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Violet Noir  作者: 江藤樹里
4/20

4 セルクイユ 後


 僅かな通路を抜けると、其処は書斎(ライブラリー)だった。全体的に天井が高く作られており、その広い壁面に幾つもの高い書棚が置かれている。紫音が一番上の棚に手を伸ばすためには踏み台が必要に思えた。


 書棚には余す所なく蔵書が並べられ、大きな暖炉の上の壁には異国の肖像画が飾られていた。二対の長椅子と、丸椅子が床に置かれている。部屋の中央にあるテーブルの上、天井から吊られた照明デザインは美しいが、椅子、書物と共に埃をその身に纏っていた。


 霧黒の持つ燭台だけでは照らしきれないほどに広いこの書斎には奥にまだ扉があった。入り口で部屋全体を眺めて、紫音はゆっくりと足を出す。


 蜘蛛の巣を避けるようにして紫音が目指したのは、暖炉の上にある絵画だ。どうやらそれは、一家の肖像画であるらしかった。


「亡霊となった子どもの家族です。少年は家族も使用人も見境なく殺し、孤独と言う名の空腹を満たそうとしたのかもしれません」


 霧黒が、燭台を肖像画の方へ掲げながら呟くように言った。紫音は肖像画を見上げる。


「けれどそれだけでは、足りなかった」


 何処かへ出かけた時の物だろうか、背景は美しい緑に囲まれ、湖畔で白鳥が泳いでいる。いずれも服装は十八、九世紀頃で紫音の心をくすぐった。


 子ども達が楽しそうに戯れている肖像画は、今はもう悲しみを象徴する物でしかなかった。


 作り物の話だとしても、紫音は胸が痛んだ。例えば紫音でも、同じことをするかもしれない。そう思えば自分と子どもを、少年と対岸に置くことはできなかった。


「……ねぇ僕は、悪魔の子なの……? だから学校に行ってはいけないの……?」


 突然の声に驚いて、紫音は背後を振り返った。入って来た扉は閉められていなかったのか、廊下に人が立っている。


「違うわよ。だけど貴方は病気なの。だからお家から出さないだけよ」


 少年と、女性だ。会話の内容からして親子なのだろう。だが、何と一方的な会話なのだろう。紫音は胸がきゅうと痛むのを必死に堪えた。


 少年と女性は二人共、全く同じ方向を見つめているのだ。少年は母親だろう女性の方を、女性もまた、腕を組みながら少年に背を向けて。


「いつになったら学校に行けるの?」


「病気が治ればよ、坊や」


 其処で突然、女性の姿が掻き消えた。舞台上でスポットライトから抜け出たように。今は少年だけが、此処から見える。


「だけど僕は聞いてしまったよ。僕の病気は治らないんだって。もう二度と、学校には行けない」


 パッと少年の姿も消えた。暗闇だけが残った通路から無理矢理に視線を外して紫音は霧黒を見上げる。


「亡霊が騒ぎ始めたようですね。早く此処を去らないと、次はこの程度では済みませんよ」


 霧黒に手を取られ、紫音はもうひとつの扉へ急ぐ。その先は長い廊下だった。廊下の突き当たり、窓がある場所は板が打ちつけられていて細い光が漏れ出していた。廊下を挟んで向かい合うように扉が鎮座している。寝室の通路へ出たらしい。


「どの部屋に入りますか?」


 そう問われ、紫音は目についた部屋を指し示した。霧黒がドアノブを掴み、ゆっくりと押し開ける。


 赤黒い寝室だった。だがこの部屋も窓は板で封鎖され、矢張霧黒が持っている燭台なしでは何も見えない。僅かにもれ入る陽の光が少しだけ紫音を安心させた。


 霧黒が背後で扉を閉める音を聞きながら、紫音はデスクに近付く。家具や壁もが黒っぽい赤で統一されている。


「此処は当主の寝室ですね。亡霊の父親です」


 紫音の為に燭台を持ち運びながら霧黒は言った。紫音はデスクの上にある冊子を手に取る。ボロボロだったが、アルファベットでダイアリーと書いてある。何気なくページをめくって紫音は日記を取り落とした。


