page 4『やりたいことをやる』
突如として倒れた三人を怪我人の四人が介抱する。頭から血を流していた。
オダマキはオトギリと共に構えている。ほんの走って十歩ほどの距離に立つ彼に最大限の警戒心を持ちながら構えている。一方で、彼は余裕のある表情を浮かべている。構えることなく、ポケットに手を入れている。彼の傍にはスズラが倒れている。怯えたような表情で涙と涎を垂らしながら白目を剥いていた。
「何かがおかしい……絶対に何かがおかしいッ!」
オダマキの大声が闇夜を裂いた。
彼の能力について、全く予想が立たない。本来であるならばキャラクタ能力者というのはバランスが取れている筈なのだ。
強力な能力であればある程、リスクは大きくなる。しかし、少し体力を使うだけで大きなリスクがある様子はない。多岐に渡る強力な能力を使用できるならば、同様に世界中にそのことが知られている筈なのだ。例えば、和族の『竹取物語』の領主は凄まじい力でいくつもの能力を使うと言う。そのため、和族最強とも謳われている。しかし、目の前にいる彼の話は何一つ聞いたことがない。
「オメーは、いったい何者何だッ!?」
初歩的すぎる問いに、彼はただ静かに答えた。
「それを知ってどうなるの」
やはり答える気はないようだ。
その瞬間、キラリと月光を反射して剣筋が走った。
オトギリは駆け出してた。スズラが倒された。弓部隊も倒された。他の四人も怪我を負っている。これ以上の詮索は無意味。今すぐに斬り落とさなければならない。全身がそう叫んでいた。
彼の横方向から斜め下へ剣を振り下ろす。
「死ねぇえええ!」
自身の声が激しく体の中で反射した。
エコーがかかったようにいつまでも響き続ける。
段々、声がぼんやりとして来た。周囲の音も消えていく。
瞳孔が開いた。瞳が震えた。体から汗が噴き出た。心臓が、返って動きを小さくしていく。
世界がスローモーションになり、視認する全ての情報を飲み込んだ。
──狼牙は、動かなかった。避ける素振りも防御する素振りも見せなかった。
隙だらけだ。むしろ隙でしかない。普段ならば勝利を確信していただろう。しかし、できない。
視界が狭くなっていく。彼の姿しか見えないほどに狭くなる。恐怖した。無音の世界に存在する目の前の青年が恐ろしく映っている。
「『オオカミの狩場』」
狼牙の小さな声は、唸りのような声は、オトギリの世界を崩壊させた。
その瞬間、狼牙の背後から紫色のオオカミが現れる。刃が狼牙の体を両断しようとした瞬間、オオカミがオトギリへと襲いかかった。
「ぐああああ! な、何だ急に!」
「オトギリィ!」
オダマキの叫びなど無力だった。オオカミの鋭い牙がオトギリの腹を裂いた。
「ぬぁあああああああああ!」
悲痛な叫びが響き渡る。無力な腕を伸ばすオダマキはその場へ膝から崩れ落ちた。両手が震えた。仲間を守ることができなかったことに激しく震えた。両手をさすり、必死に震えを抑えようとする。それでも止まらないので、ひたすら地面を殴った。
「クソッ! クソクソクソクソッ!」
彼の全ては崩壊しかけていた。もはや領に人身売買が告発されることなどどうでもいい。今はただ、『ボン』を殺し、仲間の仇を討つことだけが彼の生きる使命となった。
オダマキは地面を蹴った。一瞬にして狼牙の目の前へと移動すると、オトギリの剣を手に取り斬りかかった。やはり攻撃は当たらない。恐らく『透過』の能力で狼牙はその場を動かない。それでもオダマキは斬り続けた。いずれ能力の効果が切れる瞬間がやってくる筈だからだ。
「ラァ! このッ! クソッ! オラァ!」
斬る、斬る、斬る。
いつまで経っても肉体を斬ることはなかった。
