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BLACK〜オオカミ少年の嘘と真実の物語〜  作者: 勝友 幸
第一章『始まりの嘘と真紅の少女』
4/17

page 2『オオカミ少年が来たぞ』

 夜風が冷たい。からからと草木の囁きが、夜の静寂に目立つ。夜空には絵に描いたような星がキラキラと輝いている。空中に浮かぶ文字のような光もぼんやりと灯っていた。


 ラーイ村の広場では、十人余りの人が倒れるように眠っている。唸りのようないびきをかく者、猫のように丸まって眠る者。宴会に用意された料理は残ることなく、皿と器は全くの空だった。


「ん、寒……」


 ぶるりと体を震わせながら、狼牙は目を覚ました。ストリエスに四季があるかは定かではないが、少なくとも日中は春のように過ごしやすい気温だった。しかし、やはり夜になると冷え込むものだ。

 再び眠りにつこうとするも、寒さや中途半端なタイミングで目覚めたことで、目が冴えてしまい眠れなかった。立ち上がり、せめてダリアたちが宿泊している旅人用の小屋のベッドが使用できないか、ととぼとぼと歩いて行った。


 ドアノブを捻る。ベッドはなかった。小さなテーブルと椅子、古い棚があるだけだった。ロベリアが昼寝をしていたことからてっきりベッドがあるものだと思っていたが、無造作に放られている寝袋から思い込みだと分かる。旅人は寝袋を持ち運ぶものなのだろう。


「まぁ、外で寝るよりはマシか」


 呟く。小屋の中に入り、壁を背もたれに目を瞑った。隙間風が寒い。


『……………か?』


 外から声が聞こえた。

 大方、宴会に参加していない組が目覚めたのだろう。

 眠れず、また、とても静かなので、少し耳を傾けてみる。


『……な。完全に……だ』

『あ……それ………』


 少しずつ近づいてくる声。歩いていることが分かる。

 しかし、違和感を感じ始める。

 やがてハッキリと聞こえるくらいにまで近づいた。小屋の横を通る一瞬の会話。


『バカだよな。何も知らずに騒ぎやがって』

『おい、あんまりうるさくするんじゃねえよ』

『悪い。女二人かなり高くつくぜ』

『あぁ。上流階級のオヤジどもも飽きねえな』


 女二人がダリアとロベリアのことを示していることはすぐに分かった。


『あのガキはどうだ?』

『顔も悪くねえし動けない訳でもなさそうだ。どこにでも手はあるさ』

『キモババアの所でもいいってことか。俺だったら嫌だね』


 そして、ガキというのは狼牙──いや、ボンのことを言っているのだということも。


『あ、ちょっとトイレ行っとこ』

『俺も』


 逆の方向へと向かう足音を聞き届けた瞬間、ドクンと心臓が脈打った。

 鳴り止むことがない。ピーターパンを前にした時に似ている。これは恐怖、緊張、焦燥。身体中の筋肉が縮こまっている気分だった。


 今の会話が夢などではなく、ハッキリとした現実だとして。

 会話の節々にあるキーワードから予測すると、一つの言葉が頭に大きく浮かんだ。

 そう言ったものには全く縁がない生活をしてきた狼牙にとっては、まるでフィクションの言葉。


「人身売買……」


 こうして口に出すことで、受け入れ難い現実を咀嚼し飲み込む。浮遊する心を落ち着かせ、激しく脈動する心臓を縛る。回転の悪い脳みそを無理矢理にでも回転させ必死に考える。


 次に狼牙が取るべき行動は何だ。

 敵は恐らく広場へと向かった。広場には酔い潰れ、眠っている者しかいない。

 助けを呼ぶ方が先決か、あるいは広場の者を逃がす方が得策か。


「くっ、あー、どうすればいいんだ……頭が回らねぇ……」


 酒のせいか、頭が上手く回らない。何度も思考しては、それは違うと思い、それならばと考えても先程ダメだったアイデアという堂々巡りを繰り返す。恐らく、こういった思考の間にも何かを見落としたり間違ったりしているのだろうが分からない。

