14 同じ世界に住む者
ローズベルト。紫音はその単語に聞き覚えがあった。
あの、話だ、と紫音の記憶が蘇る。ハロウィンコーナーで吸血鬼の紹介を見ている時に霧黒が語った、お化け屋敷の設定だ。
だがあれは、霧黒の地元に伝わる昔話ではなかったのか。だが、だがしかし。
全て真実だったなら? 伝承ではなく、本当に“霧黒自身が体験している”としたなら?
本当に、ヴァンパイアなのだろうか──?
* * * *
「遅いな……」
白異が車のハンドルにもたれかかるようにして呟いた。後部座席で紫音がいるだろうと見当をつけた部屋を見ながら蠱墨が反論する。
「今回の霧黒様は慎重ですよ。ローズベルトの領主として、エグゼクラーブル・ラスの長として花嫁候補を迎えに行くんですから」
分かってるよ、と白異が笑う。
「上手く行っていれば良いんだが」
大丈夫、と今度は失墨が答えた。
「……薔薇の拘束は、甘く痺れる……」
「彼女は既に侵食されています。元々、僕達と近い場所にいる」
そう、と白異は目を閉じて笑む。万聖節のポカポカとした陽光がこの身にも心地良い。
「闇と薔薇に侵食され始めたら、寵愛を受けるしかないな」
* * * *
コツコツとまた霧黒が歩き始める。紫音もそれに合わせるようにして左へ左へとずれて行く。
遂に紫音がキッチンを通り抜けて浴室へ回り込み霧黒はリビングに出た。彼はそのままテーブルに紫音のスマホを置く。そしてクス、と笑った。
「鬼ごっこですか。良いでしょう、逃げて下さい」
紫音は震えた。捕まってはいけない。妹も、守らねばならないのだ。
コツコツと霧黒は玄関へ戻って行く。紫音もガタガタと震えながらリビングへ戻った。
霧黒は玄関へ戻っては一定の速度でこちらへ戻ってくる。紫音は悲鳴が出ないように片手で口を押さえた。
「!」
また霧黒の歩みが変わった。方向を変えて戻って来る。繋がる扉があると知らない筈なのに、紫音を玄関へ行かせまいとしているようだ。
紫音の押さえた口から嗚咽のような息がもれる。息が出来なくなりそうだ。
「!」
またも、霧黒の歩みが変わる。紫音は泣き出したくなった。
彼は間違いなく楽しんでいる。自分を追い詰めて、ゲームだと思っている。彼もまた、“魔女狩り”を実践しているひとりだ。
何を、期待していたのだろう。同じ趣味を持つ者同士ならと思ったのだろうか。
裏切られた。振り回された。もうあんな思いは沢山だと思ったのに、信じてしまった。
赤の他人同士が手を取り合えるなど、ないと知っていたのに。親子でさえも簡単に他人になれる人間に、孤独以外を与えられはしないと。
残酷になりきれなかった大人になった子ども。慈愛があることを幼い頃に知ってしまったが故に、心の奥底でそれを渇望する子ども。
けれどいつも、飢えたまま。
クス、と笑い声がした時にはもう遅かった。紫音の目の前に霧黒が現れた。
「ひ……っ!」
伸ばされる霧黒の腕から逃れようと紫音は両手を突っ張った。だがその拍子に抱いていた妹の手が霧黒に掴まれる。
反動で紫音は尻餅をついた。が、すぐに体を起こすと霧黒を床から見上げて言う。
「スールを放して!」
「妹? 彼女がですか?」
霧黒は驚いてスールを抱き上げた。九十センチの妹は霧黒の腕に収まってしまった。
「お願い、放して! 傷つけないで! 大切な妹なの!」
紫音がそう訴えると、霧黒は微笑を浮かべて小さなスールの頬を撫でた。白い霧黒の手が、スールの陶器の肌を滑る。
「紫音さん、貴女は私に『共感する』と仰った。お化け屋敷の少年の設定に、私の語った私自身の過去に。
『酷い』と一言で終わらせられる私の過去に、貴女はそれ以上を感じると仰って下さった。嬉しかったです」
美しい霧黒の微笑に刹那影が走る。哀し気な色が浮かんで、すぐにまた戻ったのを紫音は見た。
「そう感じたのには、何か理由があるのでしょう? このようなビスクドールを“妹”だと思い込むような、何かが」
紫音の瞳が、見開かれて怯えに揺らいだ。
「ビスク……ドール……?」
「ええ。磁器製のドールです。そんなに高価な物ではなさそうですが、オールビスクですから割れますね」
霧黒はスールの片手を上下させた。ドレスの姫袖がひらひらと揺れるのを紫音も見る。
