8 闇に葬られた残酷な夢物語
ハロウィンコーナーは予想通り混み合っていた。南瓜を並べて作られた簡易通路を通り、ハロウィンの歴史を紹介している模造紙の展示を紫音と霧黒は見て回っていた。
「昼間なのに……ヴィオレノアールだからかしら」
有名なテーマパークでも同じようなものなのだろうかと紫音は思う。行ったことがないから分からないが人の多さに目が回りそうだ。
「夜はこの南瓜がジャック・オ・ランタンになって見事な眺めなのですが、この人込みでは光が遮られてよく見えないかもしれませんね」
霧黒が残念そうに言った。だがすぐに笑みを浮かべて紫音を見る。
「では早速、魔女についての紹介を見に行きましょうか」
「はい」
魔女の紹介が子ども向けなのかポップな魔女のイラストでされている。魔女とは、から始まり魔女狩りの凄惨な事実も軽く触れ、現在に存在する魔女認定協会の紹介までして終わっていた。漢字が少なくて子どもでも読みやすいとはいえ、内容は難しいように紫音には感じられた。だが無為に恐怖を与えることもなく、魔法少女アニメのように悪戯に夢を見せることもなく、ただ事実だけが書かれた内容だった。
それらの模造紙が張られたパネルを見ながら紫音は次第に目を閉じる。耳にまだ、残酷な人間の声が残っていた。油断すればすぐに蘇っては傷つけていく、言葉の刃が。
──あいつ、変だよな。
──あいつん部屋遊びに行った奴がさ、見たんだって。
──机の引き出しから、魔女とか吸血鬼の本がゴロゴロ出て来たって。
──あの子ヤバイよー。あたしも呪われるかもー。
──異端審問だ。
──クラスの子達から聞きまして、ええ、紫音ちゃんってちょっと……。
──あそこのお嬢さん、頭が変なんじゃって言われてるわ。
──お前は誰だ。誰なんだ。
──何処で間違ったのかしら……。
──お願いだから、この家から出て行って。
──紫音ちゃん、勘当ですって。
──変わった子だものねぇ。
──本当に私達の子なのか?
──私から出て来たなんて考えたくもない。
──もう、お前は……。
「紫音さん?」
声をかけられ、紫音は瞬いて霧黒を見上げた。深いグレーの瞳が優しく見下ろして来る。
「また、目眩でも起こしましたか?」
優しく問われ、紫音は目を伏せた。霧黒が目を細めて笑む。
「早く行かないとハロウィングッズまで辿り着けませんよ」
それに、と霧黒は続ける。
「憧れていると言う貴女も、それらを味方にすることは可能ですよ。全て、受け入れてしまいなさい」
そっと紫音の手を取って霧黒は背を向ける。多くは尋ねないその広い背中に紫音は安堵を覚えた。
自分を異端と言うならば、そうしてやろうと思ったのはいつのことだったか。変だと笑いたいのなら笑えば良いと。そうすることでしか、他人を貶み踏み付けてでしか自分の中の地位を上げられないのなら。
とんだ時代錯誤と笑う己が、既に倒錯していることに気付かぬまま笑い狂っていれば良い。だが踊らされているのがどちらか気づいた時に笑うのは果たして。
二人は狼男、ミイラ、妖精などハロウィンモンスターの紹介を見ながら、遂に最後のパネルまで来た。最後を飾るのは当然と言うべきか、生血を啜る夜闇の王者、吸血鬼だ。
吸血鬼はヨーロッパ古来から伝わる伝承である。エイブラハム・ストーカーが大学の先輩にあたるレ・ファニュの“吸血鬼カーミラ”に触発され、彼女の作品発表から二十六年後にその伝承と共に巧みに融合して発表した“ドラキュラ”が現代の吸血鬼のイメージになっている。
昼はその柩の中で眠り、夜に目覚め人の生血を求めるという吸血鬼。十字架やニンニクを嫌い、太陽の光にあたれば灰になり、木の杭で心臓を打てば滅びるという。
そう言えば、と紫音は霧黒を見上げた。
「あのお化け屋敷の全体的なストーリーって誰が考えたんですか? オーナー?」
吸血鬼の伝承を細かく練り込んでいた。キッチンで追いかけられた幽霊にニンニクを投げたと誰かが話していた。紫音が通らなかったルートでも吸血鬼だと分かるヒントが散りばめられていたのだろう。
尋ねれば霧黒はハットを押さえて笑う。
「あのストーリーを持ち込んだのは私です」
紫音は目を丸くした。霧黒は詳細を語ろうと口を開く。
