窓のための扉 9
空。
藍人と会うのは、以来いつも窓越しだった。カーテンまでぴったり閉じられた窓を叩くと、その白い指が覗く。それは日に焼けたカーテンを引き、鍵を開ける。私の後ろから吹き抜けていった風は、真空状態だった部屋に流れ込むように、彼の髪を弄びながら吸い込まれていくのだ。
毎日のこと。
まるで藍人は藍人じゃないみたいだった。窓の向こうにだけいる私の幼なじみ。切り取られた空間の中で、彼は時が止まったかのように微笑む。
「ねえ、藍人」
少し困ったような顔をしている友人を眺めながら、私は彼を呼んだ。玄関は開かれなかった。諦めて藍人の部屋の窓へと戻ると、全てが元通りになったかのように彼はいた。窓の向こうという額縁の中で生きている藍人は、絵画のように。
「藍人」
「夕は、元気かな」
俯いたままちょっと笑って、彼は言った。寂しそうな笑み。
「新しい世界で生きているんだろうな。きっとあの子なら、ちゃんと生きているんだろう。まだ幼いけれど、きっとどんどん世界を知って強くなるんだ」
「心配なのは……夕ちゃんだけ?燐君は?涼君は?」
「あいつらは同じ世界にいるだろ。っていうか、なんかあの二人は全く心配にならないんだ。なんとかやるだろうっていうか……なんでだろう」
それはきっと、藍人の心があっちへと向いているから。
だから凄く心配で、そしてやっぱり羨ましいんだ。何も分からない未知の世界を知ってしまえば、知りたくもなる。そこで生きる人はどんな人?どんなルールが支配している?どんな苦しみがあって、どんな幸せが待っているんだろう。
藍人があっちに行きたくて堪らないのは分かってる。でも、あれから一年経ったって、私の決心はついていなかった。そう簡単なことじゃない。全てを捨てるだなんて、そんな。
――じゃあ行かないってことにすればいいのに。
どっち付かずな態度は良くない。藍人は私の決心を待っているのだ。もう何度か「行く」と言ってしまっているけど、やはり私は残ると一言言ってしまえば彼を解放出来る。こうやって部屋に閉じ籠ってしまっているのも、この世界が嫌だからに違いない。
彼を想っているなら別れを告げるべきなのに、どうして言えないんだろう。
さよならって、それだけが口に出来ない。
どうして?
「有理、僕はこの世界が嫌いだ」
伸びた前髪の向こうで、大きくてきらきら輝く瞳が私を見ていた。
「一年前、海を見たね。花も見た。あの日を覚えてる?」
覚えてる。最後の日だったから。藍人と歩いた最後の日。
「海を見ていた。隣には有理がいた。君は今のままでも幸せだろう?ここは有理にとって幸せな世界であって、安心できる場所なんだ。僕はまだしも、君にはわざわざあっちに行く理由がない。それくらい分かってたよ」
理由ならある。その一言を言いたいくせに声が出ない。
「それなのにあの時、有理は必死に考えてくれていた。僕のために」
窓の向こう、彼の顔にあの表情が蘇る。複雑すぎて悲しい、優しい表情が。
その意味を、名前を、人ならみんな知っていた。
「僕は有理が好きなんだって、あの時やっと気付いた」
それは告白なのに、照れや喜びは無かった。ぐっと胸がつまる感覚と悲しさに飲み込まれる。私達はよく似ていた。同じようなことで悩んで、答えを出せないままどこかに閉じ込められていくんだ。彼は内に、私は外に。
「それに気付いたとき、ちょっと前に見た黄色の花を思い出した。僕とあの花が重なったように思えた。この世界では輝けもしない、珍しくもない花だ。僕は君が好きだから、いつだって完璧でいたいのに」
私達は一年前のあの日へと連れ去られていった。もうほとんど枯れかけた緑の地面。その中に一つ、黄色い小さな花が風に震えている。夏の間はびっしりと生えていたそれは、今となっては何の偶然か一つしか咲いていない。
「僕のいるべき世界はここじゃない。でも今はまだ、あっちには行けない。有理が迷っているから、有理と一緒にいたいから。あっちでなら僕は完璧に僕でいられるのにさ、この世界では色んなしがらみに縛られて僕になれない。有理には、
本当の藍人を見てほしいのに」
冷たい風はなんの慈悲もなく花を拐おうとする。寒空は、この花にとっては恐ろしいものに過ぎなかった。