しかし、その違和感に気づくだけの冷静さは既に捨てていた。
我武者羅に斬り続けていた。どれだけ斬ったか分からないが、目の前で表情一つ変えずに立っている姿を見ると余計に腹が立つ。怒りは力となり、更に攻撃を加速させた。その時、オダマキの足に強い感覚が走る。咄嗟に剣を止めて、そちらを向いた。オトギリが震えながら足を握っていた。
「オトギリッ!」
体を起こす。ぐったりと力がなかった。
彼は震える声で言う。
「オ……ダマキ、何か…が、違う……! ただの、オオカミじゃ…ない……これも能力…だ……」
「何言ってんだオメー! さっき食われて……あれ?」
オトギリの体には傷一つなかった。しかし、確かに彼は弱っている。ダメージを受けているのだ。
「逃げろ…! お前にできることは……それだけ…だ。俺たちは……知らなすぎた……」
気を失ったようだ。苦悶の表情を浮かべている。オダマキは彼を寝かせると、すぐさまスズラの方へと寄る。彼らの断末魔はよく似ていた。スズラも同様に体に傷一つなかった。そして、悪夢でも見ているような表情を浮かべ、うなされていた。
「もういい」
『ボン』の声がした。すぐさま構える。しかし、視線の先にいる筈の彼は先程から何一つ動いていなかった。
「全部おしまい。お前の負け」
口が動いていなかった。そして、声の向きも違った。声が聞こえるのは、オダマキの視線の先からではなく馬車の方からだった。馬車の方へ走ると弓部隊三人と怪我人四人がぐったりと地面に倒れていた。そして、荷台には月を背に立つ青年が一人。
「ボォンンン……」
狼牙は縛られているダリアとロベリアの縄を解く。解き終え荷台を降りる。続けて彼女らも降りた。とっくに目覚めていたようで、オダマキたち村人へと軽蔑の目を向ける。目隠しをされていたが、会話を全て聞いていたようだ。
彼女らは自由になると、数度い目をオダマキへと向けた。
「こんなことして、アンタら全員最ッ低よッ!」
「信じてたのに……私たちを助けてくれた皆んなのこと、信じてたのにッ!」
怒声がオダマキへと飛ぶ。オダマキは目を見開くと、不気味に喉を鳴らすように笑った。剣が彼の手から滑り落ち、無機質な音が鳴った。
「もうダメだ……全部おしまいだ。やってくれたなオメー、ボン。オメー、名前はなんて言うんだ。それくらい教えてくれてもいいだろう」
「……」
「ハッ、そうかよ。オメーのせいで全部ダメになっちまった。何でこんなことするんだよォ」
かつての優しい声色に戻った。一言一言を丁寧に読み上げるように語る。一方でダリアは言葉を荒げた。
「何でこんなことする、ですって!? それは私たちのセリフよッ! 私たちを騙して売ろうとするだなんて! どうしてそんな酷いことができるの!」
「うるせー、オメーに言ってねえッ!」
「なっ……くっ…」
ビクリと肩を震えわせると言葉を引っ込めてしまった。一瞬見せたオダマキの表情は鬼だった。人間が追い詰められ、追い詰められ、更に追い詰められた先に見せる境地だった。その表情に狼牙は静かに目を細めた。再び穏やかな表情となり、オダマキ。
「なぁ、教えてくれよ。何でこんなことするんだ?」
「……一番に出る言葉がそれか?」
「あぁ。オメーからはオレと似たような何かを感じる。そんなオメーなら分かってくれるんじゃねえか? 自分を危険に晒してまで女二人を助けたオメーならよォ。オレだってこうするしかなかったんだよ」
膝をつき、両手を狼牙たちの方へ向けた。泣きそうな表情だった。
