間話『誰も知らないあの日の話』
夢を見ていた気分だった。ハッとする。気がつけば森の中を走っていた。いや、元々走っていた気もする。暑い夏の日差しが照りつける。新緑に芽吹く森の木々が鮮やかに目に写った。妙に現実味のない感覚に違和感を覚える。
──オレは、何をしていた?
「今日こそ勝ーつッ!」
その声に引っ張られる。同時に先程までの違和感は消えていた。
彼を追い越していく二つの影に、明るい声で返す。
「このオレが負けっかよッ!」
猿のような身のこなしでスピードを上げていく。前に走る二人は大地を蹴り、より正確な道、より走りやすい道を選択し走る。一方、彼はそのような正攻法は取らない。誰もこのレースのルートなど決めていないのだから。片足で踏み切り、大きくジャンプすると木の枝を掴む。そして、体全体のバネを使い、更に前へと進む。
「なッ!」
「おっせーよバーカ!」
まるで猿のような身のこなしだ。立体的な動きで他二人を圧倒していく。何せ、障害物など彼にとっては無意味なのだから。一人はもう諦めてジョギング程のスピードに落ち着いていた。もう一人は負けじと頭を振り、更に足を回転させていた。
「もう追いつけないぞ」
「うるせえええええええ! 負けるかよぉおおおおお! オダマキィイイイ」
──オダマキ。十三歳の出来事である。
勢いよく森から飛び出した。見事な一回転で着地すると、後続の二人を腰に手を当て待ち構えた。遅れて二人が到着する。オダマキは大声で笑う。
「ハッハッハッハ! 今日もオレが一番だぜ!」
「クソッ、今日は勝てると思ったんだよなぁ」
「ナグサ君には一生無理なんじゃないですかぁ?」
小さな背で高い声を張る彼はナグサという。
ナグサは負けず嫌いだ。そして、頭に血が上りやすい性格だった。何度もオダマキやもう一人に勝負を仕掛けては負け、こうして顔を真っ赤にして怒る。オダマキらが彼を必要以上に煽るのも悪いのだが。
「なんだとッ!」
「オレには何しても勝てましぇ〜ん」
舌を出しながら手を振る。余計にナグサの顔が赤くなった。
「オダマキ、その辺にしといてやれよ。ナグサは馬鹿なんだ。馬鹿だから仕方ないんだ」
「おいコラ、シラー! オメェもさりげなく俺を馬鹿にしやがってんなコラァ!」
ほくそ笑みながら腕を組んでいる彼はシラという。
ナグサの渾身のパンチがシラへと飛ぶ。彼は余裕を持ってそれをいなす。シラは村の自警団へ訓練生として所属していた。日頃から訓練をしている彼と日頃から遊び呆けているナグサとでは実力の差は明らかだった。
自身の攻撃が効かないことに、余計ナグサは怒った。暴れる彼をオダマキが抑える。オダマキは大柄だった。一方でナグサは小柄だった。大柄なオダマキと小柄なナグサとでは力の差は明らかだった。
それでもナグサは単純なので暴れ続ける。オダマキとシラは面白くなって煽り続ける。しかし、ナグサの裏拳や蹴りが彼らに当たる。
「痛っ、何しやがんだ」
オダマキはナグサへ殴りかかる。しかし、彼は俊敏な動きができるのでしゃがみ込んでかわす。拳は全く油断しているシラへと届いてしまった。
「ぐええ」
見事にクリーンヒットしたシラは後方へと転がった。
オダマキは目をパチパチとさせながら手を合わせた。
「あ、悪い」
「やってくれるね……」
ゆらりと起き上がりながら不気味な笑みを浮かべていた。手の骨をパキパキと鳴らし、拳を握った。しかし、彼の様子とは対照的にナグサ。
「うははははははは! ぐええって、ぐええって! あははははははは!」
こうしていつも喧嘩は混沌を極め、結局三人での殴り合いとなる。三人ともが他の二人を打ち負かしてやろうという剣幕で拳を握っている。かと言って、険悪なものではなく、表情も柔らかく楽しんでいるかのような笑顔を見せていた。
「皆んなー、ご飯持ってきたよー!」
「あー! また喧嘩してる!」
そして、彼女らがやってくる。これも日常だった。彼女らの姿が見えると三人はピタリと動きを止めた。絶妙なバランスでそれぞれがそれぞれを殴ろうとしている姿勢で見事に。
バスケットを手に持っているのはリンという。小鴨のように彼女の後についているのはアリという。二人は姉妹であり、彼女らもまた三人の親友だった。
アリはリンの妹というよりも、四人の妹のような存在だった。四人から愛されているのと同様に彼女にはどうも甘やかしたい気持ちからか頭が上がらなかった。
