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Violet Noir  作者: 江藤樹里
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Platinum Doctor and White Sister



「シスター、またね」


「ええ、また明日」


 村の幼い少女を見送って、白い修道女は笑みを零す。教科書を胸元に大切そうに抱えて、少女は少し駆けると振り返って大きく手を振った。夕陽を背負っていてもその顔がにこにことしているのは此処からでも分かる。修道女も小さく手を振った。


 夕陽に向かって再び駆け出した少女を見えなくなるまで見送って、修道女はふと昔にも、ああやって去っていく少年がいたことを思い出した。


 彼は今どうしているだろう。肉親を流行り病で亡くした彼は、医者になると街へ出て行った。修道女の元で字を学んだ、プラチナブロンドの美しい髪の毛をした少年は、念願叶えたのだろうか。


もう十年以上も前になるが、修道女は教会を移ったので少年のその後は知らない。だが新しい村でも字を教え、神に仕えながら同じ生活を繰り返している。生きていればそのうち噂を聞くこともあるだろう。修道女はそう思い直した。


 ふと、遠くで雷鳴が響く。そろそろ暴風雨の季節だ。夕陽の向こうから夜闇とは別の黒い雲が近づいているのを見て取って、修道女は教会に籠った。畑の作物はほとんどが収穫済みであるし、教会が吹き飛ばなければそれで良い。


 修道女は祭壇の前に跪き、祈りを捧げた。


 教会に、神父はいない。修道女の彼女ひとりだけだ。元々が大きな教会ではないし、訪れる人も日曜のミサに来る村人くらいだ。熱心な信徒はいない。学校としての役割の方が期待されている。


 ひとり細々と生きていければ、他には何も要らない。


 祈りを捧げている修道女の耳に、段々と近付く雷鳴に混ざって、ドンドンと激しく扉を叩く音が届いた。


 何かを喚いているが降り出した雨に掻き消され、修道女まで届かない。修道女は立ち上がって、そっと扉を開いた。


「──きゃっ」


 修道女の方に、何かが倒れかかる。人間の、男だ。まだ若い。


 雨に濡れた帽子と外套を纏ったまま、青年は早口で何かを言う。


「すみません……突然の雨で……泊めて下さると嬉しいのですが……」


「勿論構いませんわ。躰が冷えていらっしゃるでしょう? 今すぐ温かいスープを用意しますね」


「申し訳ない……感謝します」


「主にこそ感謝を」


 修道女は青年を身廊の先へ案内する。祭壇に向かった青年が十字を切り、荷物を下ろすのを認めてから修道女は台所に向かい、鍋に火をかけた。教会の裏にある畑で収穫した食材を入れて、ぐつぐつと煮込んだスープを温め直す。