「私の地元にある話を、ヴィオレノアールという巨大テーマパークでお化け屋敷を出そうとしていたオーナーに持ち込んだのです。
“闇に葬られた残酷な夢物語”をコンセプトとしたヴィオレノアールには、打って付けの内容でしょう?」
* * * *
「竹中、お前どうしたんだ? 仕事中だろ?」
透子の兄は昼の十二時に突然メールで呼び出されて軽食堂へやって来ていた。招待券をくれた、先ほどのお化け屋敷『セルクイユ』のオーナーである友人の竹中は衣装を脱いでラフな格好をして透子の兄を店内で待っていた。
竹中は透子も一緒なのを見て一瞬気まずそうに眉根を寄せる。が、すぐ二人に座れよと身振りで示した。
水を運んで来た店員に昼食を勝手に注文して竹中は透子の兄を真剣な面持ちで見つめた。
「今は昼休みなんだ。一時には戻る。単刀直入に訊くぞ、お化け屋敷どうだった?」
「は?」
透子の兄は呆気に取られて間抜けな返事をした。貴重だろう昼休みを使ってまで評価を聞きたいのだろうか。
「仕事熱心なことで。心配しなくても大丈夫、楽しかったよ」
笑いながら友人を安心させようとする透子の兄に、竹中は真剣な表情のまま否定する。
「そうじゃないんだ」
と。
思ったよりも深刻な様子に、透子の兄は透子と顔を見合わせた。
「河井、何で俺がお前に招待券なんか送ったと思う?」
「……そりゃ自分の店に来て欲しかったからだろ?」
違う、と竹中はかぶりを振る。
「此処を何処だと思ってる、ヴィオレノアールだぞ? 呼び掛けなんかしなくても客は向こうからやって来るんだ」
竹中の表情がこんなに切迫したものでなければ嫌味だと取っただろう。だが友人がいつもと違って透子の兄は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「霧黒、いただろう? お前達を途中まで案内して来た奴だ」
ああ、と透子の兄は声をあげる。あの人形めいた恐ろしいくらいの美貌の男かと。
「あのオレンジ色した派手な奴だろ? そいつがどうかしたのか?」
「お化け屋敷の設定は、あいつが持って来たんだ。イギリスに住んでたらしくてさ、地元に伝わってる伝承だって言って。
それを聞いて俺は面白いと思った。ヴィオレノアールは“闇に葬られた残酷な夢物語”がコンセプトのテーマパークだ。童話にそうあるように、残虐性だけじゃなくて現代にも通じる切なさが其処にはあったから、使えると思った」
そして狙い通り、お化け屋敷は仮オープンで重役達にも好評を得、パンフレットにも目玉のひとつと書いて貰えた。更に霧黒自身や、彼の連れて来た友人の美貌もあり、女性客に人気が出た。今が絶好調の時で本来ならば何の不満もない筈だ。
本来ならば。
「河井、お前あそこで何も感じなかったか? 何も?」
「いや、俺は特に……。それがどうかしたのか?」
竹中はテーブルに肘をついていた両手で頭を抱え、震え出した。
「俺はあいつが……霧黒が、怖いんだ……」
河井兄妹はまたも顔を見合わせた。
* * * *
「少年は裕福な家庭に生まれ育ちました。頼もしい父に、美しい母。イギリス貴族だったその父親は農場を経営し、土地を多く持っていた。
けれど少年は、病弱だった」
魔女のパネルがそうだったように吸血鬼もポップなイラストで紹介されている。そのパネルを見ながら霧黒は語る。紫音はそんな霧黒を見上げたままだ。
「少年は幼い頃から何度も生死の境を彷徨いました。彼のために用意された棺は数えることさえ叶わないほどだとか。
そうして死の世界に片足を突っ込んだ少年は、背徳的な物に惹かれた。時には黒魔術に魅了され、自分の部屋で悪魔召喚を試みたのです。
けれど両親──特に父親──はそんな息子を怖れ、部屋に閉じ込めるようになりました。息子と顔を合わさずに済むから」
霧黒は目を伏せる。
「母親は息子がそんな世界に傾倒するのは体が虚弱だからと信じて疑わなかった。彼女もまた、夜毎繰り返される息子の黒魔術の儀式に耐えられず精神を病んでいたのでしょう。方々の伝手を辿り、駆け出しの、若い医師を呼び寄せたのです。
ヴァンパイア専門の」
* * * *
「おい、竹中。あいつが怖いってどういうことなんだ? もっと分かるように説明してくれよ」