「もう喧嘩しちゃダメって言ってるでしょー!」
腰に手を当て、頬を膨らませる彼女の言葉に三人はすぐさま正座に直る。オダマキ、ナグサ、シラ、リンは十三歳。アリは八歳だった。どうも彼女の言葉や仕草は全て可愛らしく見えてしまうのだ。
「ごめんなアリ。この馬鹿二人が始めたもんで、俺が止めようとしたんだ」
一番に言葉を発したのはシラだった。しかし、見事なまでに白を切った彼に他二人は猛反撃する。
「おいシラァ! オメーなに堂々と嘘ついてんだボケェ!」
「そうだぞ! 元はと言えばお前から仕掛けてきた喧嘩じゃねえか!」
「は? 元はオダマキだが?」
「『だが?』とか言うな、腹立つな」
「腹立たないんだが? 俺は間違ってないんだが?」
「よぉしオダマキ、こいつぶっ飛ばすぞ」
「乗ったぜナグサァ!」
正座でジッとしているのは一瞬だった。アリの魔法も彼らの前では無力らしい。オダマキとナグサは片膝を立て、肩を回している。シラはというと、何食わぬ顔でやはり煽るような笑みを浮かべていた。目の前で喧嘩が勃発しようとしている状況に、アリは慌てていた。
「はいはーい、そこまでね」
彼らを仲裁できるのは、やはりリンただ一人のようだ。彼らの茶番の間にシートを広げ、昼食の準備をしていた。中心に置かれたバスケットの中には美味しそうなサンドイッチがたくさん入っている。もはやこうなって仕舞えば四人は犬と同然だった。
「はい、座って。はいお手拭き。手拭いてね、汚いから」
「そんな汚いなんて言わないでよぉん」
「オダマキは特に変なもの触るでしょ。この間もかっこいい木の枝見つけたって言って本当は細長いうんちだったじゃん」
「きったねえなお前。オダマキのキは汚いのキなのか」
「頼むからくたばってくれ。ってか木の枝に似てるうんこって何」
つまらなそうな顔をしてオダマキは座った。続いて他の者も腰を下ろした。彼らの中にルールなど存在しなかった。座った瞬間、目の前のサンドイッチを食う者は早い者勝ちとなるのだ。
一番に手を出したのはオダマキだ。凄まじい勢いで彼の手がバスケットへと伸ばされる。さも獣が獲物を前に飛びつくかのように。
「たまごサンド頂きィイイ」
「やらねえよバーカ!」
しかし、彼の先を行くスピードで次々にサンドイッチは奪われた。ナグサの取り皿には既に五つものサンドイッチが置かれていた。更に、両手にたまごサンドを持っている。勝ち誇った表情を浮かべていた。余裕綽々とサンドイッチを口へと運ぶ。くちゃくちゃと汚い音を鳴らしながらオダマキを眺めていた。
「いやぁ美味い。美味いよぉオダマキくぅん」
そんな彼の背後から手が伸びている。そのことに気がついたオダマキはニヤニヤとし、笑いを堪えていた。
「な、何笑ってんだ!」
「いやぁ、さすがナグサさんですわ。どうかあっしに一つ分けてもらえやせんかね?」
「おぉおぉ、苦しゅうないわい。いいだろう、雑魚の貴様にサンドイッチを…ってあるぇえ!?」
「バーカ」
サンドイッチを乗せた皿を手に、アリがシラの元へと小走りしていた。アリはやたらシラへと懐いている。差し詰め、彼女へナグサのサンドイッチを取ってくるようにお願いしたのだろう。
彼は膝にアリを乗せ、サンドイッチを頬張った。
「何でもかんでも取ろうとするからそうなるんだよ馬鹿ども。はいアリ」
「ありがと!」
二人して同じような顔をして頬をいっぱいにしていた。
「だああああああああ! テンメェ! こうなったらお前よりいっぱい食ってやる」
「俺は別に大食いしたい訳じゃない。こうして自分の食べたいものをアリと一緒に食べるだけだ。なー?」
「なー?」
彼の言葉を復唱する。
「あ、でもナグサ君は自分の食べたいものも食べられないのかぁ。かわいそぉ」
「かわいそぉ」
似たような表情をしてナグサを煽った。アリは今ひとつ意味が分かっていないだろう。この言葉を言うとどうなるのかを察せる程の年齢ではない。しかし、ナグサは顔を真っ赤にして怒った。やはり彼は怒りやすい。
「ぬがあああ! 俺が食いたいものは全部だッ! リンッ! 全部よこせッ!」
「はぁ!? 全部食べられたら俺たちの食べる分がなくなるんだけど」
「知るか! 俺が食いたいものを食うんだよ!」
そんな彼らの言い争いを笑いながらリンは眺めていた。そんな彼女の横顔をオダマキはジッと見つめていた。そのことに気がついた彼女は彼の方を向き、一瞬笑顔を綻ばせた。