「何故こんな飯事の真似など?」
「違うわ! そんなでたらめ言わないで下さいっ。スールはちゃんとした私の妹です!」
霧黒はスールの手を動かすのを止めた。
「では妹さんのお名前は? 妹の意味を持つ言葉をあてるだけでは、貴女の方がでたらめを言っているように聞こえますよ。
言ったでしょう? 全て、受け入れてしまいなさいと」
紫音の表情が引きつった。叫び声でも響くかと霧黒は思ったが、そうではない。衝撃が強すぎて声を出すことすら出来なくなった様子だった。
「あ、あああ……っ」
紫音は手を顔の所に持って来る。爪を立てて引っ掻こうとするのを、霧黒は屈んで止めた。
「やめなさい。折角の顔が台無しになりますよ──親から貰った顔が」
紫音の、ただでさえ大きな目が見開かれてもっと大きくなる。怯えに揺れるその瞳を覗き込んで霧黒は囁くように言った。
「本当は、全部解っていたのでしょう? 人形が妹である筈がないことも、全て、受け入れていたのでしょう?」
霧黒の深いグレーの瞳を見つめて紫音の顔が泣きそうに歪められる。
「ただ……私を見て欲しかっただけなの……」
それは、お化け屋敷で少年が言った台詞と同じ。霧黒の過去と同じ。それを聞いて霧黒は目を細めた。
「“個”というものを、“私”を、知って欲しかっただけなのに……」
だから、紫音は。
「私は……悪魔の子なの……?」
全てを拒絶したのだ。
「ママが産んだことを否定したら、私は誰の子になるの……っ?」
お前は、私達の子ではないと、言われる前に。
「紫音さん」
ずっと飲み込んできた言葉を吐き出す紫音の掴んだ手を優しく握り直して霧黒は紫音の名を呼ぶ。紫音の瞳は涙を一杯に溜めて、今にも溢れてしまいそうだった。
「貴女も過去に、子どもの自分を置き去りにして此処まで来てしまったのですね」
霧黒が呟いた。次いで、笑む。
「それならば迎えに行ってあげなさい。子どもの自分がそうやって泣いているのなら抱き締めて差し上げなさい。精一杯、力強く」
其処にあるのは、きっと愛だから。
「そして一緒に、連れて返って来なさい。心配する必要はありませんよ。
貴女も、神の子どもであるのですから」
悪魔の子でも良いではないか。堕天使もまた、神が生み出した子どもなのだから。疎まれても慈愛は等しく注がれる筈だ。
「むく、ろ、さん……」
「はい」
紫音は霧黒に掴まれた両手で、霧黒の頬を包むように触れた。此処に存在していることを確かめるように。
「私、も、あまり恵まれた環境ではありませんでした。いえ、恵まれてはいたんです。私が、変だっただけで」
霧黒はただ優しく笑む。紫音は時折顔を歪め、想起による痛みを今まさに感じながらも話すことを止められなかった。
「優しい人達でした。私が変だったばっかりに、悲しませてしまいました。物心がつかなければ、良かったんでしょうか。自我がなければ、愛されていたのかも」
人形を妹と思って愛でたように。飾り立て理想の愛を注いだ。愛された。だから育つことができた。変だと言われることは隠して見せないようにした。隠しきれるものではなかったけれど、隠そうとした努力は認められたのかお互いに違和感を覚えながらも表面上は家族として機能していた。
けれどそれは決して自分が望んだものではなかった。本物ではあったのだろう。でも、欲しいものではなかった。
紫音が人形を愛でるように両親は紫音を愛でた。飾り立て、言うことを聞く存在だから愛を注いだ。両親の理想の娘であればという条件の下で。
「でも私は、卵の殻を自分で突いて破ってしまったんです。自分の“好き”を自覚して貫こうとしたら、周囲から指を刺され、あの人達を悲しませてしまった」
悪い子でした、と紫音は言う。
けれど世間一般の“良い”を自分では“良い”と思えなかった。自分が“良い”と思うものは、“良くない”ものに分類された。周りでは誰にも理解されなかった。理解してくれないなら必要ないと強がった。
「“私”が何を好きで、“私”がどんな存在か、興味を持って欲しかっただけなんです。知って欲しかっただけなんです。けれど“私”のことを求めすぎて、私は“周り”を知ろうとしなかったんでしょうか。だから追い出されてしまったんでしょうか」