「見て分かるだろ? この村はもう死んでやがる。でもよォォ。オレはこの村を死なせる訳にゃいかねんだ。オレの友達が愛したこの村を捨てる訳にはいかねんだよう。オレたちゃ全員はみ出しモンだから、ここを捨てたらどこに行けばいいってんだ。生きるために必死だったんだ。そうさ、仲間を助けるために仕方なくこの仕事を続けてたんだよォォ、分かってくれよォォ」
涙を流し、嗚咽混じりに語ったオダマキ。しかし、彼の支離滅裂な言葉は返ってダリアとロベリアを不快にさせた。彼女らは顔を歪ませ、より一層の軽蔑の意を示していた。
「分かってくれるだろ、ボン。仲間のために体を張るのは辛いよなァ。でも、それをやらなくちゃならないんだ。オレはオメーら三人のことを家族のように思ってたんだぜェ。だから、家族のために静かにしてくれよォォ!」
道場に余地すらもないと言ったように、ダリアが前に出て言葉を飛ばす。
「分からないわね! 家族なら余計にこんなことするなんて許せないわ! ボン。私たちも協力するわ。説得力ないかもしれないけど、少しは戦えるんだから」
「うん。もう私許せないかも……」
ロベリアも前に出て、ぽつりと言う。静かに彼女も怒っていた。
「何だよ、オレの味方はいねーのかよ! ……んじゃいいや。オメーら、死ねよ」
表情が一変した。顔面の上から黒いインクでも垂らしたかのように、トーンが暗くなった。いつもニコニコとしてた目はもはや見る影もない。半月型の口元、下の歯が剥き出しになるほど力が抜けている。もう表情を作る必要すらないのだ。全ての力を殺気へと向けていた。
ダリアは倒れている村人からナイフを奪うとクルリと回して構えた。ロベリアも同様に村人から剣を奪い構えている。
「はぁ……」
冷ややかに、そして失望するようなため息がやけにハッキリと聞こえた。故に一瞬だけ、三人の殺気や怒り、警戒が消えた。
時間が止まったかのようだった。フィルム越しに景色を見ているようだった。
──オオカミ少年は希望を見た。
生まれる世界が違ったのだと思った。希望に満ちた世界で生きることができると思った。
狼牙はダリアとロベリアの肩に手を置き、突き飛ばした。不意の衝撃に抵抗することもできず、二人は前方へとバランスを崩し倒れる。オダマキの前だったが、それよりも突然の狼牙の行動に困惑せずにはいられないようだった。彼女らが何か言っているが、狼牙の耳には届かない。
──オオカミ少年は気づいてしまった。
世界が変わったのだとしても、本質は何一つ変わっていないのだと。希望を盲信していたのだと。自分を見失っていたのだと。希望など、初めからなかったのだと。
オダマキの前に立つ。オダマキは警戒を忘れていた。狼牙の表情、動き、呼吸があまりにも普通だったためだ。故に狼牙の動きを察知するのが遅れてしまう。突然振りかぶった足は、オダマキの膝を打った。横方向から逃げることのない衝撃を受け、彼の膝は痺れながら力を失った。
──オオカミ少年は笑う。
今、この瞬間ハッキリとした事実を前に笑うことしかできなかった。
あぁ、分かったよ。お前がそうしろというのならそうしよう。
あぁ、分かったよ。お前たちがそうするというのなら従おう。
あぁ、分かったよ。お前たちがそう望むのなら俺は叶えよう。
その代わり、俺は俺の好きなようにさせてもらうぞ。
「ボン……? 何を…?」
「どうしちゃったの?」
「イッテェ……何しやがんだテメー」
「何しやがんだはお前だろッ!」
荒げた声に動きを止められた。狼牙が声を荒げた所を目の当たりにしたからだ。ボンとしてではなく狼牙として。爽やかな好青年など嘘だったかのように、そこにあったのはナイフのように鋭い目をした悪魔だった。
「俺はな、誰がどこで何をしようがどうでもいいんだ。俺が直接被害を受ける訳じゃねえし、それが悪いことなら非難を受けるのはそいつだからだ」