「──……!」


 声にならない悲鳴をあげて。


 後退した紫音を支える霧黒の手に無意識に縋りながら、紫音は取り落とした日記の開かれたページを凝視して目を離さなかった。視線を逸らせばその意味を認めてしまう気がした。見張っていれば、まだ意味を知らなくて良い気がしたのかもしれない。


 その日記のページまでも黒い赤で統一されていた意味に。


 べったりと白いページを染める赤は、今はもう乾いている。絵の具のようにも見えた。けれど紫音は恐ろしい想像を頭から取り去ることが出来なかった。日記は赤く染められている――恐らくは、血液で。


 本物ではないと分かっていても尚、進んで触れたい物でもない。僅かに残された白い部分には、まだ書きかけの文章が妙にリアルに残されていた。


『あの子は最早、人間ではない。あの医者も胡参臭い。もしや妻はあの子がそうと知っていてあの医者を寄越したのか。

 あの医者と息子は──』


 日記は其処で終わっていた。背後から何らかの攻撃を受け、血を流し、その後に首を落とされ迸る鮮血で部屋を真紅に染められる男の映像が、紫音の脳裏に浮かんだ。


 あまりにも鮮明で、まるで実際に目の当たりにしたような錯覚を紫音は覚える。


「大丈夫ですか?」


 霧黒に問われ、紫音は微かに頷いた。


「この部屋の色調って、もしかして血の跡ですか……?」


 紫音が問うと霧黒が驚いたような声を返した。


「ええ、よく解りましたね。当主は此処で殺されその血で部屋を染められた、という設定なんです」


 ああ、と紫音は息をつきながら笑んだ。


「残酷すぎて綺麗……」


 部屋を血染めにするという単純で一貫した行為の結果には、マニアックな美意識が生じる。顔を背けられても、そんなことを好むなんてと謗られても、この気持ちに嘘はつけない。


 理解され難い、否、理解など求めない背徳による恍惚にも似たそれは快感だった。


「……貴女なら、そう仰って下さると思っていました」


 紫音を支えながら霧黒が優しく見下ろして言う。紫音のイメージの中では血を浴びた蠱墨が薄い唇に笑みを浮かべてこの部屋の真ん中で立っていた。その横に首を狩られた父親の躰を放置しながら。


「そろそろ行かないと……いつまでも此処にいるわけにもいかないわ」


 霧黒に礼を言って紫音はふらふらと歩き出す。もう、霧黒に対する恐怖はなかった。



* * * *



 別の寝室を見た後、本来ならば美しい螺旋階段が展開している筈の階段(ステアケース)は、まるでショートケーキをフォークで半分にした時のように削り取られていた。


「……どうして……」


 一階から二階にかけては螺旋を描いているのに、二階と三階の間には何もない。


 いや、階段の名残のような物は存在した。だがそれは、紫音が今までに見たどれよりも細くて危険なジャングルジムだった。


 三階から一階まで、足を滑らせれば真っ逆さまだ。とても無傷というわけにはいかない。紫音は忘れていたが此処はアスレチック型お化け屋敷なのだ。こういうものも存在して当然なのだろう。


「こちらを通るルートでなくても良いのですよ? 怪我をされても我々は責任を負いかねますし、他のルートでも貴女ならお楽しみ頂けることと思います。リタイアしても私がちゃんと出口までお連れします。