 分からないと言えば、狼牙は他の村人がどこで休んでいるのか分からない。村の家々を巡っている間に敵が広場に向かうなんてことも十分ありえる。


 非常に初歩的なことだった。これすら気づけなくなるとは、恐るべし酒と緊張。

 答えは初めから、広場に向かうの一択だった。


 音を立てないようにドアを開け、物陰に隠れながら広場を目指す。遠回りだろうが見つからないためには必要だ。広場の近くにある倉庫まで辿り着いた。倉庫の裏口から中へ入り、息を潜める。木製の壁には所々穴が空いている。その穴から外の様子を伺う。


 皆が眠っている。このことを一番に知らせるべきはオダマキだ。あるいはオトギリ。彼らがこの村の中心人物だろう。どちらも穴の画角にはいない。


「な、誰!?」

「キャッ!」


 ダリアとロベリアだった。遅かったのだ。既に敵はこの広場へとやって来ていた。

 二人の声だけが聞こえる。様子が全く見えない。丁度穴から見えない角度だ。

 すると、視界の端から二人が現れた。勢いよく転がり、小さな呻き声が漏れる。


「誰! あなたたち、何が目的!」


 ダリアの鋭い眼光が敵へと向いた。敵対心が剥き出しになっているが、同時に恐怖している。彼女の先には大柄な男が二人。仮面で顔を隠していた。ロベリアは腰を抜かし、ダリアの後ろで座り込んでいる。

 彼女を守らなくてはならない。ダリアの胸にはこの使命にも似た思いが大きく警笛を鳴らしている。


 ダリアの声に男たちが答えることはない。警戒することなく、堂々とダリアへと近づいて彼女の腹へと拳を打ち込む。


「グハッ! カッ……! げほげほっ、い、いた……」

「ダリア!」


 ダリアは片膝をついて涎を垂らす。先程までの料理や酒がべちゃべちゃとと草木の囁きが、夜の静寂に目立つ。夜空には絵に描いたような星がキラキラと輝いている。空中に浮かぶ文字のような光もぼんやりと灯っていた。


 ラーイ村の広場では、十人余りの人が倒れるように眠っている。唸りのようないびきをかく者、猫のように丸まって眠る者。宴会に用意された料理は残ることなく、皿と器は全くの空だった。


「ん、寒……」


 ぶるりと体を震わせながら、狼牙は目を覚ました。ストリエスに四季があるかは定かではないが、少なくとも日中は春のように過ごしやすい気温だった。しかし、やはり夜になると冷え込むものだ。

 再び眠りにつこうとするも、寒さや中途半端なタイミングで目覚めたことで、目が冴えてしまい眠れなかった。立ち上がり、せめてダリアたちが宿泊している旅人用の小屋のベッドが使用できないか、ととぼとぼと歩いて行った。


 ドアノブを捻る。ベッドはなかった。小さなテーブルと椅子、古い棚があるだけだった。ロベリアが昼寝をしていたことからてっきりベッドがあるものだと思っていたが、無造作に放られている寝袋から思い込みだと分かる。旅人は寝袋を持ち運ぶものなのだろう。