「んじゃあ、何で今俺のやってることに手ェ出してんだ? お前が被害者だからか?」
「それもある。ただな、お前は勘違いしているぞ。俺は命を張って人を助けたり、身を切って人のために行動できるほど、できた人間じゃねえんだよ。俺はただ、俺の思うがままに行動するッ!」
狼牙は怒っていた。これまで分からなかった彼の感情が今、剥き出しになっている。ポーカーフェイスは崩れ、怒りの炎だけが彼の体から燃え上がっていた。そのギャップに呆気に取られる。
オダマキの胸元を掴み、言葉を続ける。
「俺の思うがままの行動、それはな……嘘つきを許さねえことだ。俺は嘘つきが嫌いだ。
自分にために平気で他者を傷つける嘘つきが嫌いだ。
キャラだとか言って見栄を張って、無理をし続ける嘘つきが嫌いだ。
他者に話を合わせ、思ってもないことを垂れ続ける嘘つきが嫌いだ。
他者を貶めるために平気で嘘をつき、さも関係ないように振る舞っている嘘つきが嫌いだ。
考えることを放棄して、勝手に自他のポジションを決めつけて、馬鹿みたいに踊り続ける嘘つきが大ッ嫌いだッ!」
オダマキを振り回し投げ捨てる。後方へ態勢を崩し、尻餅をついた。狼牙は彼を見下ろすと、今度はダリアへと詰め寄った。
「ダリアッ! お前は常に相手に気を使って、決して自分の本性を見せようとしない。皆んなの姉御ポジションを続けて気持ちよかったか? 皆んなから頼られるのは気分がいいよな」
「なっ、そんなことないわよ!」
「勝てもしないくせにロベリアを庇ったな。負けるのが分かってるのに。一緒に戦う? 説得力ないけど? その通りだよ。説得力ないんだよ。現にお前をボコボコにした奴らを俺は一人で圧倒してる。お前が出た所で足手纏いなんだよッ! 今だってそうだ。オダマキはずっと俺に話しかけてんのに、出しゃばって横からやいやいやいやい、うるせえよ。結局、守りたいのは周りじゃなくて、周りを守る自分のキャラだろ」
「それは……ッ」
ダリアは口籠ってしまった。彼女は言葉を続けられなかった。
彼女がロベリアを守ろうとしたのも事実。狼牙の力になろうとしたのも事実だ。しかし、前提として彼女が気づかない保守がある。無意識に彼女は自分の立ち位置を保とうとしているのだ。仮面に支配され、踊りを間違えないように。
狼牙はロベリアへと向いた。彼女は恐れていた。それは、狼牙に対してではない。彼が次に言う言葉に対してだった。
「ロベリアッ! って、多分もう分かってんだろうな。あぁ、そうだよ。お前はクズだよなぁ。何せ、自分を守ってくれたダリアを捨てて逃げようとしたんだからよ」
「それ…は……」
「確かにな。逃げても仕方ねえよ。俺だってそうした。俺だって逃げちまった。でも、それを反省し受け止めるのとなかったことにするのは違うだろ! 俺が縄を解いた途端に二人とも何事もなかったかのようにオダマキたちを責め立てやがる。お前はッ! どういう目的であれ、身を挺して守ろうとしてくれたダリアを見捨てようとしたんだ。お前が大事なのは自分だけなんだ。自分さえ良ければ他者はどうなってもいいんだ」
ロベリアは泣き出した。ボロボロと大粒の涙を溢した。やはり彼女も反論できなかった。記憶の底にグッと押し込めていた事実を掘り起こされた。追い詰められた彼女はダリアを見捨てて逃げようとした。何度も何度も心の中で「仕方ない」と唱え続けていた。
ロベリアから離れる。
「ま、二人に悪気はなかったと思う。自分のキャラの意地なんか誰だってやるしあんな状況だったら自分を最優先してもおかしくねえ。