 どうぞ考えて下さい」


 霧黒も気遣ってかそう言う。紫音は自分の靴を見つめ、ジャングルジムのような姿をした階段を見つめる。


「あの、此処を降りられたら次はどんな部屋に行くのですか?」


 目先のゴールである扉を見ながら紫音は霧黒に問うた。霧黒は思い出そうと首を傾げる。喋らなければ人間とは思えないほどの、ひどく美しい芸術品に見えた。


「確か……ロング・ギャラリーだったと思いますが……」


「とするとレプリカといえ、アンティークもきっとありますよね。困ったわ」


 ジャングルジムは恐ろしいが、骨董品は見たいという我儘さに紫音は自分で呆れた。


 クスクスと、霧黒が笑う。そしてそっと、紫音に申し出た。


「よろしければお荷物をお持ちしますよ」


 紫音はバッグの他に日傘も持っている。それが邪魔で落ちられては紫音は勿論、霧黒も困るのだろう。だが、霧黒は既に燭台を持っていた。それでは彼の両手が塞がってしまう。


「大丈夫です。荷物は私自身のですから自分で持ちます。けどその代わりに、その、危なくなったら支えて頂けると嬉しいのですけど」


 最後は恥ずかしさから尻すぼみになる紫音の言葉に、にこりと霧黒が笑んだ。


「承知しました」


 それに勇気をもらいつつ、後にも引けなくなった紫音は、恐る恐るゆっくりと階下に向かい始めた。


 霧黒が下を見てはいけないと言うので紫音は丁度胸の高さにある手すりを握り締めながら、そろそろと足を進める。


 紫音が持っている靴の中では一番フラットだが、一般的な靴と比較すればどうしても底が厚い。ジャングルジムのような物と格闘するにはどう考えても相応しくない。


 慎重に足で足場を探りながら紫音は正面だけを見据えて進み続けた。


「……あまり力を入れないで、そう、リラックスして下さい。ガチガチになっていては足を滑らせてしまいますよ。

 何か別のことを考えながら進むのも良いでしょうね」


 後方から霧黒に話しかけられ、紫音はそうだと思いついた。気になることがあったのだ。


「ひとつ、お訊きしても良いですか?」


 そう問えば、どうぞと返されて。


「最初の鳥籠で見たあのステンドグラス……どちらの女の子が先に薔薇に侵食されたんでしょう? その設定なんてあれば聞かせて頂きたいのですが」


 僅か、沈黙があった。


 それを紫音が不思議に思う間もなくすぐに霧黒が喉の奥で笑う。


「そう来ますか、これはこれは──思いもよりませんでしたよ」


 そんなに変なことだっただろうかと紫音が小首を傾げると、失礼、と霧黒が謝罪した。


「貴女を馬鹿にしたわけではないのです。ただ、そんなことを気にされる方がいて、ましてや訊かれることがあるとは思っていなかったもので……其処に目をつけるのですね」


 相当ツボだったのか、霧黒はクスクスと笑い続ける。その表情はまた綺麗なのだろうが、今この場で見れば先に進めなくなってしまいそうだと紫音は思った。


「あのステンドグラスは私が作らせたのですよ。そう、貴女が仰る所の“設定”と一緒に」


 まだ喉の奥でクックと笑ったまま霧黒は語り始める。


「その“設定”を訊くということは、あのステンドグラスに何らかの物語性を感じられたのですね? まずはそれを聞かせて下さい」


 紫音は先ほどの考えを口にする。どちらの少女が先にその薔薇に侵食されたのかを。


「……お名前を伺っても? 私は霧黒です」


「紫音ですけど……」


 突然の質問に紫音は意図を知らぬまま答える。


「では紫音さんならどちらを選びますか? 助けに行きますか? それとも道連れにしますか?」


 紫音は足を止め、首だけを動かして霧黒の方を見た。彼との間に燭台を挟み、紫音はその深いグレーの瞳を見上げる。


「人は、生まれて来る時はひとりです。そして死ぬ時も。生物に“個”というものが存在する限り、孤独にしかなれないんです。ひとつ以上になんてなれない。

 だから私はひとりで死ぬ人を助けようとはしませんし、ひとりで死にます。私はどちらも選びません」


 ふっと霧黒は笑んだ。その微笑に紫音は頬を染める。燭台を挟んでは知られてしまうかもしれないと思い至り、慌ててそれを誤魔化そうと言葉を続けた。


「でもそういう考えがなかったら私は後者を選ぶと思います。とても酷い、生物の本能に従うでしょう。

 だからか、このお化け屋敷の幽霊の設定には共感するんです。普通の人なら『酷い』と一言で終わらせるのかもしれないけれど、私はそれ以上を感じるから」


 自分の中にも眠るその本能を、あるがままに受け入れているから。見て見ぬ振りをするのは恐らく簡単だ。一般的な衣服を身に着けるのと同じくらい、簡単なことだ。大勢に紛れ込んでしまって自他の境界も曖昧になってしまえるのは、堕落と同じくらい甘美だろう。珍しがられながら自分の“好き”を貫くよりも、その“好き”に蓋をして周りに同調する方が、よっぽど。