「まぁ、外で寝るよりはマシか」


 呟く。小屋の中に入り、壁を背もたれに目を瞑った。隙間風が寒い。


『……………か?』


 外から声が聞こえた。

 大方、宴会に参加していない組が目覚めたのだろう。

 眠れず、また、とても静かなので、少し耳を傾けてみる。


『……な。完全に……だ』

『あ……それ………』


 少しずつ近づいてくる声。歩いていることが分かる。

 しかし、違和感を感じ始める。

 やがてハッキリと聞こえるくらいにまで近づいた。小屋の横を通る一瞬の会話。


『バカだよな。何も知らずに騒ぎやがって』

『おい、あんまりうるさくするんじゃねえよ』

『悪い。女二人かなり高くつくぜ』

『あぁ。上流階級のオヤジどもも飽きねえな』


 女二人がダリアとロベリアのことを示していることはすぐに分かった。


『あのガキはどうだ?』

『顔も悪くねえし動けない訳でもなさそうだ。どこにでも手はあるさ』

『キモババアの所でもいいってことか。俺だったら嫌だね』


 そして、ガキというのは狼牙──いや、ボンのことを言っているのだということも。


『あ、ちょっとトイレ行っとこ』

『俺も』


 逆の方向へと向かう足音を聞き届けた瞬間、ドクンと心臓が脈打った。

 鳴り止むことがない。ピーターパンを前にした時に似ている。これは恐怖、緊張、焦燥。身体中の筋肉が縮こまっている気分だった。


 今の会話が夢などではなく、ハッキリとした現実だとして。

 会話の節々にあるキーワードから予測すると、一つの言葉が頭に大きく浮かんだ。

 そう言ったものには全く縁がない生活をしてきた狼牙にとっては、まるでフィクションの言葉。


「人身売買……」


 こうして口に出すことで、受け入れ難い現実を咀嚼し飲み込む。浮遊する心を落ち着かせ、激しく脈動する心臓を縛る。回転の悪い脳みそを無理矢理にでも回転させ必死に考える。


 次に狼牙が取るべき行動は何だ。

 敵は恐らく広場へと向かった。広場には酔い潰れ、眠っている者しかいない。

 助けを呼ぶ方が先決か、あるいは広場の者を逃がす方が得策か。


「くっ、あー、どうすればいいんだ……頭が回らねぇ……」


 酒のせいか、頭が上手く回らない。何度も思考しては、それは違うと思い、それならばと考えても先程ダメだったアイデアという堂々巡りを繰り返す。恐らく、こういった思考の間にも何かを見落としたり間違ったりしているのだろうが分からない。

 分からないと言えば、狼牙は他の村人がどこで休んでいるのか分からない。村の家々を巡っている間に敵が広場に向かうなんてことも十分ありえる。


 非常に初歩的なことだった。これすら気づけなくなるとは、恐るべし酒と緊張。

 答えは初めから、広場に向かうの一択だった。


 音を立てないようにドアを開け、物陰に隠れながら広場を目指す。遠回りだろうが見つからないためには必要だ。広場の近くにある倉庫まで辿り着いた。倉庫の裏口から中へ入り、息を潜める。木製の壁には所々穴が空いている。その穴から外の様子を伺う。


 皆が眠っている。このことを一番に知らせるべきはオダマキだ。あるいはオトギリ。彼らがこの村の中心人物だろう。どちらも穴の画角にはいない。


「な、誰!?」

「キャッ!」


 ダリアとロベリアだった。遅かったのだ。既に敵はこの広場へとやって来ていた。

 二人の声だけが聞こえる。様子が全く見えない。丁度穴から見えない角度だ。

 すると、視界の端から二人が現れた。勢いよく転がり、小さな呻き声が漏れる。


「誰! あなたたち、何が目的!」


 ダリアの鋭い眼光が敵へと向いた。敵対心が剥き出しになっているが、同時に恐怖している。彼女の先には大柄な男が二人。仮面で顔を隠していた。ロベリアは腰を抜かし、ダリアの後ろで座り込んでいる。

 彼女を守らなくてはならない。ダリアの胸にはこの使命にも似た思いが大きく警笛を鳴らしている。


 ダリアの声に男たちが答えることはない。警戒することなく、堂々とダリアへと近づいて彼女の腹へと拳を打ち込む。


「グハッ! カッ……! げほげほっ、い、いた……」

「ダリア!」


 ダリアは片膝をついて涎を垂らす。先程までの料理や酒が喉元までせり上がり、吐き出される。彼女を横目に、もう一人がロベリアへと手を伸ばした。

 その時、キラリとダリアの手元が光った。そして、次の瞬間には彼女の腕は縦に一線振られており、男の腕からは赤い飛沫が散っていた。彼女の手に握られているのはナイフだった。果物ナイフや包丁のようなものではなく、サバイバルのための大きなナイフだ。


 口元を拭い、汗を浮かばせながら笑った。


「……ふふ、こういうのもあるのよ」


 ロベリアを庇うように片腕を広げ、男たちへとナイフを向ける。切先は震えていた。ぽたぽたと滴り落ちる血が、まるで時計の秒針の音のようだ。

 男たちはアイコンタクトを取り、一人が気怠そうに前に出た。シーンが切り替えられたように、瞬き一つ、次の瞬間にはダリアの腹へと太い脚が深くめり込んでいた。


「かはっ……」


 呻きや悲鳴も上げられない。認識するときには、既に痛みが鈍く捻じ込まれていた。身体中の空気が絞り出されたような音だけを鳴らし、その場へと倒れ込む。「うっ」と呻くと、顔を真っ青にして吐いた。ピクピクと震える背中。