でもな、俺が気に食わないのは、二人がそれを認めてないってことだッ! 認めろッ! 自分が考えもなく仮面に支配され、世界という舞踏会で馬鹿みたいに踊っていることを受け入れろよッ! 何でそこで自分に嘘をつくんだよッ!」
閑散とした村に、狼牙の声が轟いた。その場で意識を保っている者。オダマキ、ダリア、ロベリアは震えた。全身が彼の声に共鳴するように激しく震えていた。
残念ながら、この場に彼の言葉を完璧に理解する者はいない。しかし、彼らは狼牙という存在がどこか異質であること、彼の背後には何か大きなものがあることを察した。
「……オダマキ。お前が一番気に食わねえッ!」
空気に電気を流しているようだ。彼の怒りが空気を伝って感じられる。それ程までに、何故彼は怒るのだろう。狼牙の言葉を受け止めきれなかった彼らはそのようなことを気にし始めていた。
そう、本当に残念だ。彼の言葉を理解することができていればこれ以上争うことはないだろうに。人は『自分』という範囲を抜けた瞬間、途端に理解を拒むものなのだ。
狼牙はオダマキを睨んだ。それに応えるように彼は言葉を続けた。
言葉は、文字は、震えていた。
「オメーの話はよく分からねえ。オレは、自分のことをクズだと思ってるし、間違ったことをしている自覚もある。でも、この世界には分かっていてもやめられねえこともあるだろ。全部が全部、白黒つけられる訳じゃねんだ。黒だと分かっていても、それをやらなくちゃ生きていけないことだってあるんだ。それをお前が嫌いだっていうなら、お前のいう『嘘つき』なんだとしたら、オレはさぞクズなんだろうな」
片足を抑えながら立ち上がった。走ることはしばらくできないだろう。痛みに顔を歪めていた。落ちている剣を拾い上げ、切先を狼牙へと向けた。彼が目を逸らすことはなかった。
「オレたちを嘘つき呼ばわりするならよ。オメーはどうなるんだ?」
何と素朴な質問だろう。
何と至極当然な言葉だろう。
オダマキを、村人を、ダリアたちを『ボン』という好青年の人格で騙し続けていた狼牙もまた、嘘つきであるはずだ、と。
しかし、首を振る。
あぁ、確かに辰巳狼牙は嘘つきである。
嘘つきにしては純粋で、嘘つきにしては真っ直ぐで、嘘つきにしては嘘つきを嫌う。そんな彼を世界は嘘つきと認めてくれるだろうか。
狼牙は後ろへ下がり、満を辞して答えた。
「俺は……世界に嘘をつく。紛れもない『嘘つき』だよ」
彼の周囲から、紫色の霧が現れた。そこから現れたのは無数の狼牙だった。再び現れる分身にオダマキは困惑する。しかし、もう彼を止めるブレーキはない。今ここに現れた狼牙を全て斬り、本体を斬る。この無茶な作戦を実行しようとする程に。
「『嘘騙り』」
分身の狼牙が一つに練り上げられていく。この世のものとは思えないおぞましい姿に怯んだ。それの横に平然とした顔で立っている狼牙。
『嘘騙り』
『オオカミ少年』の能力。
それは、幻を見せる力。狼牙の周囲にいる対象に対し、幻を見せることができる。ただし、発動には条件がある。
それは、対象が狼牙を信用していることだ。どのような形でもいいので、狼牙のことを信用していればしている程、効力は増す。
また、見せることができる幻は対象の心理状態に依存する。対象が恐れているものはより恐ろしい形で現れる。狼牙がある程度、幻の設定や操作はできるが、あまりにもそれが大きすぎるとそちらに流される危険がある。
オダマキは狼牙を『敵』と信じている。このような屁理屈染みたことでも発動できる。これまでオダマキを始めとした全員が混乱していた狼牙の能力は、ほとんどこれに尽きるのだ。
始まりはオダマキの家。
