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Violet Noir  作者: 江藤樹里
19/20

Red moon and Blue hunter


 痛いよ、死にたくない――。


 耳の奥で聞こえるのはあの日の妹の言葉。(まぶた)の裏に映るのはあの日、妹の頬を伝った涙。悲しい色を湛えたまま神の元へと還った妹。だが神がいるなら何故、あのような最期を妹に与えたのか。


 狩人さん、と声をかけられてハッと我に返った。肩に担いだ猟銃を見てそう声をかけたのだろう中年女性を認識して、オレは何だと何事もなかったように返した。


「狼襲撃の連絡を受けて協会から派遣されたヴィルヘルムだ。あなたは」


「あぁ良かった。その村の者です。連絡をした村長の妻ですわ。今日にでも着くと聞いていたので」


 待てずに村の端まで迎えに来たと彼女は笑った。ふくよかな彼女に合った、穏やかな笑い方だった。


「ひとりで? 危険すぎる」


 驚けば、彼女は首を否定の意味で振った。


「人に危害を加えることはなかったんですよ。気紛れで、家畜を要求することはありましたが……それさえ守っていれば本当に大人しいものでした。私にはどうしても、あの狼が危険なものとは思えなくて」


 何を呑気なことを、と思うが表に出しはしなかった。狼と呼ばれてはいるが、あれは人の(かたち)をした魔性だ。最初は人懐こいが、人に手を出さないはずがない。生き血を求める性質が、家畜で満足できるものか。


「だとしても、実際に襲われている。ひとりで歩き回らない方が良い」


 そう返せば、女性は恥じ入るように視線を落として、そうね、ごめんなさいと小さく呟いた。


「連絡をしてから狼の被害は?」


 そう尋ねれば、彼女は再度首を振る。被害はないようだ。だが表情が翳ったところを見ると、何かはあるに違いない。


「狼の襲撃は一度だけです。けれど、そこのひとり娘が見つかっていなくて。遺体が見つかったわけでもないし、かといってどこかで生きているとも思えなくて……」


「なるほど。既に引き込まれたとみているわけだな。では、依頼内容は狼二体の始末、ということになるか」


 確認すれば、微かに彼女は頷いた。


「詳しくは村長(おっと)から聞いて下さい。正式なお願いをする前に私が全部話してしまうわけにはいきませんわ」


 村長の家に向かう道すがら、彼女から村のことについて聞いた。主に農業や畜産で生計を立てているこの村は、ぶどう酒が美味いと評判らしい。深い森の中にある村だから、ぶどう酒を売りに男たちが留守にすることも多い。その間、女は畑と家を守り、男たちの帰りを待っているのだとか。


 狼が現れたのは半年前から。村長と交渉し、村人に手を出さない代わりに定期的に家畜をもらうこと、他の狼からこの村を守ることを約束した。だがその約束は、(たが)えられた。


「村はずれの家が襲われ、あまりの凄惨さから狼の仕業であろうと我々は判断しました。すぐに協会へ連絡し、貴方に来てもらったという次第です」


 村長からも同じような話を聞き、オレは椅子に深く座り直してなるほどと考え込む。村と交渉する方法を取ったわけだ。あの時のように。


「その家にいたのは」


「女家庭でしたよあそこは。早くに流行り病で旦那を亡くしたもので。母親と娘、更にその娘の三人で暮らしていました。

 ……我々が確認できた遺体は母親と娘だけ。幼い孫娘は見つかりませんでした。報告には、赤い頭巾を被って森を歩く姿を見かけた者がいたそうですが」


 村長の歯切れが悪くなる。露骨に視線を逸らした様子からして、言いづらいことなのだろう。だがよくあることだ。以前も何処かで間引きされた子どもの兄妹が民家に押し入り、老婆を窯で焼き殺した事件があったと記憶している。


 男手のない家庭では明日の食糧を確保することさえ困難だろう。


「あそこの家は、なんというか、“そういうところ”がありましたから。狼に提供する家畜を差し出す番になって、でも何もなかったのでしょう。先に約束を破ったのは、我々の方と狼は思っているかもしれない。交渉は決裂した。次の襲撃があるかもしれない。