「おい、やりすぎんな」

「多少は大丈夫だ。もう動けない」


 平然と会話を続ける二人がとても恐ろしく映る。


「い、いやぁああああああああ!」


 ロベリアが逃げ出した。泣き叫びながら走り、画角の外へと行ってしまう。しかし、見えない所でカエルが潰されるような声と同時に気絶した彼女が倒れた。二人以外にもう一人、この場に仲間がいる。


「おい、ガキはどうした。どこにいる」

「どっかにいるはずだ。探すぞ」


 ダリアたちを残し、彼らはその場を後にした。


 狼牙は震える。狙われているのは自分だったからだ。

 どうすることが正解なのか分からない。再び思考がまとまらない。何をすれば正解なのかがさっぱり分からない。あらゆる可能性を考えるが、何故か全てバッドエンド。悲観的に捉えてしまう。


 冷たい風が倉庫の中を通った。高く掠れた風音が忍び寄り、狼牙の不安な心を撫でる。まるで死神の鎌を首元に当てられているような気分だった。

 心臓がより激しく脈打つ。

 指先が冷たくなる。

 手足の感覚が不安手になっていく。

 視界が狭くなっていく。

 ぼんやりと夢でも見ているかのような気分で、かくかくと膝を震わせながら立ち上がる。


 深呼吸。少しだけラジオ体操の始めの部分だけを行う。このような状況でラジオ体操などできたものではないが、異常行動をしている自分を俯瞰すると、少し冷静になれる気がした。目を瞑り、先程まで思い描いていたバッドエンドのアイデアをもう一度考えてみる。


 ほんの数秒だったが、狼牙は答えを見出した。

 ぽたりと冷や汗が垂れた。

 決意を胸に、狼牙は目を開く。


 ◆◆◆


 夜の森は危険だと多く聞く。熊が出るだとか、遭難するだとか、転けて怪我をするだとか、そのような話はもはや常識だ。あくまでも平和な日常を過ごす者からすれば、という話だが。


「はぁ…はぁ…」


 狼牙は走った。走っていた。

 目的地など分からない。

 どこに向かっているのかすら分からない。

 それでも狼牙は走っている。


「はぁ…くっ……はぁ」


 必死な表情で、汗を散らしながら走る。

 一心不乱に走る。

 足元は不安定だ。地面は真っ直ぐでなく、木の根や岩、石が多くある。足を捻ったり転けたりしたが、痛みなど気にならないほど必死で走る。


「はぁ…はぁ…いっつ…ッ…くそっ…」


 打開案その一、オダマキに助けを求める。

 しかし、広場には仲間が一人残っていたため助けを求められない。オトギリも同様の理由で不可。

 広場にのこのこと出た瞬間に、ダリアと同じ結末となる。肋骨の何本かが折れてしまい、最悪の場合だと内臓が傷つくかもしれない。抵抗もできないままに売られてしまう。却下。


 打開案そのニ、休んでいる村人に助けを求める。

 しかし、どこで休んでいるのか分からない。家を巡っている間に、狼牙を探している二人に見つかってしまう可能性が高い。見つかり次第、気絶させられて人身売買。却下。


 打開案その三、狼牙自身が助ける。

 しかし、到底敵う訳もないので却下。


 よって、一番得策となのは『村の外に出て、他の町や村に助けを求めること』だ。そうに違いないと確信している。






 月が森を照らす。

 木々の葉が擦れる音は、中庭のそれとは異なり、今の狼牙にとっては耳障りなものでしかなかった。走っている最中に蹴飛ばした石が軽い音と共に闇の中へと消えていった。



 ──本当に助けられなかったか?

 いいや、無理だ。俺が何かした所で何も変わらない。何度も考えた筈だ。

 大前提として、俺だけはフィクションじゃないんだ。超パワーもハイテクスーツも持っていない。


 月に雲が陰る。

 靄のシルエットはドレスのように舞っている。

 枝にぶつかる。バキリと折れる。鋭い先が狼牙の頬を裂いた。ツーと垂れる血を手で拭う。


 ──休んでいる奴らを探してもよかったんじゃないか?