机の下から姿を現したのは、幻の狼牙。あの時から既にオダマキは狼牙に恐怖を感じていた。だからこそ、超人的な動きで攻撃を避けることができたのだ。警戒していたのも起因する。こうして安全に家を出て広場へと向かうことができた。
続いて、集合の笛を鳴らした時。狼牙は物陰に隠れていた。彼らの仲間が帰ってくる前に、仲間の幻を作り出し混乱させた。それにより、その場にいる者の焦りや警戒心、恐怖が余計に強くなり、『嘘騙り』の効力を加速させた。
それからは想像通りだ。強い警戒心を利用した狼牙の幻で能力のブラフを立て、混乱させる。その間に馬車の近くへと近寄った。スズラが攻撃した時、もう一つ能力『オオカミの狩場』を使用し、彼を戦闘不能にする。オトギリの時は、さも幻が能力を使ったかのように見せかけて、本体の行動をしやすいようにする。
幻が銃の真似をするのに合わせて弓部隊へと大きめの石を投げつける。まさかこれで気絶する訳がないので、再び『オオカミの狩場』で気絶させる。怪我人たちも同様だ。そして、背後に現れたように登場する。
これらが狼牙の敷いた演出のネタバラシだ。
こうしてたった一人で人身売買の村を壊滅状態へと追い込む青年が誕生したのだ。
「な、なんじゃこりゃ……」
目の前に現れた巨大な化け物に声を漏らした。
しかし、オダマキの思考はクリアだった。
思い出す。分身の狼牙が直接攻撃したことはあったかどうか。いや、全くない。しかも、今彼が行っているのは分身などではない。あまりに能力が自由すぎる。それらを一つずつとして数えるのではなく、全てが一つなのならば……
ニヤリと笑った。
「オメーの能力、分かった気がしたぜ」
「じゃあかかってこいよ」
片足がまともに使えない。オダマキはもう片方の足で地面を蹴った。速いが万全状態よりは圧倒的に遅い。振るわれる剣に合わせて化け物に攻撃を命じた。ぶくぶくと何かが泡吹いている拳に似たものだ。
しかし、オダマキは避けようとしない。狼牙は舌を打った。
「オラァ!」
「くっ」
狼牙は鼻先から血を垂らしながら後ろへ転げた。
「やっぱりだッ! 分身や変身なんかじゃねえッ! 幻だったとはなッ!」
「バレたなら使えないな。じゃあ、もう終わろう」
静かに、息を吐くように。
「『オオカミの狩場』」
彼の腰から二本の靄が延びた。妖しく揺らめく靄は、やがて紫色のオオカミへと姿を変えた。狼牙を守るようにオダマキを睨んでいた。
「またブラフか! 関係ねえなッ!」
再び片足で距離を詰めた。大きく剣が振り上げられる。狼牙は座ったまま、後退りするも間に合わないだろう。汗が垂れた。オダマキは確信した。狼牙は焦っている、と。彼は今の幻で再びオダマキを混乱させた時に、不意打ちをする予定だったのだと。
しかし、彼の声色は動揺していなかった。
「喰えッ!」
彼の声と共に一頭がオダマキへと襲いかかる。腕を止めることはない。何せ幻なのだから。幻の構い、腕を止めることこそ負け筋だ。オダマキはそう確信していた。
オオカミの爪がオダマキの体へと突き刺さる。瞬間、激痛が走った。
「ヌァアアアアアアア!」
予想だにしていない痛みに、思わず剣を振り投げてしまう。オオカミを引き剥がそうとするが、触れない。実体がないのだ。幻であるはずなのに。それなのにも関わらず、オオカミが大きく口を開き喉元へ牙を立てると、激しい痛みが全身に走った。
「い、痛ェエエエエエエエエエエエエ! 何しやがったッ!」
「オオカミの牙は、心を喰らうぞ」
もう一頭のオオカミもオダマキへと背後から飛びかかった。爪が突き刺さる。再び激しい痛みが全身を駆け巡った。
「グアァアアアアアアア」
