも合流した。
「リル様」
タツミの姿を見ると、その左腕が目に入ったのか、彼の肩に手を置き言う。
「君は…最近住み込みで働いてくれている召使いの……確かタツミだったか」
「リル様に覚えていただき光栄です」
「スカーレットから頑張っているとよく話を聞いていたからな。本当にありがとう。君がスカーレットを助けようと奮闘してくれたこと、その姿を見れば分かる。腕を怪我しているだろう。すぐに治療するよう手配しよう」
「ありがとね! タツミ君! やっぱり私が目をつけた子は違うなぁ」
二人からの賞賛の言葉。タツミは頬を紅潮させ、大きく息を吸い込んだ。そして、大きくお辞儀をする。
しかし、そんな彼の喜びとは打って変わって、次に聞こえたのは叱責だった。
「お前は何を考えているんだッ!」
思わず顔を上げる。
怒っているリルと凛とした表情のスカーレットが映った。
まるで竜と虎のよう、視線のぶつかり合いに火花が散るかのように彼らは睨み合っていた。
「お前は領主なんだッ! その自覚を持てと言っているだろう!」
「そうよ! 私は領主よ! だからこうしてこの子のことを守ろうとしたんじゃない!」
「それがおかしいと言っているのだ! 聞けばコイツらは強盗に失敗したことによる突発的な犯行らしいじゃないか! そこで何故、自ら捕まりに行く!?」
「違う! 私はこの子と代わろうとしたの! そしたら騙されちゃって」
「馬鹿正直に応じる奴があるか!」
「うぅ……タツミ君は止めなかったもん!」
まさかの飛び火に、しかしタツミは冷静に答える。
「止めましたよ。リル様来るまで待ちましょうって言いました」
「あれ…? あはは……そうだっけ…?」
表情が凍る。彼女は毎秒表情が変わるのだろうか。見ていて面白い。
「スカーレットォオオ!」
リルの最大の怒号が噴火した。大説教間違いなしとスカーレットは頭を抱えた。
しかし、ピタリと時間が止まる。
その場の者は皆、小さな彼に釘付けとなっていた。
「リル様…お姉ちゃんを…責めないで…下さい。ヒック…僕が…お姉ちゃんに絵を見せたいって、グスッ…それを覚えててくれてて…多分それで僕を庇おうとしたんです! だから、ヒッ…お姉ちゃんを、責めないでくださいぃい。うわぁあああああん!」
彼の小さな手には一枚の紙が握り締められていた。
タツミは思い出す。彼がスカーレットと仲の良かった子供だということを。あの時、彼女は身を挺してまで彼を庇おうとしたのだ。
スカーレットは彼を抱いた。優しく、しかし強く抱きしめた。彼女の腕の中で大声を上げて泣きじゃくっていた。リルは子供の涙には弱いようだ。行き場の失った叱責は消えていた。
彼女は体から彼を離すと、手で涙を拭う。細い指が涙で濡れる。優しい声で続けた。
「ねぇ、君の描いた絵を見せてよ」
「え? で、でも……」
「私にくれるんでしょ? リルもいるんだし丁度いいよ」
「あ」
彼女の手が彼の手へと伸びる。恐怖、緊張、責任。そういったもので強く握り締められていた手は解かれる。くしゃくしゃとなった紙を優しく広げていく。シワをひとつひとつ丁寧に伸ばし、その全容を目にする。タツミとリルも覗き込むように絵を見た。
真ん中にいるのはスカーレットだ。赤い髪と赤い瞳をしていたのですぐに分かる。右側に黒い狼。リルだ。左側には弓を持った金髪の男がいた。恐らくもう一人の領主補佐フェアラートだ。
その絵はまさしく『子供の絵』という感じだ。絵画のような芸術性はないし、水彩画のような鮮やかさも模写のような精密さもない。しかし、心が温まるような絵であることは間違いないらしく、二人は笑顔だった。
「これは俺か?」
「え、あ、はい……」
「かっこよく描いてくれたな。嬉しいぞ。ありがとう」
「えっと…リル様は…かっこいいので……」
「ふふふ、そうか。じゃあこのかっこいい俺を心がけて、毎日生活するとしよう」
リルは優しく撫でた。毛むくじゃらでゴツゴツとして、鋭い爪のある手。しかし、それはとても優しかった。子供は恥ずかしそうに手を胸の前で弄っていた。
スカーレットはリルが感想を言った後もジッと絵を見つめていた。
「お姉ちゃん…?」
不安になったのか声をかける。もしかしたら失礼なことを描いてしまったのではないか。やはり自分が原因で危険な目にあったのではないかと思ってしまった。
しかし、彼女の表情は彼の想像していたものとは違った。