「……私、ちょっと席外すね」
「ん? ほこひふんは?(どこ行くんだ?)」
口をいっぱいにしたナグサが問う。
「ちょっとしたとこっ」
小走りで彼女は行ってしまった。頭にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げるナグサ。ゴクリと飲み込み、問う。
「なんだぁ? どこ行ってんだ?」
「はぁ。だからお前は馬鹿なんだよ。女の子がどこに行くか言いにくい場所なんか、トイレに決まっているだろう」
「ほぇえ、そんくらい言えばいいのに。うんこかな?」
「お前本当に馬鹿だな。喉を詰まらせて死んでくれ」
彼らの会話を聞きながら、今度はオダマキが立ち上がった。
「俺もトイレ行ってくるわ!」
「うんこ?」
「それはそれはどデカいのを一発ぶっ放してくるわ!」
大笑いしながら彼も同じ方向へ走って行った。彼を見送り、残された三人はサンドイッチを食べ続ける。無言でただひたすらにサンドイッチを頬張り続ける。ナグサがぽつりと呟いた。
「なんで二人でトイレ行ってんの」
「「さぁ」」
──オダマキは森の中へと入った。キョロキョロと辺りを見渡す。
「わっ!」
木の影からリンが飛び出てきた。大して驚きはしなかった。リンは少し気に食わなそうな顔をして口を尖らせた。
「びっくりしないんだ」
「ん、あぁ、小さすぎてびっくりしなかったわ!」
「またそうやって自分が大きいこと自慢してー、おのれ成長期の暴力ぅ」
オダマキの腹を軽い力で殴るが、段々と力がなくなってくる。最後には力なく、彼の体へと顔を埋めた。大きくため息をついた。彼女からは笑みがなかった。
「……リン。また、やられたのか……?」
「うん……最近は首都の方まで出向くことが多くて、それでストレス溜まってるのかな」
「見せろ」
返事はしない。後ろを向いた。黙って上着を脱ぎ、シャツを胸の下までたくし上げた。彼女の背中にはムカデが伝っているかのようなアザがあった。所々腫れており、傷になっている場所もあった。オダマキは恐る恐る彼女の傷に触れる。魚のように震えた。
「悪い、痛かったか?」
「ううん。少しびっくりして」
「本当に痛くないのか?」
「押さえたりしたら痛いけど、普通にしてる分には気にならないよ」
彼女の言葉には元気がなかった。悲しそうな声だった。彼女の様子にオダマキは心が締め付けられる思いになった。思わず口元が歪んだ。大きく息を吸い込み、溢れそうになる言葉を飲み込んだ。いくらここでオダマキが怒っても意味がないし、彼女を悲しませるだけだと分かっていたからだ。
「……その、なんだ……ほら」
言葉が詰まっている。狼狽えている彼の様子に、彼女はクスリと笑った。
「優しんだね。ありがとう」
「そんなんじゃねーよ」
彼女はオダマキの体へと体重を預けた。すかさず受け止める。オダマキは初な男である。このような場合にどういった行動をし、どのような言葉を投げかければいいのかをしらない。十三歳の田舎男子には仕方のないことかもしれないが。
オダマキは心の中で助けを叫んでいた。シラならばもう少し上手くするかもしれないとも思った。
「もう少し、このままでいい?」
穏やかな声で言う。もちろん断れる訳などない。そのままの体勢で座った。オダマキは木を背もたれに、リンはオダマキを背もたれにした。目の前には小さな彼女の頭がある。途端に彼女のことが小さく、守るべき存在だと気づいたのかもしれない。まるで宝石のように大切にしなければならない存在だと。
「なぁ……もし、その、耐え切れないくらいすっげー辛いこととかあったらオレに言え。オレがなんとかしてやる」
「ふふふ、やっぱり優しいじゃん。こうやってオダマキと話してる時が一番心が晴れるよ。アリと一緒だったら、どうもあの子を構っちゃうからねぇ」
「可愛いから仕方ねえよ」
「ねね、私は可愛い?」
振り向き様に上目遣いの彼女にオダマキは目を逸らした。口籠る。
「お、おう……まぁ、か、可愛いんじゃねえの」
「あ、照れてる〜。可愛いとこあるじゃん。見た目はゴリラだけど」
「誰がゴリラだ」
「猿の方がよかった?」
他愛もない会話を続けていた。しかし、何を話しているのかが分からない。正確には確かに話しているのだが、自分が何を言っているのか、何を言われているのかを理解できないのだ。段々と意識が朦朧としてくる。この感覚は睡魔だった。