ひとりでも平気だと思ったのに、独りは恐ろしかった。物言わぬ人形を妹と思ったのは、意志持つ存在に怯えていたからかもしれない。両親と同じだった。ただ、両親は動く人形を産んでしまった。意志を持つ可能性のある人形を選んでしまった。だから紫音は、物言わぬ人形を選んだ。両親よりも臆病になって。
「距離を置いて関わらないようにすれば楽でした。解ってもらえなくて当然だと思えば、解って貰おうとしなければ、仕方ないで片付けられました。でも、寂しかった」
ええ、と霧黒が頷く。目元を拭われて紫音は初めて自分が泣いていたことを知った。
「私は何が変だったんでしょう、何が駄目だったんでしょう。どうすれば、愛してもらえたんでしょう」
足りない、足りないと、一度知ってしまった愛を渇望する紫音の姿を過去の自分に重ねて霧黒は慈しむように笑んだ。恐らくはティーパーティー中に見た自分達の様子から羨望を覚え、紫音は心の奥底に押し込めていた感情を思い出してしまった。萌黄に導かれながら言葉にしたことで自覚してしまった。
「『愛はゲームじゃ手に入れられない。何を賭けても、どんな打算をしても、手に入らない』と言ったのは、萌黄でしたね」
霧黒は静かに言葉を紡いだ。紫音は潤んだ目で霧黒が何を言おうとしているのか推し量るように見上げている。
「貴女は誰からの愛が欲しいですか。ご両親、ご友人、それとも誰でも良いからと願っていますか」
霧黒の言葉に促されるように紫音は考えた。求めていたのは両親からの愛だった。けれどそれはもう、恐らく何をしてももう手に入らない。壊れたものは元には戻らない。綺麗な形の愛はもう、二度と。
「私はゲーム感覚でこの国へ訪れました。一縷の望みをかけて、けれど効率良く打算的に同胞として迎え入れたいと思える人を探していた。私の見て呉れに、多くの女性は歓迎してくれましたよ。こればかりは両親がくれた顔に感謝しなくてはならないんでしょうね。
けれど、それだけでした。ヴァンパイアの話を出せば冗談が上手いと嗤われ、ヴィオレノアールのお化け屋敷のストーリーは私が持ち込んだと言えば気を引くために“恐かった”と口にする。貴女のように、主人公の少年に想いを馳せてくれた人はいませんでした」
美しく人形めいた霧黒の顔に、造り物ではない穏やかな微笑が浮かぶ。紫音の目にはほんの少しのきっかけで泣き出してしまいそうに見えた。
「紫音さん、貴女は私と向き合って下さった。私の過去を見つめて想像して下さった。とても、感謝しています。
だから私は貴女とこの先の長い人生を歩いて行きたいと願うのです。貴女の気持ちを無視してでも、力づくでも連れて行きたいと。けれどもそれでは私の欲しい貴女の愛は手に入らないのでしょう。ですからこれは“お願い”です。
どうか、一緒に、ヴァンパイアの世界へ来て下さいませんか?」
霧黒の言葉に紫音はただ不思議そうに首を傾げた。
「私で良いんですか? 何もないのに?」
霧黒は小さく笑った。言い聞かせるように紫音の目を覗き込んで霧黒は優しく言葉を続ける。
「貴女は充分に魅力的ですよ。愛されたいと願う貴女が私の愛で満たされてほしい。そう思わせるほどに。ですが私の領地へ戻ります。この国を離れるので貴女には負担をかけるでしょう。ヴァンパイアの問題にも巻き込んでしまうかもしれない。それでも貴女に一緒に来て欲しいと願う私の我儘を、聞いてくれませんか」
ヴァンパイアの問題、と紫音が繰り返す言葉に霧黒は頷いた。
「ほとんどのヴァンパイアは大抵の人と同じように生活しています。体質変化もして太陽や十字架、ニンニクくらいでは灰になりません。火葬されれば灰にはなりますけどね。今や人間とほとんど変わらない」
だが先ほどやって見せたように人間より体が遥かに丈夫になり、歳は二十年にひとつだけ、病気もしない。霧黒はそう言った。
「お疑いなら実際になってみますか? 紫音さんなら皆歓迎しますよ」
「どうやって……牙もないのに」
霧黒の口元をじっと見て呟く紫音に霧黒は微苦笑した。
「まさか映画のように牙を突き刺すと思っているのですか? そんなことをしたら痛いではありませんか。それに昨日あの妖精さんに痛い思いはさせるなと言われましたし、貴女にそんなことはできませんよ。
