窓のための扉 8
「ごめんね、付き合わせちゃってさ」
いいよいいよ、と笑う。藍人が自分の願いだけを理由に人を引っ張ることは、もうすっかり珍しいことになっていたから。いつもふわふわ笑っている彼は、誰かの意見に賛同することしかしない。昔はむしろ他人を引っ張るタイプだったような気がするのに、いつからだろう、どこか殻に籠ってしまうようになって久しい。
風がびょうびょう吹くのにも構わず、彼は海を眺めた。凹凸が生まれるほど海風で劣化したコンクリートの上、海のすぐそばに立って風を真正面から受け止めた。パーカーがふわりと膨らむ。病弱そうな身体は拐われてしまいそうで、長めの黒髪が海風に舞った。彼の目には、空と同じ色をした灰色の海が波打っていた。
「海だね」
ぽつり、と藍人は呟いた。
「有理、僕は思うんだ。結局、僕はどちらの世界にも未練があるんだろうって。どちらからも離れたくないって、そう思ってる。でも――それでもいつか、死んだことにして戸籍に線を引き、生きてあっちへ行くんだ」
「うん」
「この世界で生きるのをやめれば、人との関係を全て絶つことになる。だってこの世界での僕は死んだことになるんだから。死んだはずの人間が生きてたら大問題だしね。でも、きっと海とか山とか花とか、そういうものとの関係は変わらないよね。今のうちにこうして見ておいて、いつかあっちへ行ってからまた海を見れば、ここに戻ってきた気分になれる気がするんだ」
藍人は私を見た。顔を海に向けたまま、そのどこか可愛らしさが残る瞳だけをこちらに向けて。
「いつか、有理も来る?どうなのかな」
「行くよ……きっと、今じゃないいつか」
彼は返事をしなかった。
すっと表情が消えて、能面みたいになった顔をこちらに向けた。その整った顔を私は久しぶりに正面から見つめる。藍人の口元に、目に、少しずつ不思議な表情が浮かんでくるのを見ていた。悲しそうな、嬉しそうな、怒っているような、楽しそうな――でもどこまでも穏やかで優しい顔。そんな顔を向けられるのがどうして私なのだろうと、なんだか居心地が悪かった。
「いつか行こう。有理がいれば、時々懐かしむだけで生きていける」
世間を脱するという選択肢を得た彼は希望に満ちているけれど、私はやっぱり不安を拭い去ることは出来なかった。
戸籍がない、生きているなんて思われないまま生きていかなくてはならないのだ。母さんはきっと泣くだろう。遠い海の果てで私の死を知った父さんは、陸に戻ってこれるだろうか。大切にしてくれる友人たちに、可愛がってくれた先輩たち。私の周りには、生きるには十分過ぎるくらいのものが揃っている。なんだってある。生きていける。全てを捨ててしまうなんて、やっぱり考えられないような気がする。例え、私の周りから一人の友人が消えるとしても。
彼はいつか行くだろう。
私を置いていくのだ。
どうする?その時私はどうするんだろう。藍人はあっちへ行って、その世界で何かを得る。ここにいる私には夢見ることしか叶わない何かを。それを知ったら――私は。
「有理……」
藍人は食い入るように私を見ている。
私は……私は、私は私は私は!!
――私は、幸せだ。
今が幸せだ。これ以上望むものもないし、今あるものを捨てられない。
でも、私は人間なんだ。なんでも揃うこの世界。全て用意されていた、なんて生きやすくて輝いた世界。全てが私を必要としてくれていて、色んな人が私を待っている。愛されることや必要とされることに不安を感じない完璧な世界のはずなのに、たった一つだけ欠けたものがあれば気になってしまう、当たり前の人間なんだ。
藍人がいない。
藍人がいないのだ。
どんなに幸せでも、全て手に入っても、でも、藍人は全く違う世界で生きていく。私のいない世界を歩いて、誰かと出会いながら。その隣に立つことは許されない。
「有理、僕はまだ待ってる」
まだ待てるよ、と彼は言った。
手が冷たい。
どこもかしこも冷たい。
海が辛い。空が辛い。花も、全て全て辛い。目の前にいる藍人が辛い。
私が私であることが、一番辛い。
「待っているから大丈夫。でも、困ったことが一つだけあるんだ。ついさっき、悩んでいる有理を見ていたら気づいたんだけどさ……」
彼は、少し照れたように笑った。
「僕、あっちの世界が完璧だと思ってるのに、今すぐあっちには行けないだろ?だからさ……ここにいる間、僕はどうやって有理に完璧を見せよう?」
「――え?」
そのよくわからない言葉を最後に、彼と一緒に歩くことは無くなった。