 だからそうなる前に狼を狩ってもらいたい」


 反吐(へど)が出る話だった。誰も彼も自分のことしか考えていない。だがその最たるものであるオレに、何が言えるはずもない。


「……承知した。相打ってでもその狼がこの村に二度と現れないようにすると誓う。その子どもの安否が心配だ。すぐに出る」


 落ち着く暇もなく、オレは椅子から立ち上がる。猟銃を携え入り口に向かえば、その家までは案内しますと村長も立ち上がった。


 帰りはひとりになる村長のためもうひとり村の男を連れて、狼に襲われた家に向かう。なるほど畑も貧相で家畜もほとんどいない。食べるのに困っていた様子はすぐに見てとれた。それなら自らの子どもや孫さえ、口減らししたくなってもおかしくないのかもしれない。


 村長も村の男も口を揃えて少女は良い子だったと言った。可愛く、愛想も良く、何処へ出しても恥ずかしくない子だった。自分が口減らしに会ったと知った時のことを思うとやりきれない。――既に生きていないような口ぶりだ。


 けれど、それもこの家の惨状を思えば仕方ないのかもしれない。小さな家は外見に変化はないものの、一歩入れば凄まじい血の匂いが充満していた。数日経っていてこれなら、間もない頃は家の外にまで死が漂っていただろう。


 壁や家具には血飛沫の跡が黒く残っており、陰惨さが増す。床に散弾銃が転がっており、抵抗したことも窺われた。だが狼の前では無意味な抵抗だったことだろう。血だまりの量を見る限りは抵抗虚しく首を()ねられたに違いない。


 これだけのことを行ったとするなら狼以外には考えられなかった。非力な女だとしても二人の人間を一度に相手にし、首を刎ねるなど人間技ではない。


 一切の躊躇も恩情も見られなかった。残った血に一切手がつけられていないところから、一種の憎悪さえ感じる。その有り様に、村人が既に少女も狼に引き込まれていてもおかしくないと思うのは無理のない話だ。


 復讐のために戻ったのだと見るのが道理か。


「……赤い頭巾を被った少女が目撃された森というのは」


 家の中には入りたくないと言った村長たちの元へ戻り尋ねれば、ついてきた男が手を挙げて指差した。


「あの森だ。赤い頭巾被って、楽しそうに花なんか摘んでた。木立から見えるとこにいたし、何せ赤い頭巾が目立つからあんまり奥に行くなよとだけ言ったんだ……あの時はこっちから見えるように赤い頭巾なんて被ってるんだと思ってた……でも狼に見つけやすくさせるためだったなんて……」


 男が声を震わせる。最後に声をかけたのが自分だったらと思うと恐ろしいのだろう。無責任な妄想を加速させている。


「亡くなった二人からそういった話を?」


 冷静に返せば男は狼狽えて、違う、と否定した。そうじゃないかと思っただけだと。


「それなら、黙っておくことだ。限りなく黒に近かったとしても、真実は死者しか知らない。死者に弁解はできない。この場にいただろう狼だって本当のことを言うとは限らない」


「……貴方は、死者を救おうと言うのか」


 村長が聖職者を見るような目を向けてオレを崇めようとする。やめてくれ、と思わず鋭い声が口を衝いて出ていた。


「オレは人間の味方をするだけだ。生きていようが死んでいようが、クズだろうが聖人だろうがな」


 人間の敵にしかなれない狼に仇なすためだけに。それ以外のことはどうでも良い。


「オレは行く。気を付けて戻れよ」


 村長と村人に背を向けて、オレは森へ踏み込んだ。


 家の傍の森へは頻繁に訪れていたのだろう。小さなけもの道ができていた。といっても狼が出る、といった話は聞いていたのかこの辺では奥までは行っていないようだ。


 赤い頭巾を被って森を散策した少女は、そもそもどうして森に入ったのだろう。いつもの遊び場だったからか。では何故赤い頭巾など被っていたのだろう。母親や祖母からもらったと見るのが妥当か。嬉しくて身に着けたまま森へ入ったところ、運悪く狼に見つかり家畜の代わりと早とちりした狼が約束を違えたと思って襲撃した。もしくは口減らし目的で森を抜けるよう指示されていた。途中で狼に見つかれば良し。これも家畜の代わりに人間を寄越したと知った狼が襲撃した。あるいは、口減らし目的と知った少女が狼の気紛れで同じ狼になり、生家へ戻り復讐を果たした。


