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Violet Noir  作者: 江藤樹里
16/20

Red Moon and Red Hood


 赤い満月の夜。


 黒い森に赤い光を投げかけながら、月は私の走る道を照らす。私は上がる息を抑えられないまま、背後から追ってきているのではないかと怯えつつ狼を警戒して走った。


 人は誰もいない。けれど野生の気配が漂う暗い森をただただ走って、狼から私は逃げ出した。


 彼は兎を追いはしない。楽しそうに笑んで、時折ふと残忍な光をその目に宿らせる。その光を一度でも見てしまえば自分は捕食される側なのだと思い知らされて、震えることしかできない。けれど困ったことにその狼は、私のことを何故か気に入ってしまった。


 力ある狼に見初められて、首の皮一枚が繋がった状態でなんて精神がもたないの。


 耳元で風を切る音が狼の足音に聞こえて、私は何度も背後を振り返る。けれど見えるのは暗闇ばかりで、時折赤い月が暗闇に潜む生き物の目を光らせて私は息を呑んだ。でも狼の匂いが染みついた私に襲い掛かってくる野生はいない。この匂いは魔性だから。


 もう少し、もう少し。


 遠いけれど家の灯りは見えていた。見慣れた花畑まで、この木立を抜ければすぐだ。


 母は、泣いているかもしれない。祖母は、母を責めているかもしれない。


 元気なこの姿を見たら安心してくれる筈だ。おかえりと抱きしめて、もう離さないと息もできないほどに。


 伸ばしっ放しの黒髪が風になぶられる。走る体勢が崩れかけて、地面に手をついた。暗闇の中に浮かび上がる、白い、私の手。狼に舐め回されて、何度も虚空を掻いたこの、手で。


 私は懸命に足を動かして懐かしい戸口を叩いた。ぼんやりと見えた懐かしい家の戸を、ひたすらに叩く。


 ああ、早く開けて。狼がこの身を食い千切る前に。狼と契ってしまったこの身が呑まれる前に。


 少し間があって、古めかしい木製の扉が開く。其処にいたのは、笑顔からは遠く離れた表情を浮かべる母と祖母。


 昨日よりも綺麗なドレスを着た青ざめた顔の母、慌てた祖母が立ち上がって猟銃を取った。テーブルの上に山と積まれた金貨を見て私は首を傾げた。どうしたの? 何を売ったの?


「……どうして戻って来たんだい! あんたあの狼をどうしたって言うんだ!」


 母さん、どうしてそんなに怒るの? 狼からは逃げて来たのよ。こんなに汚れてしまったけど、私、命からがら逃げて来たのよ。おかえりって、抱きしめて。


「追って来たらどうするんだい! 相手は不死身の、吸血鬼だよ! 何処の協会のハンターだって仕留められない! 約束を反故にはできないんだ!

 ――まさかあんた、吸血鬼にされてないだろうね……っ!」


 母の形相に、私は其処に鬼を見た気がした。私の母さん。父さんが流行り病で死んでからいつもイライラするようになったけど、私は母さんの優しい笑顔を覚えている。いつかまたあの頃みたいに笑ってくれるって信じていた。こんな風に鬼の形相を見たかったわけじゃないの。母さんに会いたくて戻って来たのに。


「叱るでないよ、戻ってきちまったものは仕様がないだろう」


 祖母ががちゃん、と音を立てながら猟銃を私に向けた。私は自分の背後を振り返る。夜の空気の中に立つ私の後ろには、暗い森がそびえるだけだ。魔性も野生も全てを飲み込む、黒い森が。


「あたしらにまで、吸血鬼の疑いをかけられたら堪んないからねぇ……これで一思いにやって、湖にでも沈めちまうしかないさ。ほら、どこぞの村で狼の腹に石を積めて湖に沈めて仕留めた例があっただろう」


「……そうね。そうじゃなきゃ何のためにあんたを森へ送ったか分からない」


 何の、何の話をしているの。どうしてそんな目で見るの。私、何か悪いこと、した?


「あんたがいると、折角入った謝礼も全部なくなるんだよ! やっと食い扶持減らしたと思ったら、またのこのこ戻って来ちまった! 森を抜けた先にある父さんのおばあちゃんの家には辿り着いたのかい? そこで綺麗なドレスを着せてもらってどんな趣味があるかも分からない金持ちの子になるんだ! 

 もう此処に、あんたのいる場所はないんだよ!」


 何がいけなかったの。うちが、貧乏だったから? 父さんが流行り病で死んでしまったから? それとも。


 それとも、要らない子どもだった――?