恐ろしい睡魔に襲われ、オダマキは眠りに落ちた──
◆◆◆
──「おい! 起きろよ!」
ナグサの声に目を覚まず。目を開くと彼の顔が目の前にあった。オダマキ、ナグサ、シラは三人で川の字になって寝転がっていた。村の奥にある小高い丘の斜面だ。何とも見通しの悪い空だった。
果たして何をしていたか。そうだ。三人で将来のことについて話していたのだ。
──オダマキ。十七歳の出来事である。
ナグサは呆れた表情をして、再び腕を組んで寝転がった。
「何で大事な話してる時に寝るんだよ!」
「大事な話っていってもただの愚痴だけどな」
オダマキは村長の息子、ナグサは農家の息子、シラも農家の息子だが自警団に所属している。十七にもなると、それぞれ自身の仕事を見つけなければならない年齢だ。いつまでも子供のままではいられない。
「俺はもちろん農家を継ぐんだけどよ。最近父ちゃんがさ、いい加減農業の一つでも覚えろって言ってくるんだよ」
「事実だろ。お前何もできないじゃん。昔植えた野菜全部枯らしたの誰だっけ」
「うぐっ、そうなんだよ。俺農業の才能ないんだよなぁ。お前はいいよなぁ自警団、かっこいいよなぁ」
「そうでもないさ。一晩起きてなきゃいけない時もあるし、最近じゃこうして休みを取るのも難しいんだ。村を守らないといけないからな。お前らは知らないかもしれないけど、村の周りには獰猛な獣がいるし、野盗なんかも近くまで寄ってくるんだぞ。日頃から鍛錬が欠かせないんだ」
「ほえぇ。意外と大変なんだな。オダマキはどうなんだよ。次期村長さんよぉ」
ナグサの言葉にオダマキは答えなかった。
この頃、オダマキは毎日考えていた。本当に自分に村長としての資格があるのか。皆を守れるだけの力があるのか。オダマキの父は偉大な人間だった。傾いた村の財政状態を農耕により立て直し、外壁を作ることで獣から村を守った。自ら率先して行動する彼の姿に多くの人が心を動かされていた。確かに、世界に名を轟かせるような人ではない。田舎の小さな村の村長に過ぎないが、それでもオダマキの中ではいつだってヒーローだった。
その背中を追いかけていた。しかし、自分が村長となるということは、つまり背中を追い越すということだった。その責任、自覚を中々負えずにいた。
「オレは……どうなんだろうな。村長になれんのかな」
「んげぇ!? お前がそんな弱音吐くなんて気色悪いッ!」
自分でも思う。弱音を吐くなどらしくない、と。いつも明るく笑い飛ばし、大声を張る。そんな日頃の姿に対し今の姿は非常に滑稽に映る。
「……そうだな! 確かにオレらしくないぜ! やってやるよ、オレが村長になってやるッ!」
オダマキは立ち上がり、声高らかに宣言した。続けてナグサ。
「お、いつもの馬鹿に戻った。んじゃ俺も、村一番の野菜を作ってやるッ!」
「俺は、まぁ、ぼちぼちやっていければいい。あ、死にませんようにッ!」
「決意表明で願望かよッ! 卑屈なことをそんな一生懸命言うなッ!」
三人で笑った。段々と小さくなっていき、笑い声は止んだ。ここ数年で笑い声の続く長さが短くなっている気がする。再び腰を下ろし寝転がった。沈黙の時間が流れる。空は雲で覆われている。目を凝らすと、煙のような雲がゆっくりと動いているのが分かる。このような沈黙も多くなった。
「……あーあ、大人になりたくねぇ!」
ナグサの言葉にオダマキとシラは力が抜けた。全くその通りだと思ったからだ。
「それにしても、最近リンとアリ付き合い悪いよな。忙しいのかな」
「さぁ。全員がお前みたいに身の上を離す訳じゃないからなぁ。お父さんも帰ってきたようだし」
「でも親友としては気になる訳よ」
リンとアリの母親は彼女らが小さい時に亡くなった。病死だ。それからは父が男手一つで二人を育ててきた。彼女らに貧しい思いをさせないように必死に働いていた。その甲斐あって、領の地方守護兵に選ばれることができた。首都外部の小さな村で自警団と共に村を守護する仕事だ。ラーイ村からすれば、一流の職だった。月に一回、首都へと報告に向かわなければならず、日頃も村の警備をしなければならない過酷な職だったが、お陰で娘二人は比較的裕福な暮らしができていた。
しかし、オダマキは知っていた。彼の頭にリンの傷が蘇る。複雑な感情になった。