 一旦、聖堂に戻って青年に声をかけた。


「濡れてしまわれたでしょう? どうぞお躰を拭いて着替えて下さい」


 そう言って上等ではないが洗い立ての清潔なタオルと、簡素な服を渡す。青年は礼を言って、修道女からそれらを受け取った。


「何から何まで……ありがとう」


 青年がふと修道女を真正面から見つめる。そして瞠目した。


「シスター・カレン……?」


「!」


 それは修道女が以前の村で使っていた名だ。あれから何年も経っている。


「驚いたな……あの頃のままだ!」


 青年は帽子を取る。さらりと流れた金の髪は、眩しい程のプラチナブロンドだ。


 その青年に、先程思い出していたばかりの少年の面影を見つけ、修道女も声をあげた。名を確認すれば間違いないと言う。


「まさかまた会えるなんて! 何て偶然なんだ!」


 青年は興奮しきりで、修道女を抱き締めた。まるでまだ少年のような無邪気な所作と笑顔で、青年は修道女を見つめる。


「良かった。村に戻ってシスターは別の村に行ったって言われてから、ずっと諦めていたんだ。

 だけどまさか往診の途中で立ち寄った教会にいたなんて……思いもよらなかった」


「往診って……お医者さまに?」


 いつかの少年は夢を叶えていた。駆け出しの医師として、働いているらしい。修道女は胸の前で手を合わせて喜んだ。


「おめでとう!」


「これもシスターが根気良く字や計算を教えてくれたおかげだ。

 ずっと、会って礼を言いたかった」


 青年は帽子を胸の前で抱え、いつの間にか背を追い抜いたシスターを見下ろして、柔らかく笑んだ。そして礼を口にしようとした瞬間。


「くしゅん!」


 乙女のようなくしゃみをして、タイミングを逃した。


 修道女は小さく笑う。


「まぁまぁまぁ、風邪を召しては大変だわ。とりあえず着替えてしまって下さいな。すぐにスープをお持ちしますわ」


 修道女は台所に戻り、良い具合に沸騰したスープを器によそって青年の所に持って行った。青年は簡素な服に着替えて、髪の毛をわしゃわしゃと拭いていた。


「さぁ、どうぞ」


 二人で神に祈りを捧げ、青年は木のスプーンで木の器からスープを掬う。湯気をたてるそれを一口飲んで、息をついた。


「美味しい……」


「ちゃんと食べてますか? 医者の不養生は良くないわ」


 修道女がそう言えば、青年は表情を暗くした。着ている衣服から見て、食べる金がない訳ではなさそうだった。しかし修道女は青年が食べていないことを、顔色から悟っていたのだ。


「医者になって……痛感することが本当に多いんだ。今の医学では治療する術がない。技術も知識も、分からないことが多すぎる」


 青年がぽつりと呟く。修道女は目を伏せて、同じように呟いた。


「救えない命が、あったのね?」


 青年は頷いた。教会の中で、温かな雨が降る。


「両親と同じ病気なのに、あの頃と同じで何も出来ない……医者になっても、指を咥えて患者が弱っていくのを見ていることしか出来ない」


 カタカタと震える青年の手を、隣に座る修道女は優しく包んだ。


「それでもこうやって、貴方のような医師が悔しがる限り、医学は進歩していくものだわ。今は無理でも、将来必ず、病気の原因や治療方法が見付かる筈」


「それじゃ遅いんだ……小さな命を、救えない」


「命は、小さくなんかないわ」


 修道女の言葉に、青年は顔を上げた。昔からの端整な顔に、修道女は微笑みかける。


「命は、主が与えたもう大きなもの。簡単なことで失ってしまうけれど、誰も想像出来ない回復力だって、持っているのよ。医者である貴方になら、解るでしょう?」


 微かに青年が頷いた。修道女は益々柔らかく笑む。


「命は小さくなんかないけれど、ひとりの人間に出来ることは限られてしまう。救えない命も、勿論あるわ。でも救えない命ばかりじゃ、ないでしょう……?」


 大丈夫、と修道女は囁いた。青年は修道女を見つめて続きを待った。


「主は迷える子羊を、貴方を、見捨てない」


 青年は目を閉じ、小さく笑い声をもらす。目尻からは透明な雫が流れていた。


「シスター・カレンには、敵わない……せめて両親と同じ病の治療法が見付かるまで、生きたいよ」


 ザワ、と外の風が激しくなって森の枝木をざわめかす。大きな雨がステンドグラスを叩いて象られ彩られた聖人の頬を濡らす。雷鳴が一瞬だけ光り、近くでゴロゴロと鳴った。


「生きられるわよ」


 修道女が言った。外で騒ぐ音よりも小さな声なのに、青年の耳にしっかりと届く。


「貴方にその気があるのなら、何百年も生かしてあげる」


 修道女の修道着と同じ白い、細い指が、青年の腕に触れた。そのままツツ、と滑って上ってくる。青年はゾクッと背筋に悪寒を感じつつ、痺れるような甘さも覚えていた。


「神様の見ている前で、」


 修道女の声に揺れるように、蝋燭の灯がいくつか消えた。聖堂は暗くなる。修道女の白が、ぼんやりと浮かび上がって其処にいることを幽かに知らせる。


 祭壇の前にある数本の蝋燭だけが、ゆらゆらと儚い明かりを放っていた。


「永遠のような時間と甘い闇をあげる」


 修道女の甘い吐息が、青年の首筋をくすぐる。温かな柔らかい舌で舐められて、青年は思わず小さな息を吐いた。


「え、いえん?」


「そうよ。好きなだけ、医学に没頭すれば良いわ──吸血鬼になって」



 青年の意識は、痛みに薄れていった。




Platinum Doctor and White Sister,fin.



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