窓のための扉 6
大真面目な顔で放たれた非現実に、とうとう頭がくらりと回った。度重なる心労でおかしくなったのかと思った。確かに幽霊じみているとは思ったけど――まさか、はい本物の幽霊ですと言われるとは。
「ああ、ごめん、かといって体が無いってことじゃないんだ。戸籍がないというか……死んだことになっている、っていったほうがいいのかな」
「そーそー、生きてはいるよ?俺。ただ世間的には、とうの昔に死んだことになっているんだな……馬鹿なことにさあ。世の中が絶対不変なんて思っちゃいないだろ?頑張れば欺けるんだよ。それをこの俺が証明してるってわけ」
大袈裟に手を広げ、芝居がかった仕草で言う。
「生きていけるんだよ、有理ちゃん。今生きている世界でしか生きられないように見えるだろうけどさ、どうだい?この世の中だって作り上げたのは人間だよ。さくっと手続きすれば世の中の仲間入りできるように、手続きさえすれば世の中からログアウトできる」
「そんな簡単なわけ、ないでしょう?」
「いや……たった一人のテロリストが、たった一種類のちっこいウイルスが、この世の全てを止められる。これだけ大勢の人間をおんなじ世界のなかで生かすんだ、漏れくらいあるのさ」
ミツギさんの弁に熱が入っていく。
「確かに俺はこの世界じゃ死んでるよ。ずいぶん前に、俺の名前が書かれた戸籍には横線が引かれてる。ただ、こう考えてみなよ。俺は新しい世界を作った。そっちでは結構顔が利くんだ、なんせ創始者だからね。こっちでも人間は引っ越しくらいするだろ?俺も引っ越したのさ。住み心地が良くなかったから別のところに移動したんだ――人は世界を作れる。生きる世界なら誰だって作れるよ、俺じゃなくたって」
いつしかミツギさんは私だけではなく、藍人にも時折目を向けるようになっていた。美しい猫目の中にはきらきらした星屑が見えて、何も言えなくなっていく。
「人は弱い。君らの年ならもう分かっているだろ?人は弱いんだ。そんな人間が数えきれないくらいたくさんいて、全員おんなじ機構の中で生きろだなんて、元々無理な話なんだ。だったら複数の機構があればいい」
ミツギさんが、一口、麦茶を含む。私達を見つめると、ふと優しげな光を灯した。
「若いんだから、もっと広く世界を見なよ。生きづらいなら変えてしまえ。君が望む世界を夢見るんだ。手に入らないものを手に入れるんだ」
有理ちゃん、とミツギさんが呼ぶ。
「愛しているなら、留めちゃ駄目だよ」
一瞬、息が出来なくなった気がした。
そう、どんなに親しくても、こんなに近くても――誰にも留める権利なんてない。その人生は自由なのだから。
でも、分かっていても留めずにいられるだろうか?
「僕は前からミツギさんの話を聞いていたんだ。ずっと気になっていた。本当は僕自身が行きたいんだけど……それはまだ無理だから。だからもう、ワガママを遠そうと思ってね、燐か涼、夕の誰かに託そうとしたんだけど……」
「世界を移動すんのって案外大変なんだ。夕ちゃんくらい幼いか、あるいは有理ちゃんか藍人君くらいの、もう自分の人生を決められる年じゃないと駄目だ。残念だけど燐君と涼君は丁度微妙な年齢でね、連れていくことは出来ない。夕ちゃんならばっちりだけど」
あっちはここよりずっと自由なんだ、と藍人が言う。苦しみもあるだろうけれど、僕のように縛られることだけは決してない、と。
「夕には先に行っててもらおうと思って。もしかしたらこの世界を羨むときが来るかもしれない。でも、遠くて近いあっちでなら――ここにはない何かを掴める気がした。夕に夢を託して、いつか僕は追いつくんだ」
僕のわがままだけどもう悩むのはやめたんだ、と彼は力なく言う。疲れて乾ききったその笑みに、清々しい希望が透き通る。
人の命なんて、と壁に掛けられた美しい森の絵に想う。どこだろう、深い森は薄暗くて、差し込む光はどこまでも非力な救いの手。すうっと地へ伸ばされた手は緑を含み、幽霊のように澄んでいく。
人の命なんてものが左右できるほど私達は偉くない。どんなに考えたって、他人の人生まで考えて選んであげるなんて、そんなこと。
自分の命も他人の命も、結局願望のままに選ぶことしか出来ないのだ。
「燐と涼には貰い手がいる。でも、夕なら」
「どちらにしても辛いよ。私には……よくわからない」
「僕にだってわからないさ。わかるはずがない」
夕の未来を思っては心の中だけで涙を落とした。
「俺としては、藍人君自身が来てもいいんじゃないかと思ったんだけどねえ……来ないんだろ?」
「ええ、まあ……有理はこっちにいるので」
「――私?」
「うん、有理が行くのなら、行くよ。僕の友達は君くらいだから」
ふと思う。藍人が行くのなら、私は果たしてどちらの世界を選ぶのか。共にいるためなら行くかもしれない。その可能性は少なくない。でもやっぱり分からない。その時が来たらきっと分かるし、今の私では決められない。決めるときでもない。
ここで死に、新たな世界へ。さながらそれは生まれ変わることのようだ。転生したなら以前の世界には戻れない。当然の一方通行。
まだ分からない未来の私の決定を待とう。それが転生を選んだなら、そして、あちらの世界が持つ無限の可能性が私を受け入れてくれるのなら……行こう。
夕に、そこに生きる人達へ会いに。
「ま、有理ちゃんも考えておいてよ。俺はいつだって大歓迎だし」
藍人が私を見て、眩しいものを見るように目を細めた。
「僕も待ってる。決めるのを待ってるから」
今すぐにでも行きたいのだろうに、彼は待ってくれている。弟と妹を手放すことを決め、親も失って独りになった藍人は、私の存在のみを生きるよすがにしてこの世に留まっている。私がいるからと耐え、誘いながら。
完璧主義の藍人の目には、あちらが完全無欠の世界に見えているのかもしれない。
もう少し、もう少し待って。
まだ分からないから、もう少し。
「考えるよ、ちゃんと考える」
そう言って本心から微笑んだ。生きる世界を変えるという新たな選択肢を手にして、私の中で何かが解放されようとしていた。それはいつも抱えてきた苦しみであり、解放されることに恐怖も感じた。
さよなら、夕ちゃん。
そしてもしかしたら、いつかさよなら、みんな。
燐君に涼君、母さん、父さん、全てのみんなと、この世の私。
「後は俺に任せてよ。夕ちゃんを殺すのも、俺の仕事だ」