「かっけえなあオッサン。俺も志願しようかな」
「オメー、一番喧嘩弱えだろ」
「それでいて喧嘩っ早い。弱いくせにすぐ噛み付くやつは落ちるね」
「なんだとッ!」
「「ほらぁ」」
「……」
「……」
「……」
「……帰るか」
二人と別れた。ナグサは丘の上にある自宅へ戻る。シラは自警団の仕事があるので村の外へと出て行った。二人を見送ると、妙な胸騒ぎがした。風が強くなった。生暖かい風だった。原因が分からないのでとりあえず家に戻ることにした。道すがら、アリの後ろ姿が見えた。
「お、いるじゃん」
久しぶりに会った気がしたので声をかけようと追いかけた。すぐに追いつきそうだ。顔が見えるくらいまで近くなったので声をかけた。隣にはもう一人いた。リンだろう。
「おーい! アリ、リン!」
彼女らは驚いた表情で振り返った。笑わなかった。
「お、オダマキ兄……どうしたの?」
答えたのはアリだった。リンは一言も喋らない。ひたすら下を向いている姿を疑問に思った。胸騒ぎが激しくなった。
「ん、いや、最近オメーらを見ねえって話をアイツらとしたからよ」
「あ、あぁ、そういうこと。うん、ちょっと二人して体調を崩しててね。だから外に出れなかったのよ」
「そうだったのか! お大事にな!」
「ありがとうね」
なおリンは答えなかった。オダマキはリンの顔を覗き込んだ。
「リンも、な?」
「…ッ! ……うん」
「それじゃ私たちは帰るね!」
妙に釈然としない会話に首を捻った。体調を崩していたらしいので、久しぶりに会ったから気まずいのだろうか。そのようなことは今更になってありえないか。もしかしたらまだ調子が悪いのかもしれない。無理矢理そう結論づけて、オダマキは家へと向かった。
丁度、村の門より勤務終わりの自警団が帰ってきた。シラの担当は次の時間ということだろう。自警団の中にはリンたちの父もいた。オダマキは目を細めた。会話が聞こえた。
「さすがですよザクロさん。いやぁ、ザクロさんがいれば百人力だなぁ」
名前はザクロというらしい。初めて知った。
ザクロは渋い笑顔で答える。
「いやいや、そんなことないですよ。私は私にできることをやっているだけです。丁度、ストレスを残さない習慣も見つけたもので」
何気ない言葉。自警団は笑い合っている会話。しかし、オダマキはそこに違和感を感じずにはいられなかった。胸騒ぎが大きくなる。全身が「急げ」と叫んでいる。どこに行けばいいのか分からない。しかし、気が付けば足が動いていた。
辿り着いた家のドアを叩く。
「おいッ! 早くしろッ!」
「何!? ってオダマキ兄!?」
リンたちの家だ。アリはオダマキの顔を守るや否や、ドアを閉めようとした。しかし、オダマキはすぐさま腕を挟み閉めさせない。それでもアリは力一杯ドアを引っ張る。
「おい! リンはどこだ」
「お姉ちゃんいない! さっき出かけたッ! 帰ってよッ!」
「嘘つけッ! もういい、どけろッ!」
「いや! 帰ってッ! 帰ってッ!」
「怪我するぞ、どけろッ!」
「帰ってってば!」
「クソッ、悪い。オォラァアアア!」
オダマキの体は成長期により更に強く、大きくなっていた。更に、彼の趣味は森を駆け巡ることだった。自然なトレーニングにより鍛えられた彼の腕力は、いとも簡単にドアを破壊した。ドアと共に吹き飛ばされるアリ。構わずオダマキは家の中へと入って行った。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
アリが彼の腰へ掴みかかった。しかし、止まらない。
「帰ってよ! 何で入ってくるの!」
「うるせー! リンはどこだ!」
オダマキは燃え上がる不安と怒りに支配されていた。アリはオダマキの前へと移動して彼を押し返す。華奢な彼女がオダマキを止めることなど、できるはずもない。そして、逆に彼女の行動はとある部屋からオダマキを遠ざけようとしているのだと分かった。そこにリン入る。
アリを退け、ドアノブへと手をかけた。
「何で……何でこんなことするの!」
アリの怒号がオダマキの耳へ突き刺さった。目を瞑る。どうやら彼女らはオダマキをお呼びでないらしい。しかし、彼の答えは決まっていた。アリがどれだけ引き止めようと止まらない理由があった。
「約束したからだ」
