第一異世界人、発見
どれくらい時間が経っただろうか。
少しずつ意識が戻り始める。
目を開けなくても、全身に浴びる熱が、暖かな日差しに包まれていることを俺に理解させる。そしてまた、それが心地よく、俺の覚醒を阻害する。
小鳥の囀りとともに、美しい声が聞こえてくる。
何かを祈るような、慈しむような、そんな声だった。
「旅の神よ。加護より逸れし迷い人の魂を、安らかなる楽園まで誘い給え」
……なんだ、誰か死んだのか? 可哀想にな。
祈ったところで、神はあの胡散臭いオッサンだぞ。
そんな事を思っていた俺の思考に、急ブレーキがかかる。
何かヌメヌメしたものが、俺の顔に執拗に触れる。
「あ、ハル、ウララ、止めなって。可哀想だよ」
祈っていた声が戒めるように言うが、けれどヌメヌメの何かはひたすらに顔の上を行ったり来たりする。
くすぐったい……。
たまらず重い瞼を無理やりこじ開けると、俺の顔をべろんべろんと舐め続ける、二頭の馬と目が合った。
「うわっひゃぁあ!!」
「ひゃあ! 死体が動いた!?」
思わず飛びのいて、尻で後ずさる。すると馬の後ろに隠れていたもう一人の人物の姿も目に入った。少女だった。
俺と同じように、のけ反ってへたり込んでいる。
死体? 俺の事か?
「しっ……、死んでない! 俺はまだ生きてるぞ!」
両腕を大きく振りながら、俺は叫んだ。生きていることの証明のつもりだったのだろうが、けれどその実、俺には生きている、という実感はまだなかった。
俺は一度、死んだ。
そしてふざけた神様の計らいで、異世界で人生の続きを楽しめるらしい。
……という事は、ここがその異世界なのか。
結局、異世界がどんな場所なのか、神からは教えてもらえなかった。
いい加減な奴だ。
実際のところ、訳の分からない内に放り投げられたようなものだ。
「良かったー。てっきり轢き殺しちゃったかと思った。だってあなた、道の真ん中で寝てるんですもの」
尻もちをついていた少女は、立ち上がりそう言った。
轢いた、という言葉に引っ掛かり、よく見れば二頭の馬には幌馬車が繋がれていた。
どうやらこの世界では、馬車が普通に使われているようだ。いかにも異世界らしい。
「どうかした? 怪我でもしてるの?」
黙って考えこんでいる俺を心配するように、少女が俺の顔を覗き込む。
うっ……。
至近距離に少女の顔があった。
かわいい。
「いや……! 大丈夫!」
慌てて取り繕うが、突然の急接近にたじろいでしまう。
考えてみれば、鉄道一筋で生きてきた俺は、女性に対してはほとんど免疫がないと言っていい。
だからと言って異性に全く興味がない訳でもなく、モテない反発心を鉄道趣味にぶつけていたようなものだ。
「怪我とかはしてないはず」
とりあえず、そう言いながら立ち上がるのがやっとだった。
「なら良かったわ! ところであなた、どうしてこんな所で寝てたの? どこから来たの?」
少女の屈託のない笑顔がまぶしい。
しかし困った。
今の俺は、状況認識すらできていない。
果たしてここが、神の言うように本当に異世界なのか、だとすれば、ここがどんな世界なのか。
矢継ぎ早に質問されたところで、答えようがない。
というよりも、「一回死んで、神様の力で異世界に来ました! よろしくお願いします!」なんて説明したところで、間違いなく頭が可哀想な人認定されるだけだ。
ここが異世界であろうと、元居た世界であろうと。
とりあえずは怪しまれないよう、それっぽく取り繕わなくては。
すると俺の沈黙をどう受け取ったのか、少女は一度困惑した顔をしてから、しまった、という表情を浮かべた。
「あっ、ごめんなさい。まずは自分から名乗るのが礼儀よね。私、商人のエリーよ。で、この二頭が相棒のハルとウララ。よろしくね」
エリーと名乗った少女は、二頭の馬の頭を撫でてから、手を差し伸べる。
「ああ、俺は後藤恵太。よろしく」
女性に握手を求められるなんて初めての経験だったので、思わず普通に本名を名乗ってしまった。
ああ、手、柔らかいな。