 いいや、その間に見つかってしまうリスクがあるんならすべきじゃない。何度も考えた筈だ。

 運良く見つけることができたらいいが、可能性が未知数だ。


 月光が和らいだ。

 青白い月光は、緑や茶色、灰色にうっすらと薄いフィルムを被せていたが、それが弱くなる。余計に視界が悪くなり、少しの段差や木の根、岩で何度も転んでしまった。身体中に傷ができている。


 ──助けを呼ぶことはできるのか?

 いいや、できる筈だ。オダマキたちはよく仕事に出ていたそうじゃないか。つまり近くに町があるということだ。そうに違いない。そこに助けを呼ぶことができればいいんだ。何度も考えた。


 月のほとんどが雲に隠れ、うっすらと丸い筋が垣間見える程度となった。

 遂にほとんど何も見えなくなった。全てが闇の中を走っている。本当に走っているのか。本当はただこの場で足踏みしているだけで、どこにも進んでいないのではないか。瞬間、木に激突した。


 ──逃げている?

 いいや! 俺は逃げていない! 

 必死に考えて今俺にできる最大限のことをしている。だからこそ俺は間違ってない筈だ。大丈夫だ。村の皆んなは大丈夫だ。何度も、何度も考えた筈だ。


 ──ダメだ。どれだけ考えた所で俺の行動は変わらない。不安だからこういうことを考えてしまうんだ。酒のせいもある。何も考えるな俺!


 月は隠れ、闇となった。

 もはや目を瞑っていても同じような状況だった。

 狼牙は走った。

 顔を振りながら走った。


 その時、大きな木の根に足を取られ、勢いのままに前へと体制が崩れた。


「あっ」


 体が大きな半円の弧を描いた。バランスを取ろうとするも目まぐるしく景色が一転するため、その余裕もなく、気がついた時には背中に鈍痛が広がっていた。水分を含んだ土が手につく。汗をかいていたこともあり、余計に体が土まみれだ。いや、走っている最中から既に泥だらけだった。


 そこは開けた場所だった。森の中に穴を開けたような場所だった。中心に一本だけ木が生えている。


 狼牙はすぐさま立ち上がろうとする。しかし、力が入らない。張り詰めていた緊張が、転倒したことで切れてしまったのだ。ふらふらとよろめきながら、力のない足に鞭を入れる。すると、ぼんやりと紫色を感じた。ハッキリとそこに何かがあるというのは分からない。しかし、紫色の何かを感じていた。


 ──ヒラリ、ヒラリ。


 黒い羽を持つ蝶。紫色の模様が、妖しく闇の中で羽ばたいていた。

 上下に体を揺らしながら、法則性のない動きで空中を漂う蝶に釘付けになる。

 狼牙は動きを止めて、その蝶の行く先を眺めていた。何故気になるのか分からない。しかし、何故かその蝶が魅力的に映った。まるで宝石のようで、心の底から魅了されている。蝶が欲しい、蝶を手に入れたいと手を伸ばす。

 木の下で蝶の動きが止まった。


『よぉ』


 ピクッと伸ばす腕を引っ込める。

 その声の主は木の下にいた。彼の手に蝶が止まっている。蝶は空中で動きを止めたのでも木に止まっていたのでもなく、彼の手の上で羽を休めていたのだ。ゆっくりと開閉する翼を彼は眺めている。


 誰だ。声が出なかった。この際、この男が何者かなどどうでもいい問題だった。推察できるのは人身売買の一派だということ。どういう訳か、狼牙の行く先に現れたのだ。


「……あ…れ……?」


 現れた?

