7 紅葉の中の黒
「紫音さん、この後のご予定は?」
昼を過ぎ、客ではない蠱墨と失墨は自分の仕事で立ち働いているため、そのテーブルには紫音と萌黄しか座っていなかった。
霧黒に問われ、紫音はパンフレットをバッグから出す。
「ヴィオレノアールで行こうと思ってた場所は此処しかなくて。何かオススメとかありませんか?」
「光栄です」
そう微笑んで霧黒は言い、紫音がテーブルに広げたパンフレットを覗き込む。萌黄もパンフレットを見て指差した。
「これは? 『童話の森』、お菓子の家や『毒りんご』って名称のリンゴも売ってるわよ。灰かぶりの黄金の靴や赤ずきんのワインセット、人魚姫の涙なんてのもあったと思うけど」
何と楽しそうな所だろうと紫音は目を輝かせる。『森』なのに人魚姫関連グッズがあるのは何やら変だと思ったが、この際そんなことはどうでも良い。
「あ、後こちらにもありますよ。『十月限定ハロウィンコーナー』」
こちらも何と楽しそうだろうと紫音は思った。
「七時までに見て回れるでしょうか……」
「大丈夫よ。その二つだけなら間にアフタヌーンティー挟んだって余裕持って回れるわ」
それじゃぁ、と紫音の顔が明るくなる。四時頃にはまた此処で霧黒に会えるということだ。
「最初にどっち行くの?」
萌黄に問われ、紫音は考えてから『ハロウィンコーナー』だと答えた。
「本当は陽が落ちてからの方がムード出るんでしょうけど、その頃だと逆に人が多そうで」
そうですね、と霧黒が同意した。
「恐らくハロウィングッズもなくなるでしょう」
それは大変とばかりに紫音は急いで支度を始めた。紅茶の代金を払い、また四時にと約束して紫音は店を出ようとしてはたと気付く。
此処までは失墨に連れられて来た。どうやって来たかなど覚えていない。パンフレットに載っていないこの店にもう一度来られる自信もない。
「どうかしましたか?」
霧黒に問われ、紫音は情けなさで赤面しながら道を訊いた。
「すみません……此処から『ハロウィンコーナー』までどうやって行けば良いんでしょう……?」
おや、と霧黒が笑んだ。
「広いので道に迷われませんよう、と言ったじゃないですか」
「すみません……」
良いですよ、と霧黒は扉の横にあるコート掛けから彼のシルクハットを取って被った。
「御案内します。蠱墨、失墨、しばらく頼みますよ」
「はい」
そのオレンジ色の頭髪を黒の下に隠して、霧黒は行きましょうかと紫音に手を差し出す。あまりにも自然な所作で、軽い既視感を覚えながらも紫音は流れるようにその手に自分の手をのせて歩き出した。
紅葉や銀杏の色彩の中では霧黒の頭髪も意外と目立たず、紫音と同様その服色の黒の方が目立っていた。鮮やかな暖色の中、存在を主張するようにはっきりと、黒。まるで自分の異質さを曝け出すようだと紫音は思う。だが今は、霧黒も同じだ。
紫音は気恥ずかしさから霧黒の手を放していた。そして無言のまま、歩き続ける。サクサクと落葉を踏む二人の足音だけが、遠く絶叫マシーンから聞こえて来る喧騒の合間に響いた。
「紫音さんは」
無言の緊張を破って霧黒が口を開く。
「ハロウィンがお好きなんですか?」
はい、と紫音は答えた。
「どうしてかは自分でも分からないんですけど。お祭り好きの日本に染まってるのかもしれません」
何処の国の祝いであろうと、目出度ければ心が躍る。八百万の神がいると考えた古来日本の信仰は他国の神をも受け入れたのだろうか。
良く言えば寛大、悪く言えば、適当。
「仮装が出来るのも素敵だと思います。自分じゃない何かになる……フランスの仮面舞踏会みたいで羨ましいです」
「紫音さんなら何に仮装なさるんですか?」
「魔女になります!」
即答ですね、と霧黒は笑った。思わず目を輝かせて間髪入れずに答えてしまったことに恥じ入りながらも、憧れてるんです、と紫音は言う。