私の場合は白異にアンプルを注射して貰いました。けれどあれは貴女には向かない。伝統に従いましょう」
吸血鬼の血を飲めば良いのだと霧黒は言った。そうすれば、人間は吸血鬼になると。
「私と一緒に、理想郷を目指しましょう。
ヴィオレノアール──紫黒の夢を」
霧黒は吸血鬼の在り方について新説を提唱している側の立場だと紫音に話して聞かせた。体質変化は人為的に起こすことができる。ヴァンパイア専門の医師が長年の研究の果てに開発した薬を用いて体質変化を起こせば、人間に紛れて暮らすことは昔に比べて苦ではなくなった。何十年も一緒に過ごすことは難しいが、居所を変えれば新たな関係を築いていける筈だと。闇に隠れ潜むのではなく、吸血鬼になるまでそうだったように人として生きても良いのではないかと。
「ただ、旧い時代からヴァンパイアとして恐れられてきた者達の中には、今更どうやって人として生きていけば良いか判らないという者もいます。人としての生はとっくに終わりを告げ、人の生き血で生き抜いてきた彼らは体質変化を恐れる。
紫音さん、ヴァンパイアは一度死んだ肉体が蘇ったものと言われています。あながちそれは過去においては間違っていないのです。体質変化をする前は、人の生き血がなくては動くこともできなかった。仮初の命だとしても、それを繋ぐのが生きる誰かの命そのものであったとしても、一度は死を体験していたとしても、人は死を恐れる」
人だった頃のことを覚えている証拠なのですけどね、と霧黒は悲しそうに苦笑した。
「誰かの血で繋ぐそれは、一度終わりを迎えたと言っても命とは違うのでしょうか。再び目を覚ましたなら、生きていると言えるものではないのでしょうか。彼らはそう思うからこそ、自身を正当化して人を襲ってきた」
誰かの犠牲の上で成り立つのが命でなくて何なのだろうと彼らは言うのだと。紫音はその主張を全否定することはできなかった。紫音だって日々、何かの命の上に生を繋いでいる。それに人が加わっただけなのではないか。倫理に反すると言っても、それは日常的に行われていることだ。人を犠牲にして人は自分の幸せを維持しようとすることがあると、紫音は嫌と言うほど知っている。
「人の口にする食べ物がどのようなものだったか忘れてしまった者、人の生き血に傾倒した者、人の生き血なくては体を維持できないと恐れる者――彼らは古参派と呼ばれ、時には過激な行動にも出ます」
昨夜の事件はそれでした、と霧黒は目を伏せて言った。彼には可哀想なことをしたと。
「我々の近くにいたせいで犠牲になってしまったのでしょう。古参派が私達に罪を被せようとしたのでしょうが、私達の無実は証明されました。彼には私達が人間とは違うこと、今日貴女を迎えに行く話を聞かれていたので、あんなメッセージを残したのでしょうね。古参派にはその意味が分からなかった。だからあえて残した。
ですから私もあながち関係ないとは言えない──透子さんの仰る通りです。鋭いですね」
霧黒は笑んだ。その言葉に紫音がハッとする。
「大変……透子が来るわ」
最初の電話から何分経ったのかは分からないが、もうすぐ其処まで来ているだろう。紫音は慌てて言った。
「早く行かないと透子が来ます。何か持って行った方が良い物とかありますか?」
「……来て、下さるのですか?」
驚く霧黒に紫音は頷いた。
「霧黒さんも、私を見て下さった。貴方について行くのに、それ以上の理由は要りません。貴方が好きかは判りません。その、素敵な方だなとはずっと思っていましたし、正直な話好きなんだと思います。でも、私は霧黒さんが求めているような女性ではないし、誰でも良いから愛して欲しいと思っているところにたまたま霧黒さんが手を伸ばしてくれただけなのかもしれない。そんな私でも、赦してくれますか?」
クス、と霧黒も笑うとハットを押さえた。人形を置き、紫音に片手を差し出す。
「それでは共に行きましょうか、お姫様」
確かにあの妖精はお見通しだったのだと紫音は思った。霧黒が吸血鬼であると見抜き、紫音がその吸血鬼に魅入られていることを知っていた。
それに紫音は初めて霧黒と会った時に、気づいていた。
「──はい、王子様」
彼が自分と“同じ世界に住む者”だと──。




