第四話 病弱侍
前回までのあらすじ!
この侍、むちゃくちゃやん……。
もはや声もない。ありとあらゆる生命の頂点に立つ古の竜ですら、声も出せない。
たかが人間、それも魔術の素養すら皆無のものが、軍用飛空挺を真っ二つに裂くなどと。
二つに分裂した飛空挺はやがて推進力を失い、投げ出されてばらばらと落ちる兵らを追うように、炎を噴き上げながら墜落してゆく。
あれでは誰も助からないだろう。皆殺しだ。
侍が手をかざして瞳を細めながら、真っ二つに裂けた空を見上げた。
「おいおい、せっかくうまくいったんだ。このまま墜ちるなよ、リリィ」
『……あ、はい……』
落下していた銀竜が再び翼を広げると同時、侍は刀を腰の鞘へと収め、はだけていた浅葱色の羽織を両腕で肩へと戻す。
水色の羽織には、“誠”の文字が風に激しく躍っていた。
速度を弛めた銀竜の背で、侍が仁王立ちとなって威風堂々と両腕を組む。
「ところでおまえさん。さっきおれのことを莫迦って言わなかったか?」
『気のせいでは?』
冷静さを取り戻したとたん、しれっと嘘をついた銀竜に、侍は肩をすくめて先ほどまでとは正反対の穏やかで優しい笑みを浮かべた。
この銀竜は凄まじい分析力と戦闘力、そして知識を保有しているが、時折、おもに追い詰められたときにのみ、あどけない本性が前面に出てくるようだ。
「ま、いいさ。悪も斬れたことだし、いい夜になりそうだ」
『名もなき国からは歓待されるでしょうね。マスターが飛空挺を真っ二つに斬ったことを話して信じてもらえれば、ですけれど』
眼下後方に見える小国を一瞥する。
今さら城壁に兵が集まってきている。その数およそ二〇〇といったところか。軍用飛空挺を相手にするには愚かしいほどに足りていない。人数も武器もだ。
侍は素っ気なくこたえた。
「あの国にゃもう戻らねえ」
『なぜです? 死にそうな思いまでして、せっかく救ったのに』
「興味が失せた。悪人のいねえ国にゃ用はねえ」
ややあって、銀竜が大きなため息をついた。
『……軍用飛空挺を墜とした罪人は、あの小国家とは一切の関係がないとアラドニアに示すため、ですね。名もなき国の軍事力では、軍用飛空挺など到底墜とせませんから。わたしにだけは、もう少し本音で語ってくださいませ』
銀竜の静かな念話に、侍は根負けしたように苦々しく表情を歪める。
「リリィ~……おまえさん、ずいぶんと野暮だねェ。……ん? ……っぐ……ごはッ!」
侍が激しく咳き込む。真っ赤な霧が青空に咲いて霧散した。喀血だ。
『マスター? マスター・オキタ、発作ですか!?』
突如として、侍の全身が前後に揺れる。
「……あ……あ~……すまね……、……こ……りゃだめ……かも……。……う……っ」
直後、その口からゴパァと大量の血液が吐き出された。
「……あふン……」
あれほどの剣技を見せた侍が、突然白目を剥いてパタリと背中から倒れた。超高速での飛行中だ。当然のように背後へと転がり、ちっぽけな木の葉のごとく風にさらわれて大気へと投げ出される。
『あぁ!』
そうして地面に吸い寄せられるように、頭から高速で落下を始めた。
『わ、わああぁぁ! マスタァァァーーーーッ!?』
銀竜は大あわてで旋回し、短い二本の前足で高速落下してゆく侍を地面すれすれでつかまえる。そのまま草原に降り、足をつけると同時にその姿を変化させた。
小さく、小さく。
オキタと呼ばれた侍と同程度まで。白銀の鱗は腰まで届くほどの長い銀髪に変化し、両翼は雪のように白く細い腕へ、空色の瞳はそのままに。
数瞬の後、美しき銀竜は、麗しき女性体へと変化を終えていた。