「あの花は、周りが全て枯れることで輝いた。季節的に生きるのに適していない状況下で、やっと。そう思ったら僕と重なった。この窓の奥で、死んだように生きればいい。この部屋をあっちの世界にしてしまえばいい」
「だから私を入れてくれなかったの……?」
「この家の中では、有理に色んなところを見せてしまったから。僕が1人、兄として遺されて直面したしがらみの数々を。家の中に入れば、きっと君はその時を思い出してしまうだろう。それじゃ意味が無かった。僕が完璧でいるためには、扉は閉めておかなくちゃ。扉を閉めて初めて、窓に意味が生まれる」
藍人は微笑み、そして、世界は今日に帰ってくる。
私と藍人の間には窓が生まれた。その中を覗けば、彼が作った擬似的なあの世界がある。1つの部屋という限定された空間にだけ存在することにより完成された、私のための理想。
藍人の、完璧。
「ごめん……ごめんね、有理。今までずっと黙っていてごめん。迷惑かけた。自分で馬鹿やってるって知ってた。でも分かって。僕は有理が好きだってこと。この世界は僕が生きる場所じゃないってこと。僕は僕で、有理は有理だってこと」
分かってる、全て分かってるよ。
君のことなら何でも。
息を吸って、吐いた。また吸い込むには勇気がいる。吸い込んだら吐かなくちゃいけなくて、その時私は音を発するだろう。答えを出すのだろう。今だけは、私はここにいる私だった。
でもそろそろ息が苦しくて、ついにその時を迎えるのだ。
「私も……藍人のことが好きだよ。でもきっと、私はまだ君を知らないんだね。あっちへ行ったら、藍人はもっと藍人になる。それが――見てみたい、な」
「有理……」
藍人は笑った。こんなに幸せそうな顔をすることも知らなかった。
「有理も、もっと有理になる。新しい世界で、色んなものを見て、色んな人に出会って、今まで手にしていたものを捨てて僕らは僕らになる。あっちには、ここにある複雑はない。僕は生きていくよ……あっちに、帰る」
ああ。
きっと私は馬鹿だって言われる。
こんなにも恵まれた環境を捨てるなんて、正気じゃないって。
でも私は正気だ。ここじゃ手に入らないものを手にするため、行こう。
「有理」
夜鳴藍人が私を呼んだ。
私は――田妻有理は、彼の目を見る。
その白い手が差し出される。窓を越えて外に出た手が私を誘っている。ぼやけた日の光に照らされて、もうとっくに死んでるみたいな手。
でも、握れば温かかった。
生きてる。
「生きてるね」
「そう、僕らは生きてる」
さよなら。
燐君に涼君、母さん、父さん、全てのみんなと、この世の私。
あんなに言うのが辛かった4文字なのに、今なら何故か言えた。もう戻れない道を前にして、背後の外の世界へと告げる。
そしてさよなら、この世の全て。
藍人の手を頼りに、私は靴を履いたまま左足を窓枠に乗せた。
「今日、スカートじゃなくて良かったかも」
「はは、そうだね……じゃあさ、引っ越し祝いでミツギさんに買ってもらいなよ、好きなスカートでもなんでも」
「うん、それいいかも」
風がびょうっと吹いて背を押した。部屋のなかへ吹き込む。破れかけのカーテンが、誘うように私達を包む。
勢いをつけて右足も窓枠に乗せた。
「何かが待ってる……常識を超えて、何かが待ってるよ――有理」
生きる意味を失ったこの世界で、私のためだけに残ってくれていた彼と、二人で。
閉ざされた扉があるからこそ、今、窓が扉となり――二人の人間が、死んだ。
連載のくせにスピード投稿です(笑)というのも、珊瑚にはすでにメールで送ってあったので、すぐに上げられたのです。準備が整ったのでやっとなろうに上げることができました!
さて、未熟な話ではありますが、珊瑚の誕生日プレゼントとして書きました。あたしの生き方と彼女の生き方。色々違うところはありますが、時折こっちにもおいで。楽しいぜ(*´ `)ご存知の通り、引っ張りこむのが得意なりあさんです。
彼らが一体どうなったのかは誰も知りません。ですが、いつか……というか近いうちに別の小説で見えるかも……知れないかも……知れないwその時もし暇でしたら、読んでいただければ幸いです。
それでは!!