「お待たせしましたー。焼きソバ三人前です」
竹中が勝手に注文した焼きソバを三人それぞれ自身の前に置くが、とても食べられるような状況ではない。
「上手く言えないんだが……あいつに睨まれたら動けない……。殺気、と言うんだろう。こいつを殺しても自分には全く支障がない、そういった目をする……」
「か、勘弁してくれよ。まさかそんなこと……お前の思い過ごしじゃないのか……?」
そうは言いつつも、透子の兄も思い出していた。お化け屋敷のサロンで皆が別々の道を選んだ時、自分に霧黒が働きかけて来たことを。
あの深いグレーの瞳の奥に、見てはならない赤い光を見た気がしたことを。
「あたし、霧黒さんにじゃないけど、お化け屋敷全体になら感じたわ」
黙っていた透子が突然口を開いた。竹中がハッと顔を上げる。
「ホントか!」
透子は頷く。そして兄を見上げた。
「観覧車に乗る前に話してたでしょ? お兄ちゃんは気のせいだって言ったけど、あたしはやっぱりそうは思えない」
透子は竹中に視線を戻し、真剣に見つめた。竹中は透子をまるで女神でも崇めるように見ている。
「皆もあのお化け屋敷に行くのを躊躇ってたわ。それって外見が怖いっていうのとは別にちゃんと何かを感じたんだと思うの。
私が紫音に──あのゴスロリの子に──お化け屋敷を出た後に正直に言ったら、あの子も同じってことを言おうとしてたと思う。あの後ずっと考え込んでたし」
「お前が無理に観覧車なんかに誘ったからじゃないのか?」
う、そうかも、と透子は視線をそらした。更に透子の兄は言う。
「それに元々、霧黒さんとは顔見知りっぽかったじゃないか。似たような格好してたし」
竹中が、顔見知り? と反応した。ああと透子の兄は肯定する。
「まぁそんな親しいってわけじゃなくて一回か二回会ったかなって程度っぽかったけどな。何つーか、口説こうとしてる感じだったぞ?」
「そうね。蠱墨君も『女性を口説かれるのは』って言ってたし」
竹中の顔色がサッと悪くなった。
「それで今、そのゴスロリちゃんは……?」
* * * *
「ヴァンパイア専門?」
紫音が問うと霧黒はええと頷いた。
「母親は誰かから吸血鬼は体が丈夫だという話を聞き、裏世界に金をばらまいて探させたのです。そして本物のヴァンパイアがやって来た。
医師は少年にヴァンパイアであることを告げ、少年がそうなることを望んでいるかを問います。少年は答えました。
『この小さな世界よりも広い世界に行けるなら』と」
自分が閉じ込められた部屋よりも外の世界を、知らなさすぎたから。
「医師は尚も問いました。吸血鬼になったらまず何をしたいかと。少年はしばらく考えてからこう答えました。
『この世界で苦しむ母親と使用人に解放を』と……少年は父親を憎んでいました。だから一番残酷で無慈悲でかつ美しい死を与えたのです」
後は貴女がお化け屋敷で体験して来た通りですと霧黒は笑んだ。
「そしてイギリスの片田舎には今もその一族が持っていた土地がその名前と共に残っているのです。私は其処から来ました。
薔薇による甘美なる拘束──ローズベルトの地から」
紫音は目を伏せ、すぐにまた霧黒を見上げた。何かを言おうとして口を開くが、思い悩んでまた閉じる。
「どうしました? 仰って下さい」
霧黒に微笑まれて紫音は思わず声を出した。
「あ、あの、その、その少年は……後悔、していないでしょうか?」
「……家族を手にかけたことをですか?」
いいえ、と紫音は頭を振る。
「私も、似たような家庭環境だったんで少年の気持ちを少しは分かるつもりです。そのことについては何も言えません。自分にとっても、解放だったのでしょうから。
私が言いたいのは、吸血鬼になったことを、です」
霧黒が片方の眉を上げた。理由を促されたのに気付いて紫音は続ける。
「彼が同じ仲間の所へ行って、少しでも楽しい生活を送れているなら良いと思うので」
「優しい方ですね」
「違います。優しくなんかないです……私の憧憬が壊れるのが怖いだけ……ずるいです」
クク、と霧黒は笑った。
「安心して下さい。彼は少なくとも笑っていますよ」
さて、と霧黒はハットを被り直して紫音に言った。
「ハロウィングッズを買ったら『童話の森』へ行きましょう」