ドアを開く。人の姿はない。しかし、ベッドには妙な膨らみがあった。それが布団を被ってうずくまっているリンであることはすぐに分かった。
「リン……何があった」
震えていた。小刻みに震える彼女は泣いていた。
彼女の涙は、オダマキの視界を余計に狭くした。
布団を掴み、後方へ投げ捨てた。猫のように丸まるリンの姿があった。かつての明るい雰囲気は見る影もなかった。彼女は恐怖していた。オダマキが彼女の肩へ触れると、余計に小さくなった。
「何があった……」
リンはもちろん、アリも答えなかった。
「リン。約束したはずだ。辛いことがあったらオレに言えって。オレはオメーを守るって約束したッ!」
「……」
「リン。オレがついてる。オレがオメーを絶対に守ってやる」
「……」
恐ろしい沈黙の時間が流れた。冷ややかな時間。首を絞められるような感覚だった。呼吸が通らない。唾が口の中に溜まっていく。
オダマキは考えいた。どうすれば彼女を救えるのか。
オダマキは単純な男だった。元凶を殴れば気が済むのだろうか。
オダマキは優しい男だった。それで気が済むのはオダマキだけだ。
「オダマキ……」
リンが口を開いた。起き上がる。
徐にズボンを脱いだ。服のボタンを外していき、胸部のみが見えない状態でオダマキの前に立って見せた。
「私……って…綺麗……?」
大粒の涙を浮かべていた。体のアザは増えていた。見るに耐えない程の青アザだった。しかし、オダマキは目にしてしまった。彼女の体中に刻まれた歯形と桜の花のような赤いアザ。
「おぉおい、何でドア壊れてんのぉ」
あの渋い声が玄関から聞こえた。アリが目を剥いた。リンが両耳を塞いだ。彼女の呼吸が荒くなる。
──オダマキは、やはり単純な男だった。
その時、オダマキの最後の糸が切れた。気が付けば、彼女らの父ザクロに馬乗りになっていた。殴った。殴った。ひたすら殴った。怒りのままに身をまかせ殴った。拳が真っ赤になった。それでも殴った。
◆◆◆
ザクロは村を追放された。オダマキの父は決して彼を許さなかった。彼は何度も何度も頭を下げた。それでも村長は意見を曲げることはなかった。
ストレス発散のために日頃からリンを殴っていた。ある日、ザクロが手を出したのはアリだった。彼女は母親似だった。リンは彼女を庇って、純血をザクロのために散らした。残酷かつ身勝手な行為として領にまで報告された彼は職をも失った。
オダマキはそれで全ては上手くいくと思っていた。いつもの日常に戻れると。皆んな大人になってしまったけれど、それを除けば、と。
──しかし、現実は時に残酷だった。
ザクロの功績は想像よりも大きかった。彼がいることで対処できていた野党や猛獣は手に負えなくなってきた。村には盗人が出没するようになった。何人かは捕らえたが、ほんの一部だった。
猛獣が壁を攻撃し始めた。木製の壁はやがて壊された。作物が荒らされ始めた。
段々と村を出ていく者が増えて行った。
オダマキの父親は心労が重なり死んだ。オダマキが村長を継いだ。しかし、村の経営は絶望的だった。減少の一途を辿る人口を戻すには、余りにも人と時間が足りなさすぎた。
ほんの数年で村の様子は大きく変わった。
村人の数が大きく減った。ラーイ村を出て、他の村や町、首都へ出て行った。
オダマキは農業により一層力を入れた。農作物を育てるしか道が残されていなかった。余裕もなかった。しかし、野菜を作れば獣に食われてしまう。まるで獣の家畜となっていた。
オダマキは負けなかった。村長として奮闘した。彼が挫けそうになる度に親友四人が支えた。絶望的な状況で、五人の絆だけがオダマキの支えだった。
──しかし、突然にそれも終わりを告げる。
シラが死んだ。
自警団は村を襲撃した山の主から村を守ろうと迎え撃った。その中にはシラもいた。オダマキも村を守れるように訓練をしていたので、その場にいた。目の前にいながらシラを救えなかった。大猪の突進はシラを始め、何人もを吹き飛ばした。幸か不幸か、突進の勢いは弱まり、何とかオダマキが食い止めることができた。
村の防衛もできない。そんな話は村人の中で広まった。更に人は消えた。
その中にはアリもいた。突然に姿を消したのだ。
ナグサが廃人となった。
それはある日のことだった。シラが死に、アリが消えてから仲間が恋しくなったオダマキはナグサへと会いに行った。農業ができなかった彼も、今では村の農業の中心だった。
