3 セルクイユ 前
入館前に紫音達は誓約書にサインをしていた。万が一怪我をしてもお化け屋敷側に責任を求めないという旨の誓約書だ。スタッフは勿論、客の安全に配慮し、客に合わせて安全なルートを示す。だがそれを振り切って客が無理なルートを辿りそれによって怪我を負っても、自己責任とするといった内容だった。入場制限は紫音の靴が少し引っかかりそうだったがアスレチックを避けるルートもあるということでクリアした。
たかがお化け屋敷で怪我をするのも勿体ないという意見のもと、全員がサインをした。住所や万が一のための連絡先も記入する。本格的だと思いつつ紫音は記入していくが、緊急連絡先の番号で手を止めた。だが、結局自分のスマホの番号を書いた。
誓約書を丸めて筒状のものに卒業証書のように入れてから、霧黒と蠱墨が両開きの扉の取っ手を掴んで引っ張った。重そうな扉が、いかにもな音を立ててその大きな口を開く。
紫音は透子に引っ張られるようにして中へ入った。薄暗いかと思った屋敷の中は、上から陽光が入って思ったよりも明るい。本物の邸宅なら大理石でできているだろう床は磨きあげられてピカピカだ。赤い絨毯がかけられた大きな階段が左右から伸びている。見上げればあちこちに階段があるが、途中で途切れているように見えるものもあった。
ホールの真ん中に丸い鳥籠の形をしたエレベーターが口を開けて待っている。十数人乗っても大丈夫そうなくらい広い。背後で霧黒が扉を閉め、蠱墨が鳥籠エレベーターへ一番に入り込んだ。
「広いのね」
「ルートは幾つもございますからね。多人数でも入れるようにとするのがオーナーの希望でしたから」
広香の言葉に全員が乗り込んだ鳥籠の扉をも閉める霧黒が答える。その美貌が自分に向けられたと知って、広香の顔は光が差し込んでいなくても分かりそうなほどに赤くなった。
「上へ参ります。このホールへ戻って来るルートはひとつもありません。もう二度と見られない風景かもしれませんので、しっかりと目に焼き付けておいて下さいね。
死んでも忘れないように」
ぞく、と紫音の背に寒気が走る。
誰も霧黒の言葉に深い意味はないと思ったのだろう、小さな感嘆の声をあげながらホールを眺めている。
だが紫音は違う。何故かは分からないが霧黒の言葉に真実を見た気がしたのだ。
霧黒の声は本気だったように感じた。
「ねぇ紫音! あのステンドグラスすっごく綺麗!」
透子の指し示す着色ガラスは二人の少女が描かれていた。黒髪と金髪の、どちらも長い髪をした少女だ。外から見たステンドグラスのひとつだろうか。そこから光が入って柔らかな明かりを投げかけている。
「……そうね……」
二人の少女達は互いの手を取り合い、向かい合っている。その少女達を、真っ赤な薔薇が侵食して大きく咲いていた。
「まるで……“血のように赤い薔薇”……紫音ならそう言いそうね」
紫音の思考を先読みして透子が言う。それに紫音は困惑したような、呆気に取られたような、どちらとも取れる表情を浮かべた。それからもう一度ステンドグラスを見るために首をぐっと伸ばして顔を上げた。
ステンドグラスの赤は薔薇の花にしか使われていないためか、異様に目立つ。
首を刈られた薔薇園の中、一輪だけその赤を落とされなかった花が咲いているかのようだ。人の躰を栄養とする薔薇に少女たちは立ち向かった。遂に最後の一輪を刈るだけとなったが、あえなく負けてしまった――紫音の頭にはそんなストーリーが浮かんだ。悲しい結末かもしれない。だが、だけれど。
「……素敵……」
言いようのない高揚感。言葉には出来ないほど、自分はこれを歓迎している。紫音の胸は高鳴っていた。
エレベーターになっている鳥籠は歯車がギシギシと回転する音を立て、やがて止まった。扉を開く前に霧黒が全員を見回し、口を開く。
「この館には、怨霊が棲みついております。
その霊は幼い子どもだと言われており、その霊は当時此処に住んでいた家族や使用人を皆殺しにしたと言われています。浮かばれない多くの死霊はこの屋敷から出ることが出来ず、また迷い込んだ旅人も喰い殺されました。長い年月が経つにつれ死霊は悪霊と化し、遂には“幽霊屋敷”と恐れられるようになりました。
