6 カルゼル
従業員室から店内に席を移し、紫音はメニューを開く。紫音の探していた洋館は此処だったらしい。だがパンフレットには載っていない穴場のような場所だった。
「お化け屋敷の手伝いもさせて頂いているので、どうしても忙しくなってしまいます。こちらは息抜きがコンセプトなので静かな場所が必須条件ですからパンフレットには掲載しなかったのですよ。
ですから全てお客様の口コミとなっております」
「蠱墨君達もこのお店を?」
「ええ、手伝って貰ってます。私達が此処にいる間は友人に『セルクイユ』へ、私達が『セルクイユ』の時は友人が此処へ来て経営しています。
オープンしたばかりですが思っていたよりもお客様がいらっしゃって下さって嬉しい忙しさです。口コミを侮ってはなりませんね」
これだけのイケメンがいれば口コミの速度も異例だろうと紫音は思う。恐らくはいずれこの静けさも喧騒の海に沈むのだろう。
店内は柔らかな木もれ日が白いレースをあしらった窓から入り込む、穏やかな時間が流れる場所だった。幾つものテーブルや椅子が置かれ、ちょっとしたお姫様気分に浸れそうだ。
「この季節でしたらオータムナルを入荷したばかりです。ダージリンならロイヤルミルクティー、ドアーズでならブラックもおすすめです。
当店での茶葉はインド・スリランカの物であればほとんどオレンジペコーです。ブレンドティーやフレーバーティーも扱っておりますよ」
霧黒は壁掛けの振子時計を見て時間を確認する。十一時を少し過ぎたところだ。
「この時間でしたらイレブンジィズティーですね。この後のご予定を考えながら味わって下さい」
紫音はメニューを見ながら考える。知らない名前の茶葉も多いが、どれにしようか迷ってしまう。
「ブラックで飲みたいのですけど……」
決めきれず、紫音は飲み方で尋ねた。下手に今が良作の茶葉を逃しては勿体ない。
「ブラックでクオリティーのピークが最近の物は……」
霧黒の美貌がメニューを覗き込むために近くなる。白く細い指が優美にメニューの文字をなぞった。
「特徴がありますがラプサンスーチョンやジャワはブラックに適して尚かつ季節を問わず品質が安定しています。
ドアーズもブレンド用がほとんどなのでグレードはブロークンタイプですが、この季節に収穫された茶葉は『ローズオータムナル──薔薇色の秋──』と呼ばれるほどに良質です」
後は、と霧黒の指がブレンドティーとフレーバーティーの方へ進む。
「こちらの方もおすすめですね。特にフレーバーティーは香りがついているので、最近女性に人気を集めています。ブラックで飲むのがポピュラーですよ」
紫音はうーんと吟味してからアールグレイを頼んだ。ローズティーなど他のフレーバーティーとドアーズも捨て難かったが、おすすめされた中で一番味を知っているのはアールグレイだけだった。
折角紅茶専門店へやって来たのだから、普段自分で飲んでいる物とどれくらいの差があるのかを知りたいと紫音は思う。
「ではどちらの茶葉にいたしますか?」
「……え?」
「当店では主にトワイニングを扱っておりますが、お客様の好みに合わせて茶葉もある程度は揃えてるんです。アールグレイは他にジャクソンをご用意しています。
いかがなさいますか?」
流石は専門店である。紫音は困惑しながらトワイニングで注文する。霧黒は奥に引っ込み、紫音は息をついた。
店内には静かなピアノクラシックが流され、紫音の他に裕福そうな老婦人やOL二人組が各々注文した紅茶とお菓子を白いテーブルに置いて座っている。テーマパークの中にあるとは思えない静けさと客層だった。
「紫音さん、よろしければお話しませんか?」
話しかけられ紫音が顔を上げると蠱墨が立っていた。紫音は頷き、美少年スマイルを浮かべた蠱墨が礼を言って向かいに腰を下ろす。
「お友達と一緒じゃないんですか?」
「お友達?」
紫音が訊き返すと蠱墨は目を丸くした。
「『セルクイユ』で一緒だったのはご友人じゃないんですか? 紫音さんの名前、呼んでらしたじゃないですか」
ああ、と紫音は薄く唇を開く。
「透子のことですか? あの元気な子でしょう?
