第七十七話 抵抗
前回までのあらすじ!
死んじゃう! 死んじゃう!
巨大な赤の翼が空をつかむたびに降り注ぐ熱風を全身で受けながら、おれはほとんど無意識に菊一文字則宗を下段に引き絞る。
火竜イグニスベルは呼吸のたび、己が肉体で抑え切れぬ力を持て余すように、口もとから炎をちらちらと覗かせている。
額から汗が滲み出た。
感じるのだ。おれの生物的本能が、この赤き竜を恐れている。もしも人間の理性が野生動物並みだったとするなら、おれはすでにみっともない悲鳴を上げながら逃げ出していたかもしれない。
だが同時に、おれの生物的本能はもう一つ別に存在している。そいつは猛っていた。狂った獣のように眼を血走らせ、舌を出し、歪な笑みを浮かべて、このとてつもない獲物と心ゆくまで死合いたいと願う。
むろん、こんな詰んだ状況でなければの話だが。
背反する二つの本能が、おれをまだ冷静でいさせてくれるのは僥倖か。
さぁて、どうするね?
リリィは竜化することもできず、空を見上げて固まっちまっている。その様子からも、この火竜イグニスベルが銀竜シルバースノウリリィよりも格上であることは明白。体躯が倍ほども違うことにも得心がいく。
そもそも、リリィはまだ古竜種としては幼体だったか。
舌で唇を舐めとり、おれは歪な笑みを浮かべる。
「かか……っ」
やめだ、やめ。
不利な条件を数え始めりゃきりがねえ。要は野郎が炎を吐く前に、斬撃疾ばしをあてちまえばいいってことだろうが。先に殺ったもん勝ちだ。
だが、どうにも妙だ。
ンなこたぁ、イグニスベルとてわかっているはず。
たかが人間にそんなことができるはずもないと思っているのか? おれとリリィがアラドニアの軍用飛空挺を沈めてきたことを知らないのか?
それとも――。
おれは視線をほんの一瞬だけ散らした。
ラドや他の竜騎兵どもは、その場に片膝をついたままだ。騎竜であるワイバーンも、今は翼を休めている。
「……そういうことかい」
少し迷い、おれは菊一文字則宗を納刀した。
「オキタ!?」
リリィの戸惑いを黙殺し、おれは空に叫ぶ。
「応じるぜぇ! 下りてこいよ、火竜イグニスベル!」
巨大な火竜は大口から小さな炎をこぼしながら、わずかに口角を持ち上げた。そうして翼をたたみ、地響きを引き起こしながらおれたちの眼前へと着地する。
そうして――。
リリィが常日頃そうするように全身から光の粒子を散らし、男性体へと変態した。
燃えたぎるような赤髪。精悍なる顔つき。引き締まった肉体から発している熱量は、到底人間のものではない。
リリィとは違い、男性体となってさえその威圧に陰りはない。
ああ、人間の姿してても相当やるなァ、こいつぁ……。
レアルガルドに来て本気で手を焼かされたのはゲイルとエトワールくらいのものだが、イグニスベルはおそらくそれ以上だ。
イグニスベルは下半身にのみ袴のようなものをまとうと、一際大きな岩に腰を掛け、片膝を立てた。
「久しいな、シルバースノウリリィ。ずいぶんと麗しき女に育ったものだ」
「……?」
「おぼえておらぬか。二〇〇年の歳月は長かったと見える。俺は、騎竜王イギル・カイシスとともに黑竜と戦った火竜だ」
「自ら名乗らぬものの名をおぼえるほどには、暇ではありませんので。あしからず」
リリィの不遜な返しに、イグニスベルが鼻を鳴らした。
「当時は銀の肉体を持つだけのワイバーン程度の認識であったゆえ、名乗りも必要なかろうと思うてな」
「今もそうですよ、と言えば、今一度わたしに対する興味を失っていただけますか?」