リリィは大地から溢れ出す魔素を花柄の入った赤い懸衣へと変換し、ふわりと身にまとう。同じく魔素を変換させた帯が、彼女の細い腰に自然と巻き付いた。
着物。オキタの育った故郷の衣服だ。足だけは、なぜか裸足だけれど。
「ああ、もう!」
リリィは胸の谷間から小瓶を取り出すと、その栓を噛んで抜き、草原に倒れ伏したオキタの上体を抱き起こしてから、赤い液体を唇の隙間へと流し入れた。
喉が動いてわずか数秒で、オキタが弱々しく瞳を開く。
「…………ま~た死に損なっちまった……」
「何を言っているのですか。この世の悪人をすべて斬るまでは生きるのでしょう。その肺病だって治せる可能性も出てきましたし、死ぬにはまだ早いのではないでしょうか」
大きな胸を撫で下ろし、リリィはオキタの頭部を自らの膝上へと導いた。
雲の上とは違って暖かな草原の風は、静かに優しく一人と一体を撫でて流れる。少々、焦げた臭気が漂ってしまっているのが残念ではあるけれど。
「……死ぬにゃまだ早い、か……」
オキタはリリィの膝から空を見上げながら考える。
そんなことはない。遅いくらいだ。友の大半は逝ってしまったのだから。
いや、違うな。遅すぎて機を失ったからこそ、今でも生かされている。これは、あの時代に死ぬことができなかった罰なのだろう。
けれども、彼の口からその言葉が吐き出されることはなかった。そのようなことより、今ある幸せを感じたくて。
オキタは柔らかな感触と優しいぬくもりを後頭部で感じながら、大きなあくびをした。
今は生きていることが嬉しい。この世界のために、まだやれることがあるのだから。
「そうだったねェ……。……おまえさんのいうとおり、一周回ってまだ早ええや……」
「一周回って? ……よくはわかりませんが、そうですよ。喀血のたびにいちいち弱気にならないでください。非常に面倒臭いです」
「……そいつぁ悪かったな……」
どさくさに紛れてリリィの臀部を撫でながら。
もっとも、驚いて目を見開いた彼女が、憮然とした表情でその手をつねり上げるまでの話ではあったが。
「意外に元気なのですね。看病は必要なさそうです」
咳き込むと、口を押さえた手に血が付着した。先ほどリリィに飲まされた彼女の血液ではない。正真正銘、肺病による喀血だ。
リリィが拗ねたように複雑な表情をした。
「ずるいです」
「……ん~……ふっふ……」
「何を得意げな顔をしているのですか。殿方なのに虚弱を誇るだなんて情けない」
だが侍はどこ吹く風で。
「いいねェ、その姿。綺麗だ。髪、上げてみろ」
「ご、誤魔化さないでくださいませ」
そう返しながらも、リリィは魔素で作った髪留めで長い銀髪を器用に結う。
些細なことでも命令は盟約。古竜にとっては絶対なのだ。この侍、オキタと名乗ったこの侍が死ぬまでの間、銀竜シルバースノウリリィに自由はない。
けれども――。
「……ま、でもちっとばかし疲れっちまったってのァほんとのことさ……。……このまま少し……眠ってもいいかィ……?」
「仰せのままに!」
ため息をついて、シルバースノウリリィは草原の真ん中でむくれる。
「ありゃ? 怒った?」
「怒ってません! もう……」
リリィの口から、ため息がこぼれた。
――けれども。
微笑むのだ。オキタが瞳を閉ざしたのを確認した後、シルバースノウリリィは一〇〇を超える人数を惨殺したばかりの、凶悪なる侍の穏やかな寝顔に。
幸せそうに、瞳を細め。
これは動乱の時代に死に損なった一人の侍と、彼に盟約で従う途を選んだ一体の銀竜の物語である。
ドラ子の雑感
おしり、さわられました……。