友達……ええ、友達ね……。いいえ、私と彼女は別に友達ではないの」
唐突に否定して紫音は目を伏せた。蠱墨はわけが分からないという風に首を傾げる。
「友達ってどういうものか分からないから。私が勝手に思い込むわけにもいかないし」
それに、必要ないではないか。自分には他に大切な存在がいる。友達だ何だと現を抜かすのは、美しくは見えない。大変で、苦労するだけだ。
「相手に合わせるのが友達というわけじゃないみたいだし、かといって私と趣味が合う子がいるわけでもないし。
透子は、目立つ子。誰とでも仲良く出来て、ノーマルで、好かれる子。彼女が笑えば周囲にも光が射して、小さな世界ならば彼女を中心に動く、そんな子。
蠱墨君の学校にもそういう子、いない? それとも蠱墨君自身がそういう子かしら」
うーんと腕を組み、紫音の言葉を吟味し思考の波に身を任せた蠱墨は何か思い出したのか、パッと顔を輝かせた。
「僕が学校に行ってたのなんて随分と前でしたから忘れてましたよ。確かにそういう人っていますよね。
話術が巧みで人を笑顔にするのが上手な人」
けれど、と蠱墨は微笑する。
「僕にとっての小さな世界の中心は、霧黒様です。僕ら兄弟を育て、大学まで出させてくれた、大切な方です」
「大学?」
「こう見えてこの子達はとても優秀なんですよ」
霧黒がトレイにティーセットを乗せてやって来た。蠱墨がハッとして霧黒を見上げ、霧黒もそれに返すように微笑を浮かべる。
「あっと言う間に我が家の蔵書を読み尽くし、寝食を忘れて二人で議論を交わし──失墨も議論の時だけは普段より饒舌で──何度私の手を煩わせたか」
過去を思い出してか霧黒はクスクスと笑う。蠱墨は羞恥に耳まで真っ赤になりながら霧黒に抗議する為に立ってテーブルに手をついた。
「一体いつの話ですか! あの頃よりは成長しました! いつまでも子ども扱いしないで下さい!」
「いいえ。貴方はまだまだ子どもですよ。子どもでなければお茶の席で淑女を相手にしながら突然立ち上がったりはしません。
ほら、お詫びして」
う、と言葉に詰まり、蠱墨は申し訳なさそうに紫音に頭を下げた。綺麗に切り揃えられた栗色の髪が美しく流れる。
「すみません、紫音さん。失礼しました」
「良いのよ」
紫音が笑むと、蠱墨は安堵したのか息をついた。しかしすぐに霧黒の言葉がかかる。
「次に何か粗相をしたらイギリスに送り帰しますよ。気をひきしめたら、あちらのお客様方に紅茶を注いで差し上げなさい」
「はいっ」
蠱墨は姿勢を正すとOL二人組の所まで行き、完璧に紅茶を注ぎ足し始めた。紫音はそっと霧黒を見やる。霧黒は蠱墨を目で追う真似はせず、自分の仕事に専念していた。それは信頼の証のようで、ほんの少しだけ、紫音には羨ましかった。
トレイからポットやカップ、ソーサーなどを下ろし、霧黒は紫音の目の前で紅茶を用意し始める。
「無料でお菓子もお出ししてますが、いかがですか? ただ、あちらの方々のようにケーキとなると料金がかかってしまいますが……スコーンやクッキーなら友人が趣味で作ってくれるので無料になります」
紫音は目をパチクリさせる。
「霧黒さんって……イギリスの方なんですか……?」
「イギリス育ちというだけですよ。母親が日本育ちでしたから馴染みは他国よりありますね」
「そう、ですか」
人形めいて彫刻のように美しい造形は恐らく父親から、陶器の肌は母親から受け継いだ優性遺伝子の結集なのだろうと紫音は思う。だが霧黒は、さぁと皮肉るように笑んだ。
「最早生粋の血を有する者が存在するとは、あまり考えられませんね。何処の誰の血がこの体を巡っているかも、知ることなど敵いません」
目を伏せて紅茶をティーカップに注ぎながら霧黒は言う。それを眺めて紫音も同意する。
「そうですね。国際結婚も今じゃ珍しくないですし、日本人だって弥生時代の頃モンゴロイドと既に交配してるし、元々この大陸に“日本”人がいたかどうかも分かってませんもんね。
元を辿れば人間の先祖は史学的にはアウストラロピテクスで、皆アフリカ出身なんですから」
霧黒が差し出した紅茶を飲もうと把手に手をかけながら紫音は続ける。
「私としては……アダムとイヴが両親なら良かったんですけどね」