 他の狼による襲撃は考えにくい。狼は他の狼を尊重する。縄張りを荒らすような真似はしない。何らかの理由で狼が死んでいて別の狼がやってきていた交代の場合、見かけた少女を食べ、近くにあった家を襲撃する可能性は考えられる。だが、頑丈な狼が何らかの理由で既に死んでいる可能性は低い。それに何より。


「あいつがそう簡単に死ぬかよ」


 幾度となく相対してきた。それでも傷をつけたことは数えるほど。狼同士なら傷つけるのも容易かもしれないが、唯一狩れずにずっと立ち回ってきた宿敵が他の狼に易々とやられるとは思えない。


 花畑を抜ける。風にそよぐ色とりどりの花は、否応にも妹を思い起こさせた。日が暮れるまで飽きずに花に埋もれ、冠を編んでいた妹。声をかければにっこりと笑って。


 ――もうちょっとで完成なの。私と、お兄ちゃんと、……の分!


 頭を振って思い出を追い出す。感傷的になってはいけない。敵地の真っただ中だ。


 屈んで、花が傾いた道を探す。少女は此処で森の更に奥へと向かったようだ。狼はいつ現れる。何処から来る。何処から見ている。


 神経を張り詰め、気を巡らせる。既に狼の縄張りの中に足を踏み入れている。音も立てない狼から不意打ちを食らう可能性も否定できない。陽が高いとはいえ、あの狼は陽の下でも活動できる。暗いにこしたことはないのだろうが、制限を受けているようには見えなかった。


 奥へ行くほど木が繁茂して陽の光も届かなくなった。狼は暗い場所を好む。近づいている。そう思えば心臓が早鐘を打ち始めた。


 猟銃を構えながら慎重に足を進める。なるべく音を立てないようにゆっくりと。狼の耳は様々な音を拾う。森は五月蠅いが協力的な場合は静かだと笑って教えたのは、紛れもなく。


「……!」


 視界の隅、赤がちらりと駆けたような気がした。赤頭巾、と意識がそちらへ向くより早く目が追った。けれど木立に紛れてそれが人だったかどうかも分からない。


「……よーう、性懲りもなくまた俺を追ってきたのか、ヴィルヘルム」


 真後ろで聞こえた声に思わず飛びのいた。くつくつと笑う狼は一歩も動かず余裕に笑っている。オレは構えた猟銃の照準をぴったりと狼に合わせた。


「まだお前に追ってもらえるわけね。良かった良かった」


「ふざけるな! 必ずオレが撃ち仕留める!」


 赤毛の狼はきょとんとした表情を浮かべ、それから嬉しそうに笑った。あの時と、何も変わらない笑顔で。だがその笑顔は人を欺くためのものだとオレは知っている。


「お前に俺は殺せないよ、ヴィルヘルム」


 ギリ、と歯を噛み締めた。指先にも力が入り、猟銃が少し軋んだ音を立てた。


「気安く名前を呼ぶな。オレはお前の息の根を止めるためにハンターになった。必ず果たしてやる」


 妹のために。


 続く言葉を呑み込んだことに狼も気づいたのか、寂し気に笑ってみせた。人であることを捨てたくせに、人のように人よりも美しく笑う。


「そう、お前はまだ俺が彼女を殺したと思ってるんだな。いや、思いたいんだ。間に合わなかった無力な自分に対する怒りを、俺にしか向けられないから」


「黙れ!」


 一発、ほとんど弾みで撃ってしまったがその拍子に狼が視界から消えた。難なく避けられた上に何処へ行ったかまるで目で追えない。舌打ちして周囲を窺ったオレを嗤うように、狼はオレの手から猟銃を叩き落とした。