しかし」
そう言って霧黒は少女達の着色ガラスを仰ぎ、目を閉じる。
「子どもの怨霊はまだ、命を喰らい足りないようです。この館に入って来た貴方達を見過ごす筈がありません。
けれど怨霊の呪いをとけばあるいは……脱出可能かもしれない」
怖がらせるためのストーリー設定だと言うのに、霧黒の演技は上手すぎた。他人が言えばどうと言うことのない言葉でも、既に恐怖を抱かせる。
「私も怨霊に命を半分喰らわれた身……この身が助からないとしても魂は迷わずに済むように、貴方達に呪いをといて欲しいのです。
引き受けて下さいますか?」
霧黒の閉じられていた目が全員を見る。深いグレーの瞳が一瞬だけ真理に留まった。
しかしそれで充分だったのか、真理が頷く。
「ありがとうございます。それではこちらへどうぞ──お足元に気を付けて」
僅かに段差になっている鳥籠の向こうへ各々ひとりずつ足を進め、今度は蠱墨が最後尾を務めた。
紫音は蠱墨に促されるまで少女達のステンドグラスを見つめていた。
赤い薔薇に侵食される二人の少女は、どちらが先にその薔薇に侵食されたのだろうか。先に侵食された少女を助けようとして侵食されたのか。それとも先の少女が二人目の少女を道連れにしたのだろうか。
だが紫音が彼女らの立場だったなら、どちらも選ばないだろう。ストーリーとしてであれば、可能性として有り得るのは後者だろうとは思うが、紫音ならばどちらも選択などしない。
人間に、生物に個というものがある限り、生物は孤独でしかないのだから。
「お客様、どうかなさいましたか?」
蠱墨に問われ、紫音はかぶりを振ると蠱墨に手を取られながら鳥籠を出た。
エレベーターを降りてすぐの扉を抜け、細く暗い通路を少し進んだ所で紫音は仄暗い灯りにホッと息をついた。通路の奥に円形のホールのような場所があり、全員が其処で待っている。
サロンに各々身を寄せ合うようにして部屋の中央で固まっている。此処へ来るまでに霧黒に何か言われて怖がったのかもしれない。
紫音も蠱墨に促され皆の所まで向かう。霧黒が薄く笑んでいた。
「このサロンは幾つもの通路へ続いています。お好きなルートを選んで進んで下さい」
異国にあるのと大差ないサロンの壁は、写実的だが幻想的な宗教画がかかっている。ぐるりと見渡せば幾つもの扉は合わせて五つあり、それらの前にある台に燭台が置かれていた。
紫音はふと頭上を仰いで何故サロンがこんなにも仄暗いのかを知った。本来ならばある筈の窓がないのだ。
お化け屋敷だからだろうかと紫音が思っていると、突然。
「キャーッ!」
広香の悲鳴が響いた。
紫音の隣であの気丈な透子が息を呑む音がした。透子を見れば兄の腕に縋りついている。透子の視線を追った紫音も瞠目した。
蠱墨が、二人いた。一人は首の骨が折れた鶏の死骸をその手にして。
「朝なんて……来なければ良い。永遠に明けることのない夜を、永遠に尽きることのない命で踊り続けよう?」
蠱墨が微笑を浮かべて言う。五つの扉のうち、ひとつが開いている。其処から現れたらしい鶏を持った蠱墨の方は伏目がちに一点を見つめて立っている。口を開く気配はない。
「成程……私の命を喰らいながら尚その空腹は満たされないのですか?」
霧黒が目を細めながら言う。蠱墨は見惚れるほどの嫌味のない美しい微笑を返した。
「飢えを満たそうとしている最中にのこのことやって来る皆さんがいけないんだ。
僕の毒牙にかかりたくないなら僕の飢えを満たしてよ。そう、例えば──」
スッ、と鶏を持っている方の蠱墨がもう片方の手で指を差す。示されたのは透子だった。透子はビクッとして兄にもっと縋りつく。
そう、と蠱墨がまた美少年スマイルを浮かべ、次いで驚くほどに妖しく笑んでみせる。
「彼女を僕に与えてくれるなら、他の誰の命も取らないけれど」
「そんなことが出来るとでも? 私達は必ず呪いをといてみせます」
「精々頑張るんだね。僕も全力で遊ばせて貰うよ。後はただ、君達が僕の空腹を満たしてくれるのを祈るばかりだ」