「ゴトー・ケータ? 変わった名前ね。ファミリーネームがあるなんて、もしかして、遠い国の貴族か何かかな?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど、俺の国ではみんなファミリーネームがあるんだ」
なるほど、この世界では名字があるのは貴族レベルの一部の人間だけなのか。
「そうなんだ。でも、やっぱり遠い異国の出身なのね! どこから来たの?」
「えっと、東の果ての方から」
東の果てというのはまあ嘘ではないだろう。日本は、極東の島国だ。
「東か、やっぱりね。黒髪なんて珍しいと思ったのよ」
そう言う彼女は、綺麗な金髪だった。
だから俺は、西洋人と話している程度の認識だったが、ここは異世界だ、もっと個性的な髪色の人間もいるのかもしれない。
「黒髪って、そんなに珍しいのか?」
「ええ。少なくとも、このあたりでは」
するとエリーは、金色の瞳を輝かせながら、俺の両手を掴む。
「外国人と知り合えて感激! やっぱり商人になって正解だったわ!」
この世界の価値観が分からないので、反応に困る。俺の感覚では、外国人なんて珍しくもないが、けれどこの世界では、そもそも国外へ行くこと自体が珍しいのかもしれない。
「ケータ、あなたは何をしにここまで来たの? やっぱり旅人なの?」
何をしに来たのか、と問われても、俺は答えを持ち合わせていない。
なぜなら俺自身が、なぜこんなところにいるのか、理解していないからだ。
運命に逆らって死んだから、神の計らいだから。
そんなもの、俺がここにいる説明には足らない。
とにかくここは、適当に話を合わせて誤魔化すのが正解だろう。
「そう、旅の途中なんだ。俺のいた国はとんでもない田舎でね。嫌になって飛び出してきた」
「へー。東って言うと、工業が盛んなイメージだったけど、違うの?」
「……まあ、場所によるかな。俺のいたところには何も無かったよ」
「そうなんだ。じゃあ、そこから歩いて旅してきたの? それにしては荷物少なくない?」
言われて、改めて自分のまわりを見回す。
……うん、見事なまでの手ぶらだ。
服装は死んだときのまま、学校の制服なのだが、あの時持っていたはずの鞄やカメラは無かった。
ポケットの中の感覚はあるので、どうやら死んだ瞬間に身につけていた物だけ、この世界に送られたのだろう。
「あー……、寝てる間に、山賊にでも持って行かれたのかな?」
だいたい間違ってはいないはず。まあ山賊ではなく、アフロヘアーの神の仕業なのだが。
するとエリーは、心配そうな表情を浮かべる。
「うそ、このあたりに山賊なんて出たの!? 結構平和な土地だと思ってたのに」
「いや、山賊じゃなくて、ただの泥棒かも。寝てたからよく分からないな」
「どっちにしても、荷物無くなったなら大変じゃない! どうするの?」
どうすると言われても、俺自身がどうすればいいのかよく分かっていない。
見渡せば、ここは荒野のど真ん中だった。
ひたすら真っ直ぐな未舗装の道路が、地平線の向こうに伸びているだけ。
所々に立木は生えてはいるが、けれど人工物は何一つ見当たらない。
あのアフロ野郎、俺をこんな場所に放り出しやがって。へたしたら、このまま野垂れ死にするところだ。
「もし良かったら、私が近くの町まで連れて行こうか?」
途方に暮れていたところで、エリーから嬉しい提案があった。
「本当か!? すごく助かるよ! でも、迷惑じゃないかな?」
「ううん、迷惑だなんて、とんでもない。旅人同士、家族みたいなものだもの。困ってる人を放ってはおけないわ」
そして、屈託のない笑顔。
なんだ、俺は異世界で天使に出会ったのか。もしくは女神かな。
どちらにせよ、今の俺にはエリーに付いていく以外に選択肢は無さそうだ。
一番近くの町までどれくらいの距離があるのか見当もつかないが、けれどとても歩いていける距離ではないだろう。だとすれば、エリーの馬車に同乗させてもらえるのはありがたい。