「――っ!」


 拾う前に蹴られた猟銃はくるくると回転しながら木立の奥へ消えてしまった。


 くそ、と舌打ちをしながら狼から距離を取るために地面を転がった。そうしながら腰に携えていたナイフを取り出す。それと同時にもうひとつ指の間に小瓶を挟んだ。


「ヴィルヘルム、俺は……」


「黙れと言っている!」


 油断して動かない狼に向けて、小瓶の蓋を素早く開けて放り投げる。銃弾よりも遅く軌道も見えていただろうに飛んできたのが小瓶と知ってか、狼は避けなかった。真面に瓶の中身を被る。オレは内心で雄たけびをあげた。


 足止めを甘んじて受けた狼に向かってオレは地面を蹴った。構えた銀のナイフを狼の心臓目がけて突き出す。


 が、世界が反転したのはオレの方だった。


「冷た……っ。何これ、聖水? くっさ」


 地面に転がされたオレは背中でがっちりと腕を固定された。オレの上に乗った狼は被った水を分析のためかくんくんと匂いを嗅いで端正な顔を歪めた。


 よほど臭いのか狼はうめき声をあげるが、痛みはないようだ。足止めくらいの効果しか期待していなかったがもう少し痛みでも与えられるかと思っていただけに悔しかった。


「協会も聖水を持ち歩くようになったのか? でもお前、神様なんて信じてないだろ。聖職者の祈りで清められた水だ、俺も神は(こわ)い。けど、信心のないお前が神頼みなんかしたって効果はいまひとつだよ。聖職者と俺の信心で鼻はひん曲がりそうだけど。

 残念だったな」


 神を疑ったことが露呈したが、神は何もしないことなどあの日から分かっていたことだ。自分の技を磨くしか信頼を寄せる確かなものなどない。だがそれでも狼に傷ひとつつけられなかった。


「お前が俺の同族を沢山狩ってることは聞いてるよ。仕留められないのは俺だけだってこともな。けど」


 あぁ、どうして。


 オレの口から絶望が漏れた。だがそれが言葉として形作っていたかはオレには最早分からない。


 狼に報いるために追ってきたというのに。哀れな妹のために。狼がいなければ、今でも妹は生きていたはずなのに。


 忘れもしない最期の言葉――痛いよ、死にたくない――そう言って死んでいった妹のためにも。


 与えられた衝撃と痛みに意識が急速に地面に吸い込まれていくような気がした。いよいよ殺されるか。


「こんな物で俺は死なないよ、ヴィルヘルム」


 薄れていく意識の中、最後に聞いたのは狼の苦しげにつぶやく声だった。



    * * *



 う、と呻いた自分の声で目が覚めた。目を開けたが暗くて開けても閉じてもよく分からない。暗い場所にいるらしいことだけぼんやりと把握する。


 ぼ、と小さな音がして灯りが点いた。短い蝋燭の火が揺れる。狼の動く音がしてオレの意識は急速に覚醒した。


 陽の光も届かない場所だ。地下だろうか。狼の根城に連れ込まれたらしい。石造りの壁は冷たく、ひんやりとしていた。


 体はあちこち痛み、上手く動かない。だが動かない理由はそれだけではなかった。手首に冷たい金属が触れて初めて、拘束されていることに気付いた。


 ――俺がそんなことしないと思った?