頂きます、と言って紫音は紅茶を飲んだ。近づけただけでベルガモットの独特の香りがふんわりと広がる。口に含めば鼻から抜ける香りは更に際立っていた。
紫音はカップを口から離し、それに合わせて淡い黄色がかったオレンジの水色をした表面が揺れた。
「……美味しい……っ」
「ありがとうございます」
紫音は笑顔で霧黒を向くと、スコーンを頼んだ。このままランチティーともつれ込みたい所だが、英国式に行くのならランチは昼の一時だろう。
霧黒がスコーンを取りに奥へ行っている間、紫音はアールグレイの香りを楽しむ。紫音が淹れる物とは大違いだ。
「ねぇ、貴女が紫音ちゃん?」
「はい?」
唐突に声をかけられて紫音は顔を上げた。キャラメル色の髪に緩いウェーブをかけた綺麗な女性が同じキャラメル色の瞳でこちらをじっと見ている。
「紫音ちゃんなの?」
「え? え、あ、はい」
紫音はこれほどの美女を今まで見たことがなかった。スター女優も顔負けの美しさだ。
「やーん、可愛いーっ」
ガバッと抱き締められ、紫音は目を白黒させる。ティーカップがソーサーに当たってカチャカチャと鳴った。
「大っきな目ー! 零れそー!」
「あ、あああ、あの……何か……?」
「……萌黄、迷惑ですよ」
「……あれ、具合良くなったの……?」
紫音の周りに美人ばかりが集まって来た。スコーンをのせた皿をケーキスタンドの上に置いて霧黒が失墨を見やる。
「紫音さんを思って萌黄を連れて来たのは良いですが……白異も連れて来るべきでしたね」
失墨はまたもソフトクリームを舐めながら無表情に首を傾げた。
「……だって、霧黒様が白異より萌黄の方がって……」
「……そうでしたね。私が萌黄の性格を失念してました」
紫音に頬擦りする美女を、霧黒は猫でもつまむように紫音から離した。頬ずりされていた紫音は彼女の頬が陶器のようにすべすべなことに驚愕していた。
「きゃぁ。何するのよ」
「お客様の迷惑になります。これ以上何かしたら貴女もイギリスに送り帰しますよ。あちらでは貴女のメンタルケアを心待ちにしている患者が沢山いらっしゃるのでしょう?」
紫音は初めて美人同士が本気で睨み合う場面を見た。お互いに唇に笑みを浮かべているが、穏やかなムードである筈がない。
「何よぅ。折角可愛い子があたしを待ってるって失墨が教えてくれたから来たのに」
「それでまた失墨に歩きながら物を食べさせたのですか? まったく……貴女という方は……」
霧黒はやれやれと息をつき、紫音を見やると申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「すみません、紫音さん。失墨が厚意で医師である彼女を呼んでくれたみたいなのです。
とは言え、突然の御無礼、本当に申し訳ありません。彼女は可愛い女性を見ると仲良くなりたいようでして……」
「いやーねっ。スキンシップよ、スキンシップ! その言い方だとあたしが変態みたいじゃない」
霧黒が、おやと片眉を上げて彼女に視線を投げた。
「違ったんですか?」
「二度と立ち直れないくらいズタズタにメンタルケアしてあげましょうか?」
ふふ、と笑い声がして霧黒も萌黄も、オロオロしていた蠱墨も、我関せずとソフトクリームを舐めていた失墨も、揃って紫音を見た。
ごめんなさいと笑いながら紫音は言うが、自分でも何がおかしいのか止まらない。
店内に紫音の笑い声がBGMとして追加された。だが老婦人もOL二人組も自分達の時間に夢中なのか気にもしていない。
霧黒と萌黄は紫音に毒気を抜かれ、お互いの顔を見てホッと肩の力を抜く。
「終戦、ですね」
「今回はね」
そして二人共、紫音につられたように美しく微笑した。
* * * *
「……すみません……笑うところじゃなかったのに……」
その後、存分に笑った紫音は恐縮してうつむいていた。霧黒が紅茶を注ぎ直しながら、いいえ、と答える。
「私共こそお客様の前で失礼なことをしてしまいました。蠱墨に物を言える立場ではありませんね」
ちゃっかり紫音の隣に座った萌黄がスコーンをかじりながら口を挟む。
「ねー、あたしも今はお客さんよ? 早く紅茶淹れて来て。失墨が呼びに来たから今は霧黒が此処にいるんだと思ってわざわざやって来たんだから」