オダマキが目にした彼は、切り株に座りながらブツブツと何かを呟いていた。一眼で異常だと分かった。彼は妄想の世界へと閉じこもってしまった。今思えば、彼は五人の友情を一番大切にしていた。同時に楽しかった少年時代をいつまでも懐かしがっていた。今とのギャップが彼を廃人にしてしまったのだ。
オダマキは泣いた。自身の不甲斐なさに、もう戻れないあの頃の記憶に。
「オレは……どうすればいいんだ……!」
日に日に悩みが大きくなっていく。じわじわと自分で首を絞めているようだった。同時に仲間の首も締めている気分がして不快だった。いつしかオダマキは家の外に出なくなった。
「オダマキ」
リン。オレはどうすればいいのかな。
何もわかんなくなっちまったよ。
「オダマキ……私とナグサを売りなさい。首都に行けばそういう商売をしている人もいる」
何言ってんだ! そんなことできる訳ねえだろ……
「できるできないじゃないのッ! やるしかないのッ!」
それなら……それならオメーらが犠牲にならなくてもッ!
そうだ、オレが。オレが行く。だからッ!
「あなたがこの村を守るの。あなたにしかこの村を守れないの。
私達の思い出がたくさん詰まったこの村を守って。私の大好きなこの村を。
そして、あなたの手で私とナグサを殺してよ」
二人を馬車に乗せ、商人に売った時のことをよく覚えている。
それからその商人と懇意にし、裏のルートを教えてもらった。気が付けば旅人を捕まえては売るという人食い村が完成していた。一方で、オダマキは逸れ者を拾ってきては世話をし、村に歓迎していた。
◆◆◆
気が付けば、真っ暗闇の世界で一人座っていた。
体が勝手に小刻みに震える。
──これで合っていたのか? オレのした行動はあっていたのか?
──こんなことを毎日考えるようになっちまった。
──オレは何のためにこんなことをしている。何のために殺している?
『村を守るためじゃないか』
その時、声が聞こえた。懐かしい声に思わず振り返る。
真っ白な光に包まれながら立っている彼の姿。誰か分からない。しかし、姿を見ようとした途端にハッキリと認識できた。シラだった。
「シ……シラ? なんで、オメー……死んだんじゃ……」
『おいおい、酷いな。勝手に死んだことにしないでくれよ』
いつも通りの飄々としたシラの声だった。
オダマキは安心した。そうだ。全ては夢だったのだ。悪い長い夢を見ていたのだ。
そのような希望は一瞬にして打ち砕かれた。
『お前が見殺しにしたんだ』
「え…?」
『お前は俺たちの誰よりも強かった。体格にも恵まれていた。村長になってからは自分で皆んなを守るってトレーニングも始めた。俺より遥かに強かった筈なのに、何であの時俺を助けなかった』
「違う!」
『あぁ、そうだろう。お前は助けられなかった。所詮その程度の男だったんだ』
「待て! 違うんだ! 俺は、お前を!」
追いかける。手を伸ばす。しかし、シラの姿は遠のいて行き、消えた。
オダマキは腕をついた。汗が止まらなかった。心臓の鼓動が激しい。肋骨が折れそうだった。
『立ちなよ、らしくない』
再び後ろから声が聞こえる。
振り向いた。
アリがいた。
「ア、アリ……」
『そんなクヨクヨするような人じゃないでしょ、オダマキ兄は!』
「え、あ、あぁ」
『そう、オダマキ兄は人のことを考えるような人じゃない』
冷たい視線がオダマキの体を撃ち抜いた。喉が凍った。
『ねぇ。お父さんを告発したこと、後悔してない?』
「そりゃ…そう……」
『ほら、ね。私達があの後、どんな扱いを受けてたか知ってる? 知らないか、村長さんは大変だったよね。お姉ちゃんはあの事件が露わになったことで村の人たちから腫れ物扱いされるようになってた。誰と話しても気を遣われるようで、窮屈だったわ。それから村が荒れるようになって、私達のせいにされた」
「そんな!」
『知らなかったのね。『お前たちのせいだ』『我慢しろよ』『村のために体を張れよ』そんな言葉がお姉ちゃんに何回も何回も何回も何回もッ!」
「そんな…つもり……は……」
『えぇ、なかったわよね。オダマキ兄は自分の気が済めばそれでよかったからね』
追いかける。手を伸ばす。叫ぶ。しかし、アリの姿は遠のいて行き、消えた。
混乱していた。何故仲間が現れるのか。そのようなことよりも彼らが発する言葉に心がざわめいた。同時に恐怖した。二人続けてそうなのだ。きっと、これからも。