「なかなかどうして、小癪に育ったものだ」
七英雄の騎竜か。道理で――。
おれは喉を鳴らして唾液を飲む。
やけに渇きやがる。こいつが周囲の気温ごと引き上げているからか。それともあまりの威圧に、おれ自身が怖じているからか。
「さて、何から話したものか。まずは――」
イグニスベルの鋭い視線がおれを貫いた。
それだけで反射的に右手がぴくりと動く。菊一文字則宗の柄を求めるように。むろん、理性でそれを押さえ込む。ただし、油断はしない。瞬きもだ。
イグニスベルが顎を軽く持ち上げ、おれを睨めつけながら高圧的に言い放った。
「人間、礼を言うぞ。おかげでラドや兵らを灼かずに済んだ」
「やっぱりそうかい」
あの瞬間、おれが斬撃疾ばしを放たなかったのは、仮にイグニスベルを殺せても次の瞬間にはラドに殺され、かといってラドや竜騎兵らを狙えばイグニスベルに殺されていただろうからだ。
だが、イグニスベルもまたおれを攻撃できなかった。もしもリリィが言うように火竜のブレスとやらが人間を骨すら残さぬほどに溶かすほどの高温であるなら、おれにそれを吐くということは、ラドたち竜騎兵まで巻き込むことを意味していた。
「褒美をやろう。俺が貴様の命を喰らい尽くす前に申せ」
そう来るかィ……。
「いやいや、ご冗談を。その命が惜しくってねえ?」
殺り合う気満々かよ、糞ったれめ。だが、どうしたものか。
依然としておれたちの不利は変わらない。仮にイグニスベルを殺せても、次に控えているのは三桁もの竜騎兵とラドだ。舌先三寸で言いくるめられりゃいいが、なかなかどうして難しそうだ。
「悪いが命は与えられん。シルバースノウリリィは俺がいただく。貴様とこやつの主従を断ち切ってでもな。今は黑竜を討つため、一体でも古竜の力が必要なのだ」
「それで今度はおまえさんがご主人様かい。阿呆抜かせ。はいそーですかと死ねるかよ」
「勘違いするな。選択肢を与えたつもりはないぞ、人間よ。貴様にも、もちろんシルバースノウリリィにもだ」
リリィが嫌悪感を剥き出しにして言い放つ。
「あなたを主人に迎えるくらいであれば、わたしは自ら命を絶ちます。盟約に反して自壊を選ぶことは、たとえ主人であろうとも防ぐことはできませんから。この言葉に偽りなきことは、あなたも古竜であるならばわかるはずです」
イグニスベルが眉間に縦皺を刻んだ。
「わからんな。ああ、わからん。俺は主人というものを持ったことなど一度もない」
リリィの表情に戸惑いが浮かぶ。
「騎竜王イギルとて、我が背中をゆるした盟友に過ぎぬ。なにせ、火竜の血は溶岩のようなものだ。口にすれば臓腑より灼き尽くす猛毒。如何な生物とて、火竜族を従えることはできん。同族以外はな」
イグニスベルが残虐なる笑みを浮かべた。そうして大きな岩から立ち上がり、一歩、おれたちのほうへと足を踏み出した。
「ゆえにシルバースノウリリィよ。先ほどの貴様の言葉は、俺には理解ができぬ。真偽は我が伴侶となった後にでも、その命で存分に示すがいい」
「……ッ」
リリィが脅えるように一歩後ずさる。だが、そんなことにはお構いなしに、イグニスベルはさらに彼女へと踏み込む。
周囲の温度がさらに引き上げられた。岩山は高熱により陽炎を立ち上らせ、竜騎兵らのワイバーンが脅えて騒ぎ出す。
おれは――。
精神集中を終えたおれは瞳を開け、歪な笑みで菊一文字則宗の柄へと手を伸ばした。
ドラ子の雑感
は、は、は、伴侶!?
ナニするつもりなの!?