 霧黒の目は見られなかったが、紫音の想いは口にすることができた。誰かに言うことがあるとは思わなかった。言う機会があるとも思わなかった、それを。


「……ありがとう、ございます」


 霧黒が燭台を持つ手でハットを押さえる。思わず目を上げた紫音にはだが、彼の表情は見えなかった。


「貴重な御意見でした。では私の考えた“設定”をお話しましょう。

 実はあの少女達は、それほど仲が良いわけではないのです」


 え、と紫音は思わず声をあげた。だがあのステンドグラスで少女達は。


「手を取り合っている結果だけ見れば、とても仲良しに見えるでしょうね」


 心の中を見透かしたような霧黒の言葉に紫音はドキッとした。


「けれど片方の少女は、笑っていないのですよ」


 紫音は其処まで気付かなかった。しかしそれではまるで、もう片方の少女は笑んでいるようではないか。


「笑んでいる少女が笑んでいない少女の手を取っているのです。それは助けに来たようにも、道連れにしようとした風にも取れますね。

 けれど私の考えた“設定”では、片方の少女は元々死んでいたのです。そして薔薇は同時に二人を侵食した」


 紫音は言葉を失ったまま霧黒の紡ぐ物語をじっと聞いていた。その、残酷物語を。


「どちらが死んでいたのかは私にも分かりません。けれど薔薇は二人の少女を同時に侵食し、間違いなく生きていた少女の命を喰らい尽くしたのです。

 生きながらにして侵食される痛みは尋常ではなかったでしょう。しかし受け入れてさえしまえば──あるいは笑みさえ浮かべられるのかもしれません」


 霧黒が口元に再び笑みを刻む。紫音はそれを見て我に返った。


 暗闇と、僅かな灯りに霧黒の語る内容に聞き入れば、まるで夢を見ていたような浮遊感があった。


「これが私の考えていた“設定”です。ご満足して頂けましたか?」


「はい、あの、ありがとうございました」


 霧黒に礼を言って頭を下げた紫音は、自分が何処に立っているのかを忘れていた。


 目に飛び込んで来たのは奈落。暗闇の果てにある痛み。気付いた時には紫音はジャングルジムから足を滑らせていた。


「──!」


 声も出なかった。瞠目し、体が傾く。手は恐怖で伸ばせなかった。


 フッと下降感が紫音を襲い、内臓の全てが心臓より上に行こうとしているかのようだった。反射で思わず固く目を閉じる。だが紫音の頬に触れたのは空気ではなく大きな体だった。


 次いで紫音の鼻孔をくすぐるのは紅茶の香り。


「……危ない方ですね。驚きましたよ」


 頭上から降って来た声に、紫音はそろそろと目を開く。紫音の足は何とかまだジャングルジムに立っていた。


「大丈夫ですか、紫音さん?」


「霧黒さ……」


 紫音は霧黒に支えられていた。彼の反射神経のおかげで落下を免れたようだ。


「すみません……」


「いいえ」


 紫音は今更ながらに恐怖に震えた。霧黒がいなければどうなっていたことだろう。霧黒の支えてくれる腕に縋りつき、紫音は目を閉じる。縋るものがあるからか、恐怖は少しずつ収まっていった。