 祖母が引き金を引くのと、私の視界を大きな手が覆って奪うのと、ほぼ同時だった。祖母の猟銃は不発だったのか、何の音もしなかった。そして視界を覆う、この数日で嫌というほど触れられたその大きな手。骨っぽくて、でも記憶の中の父さんみたいに愛おしそうに触れてくれる、優しい手。けれどその覆った手も、頬を伝う雫だけは止められない。


 売られたことにも気づかないで、また温かな腕に抱いてもらえると思って戻って来た。抱きしめてほしかっただけなのに。おかえりと、此処にいて良いんだと、確かめさせてほしかっただけなの。何て莫迦な、赤い頭巾を被った子ども。


「何だい、あんた!」


 母の金切声の後に、手と同じくこの数日で嫌というほど聞いた、狼の声がした。だけどいつもの優しさは、ない。


「誰でもない。人間だった時の名前は、捨てちまったからなぁ」


 冷たい声だった。憎悪さえ滲んだように聞こえたのは、私がそう感じたからなのだろうか。


 狼の腕に力強く引き寄せられた。もう、何処にも行けない。母と祖母も見たなら、私が狼に食べられてしまったことにも気づいただろう。


 あぁそうだ、と狼は思い出したように言葉を続ける。


「この辺の人間は、狼って呼んだっけ」


 母と祖母の息を呑む音がした。


「あ、あんた、吸血鬼――」


「そう、呼ばれたこともあったか」


 狼は私の視界を奪うために右手を使った。左腕で私を引き寄せた。右手は私の視界を覆ったまま、私を右腕に抱えるようにして離した左腕を狼は振るったようだ。風を切る音がして、代わりに母と祖母の声は一瞬の後に聞こえなくなった。そして、噎せ返るような、血の匂い。


 ――どうして。


 呟いた、声にならない私の声を狼の鋭い聴覚は捉える。今まで見るだけで味わったことのない砂糖菓子のような甘さを含んで、狼は言った。


「ごめんな」


 どうして、謝るの。


「もっと早く、片付けておくべきだった。愛を与えるより先に」


 愛?


「俺は愛を、愛は、口にしない。重たすぎて、口にしたら薄すぎて、俺は愛を伝えられない。

 だから、行動で示す。満たされればもうこの場所には戻ってこなくなると思ってた……俺じゃお前を満たせなかったか」


 ……泣いてるの。


「解ってたんだけどなぁ……」


 狼の声が震えているように感じられて、私は何も言えなかった。この数日、求めたのは私だったのか、それともこの狼だったのか。愛してと願っていたのは、果たして。


「人間なんて、汚いもんだ。だけど親はどんなのだって特別だろう? だから手にかけたくなかった。

 此処に戻りたいって思わせないのが一番だと思ったんだけどなぁ……出来なかったな」


 愛されていると、思ってた。


「そうだな。でも、人間は変わる。金が絡むと余計に変わりやすい。口実があれば、自分の子どもですら、手放せる」


 それが、人間?


「……そうだな、人間には、そういう面もある」


 それじゃ、狼は?


「吸血鬼は……一旦、仲間だと認めたら裏切らない。裏切った奴は必ず制裁を受ける」


 それなら、吸血鬼にして。貴方の仲間にして。


「……」


 狼は黙ってしまった。何と言ったものか、と言葉を探しているような気配がした。


「裏切った奴はもう仲間じゃないから、俺らは“仲間は裏切らない”なんて言える。別にどっちも良いもんじゃない」


 でも私、もう人間でいたくないの。


「けど……」


 愛を、くれたんでしょう? それだけで充分よ、他には何も要らない。理由だって、要らないわ。


 ずっと、貴方の傍にいるから。


「……それじゃあ、俺に名前を頂戴」


 真剣な声がして、私は思わず振り向くと狼を見上げた。狼は夜風の向こうに立って、苦しそうに私を見つめている。名前は捨ててしまったと言っていた。ずっと狼と、吸血鬼と呼ばれて、でもそれは彼を指すことにはならなくて。彼が彼として在るために必要ならば。


 その目に揺れる思いを見つけた気がして、私は口を開いた。


 そんなに名前が欲しいなら、あげるわ。貴方にぴったりの、名前。


「赤月」


 狼――赤月――は、嬉しそうに笑んだ。ギュッと抱きすくめられて、何も見えない。


「ありがとう、俺の、赤ずきん」



 赤い満月が、兎に牙を立てる狼を、見下ろしていた。





Red Moon and Red Hood,fin.


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