勿論、と萌黄は紫音の顔を覗き込む。
「紫音ちゃんにも会いに、ねっ」
どうリアクションして良いのか分からず、紫音は赤面して無言で顔を隠すように霧黒の淹れたアールグレイを飲んだ。
「いつものでよろしいですか?」
「そ、いつものでお願い」
いつもの、と聞いて紫音は二人がとても近しい関係なのだと悟った。何だ、と紫音は心の中で呟く。
先ほども霧黒は萌黄に『イギリスに』と言っていた。蠱墨同様の存在なのだ。
「……やっぱり、具合悪い……」
ソフトクリームのコーンをあむあむと食べながら、失墨が呟くように言う。彼も何故だかちゃっかり紫音の隣に座っており、蠱墨が紫音と向かい合っていた。
「え?」
「何、何処っ、何処が悪いのっ?」
紫音は萌黄に揺すられて、またもカップがソーサーに当たってカチャカチャと鳴るのを聞いた。
だが紫音は失墨を見つめたまま動けなかった。ソフトクリームのコーンを見ていた失墨が、うーんと考えるような声を出してから、不意に紫音の目を真っ直ぐに見上げた。
「──っ」
「……心の中……?」
失墨も蠱墨と同じ程度の背丈しかないので、紫音の方が椅子に座っても背が高い。そのため失墨の視線は下からになるが、紫音はその視線に射られたように動けなくなっていた。
「心の中ならあたしの出番ね。外科助手、歯科助手、皮膚科助手だけど、内科と精神科はあたしの得意分野よ」
「……小児科は助手にすらなれなかったけどね……」
「!」
失墨の言葉が萌黄に容赦ない現実を突き付けたのだろう。萌黄はテーブルクロスの上にポトリとスコーンを落とした。
「~~~~そうよ! 小児分野は霧黒の方が向いてるわよ! 大体あんた達を引き取った挙句育てて大学まで出した上、懐かれんのは霧黒ぐらいのもんだもん! 所詮あたしに小児は務まらないんだわ!」
才色兼備とは萌黄のような人物のことを指すのかと紫音は感嘆した。助手といえどほとんどの医療に携われるのは並大抵のことではない。医学部にいるわけではないが、紫音にだってそれくらい分かる。
「け、けど凄いじゃないですかっ。霧黒様は御自分でそれ以外は向いてないって仰ってましたよっ。それって萌黄さんの医師としての腕を認めてるってことですよねっ?」
蠱墨の必死なフォローが功を奏したのか、萌黄の顔が心無しか明るくなる。霧黒に認められていたのが嬉しいのだろうと思って紫音の心はまた沈んだ。
「ですが、小児が苦手なようでは貴女に子どもが出来ても恐がられるだけなのではありませんか?」
「!」
ティートレイにティーセットを用意した霧黒がやって来てそう言った。またも直球ストレートだったのか萌黄は言葉もなく項垂れる。ああ、と蠱墨も脱力し、失墨は遂に二つ目のソフトクリームを完食した。
「……こど……も……?」
そんなことまで話す間柄なのかと紫音は瞠目する。霧黒が口を開いて説明する前に、項垂れていた萌黄がガバッと顔を上げた。
「自分の子だもの! それくらい大丈夫よ!」
無意識なのか自身の締まった腹に手をあてて萌黄は霧黒に言い返す。
「あんたにも責任があるのよ! この子のこと、ちゃんと可愛がってよねっ」
「ご自分で誘惑しておいて何を言い出すかと思えば……。子どもは慈しむべき存在です。言われなくても貴女以上に可愛がりますよ」
紫音はクラクラと目眩を覚えた。何ということだろうか。萌黄は既に身ごもっているのだ。
紫音の淡く儚い憧れのような想いなど、家族の前には無力だった。
「……やっぱり……心の中……具合悪い……」
失墨が呟いた。霧黒が、え、と驚いたように失墨を見る。だが失墨は紫音を見上げていたため、霧黒もすぐに失墨の真意を悟ったようだった。
「しお……」
「やっぱりあんたなんかに可愛がって欲しくないわ! あたしと白異の子に指一本でも触れたら整腸剤を通常の十倍にして飲ませてやる!」
「……それは怖い」
「へ?」
紫音は萌黄を見つめる。萌黄はガバッと紫音を抱き締めると、聞いて! と訴え出した。
「あたし結婚してからしばらく経つのに子どもが出来なくて、赤月ってのに相談したの。だけど赤月って奴、あろうことか霧黒に相談したのよ! そんな又貸し借りじゃあるまいしデリケートな相談なのに、人の相談を人に相談するっ?