 狼の声が届いてオレは身を(よじ)った。鎖がじゃらじゃらと音を立てるが、それだけで解放されるようなものではない。


「くそっ」


 忌々しさと共に吐き捨てた言葉と、狼がいる方を睨むオレに、狼はからからと軽く笑った。


「目だけで殺してやる! って気概が伝わってくるぜ。そんなに嫌うなよ、ヴィルヘルム。友達だろ?」


「友達になった覚えはない」


「そっか、兄弟みたいなもんだもんな」


「ふざ……けるな!」


 怒りで目の前が真っ赤になった。どの口で今もそんなことをほざけるのか。この鎖が引き千切られれば今すぐあの首を羽交い絞めにしてやるのに、頑丈な鎖はびくともしなかった。


 おー怖い怖い、と茶化した声で狼はおどけてみせる。


「頑張ってみたとこで俺には触れないよ、ヴィルヘルム。つまりそれじゃ、俺は殺せない」


 ざーんねん、と狼は尚も笑った。怒りで唇を噛みしめるオレを狼は愉快そうに眺めてくる。蝋燭の揺らめきで狼の表情の陰影も変わって見えた。オレを捉えたものの、どうしようか決めかねているようにも思えた。無駄話をして時間を稼いでいるような。それならこっちも、訊きたいことがある。


「……村の子どもはどうした」


 子ども、と狼が微笑を刻んだ唇で問い返す、やけに赤い、と初めて会った時に印象づけられた唇だ。血を口にしすぎて赤くなったのか、それとも。


「会ったはずだ。母親の意図も読み取れないほど幼い少女が。

 赤い頭巾を被って、狼の目につきやすいように無邪気に歩いて来たはずだ」


 あぁ、と狼は思い出すように視線を転じた。今までの死にたがりとは違う子ね、と続けるそれに少し違和感を覚えた。


「あの子ならあんまり可愛いから――食べちゃったよ」


「――っ!?」


 それが、と狼は笑みを深めた。危険で、それでいて妖艶な、魅惑の笑み。それは性別関係なく獲物を落とす為の武器。妖然とした微笑は数多の人間を惑わせてきた。


「何の関係があるんだ、ヴィルヘルム」


「幼い少女だぞ、母親に騙されたかもしれない哀れな子だ! そんな子どもでさえ、お前は……っ」


「お前に何が解るんだ?」


 笑みが、消えた。


 威圧に、ビリッと空気が震えるのを感じた。狼がゆっくりとこちらへやってくる。


「あの子の何が解る? 見捨てられて、狼の(ところ)に独り放り出されて、いるはずもない父方祖母の為に花を摘んで……それなら騙されたことさえ分からない夢を与えることが傷つけない方法じゃねぇの?」


 傷つけない方法、だと。狼が、人の子を。


 近づく狼の顔から目を逸らさないようにすれば、自然と見上げる格好になった。狼の端正な顔が、涼しく、だが目は燃えてオレを正面から見つめてくる。


 狩られる側なんだ、と唐突に理解した。追っていたものはとんでもない狼だった。今までまるで本気を出していなかったなんて。


「勘違いしてるよ、ヴィルヘルム。俺がお前の妹に咬みついたのは、俺たちの仲間にするしかもう助ける術がなかったからだ。

 野犬に喰い殺されるのと吸血鬼になっても生きるのだったら、どっちを選ぶかなんてお前にも解るはずだ」


 俺は、好きで人は殺さない、と狼は言った。 襲われるから、殺されそうになるから、自分を護るために牙を剥いてきたのだと。


「たまたま咬みついてるとこにお前が来て、たまたま間に合わなかった。吸血鬼だってバレてでも守りたかった初めてできた友達の妹を、咬み殺す訳ねぇじゃん」


「……それが真実である確証は何処にもない。真実は妹にしか分からない。そんなものは、助からなかったんだから関係ない。結局咬み殺された妹は、死にたくないと言いながら死んでったんだ!」


 お前にこそ、何が解る――憎悪と共にその想いを込めてオレは狼を睨み返した。妹と同じ目に遭おうがそれでも良い。力の差は歴然としていた。本気で狩りにかかっているオレとは正反対に、この狼はのらりくらりと平気で(かわ)す。