 違う。

 現れたのではない。


 この男は、初めからそこにいた(・・・・・・・・・)

 狼牙が感じた紫色の正体が彼だ。何せ、改めて見ると、彼を縁取るように紫色の光がぼんやりと揺らいでいるのだ。オーラとでも表現すべきものは、ピーターパン同様に理解の及ばないものなのだと確信する。


『すげーボロボロだな』


 頭を動かすことなく、他人事のように言う。


『何か言えよ。まぁ、いいけどさ。そのままでもいい。俺が許す』


 不遜な態度だ。彼はなお動くことなく言葉を続けた。


『それでお前、何してんの。逃げてきたか?』

「……ッ」


 図星ではない。そう自分の中で言い聞かせた。


『お、図星っぽいな。逃げてきちゃったか』

「逃げてない。助けを呼ぶんだ」


 すかさず反論する。しかし、同様のスピードで彼は言葉を打ち返した。


『誰に?』

「近くの町に──」

『それはどこ?』

「それは……知らないが、でも近いはずだ」

『何で分かるんだよ』


 彼は笑った。


「何が言いたいんだよ! 助けを呼ぶ以外に何ができるってんだ!」

『お前が助ければいいだろう。そうだな、俺だったら休んでいる村人を探したりするかな』

「アイツらは村中を探していた! 見つかるだろ! それに、敵が何人か分からない状況で無闇に行動しようとしたらダメだ。敵が多かったら全滅だ。だから俺は外に助けを求めるんだ。一番安全な策を選んだんだよ」

『よく喋るなお前。うるせーよ』


 言葉は凍っていた。狼牙へ向けたナイフのような言葉だった。見下し、蔑み、軽蔑するような声色。もう狼牙の頭は限界を迎えていたのかもしれない。目まぐるしく自身の環境が変わり、そして、命の危機に瀕している状況だ。もう返す言葉も浮かばなかった。


『違うな。環境のせいじゃない。お前がクズなんだよ』


 心を見透かされた発言。

「お前に何が分かるんだよ」と心の中で呟く。


『分かるさ。お前のことは何でも、な』


 二度に渡り、思っていることを見破られた。言葉にならない疑問符を何度も浮かべ、声となって漏らしている。目を丸くしながら、絞り出すように狼牙。


「お…前は…一体……」

『俺か? まだ気づかねえのか。そりゃそうか。自分自身のことも分かってねえ奴は気づかねえか』


 蝶が止まっている腕を下ろす。ひらひらと飛んだ。

 彼は一歩一歩、水に波紋が綺麗に広がるような歩き方で狼牙へと近づき、しゃがんだ。彼は仮面をつけていた。黒紫色の蝶のような仮面。目元だけを覆っており、口元はにっこりと笑顔だった。その笑顔には見覚えがあった。何度も見たことがある口元だったが、思い出せない。


 応え合わせをするように、彼は口をゆっくりと動かした。言葉を一つ一つ練り込むように声を出す。


『俺は、お前だよ。お前の意思だ』


 仮面を外した彼の顔は、狼牙そのものだった。


「お、俺の意思……?」

『そうだ。お前の根っこの部分。お前の行動の原理。お前の基盤。そして真理だ。

 でも何なんだよ! お前にはがっかりしてるぜ。俺が出てこないといけない羽目になってんだからな』

「何を……言ってんだ?」

『お前は剣を失った。いや、正確には、ありもしない剣をいつまでも探してやがる。心の底では分かっているのに、それでもお前はそれを探してる。だが思い出せ! お前の原作(ベース)を! それが分からねえようじゃ、お前はそれまでの奴だったって訳だ』


 彼が言葉を言い終わった瞬間、地面が紫色に脈動する。

 大地は盛り上がり、木々が揺れ、ひび割れる大地に全てが飲み込まれ始めた。


「なんだ! なんなんだよ!」


 狼牙を追い込むように崩れ、そして、遂に彼の足元すら崩壊した。


「うわぁああ!」


 叫ぶも虚しく、ただ落ちることしかできない。自身を見下ろすもう一人の狼牙に手を伸ばす。助けてくれるはずもなく、むしろ再び軽蔑する表情を浮かべて見下ろしていた。

 どこまでも落ち続ける。背後を確認しても底が見えない。崖や谷ではない。本当の奈落なのだ。奈落の底へと落とされているのだ。ピーターパンからの強制スカイダイビングとは打って変わって、例えるなら、あちらが希望に満ちたものであるとすると、今は地獄へ向かっているかのように感じた。


「くそくそっ! なんなんだよ! なんでこんなことになってんだよ!」


 理解できない感情を声に出して放出する。段々と勢いを増していき、やがてやり場のない感情が爆発していった。自分でも何を言っているのか分からない。自分をこのような環境に引き込んだピーターパンへの文句か、あるいは自身の運命への恨みか、いや、現状に対する不条理か。取り止めのない言葉の羅列が崩壊の騒音と共に落ちていく。

 しかし、ある話となった途端に言葉はスピードを増し、自己認識は感覚を取り戻し、騒音は糸を切ったように消えた。


「俺は皆んなを助けるためにここまでやってんだ!