そうしたら霧黒の馬鹿、あたしの旦那があいつの主治医なのを良いことにベロンベロンに酔わせてあたしの所まで帰したの! あの人、普段お酒なんて飲まないから……いつもの彼とは思えないくらいに……」
「……ノロケ、入ってるよ……」
失墨に指摘され、萌黄がハッとしたのが抱き着かれている紫音にはよく伝わった。紫音は萌黄の子どもの父親が霧黒ではないことを理解し始めていた。
「おかげで念願の子宝に恵まれたんですから感謝して頂きたいです」
ふんわりと薔薇の香りが紫音の鼻孔をくすぐる。霧黒が注ぐ陶磁器のティーポットから漂って来るのだ。
「白異はアルコールが入ると誘惑に弱くなります。貴女が絶好のタイミングで彼の本能に入り込んだんでしょう。貴女が掴んだチャンスですよ。
そうでなければその子は生まれなかった」
霧黒の言葉に、そっと萌黄は自分の腹に触れる。慈しむように、そっと。
「つわりが酷くなるようでしたら赤月に酸味の効いたデセールでも作って貰いなさい。ローズティーなら私がいくらでもいれて差し上げますから。
貴女ひとりの身ではないのですからね」
「……」
どうぞ、とティーカップを出された萌黄は両手でカップを持ち口をつけると、困ったように霧黒を見つめた。
「どうしてあんたが小児に向いてるのか分かった気がする……」
それはそれは、と霧黒は喉をくつくつと鳴らして笑った。
「私は白異にそうされたようにしているだけですよ」
「流石はあたしの夫ね」
ところで、と霧黒は紫音の方を向く。紫音はキョトンとして目を丸くした。
「体調が良くないのですか? 矢張横になった方が……」
「い、いえ。大丈夫ですよ、ちょっと目眩がしただけで」
心配そうに見つめる霧黒の深いグレーの瞳に自分が映っているのを見ながら紫音は申し出を拒む。
そう、少し目眩がしただけなのだ。今はもう何ともない。
「……だけど、沈んでたね……」
まるで心の内側を全て見透かしているような失墨の言葉に紫音はドキッとする。どうして? と失墨はスコーンを食べながら紫音に問うた。
「それは、その……」
「あ、もしかして先ほど仰ってたことですか? 『友達ってどういうものか分からない』って」
フォローなのか勘違いなのか、恐らくは後者なのだろう蠱墨の解釈に、紫音は咄嗟に頷いた。
「そう、そうなの。皆さんがあまりにも仲が良いからお友達なのかなって」
「双子はともかく霧黒なんかと友達にはなれないわ」
「……失礼ながら同感です」
一瞬だけ霧黒を睨んでから、紫音を向いた萌黄の表情が変わる。今までとは打って変わった大人の落ち着いた表情だ。
「どういうこと? 話せることだけで良いわ、どういう風な考えなの?」
紫音は黒いハート型のバッグのベルトをキュ、と握った。
「そのままです。一体何処までが知人や顔見知りで、一体何処からが友達なのか。いないと駄目なものなのか、作るにはどうしたら良いのか。
そもそも、友達とは希薄の骨頂だと思うのですけど」
うん、と萌黄が頷く。否定せず、かといって肯定もせず、ただ聞いてくれる。
「難しいわね。その、『希薄の骨頂』だと思う理由は?」
「簡単に、離れて行くから」
自分でも驚くくらいに、か細い声だった。
「つい今まで笑っていても次の瞬間、心はもう此処に、ないから」
自分の嗜好が“変わっている”部類であると気付く前、自分がどう思われるかも考えられないくらい幼い頃、紫音は自らの“好き”を貫いていた。白よりは黒、天使よりは悪魔、英雄よりも悪者の方を、好んだ。
この世の汚れもまだ両手で足りる数しか知らぬ筈の幼い子どもが、零落の象徴を選ぶ姿は何と悍ましかったことだろう。攫われたお姫様を助け出す王子様よりも、悪役の女王を、悪魔を、可哀想だと想って泣いた。勇敢な騎士よりも、立ち向かう勇者よりも、紫音には凶暴なドラゴンの方が共感できた。