「すみません。もう、大丈夫です」


 そう言うと紫音は霧黒から離れ、しっかりと立ち直す。霧黒も紫音から手を離した。


「それでは、ゆっくり進みましょうか」


 紫音は霧黒の言葉通りにゆっくりと進み、ロング・ギャラリーの扉の前に下り立った。霧黒がそっと、その扉を押し開いた。


 ロング・ギャラリーとは冬場の運動不足の為に貴婦人達が散歩をした広い一室だと言われている。元はイギリスの気候の関係で、貴婦人達が始めたらしい。


 そして時代を経るにつれ、豪華な衣装などを競い合う社交場となり、美術品の展示場となったり家族が過ごしたりする空間へと変化していった。


 紫音が訪れたロング・ギャラリーは当初想像していた通り美術品の宝庫だったが、想像以上に広く壮大だった。


 格子縞の網が張られた窓は、寝室で見た時とは違って板が打ち付けられもせず、陽光が燦々と入って来る。


「眩しい……」


 暗闇に慣れた目に、突然の陽光は刺すようにその白い光を破裂させる。紫音は片手で目の上に影を作ってロング・ギャラリーを眺めた。


 壁に飾られた絵画や大きな彫刻が幾つも並んでいる。天井の装飾も凝っていて美しく、ずっと見ていても飽きない。


 名画が続く壁には、等間隔に大きな鏡がかけられている。貴婦人が自分の姿を映すためのものかもしれないと紫音は思う。しかし鏡は全て割られていた。


 此処にも領土を広げる蜘蛛の巣に絡められた美術品の間を抜けて、紫音は割られた鏡の前に立つ。


 幾つか残った破片の全てに、紫音の姿が映し出された。


「……当主は思い込んでいたのです。亡霊は鏡には映らないと」


 手を伸ばして鏡に触れようとした紫音を、危ないからと身振りで優しく(いさ)めて霧黒は説明する。沢山の紫音の後ろに沢山の霧黒が映った。


「子どもの霊は母親を最初に手にかけ、続いて使用人に手をかけました。ただ、父親だけは最後まで手にかけなかったのです。じわじわと追いつめるように、いつ自分の番が来るのかと怯える父親を嬲るように、頑なに。

 しかし屋敷から出られなくなった当主に居場所はありません。亡霊は鏡に映らないという迷信を信じ、映らないならば必要ないと屋敷中の鏡を割りました。そしてあの日記を書いて絶命したのです」