 何でこんな目に遭わなけりゃならない!

 俺は何か行動してあの状況を打破できる訳ないだろ!

 何で俺がいる時なんだ。何で誰か一人でも起きてねんだ。何でダリアやロベリアは撃退しねんだ。何でオダマキは気づかねんだ! 何で休んでた組は起きてこないんだよ!

 俺は一生懸命自分にできること探してんのによ! お前はそれを否定してきやがるしよ!

 じゃあ何が正解なんだよ! 教えてくれよ!

 俺は逃げてない! 助けるために命を張ってやってんだ!」


 突然、腕から触手が伸び、皮膚を貫いた。髪が破れるように皮膚が捲れている。


「あああああああ!」


 痛みに叫ぶ。黒い触手は腕へと巻きつき、再び皮膚を貫いて体の中へと入って行った。

 触手が蠢くたびに、狼牙の言葉が延々と身体中に響き渡った。耳を塞いでも体の奥底から聞こえる狼牙の声。何故か苛立った。心が乱れ、無性に怒りが湧いてくる。同様に不快で痛い。それらを紛らわせるために、言葉を続けると、更に触手が暴れ出す。再び何も分からなくなる。我を失っていた。分からなくなればなるほど触手は狼牙の体を蝕んでいった。体の自由すら効かなくなる。


 意識が薄れる中でも、蠢く職種の不快感だけは消えない。弱くもならない。


 ──俺は何をしたっていうんだ。


 ──誰がこんなことしてくれって頼んだ。


 黒紫の蝶が舞う。やはり美しい蝶に少し言葉が止まった。

 触手は既に頭部へと侵食し始めていた。今度は顎から触手が突き出る。声を上げた。言葉をならべることすら許されなくなった。再び喧騒が訪れる。動物のように喚くことしかできない。


 蝶は狼牙の眉間へ止まると、羽が目を覆った。真っ暗な視界。何も見えなくなる。その瞬間、蝶の羽から触手が現れ、狼牙のこめかみへと突き刺さった。


「ンンンンンンッ!」


 暴れるが全身に巡る触手のせいで動けない。

 のたうち回ることも、言葉を発することも、見ることも許されなくなった。

 自分自身が何をしているのか、何を言っているのかを理解することはできない。眼球が脳みその方を向いてしまいそうな程に剥いていることを最後に、眠りに近い感覚に覆われた。少し、心地よかった。


 気がつけば、何もない意識の世界の中で狼牙は一人、三角座りで座っていた。


 声が聞こえた。


 ──何もできない。何も……


 ──俺は、何だ?


 ──俺は、何をしている?


 ──俺は、どうして動けないんだ?


 ──おれは、おれなのか?


 ──おれは、なにかまちがっていたか?


 ──おれはただしい。おれのしたことはまちがいじゃないはずだ。


 ──おれのなにがまちがっていたっていうんだおれはただしいことをした


「ははっ……なんだよ……簡単じゃねえか」


 笑いながら頭を上げる。もはや全てがおかしくなった。先程までの焦燥や恐怖、不安も全てが吹き飛んだ。笑いが込み上げてくる。

 先程までの決死の表情はなく、そこにあるのはいつも通りの辰巳狼牙の表情だった。グッと拳を握り、壁へと叩きつけた。ヒビが入りガラスのように割れた。


 狼牙は意識を取り戻す。動かない体、真っ暗な視界、消えない痛み。しかし、彼は悶えることも慌てることもなくただ十字の体のままに落ちていっていた。


「分かった。全部分かったぜ!」


 触手など関係ない。彼から発せられたのは、紛れもないはっきりと意思のある言葉であった。


「俺は『嘘つき』だ! 『仮面の下で人形に成り下がった人間』になりすます嘘つきだった! しかし、今の今まで、俺も成り下がってしまっていたッ!」


 体が動かずとも、何も見えずとも、狼牙の意思は光り輝く。

 もう自由だ。腕だって動かせる。もう醜い『嘘』に縛られることはない。

 体に蠢く触手をちぎる。ちぎる。ちぎる。もう寄生されてたまるものか、と。


「利己的で自身の正当化のために嘘をつく。他者が傷つこうが嘘をつく。多数を盾に、間違ったことであっても正しいと嘘をつく。そして、その嘘の一切を認めないッ! そんなクズに俺はなっていたッ!」