『おう! オダマキ!』
ひどく怯えた。
後退りしながら振り向いた。
ナグサが笑顔で立っていた。
『どうしちまったんだ? 随分とオッサンになってんなぁ!』
「ナグサ……」
『いいなぁ、俺も歳取りたかったぜ』
笑顔のその言葉に全身の血が抜ける気だった。
『お前…俺が邪魔だったんだろ?』
「いや、違う!」
『俺はいつだってお前やシラの下だった。喧嘩だって勝ったことがなかった。お前くらい才能に恵まれてないし、シラほど賢くもない。かと言って努力もできないからなぁ。最後だって、昔の夢の世界に入り込んじまったよ……でもなぁ…お前、俺の意見も聞かずに売るっつうのは酷えんじゃねえか』
「でもお前は……」
『そうだ。廃人になっちまったよ。じゃあ、それなら何してもいいのかよッ! 俺たちは親友じゃなかったのかよッ!』
「親友だッ! それはいつだって変わらねえッ!」
『ま、いいけどよ。最初っから俺はお前に劣等感、お前は俺に優越感を感じてたんだ。最初っから友情はなかったんだ』
追いかける。手を伸ばす。叫ぶ。しかし、ナグサの姿は遠のいて行き、消えた。
そんなことはないと思いたかった。しかし、三人の言葉のどこかには納得してしまう自分もいることに気がついていた。それが最も不快だった。
ドクンと心臓が脈打った。残るは一人。彼女にだけは何も言われたくない。そう思っていたのに。彼女の気配が背後にあった。ただ無言で背後に立っていた。いつまで経っても話しかけてこない。もしかしたら今までの三人とは違うのではないか、そのような希望が湧いた。すぐさま後ろを振り向いた。
「リン──」
『何で』
オダマキの言葉は遮られた。リンは冷たい表情で立っていた。
『何で私を止めてくれなかったの』
言葉が出なかった。喉元をナイフで突き刺されたような気分だった。
『何で私を売ったの』
ダメだダメだと思いながらも、その言葉が気付けば口を突いていた。
「それは、お前はそうしろって言ったから……」
『……私のせいにするんだね。あなたはいつもそう。私を助けることを理由に、ただ自分が気に入らないからってお父さんを村から追い出して。私は皆んなのためならあれくらい我慢できたのに』
「そんな……ッ!」
『あなたには引き止めて欲しかった。一緒に村を立て直そうって言って欲しかった。それなのにあなたは私とナグサを売ったッ! 自分の仲間を切り捨てて、自分が生き残る道を選んだッ!』
「違う違う違う! 違うんだ!」
『嘘つき』
冷たく溢された言葉。
オダマキは膝から崩れ落ちた。
もう何も考えたくなかった。この何もない空間で滅びてしまいたいと思った。そうすれば四人の元へ行ける。いや、シラ以外は死んでいるかどうか分からないが。また、一種の贖罪だと思った。
しかし、彼らはそれを許さなかった。
気が付けば、四方向を囲われていた。囲うように彼らは立っていた。
──嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき
ッ!? やめろ! やめてくれ!
──嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき
オレは嘘なんかついてない!
──嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき
なんなんだ! じゃあオレはどうすればよかったんだ!
──嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき
何でだよ、オレたち仲間じゃないか! 何で…何でこんな……
──許さない、許さない、許さない、許さない
オレはただ、オメーらと一緒に過ごしたかった! それなのに村はどんどん崩壊していくし、そんな、オレが全部悪いってのかよォォ!
──許さない、許さない、許さない、許さない
オレだって必死だったんだ、オレだって必死にやってたんだよッ! 何で……何で…おい!
──許さない、許さない、許さない、許さない
オレは……もう…すみません、すみません、すみませんすみませんすみませんすみません……許してください……
──許さない、許さない、許さない、許さない
もう……許してください……
──許さない、許さない、許さない、許さない