 紫音は鏡の中にいる複数の霧黒の一人と視線を合わせた。


「けど子どもは最後まで父親には、って仰ってましたよね?」


「子どもを診察していた、医師がそうしたのです。医師は子どもの望みを叶えたのですよ。まだまだ駆出しだった若い医師が、その白衣を血に染めて」


 霧黒が指を差した。その方向は扉の外。霧黒は扉を閉めていなかった。暗い廊下が、ぽっかりと口を開けたように其処に闇を留まらせていた。


「……ただ、僕を見て欲しかっただけなんだ。こんな僕でも、自分達の子どもだって認めて欲しかっただけなんだ」


 ライブラリーで見たのと同じ少年がうつむいて入口付近の廊下にいた。だが女性ではなく、今度は若い青年が立って少年を見下ろしていた。


 その白衣を血に染めて。


「もう、貴方を虐げる者は最早ひとりもいませんよ。貴方が望んだまま、忠実に実現されました」


 青年が穏やかにそう告げた。少年はだが、俯いたままだ。


「僕はやっぱり悪魔の子なの……? この病気はもう治らないんでしょう……?」


 いいえ、と青年は屈んだ。少年の肩を抱いて顔を覗き込む。


「全ての存在は神が造り給いし子ども。我らもまた、神の子であることに変わりはないのですよ。ただ、同じ神の子同士の存在に、少し疎まれるだけ。

 私は貴方や私と同じ者達を知っています。其処へ行きましょう。今ならまだ、日も昇らない」


 紫音は漸くピンと来た。鏡に映らないと言われ、人々から畏れられ、陽の光を嫌う存在。


「共に行きましょう、夜闇の世界へ。我らヴァンパイアの理想郷、セルクイユへ」


 少年は顔を上げた。そして青年の手を取る。


「“棺”と言う名の、夜闇の世界へ──」


 二人が、パッと消えた。紫音は未だ呆然と其処を見たまま、何と言おうか迷っていた。背後で霧黒が燭台をスタンドに置いたことにも気付かず。


「……お分かり頂けましたか。此処の亡霊とはヴァンパイア──吸血鬼だったのです。

 私も命を半分喰らわれた身……呪いのとき方など、何処にもないのです。あるとすれば伝統に従ってその心臓に杭を打ち込むことでしょうか」


 紫音は霧黒を振り返る。霧黒は陳列した美術品の中から古びた木の杭を取り出し、紫音の手に渡した。


「これを持って、すぐにエントランス・ホールへ向かって下さい。扉は開きませんが、あの吸血鬼が向かう場所も恐らく其処の筈です。其処でその杭を使って下さい。

 私はもう駄目です。早く行って下さい」


 霧黒が段々と後退り、ハットで顔を覆いながら言う。後退る先は光の届かない影の場所だ。紫音も後退った。


「早く、私が、貴女に──噛みつく前に」


 バッ、とハットを取った霧黒の口からは牙が覗いていた。B級ホラー映画のような展開に、紫音は身を翻して部屋を飛び出す。


 再び暗闇の中に戻った紫音は何も見えない中で階下へと続く階段を探した。霧黒はエントランス・ホールへ行けと言っていた。それは恐らく出口なのだろう。


 手探りで見つけた螺旋階段を下りて紫音はホールへ出る。透子の声が紫音を呼んだ。


「紫音! こっち!」


 紫音は声がした方へ向かう。後ろから霧黒か、誰かが追って来る音がして、紫音は足を速めた。


 エントランス・ホールには既に全員が集まっていた。各々、何処で手に入れたのか杭を手にしている。


「吸血鬼に杭を打ち込んでやるのよ!」


 透子が声をかけると皆一斉に杭を構えた。あちこちから、牙を見せた吸血鬼がこちらへやって来る。


「そう、見付けちゃったんだね。だけど僕らに噛まれる前にそれを打ち込めるのかな?」


 蠱墨が蠱惑的な笑みを浮かべて言う。透子が、彼に向かって走り出した。


「やあ!」


 杭は、蠱墨の胸に深々と突き刺さる。杭を掴んで蠱墨は倒れ、奥にいた吸血鬼達も連鎖するように膝を折って伏せた。


 透子本人があまりの呆気なさに言葉を失っていると、無表情な方の蠱墨がパチパチと拍手を始めた。彼は吸血鬼達の間をぬってやって来る。


「おめでとうございます。貴女達は呪いをとき、逃れました。セルクイユから脱出可能です」


 彼が目を閉じると同時に蠱墨が起き上がり、髪の毛を撫でつける。彼は蠱墨に手を差し出し立たせた。


 倒れていた一人の吸血鬼が起き上がり、こちらに駆け寄って来る。


「よく来てくれたなぁ、河井! どうだ、楽しかったか!」


「おま……竹中かぁ!?」


 どうやらこのお化け屋敷オーナーで透子の兄の友人である竹中という男性らしい。それを皮切りにムクリと吸血鬼達が起き上がり始めた。


「お前をおどかした時の顔! いやぁ遊園地で経営するったらお化け屋敷だな!」


 バシバシと竹中は友人の肩を叩く。


「俺が選りすぐった劇団員達もどうだった? 中々のもんだろう!」


 竹中が片手をぐるりと吸血鬼達に向ける。皆一様に照れたり、お互いの顔を見合わせた。


 透子の兄と竹中は旧知の仲なのか盛り上がり始め、吸血鬼役達も好きなことを始めた。透子は蠱墨と話している。


「手品の剣と同じ仕組みですよ。杭の先端が中に入って……ほら、こんな風に」


「楽しんで頂けましたか?」


 唐突に話しかけられ、紫音は顔を上げた。いつの間に来たのか霧黒が紫音を見下ろしている。


「あ、えと、はい」


「矢張あの牙をむくのも要らないと思うのですがねぇ」


 先ほどまで装着していた吸血鬼役用の牙を弄びながら霧黒は言った。しかしオーナーの希望では仕方がないと呟く。


「でも凄く似合ってましたよ?」


「……誉め言葉として受け取っておきましょう」


 人形めいている霧黒には何でも似合うような気がしたが、紫音は黙っておいた。


「霧黒さんは劇団員だったんですね。お上手でした」


 竹中からその言葉を聞いて、紫音は納得していた。道理で各所に寸劇が用意され、物語性を出しているわけだと。恐怖も、霧黒の自然な演技によって作り出したものだったのだ。


「ありがとうございます。“棺”の夢、幾何かでもお暇を紛らわせたのなら幸いです」


 癖なのかシルクハットを片手で押さえて目の表情を隠し、弧を描く口元だけを見せた霧黒は、丁度舞台役者がそうするように腰を屈めて礼をした。


 そしてタイミングを見計らったかの如く、次の客の知らせを裏方が告げる。


 紫音達はそうして、お化け屋敷から脱出した。




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