「迫害されてもその存在を残せたのが凄いなと素直に尊敬します。
あ、男性には吸血鬼の仮装して貰いたいです」
思いついて口にした紫音の言葉に、霧黒は目を細めて笑った。
「実際に存在したら怖がるのに、ですか?」
あら、と紫音は反論した。
「人間がそういったものを怖がるのは憧憬の裏返しなんですよ。自分には到底真似出来ない、けれど願望はある。
そして嫉妬して、それを認めたくないばかりに中世の頃に魔女狩りのようなことが起きたんじゃないかと私は思ってます」
ほぅ、と霧黒は興味を持ったように首を傾げた。
「一般的には災いや病気なんかの人の手に負えないものを魔女という存在を生み出して責任を求めた結果だと言われています。実際には薬学に詳しくて、萌黄さんみたくカウンセリングのようなこともする人が過去にもいたんでしょう。まるで魔法みたいだって思いました。私の考えてること、私でさえ気づいてなかったようなこと、どうして分かるんだろうって。
でもあんなに綺麗で、聡明で、頼りになるからこそ、憧れるしあんな風になりたいって思っても理想が高すぎて辿り着けそうもありません。凄いって尊敬だけしていられれば幸せです。けど、それを認められないなら……愛憎はとても近いから、簡単にひっくり返ってしまえる」
萌黄を褒めすぎですよ、と霧黒は苦笑した。いいえ、と紫音は首を振る。私が感じたことだからそれに正誤はないんです、と。
「誰もが夜を恐いものと思っていた時代に、あの人なら何とかしてくれるんじゃないかと期待して、でも人の手に負えないことがあれば逆にあの人が何か仕込んだんじゃないかなんて疑っても仕方ないのかもしれません。人は残酷ですから」
霧黒は答えない。紫音は話を続けた。
「人の想像力は無限です。残酷なことも、悪いものとして共通認識を持てる存在が出来れば、たとえそうではなかったとしてもそれが“魔女”だと、“魔物”だと思えるのでしょう」
霧黒が足を止める。紫音も驚いて立ち止まった。風が落葉達を遠くへ連れて行くのを見ながら霧黒は拳を握る。
「貴女も、そんなものは現実には存在しないと?」
所詮は空想と夢幻泡影の世界であると。
「霧黒さんは信じてるんですか?」
「貴女の意見をお訊きしたいのです。そんなものはこの現実では、有り得ませんか?」
紫音は霧黒の前に回り込むと、深いグレーの目を見つめる。霧黒は遠くから紫音へ視線を転じた。その目に哀願が滲んでいる気がして、紫音は急に霧黒が震える少年のように感じられた。嘘じゃない、と顔を真っ赤にして自分の見たものを誰にも信じてもらえずに癇癪を起こす子どもを見た気がした。
「いいえ」
かぶりを、振って。
「本当にいれば、嬉しいです。会ってみたいです」
「それは、好奇心からですか?」
いいえ、いいえと紫音は首を振り続けた。
「例えこの血を飲まれても、本当にいるなら会いたいです。憧れてるから……ただ伝えたい」
でも、と紫音はうつむいて笑った。
「グルメな吸血鬼だったら私の血が気に入らないかもしれないですけど」
「……試して、みますか?」
「え──?」
紫音の頬に触れて霧黒が問う。紫音が戸惑っているうちに霧黒の美貌が近付いた。
「あ、あの……霧黒さ……」
真っ赤になって紫音は目を閉じた。紅茶の匂いが香る。
「……このまま仕事サボりましょう」
「へ?」
紫音の前髪をくす、と笑った霧黒の息がくすぐる。
「失礼、先ほど吸血鬼が似合うと言われて調子に乗ってしまいました」
自分で言ったことを思い出して紫音も笑う。霧黒の演技力には毎度騙されてしまう。雰囲気を作るのが上手いせいだと紫音は思う。
霧黒は不意に紫音の手を取って歩き出した。
「行きましょう、まだまだ見るべき場所はありますよ」
霧黒の笑顔に紫音も破顔する。霧黒のオレンジが、陽の光に輝いた。