 意思の邪魔をすることはできない。確固たる意思の前には、どのような障害であろうが全ては邪魔になる。狼牙の意思は固かった。自身の思考を再認識した彼は、もう止まらない。

 不覚に根付く触手。少しむしっただけでは取れない。だからどうした。潰すように掴み、渾身の力で引き抜く。ずるずると長い触手が引き摺り出され、顕になった後に引きちぎられた。


「今なら分かる。俺は逃げたよ。自分の命惜しさに村を出たんだ。残った奴らがどうなろうが関係なかった。俺さえ生き残れたらよかった。でも俺はそんな奴じゃないって思いたかったから、自分自身に嘘をついた」


 目元の蝶に手をかける。もはや仮面だ。これも寄生しているものの一つだが、何とも無力だ。視界を塞ぐだけ。何も見えなくするだけ。しかし、狼牙は知っている。見るべきものは他ではない。自分自身であると。だからこそ、迷いなく仮面を外すことができる。


「全くもって、クソ野郎だよッ!」


 仮面を外した。落下は止まり、トランポリンで跳ねるように上昇した。






 ──二人の狼牙は互いに顔を合わせていた。


『やっと戻って来やがったか』


 皮肉ったらしく言う。しかし、先程までの軽蔑の表情はない。どこか清々しく誇らしい表情のように思えた。


「あぁ、全てが分かった。お前の言っていた()もな」

『そうかい。じゃあ教えてくれよ』

「俺は希望を見ていたのかもしれないな。ピーターパンの言う通り、ストリエス(ここ)は俺の求めていた世界だと。全てがシナリオ通りでハッピーエンドに向かう世界だってな。でも実際は違う」


 拳を強く握った。じんわりと全身に熱を感じる。身体中の切り傷や擦り傷の痛みをやっと知覚した。


「やっぱりアイツは嘘つきだ。世界はどうであれ、クズはクズだ」


 ピーターパンの悪意のない笑顔が目に浮かぶ。悪意がない笑顔の裏は悪意でいっぱいだったようだ。余計に腹が立つ。


『仮面をつけ、本性を隠し、バレないようによく見えるように、奇怪な音楽で踊り狂う仮面舞踏会』

「物語の世界だろうが、それは変わらねえ。結局俺は『嘘つき』でいなければならない」

『だからどうした。結局世界が変わっただけで、俺らは何一つ変わらない!』

「世界が俺たちを受け入れないと言うのならッ! どこまでも嘘を強要するのならッ! 嘘をつき続けてやる…」


『「世界を拒み続けてやるッ!」』


 目を見開き、歪とも取れる笑みを浮かべる二人の狼牙。

 何故彼らは、いや彼は笑うのか。それは彼らの『意思』にしか分からない。彼らの意思が無意識の中で、彼らに笑顔を浮かばせたのだ。もうこれ以上の決意は、彼らは持ち合わせていない。


「あるはずもない希望を見過ぎていた」


 最後に吐き捨てるように呟いた。もう笑顔はなかった。


『これでもうお前はブレねえな。そして、お前はやっと本当の力を取り戻すって訳だ』


 狼牙の胸をとんと突いた。すると彼の胸が紫色に輝き始める。眩い光の中に、紫色の本が姿を表した。不思議と驚きはしなかった。自分の体の一部のような気がした。本を手に取ると、もう一人の狼牙が意味ありげな笑みを浮かべ、本に手をかざした。


 本当の始まりとして、こう始めよう。


『《世界を拒む嘘つき》よッ!

 お前の物語を綴れッ!

 お前自身の望む結末を掴むためにッ!

 もう何も気にしなくていい。お前の思った通りのシナリオを描けばいい。

 今ここに記すッ、理解されず、理解せず、世界を欺く物語の名は──』










 ──『オオカミ少年』

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