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窓のための扉  作者: Ria
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窓のための扉 7


「有理、外へ行かない?」

 いつものように優しく手を引くような声で彼は言う。そして今日は、本当に私の手を引いた。ひやりと冷たくて、大きな手だった。その骨張った指が包む。私の温度と混ざりあって、少しずつ温もりを取り戻す。

 彼は玄関に向かう途中で自分のパーカーを二着取って、一枚は私へ、もう一枚は自分に引っかけた。外は木枯らしが吹き始めた頃で、地面には僅かな緑がかさついている。冬はもう近かった。一歩踏み出す度に足に伝わる、葉の割れる軽い音と萎れた草の無力さがなんとも言えず、藍人の手の感触とそれだけで世界は完結していた。

 夕が死んで、もう49日が過ぎた。

 幼い彼女は死んだ。49日前に行われた葬式は寂しいもので、数えられるくらいの慰問客しか訪れず、喪主である藍人はずいぶん楽だったようだ。親しくもない親戚が柄にもなくやって来るよりましだよ、と笑う。でも、彼の母の兄であるおじさんは表情だけはきちんと作ってやって来て、白々しく夕ちゃんの死を悼んだ後、藍人と弁護士を交えた話をした。もちろんその話が本命のようだったけれど、どうやらおじさんの思い通りには進まなかったらしい。藍人の要求は通され、燐君と涼君は引き取られていった。ぼんやりと私を見つめる燐君と、自分を捨てた兄を暗い目で睨んだ涼君のあの表情を、私達は一生忘れないだろう。いつの日かこの世を去り、第2の人生を歩み出した後でもずっと。二人の可愛い弟を乗せたおじさんの白いワゴン車が見えなくなるまで、一歩も動かなかった。見えなくなってやっと泣いて、二人の幸せを、愛を願った。あいつらはあれでも強いぞ、と藍人は笑った。

 夕ちゃんは確かに棺に入れられて、その小さな体は炎によってちょっぴりの骨になった。軽くて小さな骨を丁寧に箸でつまみ、藍人と二人で拾い集めた。私も泣いたし、母さんも泣いた。風邪をこじらせた夕が呆気なく死んだかのように見せることは、どうやら成功したらしい。

 本当は、夕が死ぬことになる前の晩にミツギさんが来て、知り合いの「あっちの世の中」の医者から譲り受けた死にたての赤ん坊を抱いてきたのだ。あっちにも医者はいるけど、戸籍のない人に医療を施すことが目的だ。こっちでは闇医者と呼ばれるのかもしれない。そんな、戸籍のない人にまで医療の手を伸ばせるのなら、例えば犯罪者や――生まれてきてはいけない赤ん坊を秘密裏に受け取ることも少なくない。赤ん坊の死体と夕ちゃんを交換して、ミツギさんは、静かに目を見開く彼女を見つめた。見知らぬ人に抱かれても泣きもせず、夕ちゃんはやっぱり大人しい。黙ってミツギさんの目を見ている。

「才能がありそうな子だなあ……あっちでも強く生きられそうだよ。きっと大丈夫。俺に任せて」

 ミツギさんは微笑んで、夕ちゃんを大切そうに抱きしめた。

「幸せになるよ、この子は」

 その言葉を残し、ミツギさんと夕ちゃんはこの世から消えた。私達がここで生きている限りは、もう二度と会うことはないだろう。

「有理、寒くない?」

「平気」

 海風は冷たくて、今日はひときわ風が強かった。それでも私は嘘をつく。

 外に出てすぐに、彼は足を止めた。ふわりとパーカーが煽られる。藍人は足元を見つめていた。

「まだ……どうして枯れていないんだろう」

 彼の視線の先で、小指の先くらいの小さな黄色い花が、枯れた草に埋もれるようにして咲いていた。珍しいものではない。よく見かける雑草だ。でも、この一輪以外に咲いているものはない。庭に咲いたそれを食い入るように見つめて、藍人は息を吐いた。

「僕はこの花を見慣れてるけど、この花を綺麗だと思ったのは今が初めてなんだ。これって、どう思う?」

「どうって……普通なんじゃないの?」

「どうして普通なの?」

 辺りをぐるりと見回す。どこもかしこも色彩を欠いていた。地中に種を残して春を待つものばかり。

 別にこの花が特別なんじゃない。

「なんかこう、理想的じゃない?ごく普通の目立たない花。花自身は変わっていないのに、周りの環境が変わるだけで印象が変わってしまう。その代表例、みたいな」

「理想的な代表例か……なるほどな」

 藍人は整った顔を苦しそうに歪め、笑った。

「まわりがみんな枯れてしまわなければ、この平凡な花が目に留まることはなかった。この花はこの花でしかいられない。あるがままで認められるには、こうするしかなかったんだろうか」

 藍人はすうっと目を細めて、もうとうに枯れてしまった一面の黄色い花を夢見るように、周りを見渡した。

「咲いたって仕方がないのに。もう、この花に寄ってきてくれる虫さえいないのに」

 それでも咲きたかったんだろうか、と彼は呟いた。そんなことはないと、私は思う。一体何が原因かは分からないけれど、日当たりとか風向きとか、色々な条件のせいで偶然にも取り残されてしまっただけなのだ。何一つ生きる意味のない世界に咲くしか出来なかっただけ。

 寂しい花。

 藍人はしばらくその花を眺め、何もせずにいた。

「有理」

「うん?」

「……海が見たいね」

 港はすぐそばにある。今日も、冷たい風には潮の香りが混ざって吹き付けてくる。ここいらで生まれ育った身としては、海なんて珍しくもなんともない、風をべたつかせるだけのものだ。

 でも、彼が見たいって言うのなら。

「じゃあ、行こうか」

 海のそばは寒い。私はパーカーの前をしっかり閉めながら道路へと登る。一歩後ろからついてくる藍人は、寒さなんて感じていないようだった。

 人通りがほとんどないこの道は、港へと通じている漁師のためのものだ。深夜や早朝は車通りもあるけれど、日中は誰も利用しない。

 ひび割れたアスファルトに空いた穴に足をとられないように、少し俯いて歩いた。顔に吹き付ける風はどんどん冷たくなって、時折、目を開くのも辛かった。人のいない港に着く頃には体の芯まで冷えきっている。



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