12 運命の動き出す音
は、と紫音が気付いた時、世間では聖者の日を迎えていた。枕元でセットした覚えのない鳥の鳴き声の目覚まし時計が鳴っている。この音で目が覚めたようだが、いつの間にベッドに横になったのだろうかと紫音は疑問に思った。
「……?」
昨夜は自宅に帰ってからの記憶が一切ないが、きちんとナイトウェアを着てメイクも洗ってベッドで眠ったらしい。だが風呂には入らなかったのか髪にはクセがついていた。
学校はあるが、今日は二講目からだ。まだ時間もあるしゆっくり湯につかろうと紫音はベッドから起き上がった。
リビングのソファには小さな妹が座っていた。
「おはよう。昨日はごめんね、寂しくなかった?」
「大丈夫よ、お姉さん」
妹の返答に微笑んで紫音は湯をはり、ゆっくりたっぷりと入る。
そうして約一時間後、髪も乾かしビスチェを着てドロワーズをはいた紫音がリビングに戻って来た。そしてテーブルの上でスマホのディスプレイが光っていることに気付く。メッセージが届いているようだ。
ラインのメッセージを読んだ紫音は息をついた。新しいスタンプ入荷のお知らせと一緒に昨晩の透子からのメッセージが表示されていたらしい。今更返すような内容でもない。
自室に戻り、コルセットワンピースを身に付けるとパニエを仕込み、黒の割合が多いワンピースを着る。昨日とは違って別に動きやすさを重視していない。紫音の好みでスカートはふんわりと広がった。
リボンは紫ともピンクとも分からない美しい色で、大きな姫袖からは紫音の手が覗く。華奢に見える姫袖が紫音は好きだった。鏡の前で昨日と同じように髪の毛を二つに結び、矢張と思い直してコテでカールをつけた。今日の服は緩いウェーブがついている方が似合う。
紫音はリビングに戻ると紅茶を淹れる用意を始めた。基本的に朝はあまり食べられない紫音の朝食はいつも紅茶のみである。
「そうだ、スール。昨日行ったヴィオレノアールにね、『カルゼル』っていう紅茶専門店があって、行って来たの。其処で淹れて貰った紅茶は凄く美味しかったわ」
私のとは大違い、と紫音は笑う。スールは微笑を浮かべて、そんなことないわと返す。
「其処の霧黒さんって方はとても素敵でね──」
紫音がティーカップとソーサーを持って妹の所まで行った時、スマホが鳴り出した。電話らしい。
紅茶を置いて紫音は画面に浮かび上がる知らない番号に首を傾げた。
紫音は不審感から僅か眉根を寄せたが、恐る恐る通話ボタンを押した。
「もしもし──?」
『あ、もしもし、良かった、通じたようですね』
え、と紫音は耳を疑った。まさかそんな筈はないと思ったのだ。
「霧黒さん……?」
『はい』
紫音は益々わけが分からなくなった。何故彼が電話をして来るのだろうか。
「何で……どうかしたんですか?」
『実は『セルクイユ』の従業員が殺されてしまったみたいなのです』
紫音は急いでテレビをつけた。今話題のテーマパークで殺人事件が起きたとあって何処の局もヴィオレノアールを中継している。
「な……」
『犯人は恐らく市街に逃げ込む。そして駅から逃走すると見られています。その従業員は昨夜日付が変わるまで園内に残り、その後自宅まで帰っています。
そして自宅で何者かに殺された』
混乱する紫音の頭はこれ以上ないほどフル回転していた。
「それで、何故……私に……?」
『それが……従業員が残したダイイング・メッセージとやらに『しおん』と書かれていたそうなのです。
それが彼の友人か家族かはまだ分かりませんが……貴女との接点が実はあるようで──不安になって昨日書いて頂いた誓約書を拝借しました。緊急連絡先、貴女のご連絡先と同じ番号でしたね』
「ま、待って下さい!」