「それでも『ひとりは淋しい』と洗脳されたこの世界のルールに、私は従った。自分が“変な人”だと知られないように自分を隠して虚構で着飾って嘘の笑顔で、誤魔化した」
“普通”にしていれば、誰も離れて行かないと信じていた。“普通”こそがこの世界で生きて行くための保障で、危ない橋は叩いても渡ってはいけないと疑わなかった。
けれど。
「昨日まで笑っていても、今日の友達は分からない。掌返して今日は敵になるかもしれない。
『私達は親友よ』なんて、『実は地球はもう存在しないのよ』って言われてるくらい突拍子も現実味もない薄っぺらな言葉に聞こえたの。
親子でさえ殺し合う人間に、赤の他人と手を取り合えるなんて、そんなこと、私は信じられません」
遥か昔から歴史は繰り返されて来たではないか。紙の上の言語や計算は学習しても人間の心は学習して来なかった。
何処の国でも何時の時代でも、自分のためなら平気で他人の命を搾取して来たのは他の誰でもなく、人間なのだから。
生命維持の食欲ではなく、刹那の快楽を満たすための、自らの安全を確認するための欲を暴発させて来た。
「自分を抑えて他人に合わせるのが友達だと思っていました。そうすることでしか私は“友達”という言葉を聞けなかったから。
でもそういうのは友達とは言わないのだと知って私は……分からなくなった」
そして全てを、放棄した。
今まで自分の身を守っていた見せ掛けの鎧を脱ぎ捨てゴスロリ服を身に付け、盾の代わりに日傘を持った。柵の全ての鎖を断ち切り、思い切り息を吸って呼吸してみれば、初めて産まれて来たと感じられた。
自分のいるべき場所は此処だと、ようやく産み落とされた卵から自力で殻を割り、外の世界を目にして感じた。
「自暴自棄に開き直れば楽になったけれど、私は友達に必要性を感じなくなったんです」
それに、裏切られ振り回されるのはもう充分ではないか。
「人間関係は賭博に似ている。表情を読まれないように嘘偽りの笑顔を浮かべて、言動ひとつにも注意して、相手の手の内を見抜こうとしているみたい。
私はそれに耐えられないの。そんな“友達”なんて要らないもの」
そっと、紫音の手に萌黄が触れた。静かに頷いて、それでも、と引き継ぐように続ける。
「“本当の友達”が、それとは違うものだと思って欲しくなったのね」
萌黄の言葉に紫音は瞠目した。
「人間関係は、恋にも似ている。如何にして嫌われずに好きになって貰うか。けれどもそれは、愛じゃない」
萌黄は紫音の目を見つめながら言葉を紡いだ。
「愛はゲームじゃ手に入れられないの。何を賭けても、どんな打算をしても、手に入らないのよ。
心で通じれば、友も愛もきっとこの手に抱えられる。傷つくことを恐れながらも本当の自分を主張出来る紫音ちゃんなら大丈夫。本当じゃない“友達”がどんなものかも知っているなら尚更。
ね、考えてみて。あたしは紫音ちゃんの友達になれそう?」
紫音は萌黄の目を見つめ返す。キャラメル色の柔らかい色彩が萌黄の美しさを一層際立たせた。
「……分かりません。もっと、時間をかけて心で通じてみないと」
ふっと紫音が笑んだ。萌黄も微笑する。
「それじゃあ、これからよろしくね、紫音ちゃん」
触れた手で紫音と萌黄は握手を交わした。
「はい」
「……僕も……」
「あ、ずるいよ失墨! 僕だって紫音さんと友達になりたいです!」
失墨が空いている紫音のもう片方の手を握り、向かいで蠱墨が焦って主張する。紫音は笑むと蠱墨にも手を伸ばして握手を交わした。
「それでは、お友達の記念にもう一杯いかがですか?」
霧黒がティーコージーを外してティーポットを持つ。紫音はティーカップとソーサーを霧黒に渡した。
「お願いします」