それに、道中、エリーからこの世界についても色々と話を聞きたい。ここがどんな場所なのか、詳しく知る必要がある。
……正直なことを言えば、せっかく知り合ったこの少女と、もっとお近づきになりたい、という下心も少なからずある。
「助かるよ。正直、途方に暮れてたんだ」
「気にしないで。旅に出たら、持ちつ持たれつ。困ったときはお互い様よ」
満面の笑みでそんなことを言われたら、昇天しそうだ。
とにかく、この世界で初めて出会ったのがエリーで良かった。
これが本当に山賊の類に出くわしていたら、最悪、殺されていたかも知れない。
有り金全部置いていけ、と言われたとして、おそらく日本円は通用しないだろう。尻ポケットに財布は入ってはいるものの、野口も諭吉も、この世界ではただの紙切れだ。
そう。俺は今、完全なる無一文だ。
仮に町にたどり着いたとして、そこからどうやって生きていけばいいのか。この世界でも、宿に泊まるにも、飯を食うにも、金は必要だろう。
とりあえず町にたどり着くまでに何かしら考えておかないと。
「さあ! そうと決まれば急ぎましょ! あんまり広くはないけど、乗って!」
ややネガティヴになっていた俺の思考を、エリーの元気のいい声が遮った。
見ると、エリーは馬車の御者席に上りながら、後ろの荷台を指さしていた。
「荷台でごめんね。前、一人しか座れないのよ」
なるほど、二頭立ての小ぶりな荷馬車だけあって、座席らしきものは御者用の一つだけだ。
「いいよ、乗せてもらえるだけで大助かりだ」
そう言いながら、荷台に上る。
屋根のないオープンタイプの荷台には、木箱や樽が積まれていたが、けれどスペースはかなり空いていた。
席に着いたエリーが、上半身をひねりながらこちらを見ている。
「今は帰り荷だから、ほとんど空なのよ。その辺の空箱を椅子の代わりに使って」
俺は適当な空箱を手繰り寄せ、御者席のすぐ後ろ辺りに腰掛けた。
エリーは俺が座るのを確認してから、前に向き直り、手綱を引く。
「じゃあ行くわよ! ハル、ウララ! 頼むわよ!」
そして二頭の馬、ハルとウララがゆっくりと走り始める。
馬車の車輪が、がたがたと路面の凹凸を拾い、その速度を増していく。
といっても、人間が自力で走る程度の速度だが。
「そうだ、今目指してる町まで、どれくらいかかるの?」
そうねえ、と少し考えて、エリーは答える。
「明日の夕方には着くかな」
という事は、少なくとも道中、一泊はすることになる。
え? ってことは、今夜はこの美少女とお泊りするの?
泊まり、ということに、妙にドキドキしてくる。
十七年の人生で、今一番舞い上がっているかもしれない。
「ってことは、泊りがけの旅になるんだ。それって、宿に泊まるの?」
宿ならまだなんとか、別の部屋に泊まれば平常心は保てるだろうが、けれど宿代を出せない俺が、二部屋用意してくれとは言いだしにくいし。
仮に野宿だった場合、エリーと身を寄せ合いながら夜を明かすことになるし。
どちらにしろ、勝手に暴走している俺の胸の高鳴りを止められる自信がない。
「そうね。今日の夜までには駅に着くから、そこで一泊しましょ」
と、かなり乱れていた俺の思考が、エリーの発した一言で急に正常に動き出す。
駅。
「駅!? 駅があるのか!?」
思わず叫んでしまう。
するとやや困惑したような表情で、エリーが振り返る。
「……ええ、あるわよ、駅。どうしたの?」
そうか、やった!
駅があるということは、この世界にもちゃんと鉄道があるんだ!
なんだ、神のやつ、脅かしやがって。
産業革命前と聞いたときには、どうなる事かと思ったが。
鉄道があるのならば、ここがどんな世界だって構わない。
色気より鉄道。それが俺だ。
「楽しみだな、駅」
「そんなに駅が珍しい?」
一体異世界の鉄道とはどんな感じなのか。
ダイヤは、車両は、列車は。
自分でも思うよ。俺って単純な奴だって。
そうはいっても、エリーとお泊まりという事実に、かなり動揺していることは間違いない。
駅で一泊、という違和感が気にならないくらいには。