紫音はパニックになって頭を抱えた。一体どういうことなのだ。殺人事件だと言われただけでもう理解が追い付いていない。変な冗談かと思ったがテレビ局もグルになって嘘をつく筈がない。つまり殺人事件は現実なのだ。
「私とその人がいつ会ったって言うんですか?」
『お化け屋敷で血まみれの医師を見たでしょう。彼はあの役だったのですよ。
そして貴女は知らないでしょうが彼は貴女と同じ大学の学生で、学費を稼ぐために今年から休学してヴィオレノアールで働き始めました。けれど彼は貴女を長らくストーキングしていた。昨夜戻ったのも、貴女を見かけたから追いかけたくなったのかもしれません。
何せ、彼のスマホから貴女の隠し撮りされた写真が沢山出て来たそうです』
その霧黒の言葉を今まさに裏付けるようにニュースキャスターが同じことを言っていた。
「えー、被害者の携帯電話からは特定の女性の写真が発見され、事件との関係性を──」
紫音は恐ろしくなった。それが電話越しに伝わったのだろう、霧黒が宥めるように優しく話しかけた。
『心配になってこっそりと抜け出して来ました。既に市街に入っています。紫音さんさえ良ければ今から伺いますが……』
「お願いします!」
紫音は即答した。そして自分の住所を伝える。誓約書に記入した住所を目指していること、霧黒は自分が近くに来ていることを伝え、十分ほどで着くと言った。
『良いですか? 私以外の誰にも扉を開けてはいけませんよ。もし彼に片想いをしている人物が犯人で、彼が貴女をストーキングしていることを知ってしまったとしたなら、貴女を狙うかもしれません。そうでなくても、隠れ場所を探して乗り込んで来るかもしれません。
部屋中のカーテンを閉めてテレビも消して、どんな音も聞き逃さないようにして下さいね』
そして通話を切り、紫音は霧黒に言われた通りにする。テーブルの上の紅茶はもう、冷めていた。
* * * *
「……まったく、誰が彼を殺したんだか」
白異が車を運転しながら言う。ラジオでもニュースを流していた。
「ですがおかげで私達の無実は証明されています。恐らく彼はオーナーに報告した後に今日の休みを取って自宅に帰ったのでしょう──私達が食事をしている間に」
電話を切った霧黒が助手席で答える。紫音の言った通り白異の運転する車は紫音の住むアパートの近くまで来ていた。
「私達は彼ほど遠くには出ていません。彼が自宅で殺害されたのなら尚更だ、私達には出来ない」
どうしても食事が不規則になる霧黒達は完全に仕事が終わった後に近くのファミレスまで食事に出かける。だが従業員の男は其処よりももっと中心地に家があるのだ。
「しかしよく咄嗟にあんな嘘がつけましたね。彼と紫音さんは同じ学校でもなければストーキングしていた女性も全然違う人じゃないですか」
蠱墨が感心したように言った。それが嘘だとバレないようにテレビも切れと言ったのだから尚更だと舌を巻いていた。
「少々手荒な真似をしないとオーナーではなく、妹さんの方が早く気付いてしまいますからね」
「……古参派の仕業かも……」
失墨の言葉に霧黒は目を細めて頷いた。
「でしょうね。彼が私達だと勘違いしてあのようなメッセージを残したのでしょう。我々であれば消す筈のメッセージをあえて残したのですから、古参派の連中ですね」
クス、と霧黒は笑う。シルクハットの鍔が霧黒の目元に日陰を落とした。
「された牽制は返してあげなければ、ね」
「霧黒様が血を残す意志を示せば古参派も下手に手を出すことは出来ない。その“紫音”とやらで良いのか?」
白異の確認にすぐには答えず、紫音が教えた特徴のアパートが見えると霧黒はハットを押さえた。
太陽を、嫌うこと勿れ。十字架を、怖れること勿れ。
我らは共に、神の造り給いし存在。いつまでも闇に隠れて生きる必要などない。
闇を好んで棲み処としても、たかがそれだけで滅びはしない。