「すごい……すごいよ! すっごく上手よ!」
「うぇあ!?」
手を強く握った。あまりに急なことだったので子供は驚いてしまっている。
「こんなに嬉しい絵は初めてよ! 一生懸命描いてくれたのが分かるわ!」
「うん! 僕一生懸命描いたよ!」
「本っ当にありがとう! 嬉しすぎてまだ心臓がバクバクいっているよ。リル! この絵を額縁に入れて私の部屋に飾りましょう!」
「いや、それよりも玄関の方がいいんじゃないか?」
「そうね! 色んな人に見せられるもの!」
「え、え、そんな、恥ずかしいですよぉ」
笑い声が空へ舞った。子供は泣いていたことすら忘れていたかのように笑顔だった。その光景に、タツミも表情が緩む。これが領主スカーレットの力なのだ。これこそが領の象徴たる人間の力なのだ。
「あらあら、丁度解決したって場面かしら」
後方からアリアが小走りでやって来た。彼女もまた、馬車を追いかけていたのだった。タツミは彼女のことを忘れていたことに苦笑いを浮かべた。
「アリアー! 見て! この絵素敵でしょう!?」
「まぁ、素敵な領主様を描いていただいたのですね。大切にしないといけませんね!」
「うん!」
ふとタツミの方を向いた。庇う左腕を見て、心配そうな表情を浮かべる。
「タツミ君、その腕どうしたの?」
「あー、ちょっと馬に轢かれちゃって。クソ痛いです」
「言葉遣い! ……って今はいっか。すぐにお医者様に見てもらいましょう!」
不意に音がした。強く何かを蹴る音。軽い音。
その音の方を向くと、三人組の一人がスカーレットへ飛びかかっていた。ナイフを持って大きく振りかぶっていた。リーダーの男だった。
「リル様!」
「ハッ!」
すぐさま地面を蹴り、サマーソルトキックの体勢へ。
その瞬間、青い光が景色の端で光ったと思うと一閃。リルの足の毛を削りながら、青い光は男の腕を貫いた。
「ぐあああ!」
そのまま車へと突き刺さる。それは矢だった。矢は男の腕を車に固定してしまった。もはや反撃は不可能だった。
何が起こったのか分からないのはタツミだけらしい。他の面々は安心したように笑っていた。
それは彼も例外ではなかった。リルは自身の焦げた足に息を吹きかけながら、笑みとも怒りとも取れる表情で言う。
「奴め……!」
馬の蹄の音が近づいてくる。
一頭を先頭に後方に数頭の陣形を組んでいる。後方の馬には赤い制服を着た憲兵隊が、そして、戦闘にいるのはリルと同じ赤いジャケットを纏う金髪の男だった。手には弓を携えている。
「あーあ、狼狩りには失敗か」
彼らはすぐにスカーレットたちの元へとやって来る。土煙を上げ、馬は前身を大きく振り上げた。甲高い鳴き声が響いた。見事に馬を乗りこなしているのは金髪の男。黒い帽子を深く被っていた。
彼が馬を降りると同時にスカーレットの声が飛んだ。
「フェア!」
その声に爽やかな笑顔を見せた。
彼が『赤ずきん』を支えるもう一人の領主補佐。規律を重んじる者。《狩人》フェアラートである。
彼はスカーレットの前に跪くと彼女の手を取った。
「危機一髪でしたねスカーレット」
「ありがと! お帰り!」
「ただいまです」
彼は立ち上がるとリルの方を向いた。そして、わざとらしい表情と口調で続ける。
「はぁ……全く何をしているのだか。領主がこのような危険に晒されるなど言語道断ですよ! あーあ、やはり犬っころでは領主補佐は務まらないかー」
「ぬっ、何だと!?」
リルが言葉を投げ返す。しかし、彼は元とよりキャッチボールをする気などないらしい。
「やはり私一人でいいのではないですかー? ペット枠として置いておくのもありですかもねー」
「おい、聞いておけば。俺一人でも対処できた」
「私は優秀ですからねー。優秀な私は今回の調査で有力な情報を手に入れましたよスカーレット」
「有力な情報?」
「おいヒョロヒョロ。その情報というのは──」
「あぁ! すぐにでも報告したいのですが、少々ごたついたようで。まずは屋敷に戻りましょう」
「なぁ、情報っていうのは──」
「さぁ! 戻りましょう!」
「無視するなああ!」
その後、三人組はフェアラートの連れていた憲兵隊によってその場で逮捕されていた。最後にスカーレットを襲撃しようとしたのは混乱していたからだそうだ。
こうして、スカーレット誘拐未遂事件は幕を閉じたのだった。
しかし、ここから物語は大きく動き始めるだろう。それは次回のお楽しみ。