誘食
淡々と、飯を食う話をする。
食うのが当たり前になりつつある現代では然程、面白い話ではないかもしれない。
だが、究極の空腹で食らう飯は、筆舌に尽くしがたいものである。
二、三百年前の町を歩く男もまた、腹を空かしていた。
生きていれば、腹は減るものである。食わねば、どのような人間であれ、いずれ死ぬ。
―――生きるとは、食である。
時は江戸の中頃、飢饉の間を縫う話である。
月の灯りが照らす江戸の夜道を、男は歩いていた。
背は曲がり、ほつれの見える衣を纏っている、粋とは程遠い様な出で立ちで、野暮な雰囲気を漂わせている。
そんな男である。
手には僅かばかりの銭を握り、ふらりと歩く。
疲れ果て、帰路につく足取りは重く、如何にも明日の仕事を想う様であるが、帰り道に寄る、行きつけの蕎麦屋近くでは、不思議とその重さを忘れる。
蕎麦というものが流行りだしたのは江戸の中頃とされるが、流行の中心もまた、江戸である。
流行りに乗って口に入れてみたものが、案外、自分の口に合うこともある。
その時の気分やら、腹の減り具合やら、丁度の心を掴んだ一品は、心揺さぶる一品となる。
そんな具合に、男もまた、蕎麦の虜になった。
風向きで偶然に、鼻先を匂いが掠めたのか、はたまた漠然と思い起こす匂いが誘うのか、ともかく、男の足取りは、幾分軽やかになるのだ。
匂いがはっきりしてくると、それにあわせ、足の運びも早くなる。
”そば”の暖簾が見えてくる頃には、奥歯の辺りから、じわりと生唾が滲む様である。
男は暖簾をくぐり、店主に声をかけると、蕎麦を待つ。特に取柄もなく、大した面白みもない、漫然と日を送る
つまらない男であるが、席に座り、腹を満たすその一瞬を想像する様だけは、普段と違った面持ちになるのだ。
蕎麦が来るまでは、じっと待つ。出来上がるまでの動きがたてる音一つ一つが、腹の虫を刺すようである。
目の前に蕎麦が来るまでのこの時間が、何より長く感じる。
―まだか。蕎麦は来ぬ。
―――まだか。蕎麦はまだ来ぬ。
―――――蕎麦はまだか。蕎麦が、出される。汗ばんだ手から銭を放す。
器から上がり、顔に纏わりつく蒸気を、ぐっと吸い込む。蒸気と共に吸い込む汁の香りは、男の食を誘う。
少しばかり甘いこの匂いが、鼻から一気に口の奥を突き、溢れる生唾が口に溜まる。
酸っぱくなった様な口の奥に、思わず口端を釣り上げ、生唾を飲み込む。
一見地味だが知れば知るほど奥が深く、枯山水の良さにも通じる奥深い一品である。男には枯山水の良さなどこれっぽちも分からぬが、蕎麦の良さだけは理解していた。男の眼は少年の様に輝き、その様を眺める店主にさえ、何でもないただの一杯を特別なものに見せていた。この、男が蕎麦を食うまでの時間が店主にとってもささやかな楽しみになっていた。
割り箸をとり、蕎麦を手繰る。持ち上がった蕎麦が蒸気の衣を纏い、昇る。
てらてらと光り、汁を垂らす待望の蕎麦は、勢いよく、ずるりと男の口に運ばれる。
飛んだ汁を気に留める様子もなく、男はひたすらに、黙って食う。
二、三噛むと飲み込み、次を食う。あっさりとした出汁に、次の手が続々と伸びる。
品のある食い方ではない。粗野な食い方である。だが、如何にも旨そうに食う。
一見して地味であるが、食ってみれば旨い。器に箸を突っ込み、蕎麦を探す。
あらかた食い終わると、器を持ち上げ、汁まで飲み干し、器を乾かす。
器を持ったまま、ほっと一息つく。
「―――うまい。」
満ち足りた表情である。ただの一言であるが、ただの一言に、この蕎麦に対する全てが詰まっている。
一息をつき、安心しきったような一瞬が、何よりの時間なのだ。
食べ終えた後の、体の端から感じる満ち足りた感覚が、明日の糧になるように思える。
男の満ち足りた余韻を、和やかな風が奪う。
奪った余韻がまた、誰かの空腹を誘うのだろう。
男に残る僅かな汁の香りが、夜に溶ける。