膝をついた。腕を地面についた。一歩も前に動くことなどできない状態だった。何も考えることができない。考えるよりも先に痛みが脳内を埋め尽くすのだ。体がどんどんと重くなる。オオカミの牙が、爪が体に食い込む。
ダリアとロベリアは、オダマキの叫び声に恐怖した。先程の狼牙の言葉に精神が揺らいでいる状態に、悲痛な叫びを聞いたのだ。無理もない。すると、ふとあることが気になった。それはオダマキが怪我一つしていないことだった。血の一滴も流していないのだ。
「ヌゥウウウウウウ……フスッー…フスッー……」
呼吸が荒くなり始めた。もはや意識を保つことすら危ういだろう。白目を剥き、涎を垂らし、膝立ちの状態で両腕はだらりと垂れ下がっている。
このような状態になれば戦闘不能。安心しても大丈夫だろう。狼牙は少し距離を取って、立ち上がった。
「ヌガァアアアアアア!」
「なっ!?」
その瞬間、オダマキが大声を上げて立ち上がった。足をズルズルと引きずりながら狼牙の方へ歩き出す。彼の敵を排除するという気持ち、村を守るという気持ちはそれ程までに強かった。何が彼をここまでさせるのかは分からない。分かるのは、このままだと狼牙は殴り殺されてしまうということだった。
すぐさま走って逃げようとした。しかし、オダマキの腕がそれを許さない。狼牙の腕を掴んだ。凄まじい握力で骨が軋む。抜け出すことは不可能だ。
「クッ、離せッ! 離せよ、クソ!」
狼牙の声は届かない。届かなくしたのは狼牙なのだが。狼牙を地面に押し付ける。腹を蹴るが、そんな彼の抵抗も関係なく、オダマキは大きく腕を振りかぶった。前後にオオカミをぶら下げながら、白目を剥き、正気を失ってもなお拳を打ち出した。
狼牙の頬を掠め、地面を砕いた。正気を失い、正確性を失っていたのが幸運だったがいつまでもそうとは限らない。下手な鉄砲数打ちゃ当たるとも言うように、いずれ拳は狼牙の顔面を潰すだろう。
「オオカミッ! もっと強く噛めッ! いや、噛み砕けッ!」
オオカミの顎の力が強くなる。オダマキはビクッと体を震わせた。しかし、再び腕を振り上げた。
狼牙の全身から汗が噴き出た。詰みを明確に感じた。
「ウガアアアアアアア」
「ッ!」
オダマキの拳が振り下ろされる。
目を見開いた。息が止まる。
「……ッハァ、ハァ、ハァ」
しかし、オダマキの拳が命中することはなかった。
オダマキの拳は、狼牙の鼻先で止まっていた。
彼は今になって、やっと完全に気を失ったのだ。本能だけで動いていた彼が、やっと行動を停止したのだった。
呼吸を整えられない。息が上がる。上手く空気を吸い込めず、苦しい。腕が震えていた。張り詰めていた緊張が一気に解けた気分だ。
「これも……使いよう、か」
オダマキの体を横に倒す。服の汚れを払いながら立ち上がった。身体中に傷ができている。大半が森を走っていた時にできたものだ。気絶しているオダマキを見下ろし、狼牙は呟いた。
「お前たちが最初の絶望でよかった。俺はもう…希望を持たなくて済む」
キラリと光に目が眩む。
朝日だ。もう朝を迎えていた。白い朝日が村を照らしていた。
長い長い夜が終わった。清々しい表情の狼牙の横で、オダマキはうなされていた。
『オオカミの狩場』
『オオカミ少年』の能力。
二頭の実態を持たないオオカミを出現させる能力。オオカミは物理的な攻撃、接触を行うことはできない。代わりに彼らの爪や牙は人の精神へと干渉できる。つまり、相手の精神へと直接ダメージを与えることができる。
そして、長時間オオカミの牙や爪に干渉され続けると、精神の傷口から負の感情が流れ込み、対象にとってのトラウマの幻を見せる。
──まぁ、オオカミが多少脚色しているが。