「ええ。日本発のファッションは私達の生きた時代とリンクしている。その中にならば、私と同じ“血が求める”者もいると考えたのは間違いではありませんでした」
陽の光の下で働き、神の恩恵を受けたこの身は人間よりも秀でている。きっとその先に見付けられるのは、我らが同胞。
「彼女なら、共に行ける。
ヴィオレノアール──紫黒の夢へ……」
* * * *
紫音のスマホが鳴った。今度は透子だ。心配しているのか、授業に出て来いという催促か。
「もしもし」
『もしもし……っ、紫音!』
あまりにも大音量の透子の声が耳元でして、紫音は電話を遠ざけた。
『大丈夫っ? と言うか、ニュース見た? 昨日行ったトコで殺人事件が──』
「落ち着いて透子、私は大丈夫だしニュースも見たわ。大変なことになってるわね」
他人事じゃないでしょう、と透子が怒る。確かにそうだ。透子も心配して電話をくれたのだろう。だが紫音にとってはまだ自分のこととは思えない。恐怖はあるが、何処か遠くの世界で起きていることのようだった。
『いい、紫音、落ち着いて聞いて欲しいの』
透子の方がよほど落ち着くべきだと思ったことには触れず、紫音は先を促した。
「何?」
電話の向こうで深呼吸をして、透子が言った。
『霧黒って人、覚えてる? あの人が来ても絶対にドアを開けちゃ駄目。あたしが行くまで鍵かけてて』
「え?」
どういうことだと紫音は眉を顰めた。揃いも揃って自分が行くまで扉を開くなとは。
「どうして?」
当然その理由を紫音は訊く。透子は数秒躊躇して、ゆっくりと答えた。
『今、社員寮にあの人がいないんだって』
それは当然だと紫音は少し笑ってしまった。霧黒は今こちらへ向かってくれているところだ。市街地に入ったと言っていたのに、まだ社員寮にいる方が驚いてしまう。
善意で来てくれるには少し善意が過ぎる気もするが、同じ働く仲間が被害にあい、客にまでその手が伸びようとするなら何とか阻止したいと思うのも普通なことのような気がした。それがたとえ、可能な限り業務に支障が出ないようにしたいと判断したものだとしても。
「それがどうしたの?」
よく理解出来ず、紫音は説明を促した。
『いい、紫音。落ち着いて聞いて。昨日書いた誓約書がなくなってるって、オーナーからお兄ちゃんに連絡が来たの』
それも霧黒は口にしていた。緊急だから誓約書を拝借したし、誓約書に書いた番号に連絡をくれたと教えてくれている。オーナーに連絡するより先にこちらへ向かう必要があると判断したのかもしれない。
『あのお化け屋敷の従業員って、そっちに寮があって住み込みで働いてるんですって。それなのに被害者はわざわざ自宅まで戻った。
それに夕べ、被害者はオーナーに頼まれて霧黒さんが住む部屋まで行ってるの』
「……何、が言いたいの……透子……」
まさか、彼が殺したとでも言うのか。口ぶりからはそう疑っていると聞こえかねない。
『あの人にはアリバイがあるから直接何かをしたとは言えないわ。けど関与していないとは言い切れない。
昨日の様子だと紫音に執心気味だったのは間違いないし、誓約書には疑わずに連絡先も書いちゃった。もし電話がかかって来ても出ちゃ駄目よ。訪ねて来ても開けちゃ駄目。今お兄ちゃんとそっちに向かってる──後三、四十分で着くから』
ああ、それでは遅いと紫音は時計を見た。霧黒は十分ほどで着くと言ったのだ。近くまで来ているからと。
「……透子……実は……」
力なく呟けば透子はすぐに反応した。
『何、もう電話かかって来ちゃったのっ?』
「後十分で着くって……」
ウソ、と電話の向こうで透子が呆然と呟くのが紫音の耳に届く。
『……いつ……?』
紫音は思い出そうとした。あれは何時にかかって来た電話だっただろう?
その時。
ピンポーン……。
運命のチャイムが鳴った──。