蠱墨は無口な蠱墨の手を取るとサロンを去った。
しばしの沈黙の後、霧黒がシルクハットを脱ぐ。
オレンジの髪が、仄暗い明かりでも尚鮮やかに、燃えるように目立った。
「まさか彼が……私の命を喰らう者だったとは……。
皆さん、此処は危険です。すぐに彼の邪魔が入るでしょう。お好きな扉を選んでどうぞ先を急がれますよう」
カップル達は我先にと扉の前に立つ。悲鳴はあげたものの表情はわくわくしており、あくまでエンターテインメントとしてこのお化け屋敷を楽しむ姿勢を崩さない。
一方で珍しく透子に元気はなく、透子の兄が気遣わし気に彼女を労りながら三つ目の扉の前に向かう。
「紫音さんも……」
恐らくは、一緒に、とでも言おうとしたのだろう透子の兄の声は暴風によって掻き消された。二人の蠱墨が去った扉からビュウビュウと風鳴りをさせながら吹き込んで来る。観葉植物の鉢を倒し、絵画の額縁がガタガタと音を立てる。
思わず紫音は両腕で顔を覆い、息を詰めた。目も開けていられない。
透子の兄は突然の暴風で薄目を開けながら紫音の名を呼んだ。妹を支えていない方の手を紫音がいた場所に伸ばすが、何にも触れない。
本物か判らないが何かが割れる音がした。テーブルやソファがゆっくりと奥に寄せられていく。
「紫音さ──……」
透子の兄は伸ばしたままの手に大きな手が触れるのを感じた。大きいが武骨ではなく、繊細な女のように美しい指を持つ、しなやかで優美な手だった。
「妹さんの心配をしてあげて下さい。此処の亡霊に、狙われていらっしゃるでしょう?」
霧黒だった。オレンジの髪が強風で無造作に遊ばれている。
「彼女は私が御案内します。貴方は何も心配する必要はありませんよ」
透子の兄は寒気を感じた。霧黒の深いグレーの瞳に、見てはならない赤い光を見たような気がしたからかもしれない。
「さぁ」
次の瞬間には霧黒の手ではなく燭台が、透子の兄の手に握られていた。この風にも決して揺れない電灯式のキャンドルを見て、透子の兄は幾分かホッとした。目の前にもう、霧黒の姿はない。
「早く扉の向こうへ! 皆さんお気を付けて下さい!」
紫音は風が唸る中で必死に扉を探していた。吹き付ける風が凄すぎて目も開けられない。
「こちらです」
ふと、霧黒の声が真上から聞こえたと認識した次の瞬間、紫音は手を取られて風のない場所にいた。
轟々と唸っていた風の音もやみ、吹き付けていた勢いもない。扉の向こうにいるのだと紫音が理解するまで数分を要した。
「ふぅ……」
何故か霧黒がさも当然のように隣にいるのだから尚更だった。
霧黒はハットを小脇に抱え、乱れた髪を手櫛で直している。もう片方の手には燭台を持ち、直した頭髪の上にまたハットを被った。
「矢張あの風を組み込む必要などないように思うのですが……」
ひとりごちて霧黒は呆然としている紫音の乱れた前髪を直す。僅かに身を屈め、優しい手つきで紫音の綺麗に切り揃えた前髪が撫でられる。
「貴女の髪の毛をも乱してしまうのですから」
それでようやく紫音は我に返った。そうされたことに羞恥を覚え、頬を染める。だが霧黒は相変わらず笑んだままだった。
「皆さんとはぐれてしまいましたね。私がお供してもよろしいですか?」
まだ紫音の髪に触れたまま霧黒が問う。お化け屋敷などではなくホストクラブにでもいるのではないかと紫音は思いながら承諾した。
「ええ。よろしくお願いします」
本音を言えば、紫音はこの青年が恐ろしかった。言動の端々に抑えきれない何かがあるような気がして、それが自分を誘うかの如くじわじわとその魔手を伸ばしているように思えたからだ。
紫音の中にもある、最も暗い部分を秀麗な悪魔が忍び寄って解放するよう甘く囁く……そんな想像が頭の片隅でちらついた。
「それでは……参りましょうか」
紫音がそのような空想を浮かべているのを知ってか知らずか、霧黒は刹那目を細めて妖艶に笑み、紫音をリードするかのように紳士的に片手を差し出す。
思わずその手に自らの手を重ね、紫音は幅広い通路を霧黒と並んで歩き出した。