 それはつまり、オレの実力では狼に触ることさえできず、狼が少しやる気を出せば逃げられないということだ。


「お前が何と言おうと、俺にとってお前は大事な友達だ。だからあんな村人がいるとこには帰さない。

 お望み通り、人里には行かないでやるよ。お前の面子(めんつ)もたつ。その代わり、お前は俺達の仲間だ、ヴィルヘルム」


 やめろ、と言いかけたオレの言葉は狼の唇が塞いで途中で消えた。身を捩って逃れようとしても、狼の力は恐ろしく強く、びくともしない。


 狼の舌が俺の下唇を這った。痛んだのは怒りで唇を噛んだ時にでも切ったのか。滲んだ赤を舐められたような気がした。


 僅かに顔を離した狼が次にしたのは、自分の唇を噛んだことだった。ぷつりとすぐに赤い唇の上で盛り上がる更に赤い雫を自分の舌で掬い取り、その舌を無理矢理オレの口内にねじ込んでくる。オレは目を白黒させたが逃れることはできなかった。


 自分の唾液と共にそれをこくんと飲み下してすぐ、喉の渇きがオレを襲った。焼けるようだ。早く何か飲みたい。潤いを。早く。


 藻掻いて暴れるオレに、狼が今度は自分の手首を咬んでぼたぼたと赤を滴り落とした。オレの目はそれに釘付けになっていた。どうした、と残る理性が歯止めをかける。お前は人間だ、そんなもの、必要ない。口にしたら最後だ。


 だが、狼が容赦なくオレの顔に滴る赤を落としてくる。あえぐように開いた口に待ち望んでいたものが潜り込んできて、オレは無意識に動ける範囲で狼の手首に近づき一心不乱に滴る赤を飲み込んでいた。


 焼けつくように乾いていた喉に染み渡っていく。これが欲しかったんだと体が喜ぶ。


 理性の声はもう遠くなっていた。


 狼が腕を離すまでひとしきり貪った。オレの顔は口元を中心に真っ赤に濡れているだろう。それでもまだ僅かに残った理性が遠くから怒りに震えた。


「ふざけやがって……!」


「俺はふざけてない。いつだって大真面目だ」


 とにかくこれで、と狼は笑む。多くの血を流したからか、白い顔をしている。


「俺たちの仲間だ、ヴィルヘルム。お前も人間から狼と呼ばれる種族の仲間入りだ」


 腕の止血をした狼はオレの短く切った髪を掴んで上を向かせる。痛みで顔をしかめるオレに、狼はまた妖艶に笑んでみせた。


「吸血鬼は仲間を裏切らない。

 これでお前は俺を殺せないし、俺はお前を手放さない。お前はずっと俺の傍にいることになる。俺のところに、赤頭巾がいる限り。

 お前は狩人だった。赤頭巾を助けるために、狼を狩るためにやってきた。けれどお前はもう、狩人の記憶を残した狼だ。お前が生きられるように理由を与えてやるよ。狼になってもお前は、助けられなかった妹の代わりのように赤頭巾を守る。そうだろう、業深い守護者(ヴィルヘルム)


 何てことをしてくれたんだ、という思いが怒りを通り越して絶望へ変わった。同時に、何てことをしてしまったんだ、と自分への落胆と恐れが胸に湧き上がる。


 悔しかった。オレはずっと無力で、誰も守れなかった上にあろうことか敵側へ寝返ってしまった。ずっと追ってきた宿敵に仇討もできないまま。与えられた理由に縋っていくしかないのか。


「お前を死なせはしないよ。俺の、初めての友達だから。どんなに憎悪を向けられたって、俺にとってその事実は変わらない」


 慈しむように微笑む狼の顔はこの世のものとは思えないほど美しかった。かつて妹と一緒に森の奥で見かけたあの、神秘的な少年の姿そのままで笑いかけてくる。


 あの日、狼がいると聞かされていたにも関わらず森の奥へ踏み込んだ幼い兄妹への天罰か。狼と気づかず日が暮れるまで遊んだあの頃はもう二度と戻らないと知りつつ、狼はそれをまた夢見て望んでいる。妹を喪った兄はずっと、赦されないまま。


 狼が手を離して部屋を出て行く。オレは力なく項垂れたまま、蝋燭の火が燃え尽きた後も動けずにいた。


 人の道を外れ、与えられた生を延ばしてしまった狼としての罪を(あがな)う運命を呪いながら。



改題:赤頭巾の狼が見る夢は

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