窓のための扉 5
およそ一週間くらい経っただろうか。日課となった藍人の自宅訪問のため、今日も私は野菜やら魚やらを抱えて向かいの家に歩いていた。夏の日差しがじりじりと、ひび割れたアスファルトを焼いていく。ぐるっと玄関に回ると、見たことのない若い男性が立っているのが見えた。玄関の正面に立ち、チャイムを鳴らすわけでもなく戸を見つめている。藍人みたいにひょろひょろした体で、陽炎のように儚いイメージを受ける。
「あ、あの、何か用ですか……?」
いつまでもそこに立たれていては、私まで中に入れない。
仕方なく声をかけて数秒後、男性はやっとこちらを向いた。
「うん、用があるんだ。ええっと、君が夕ちゃん?もうすぐ一歳になるって聞いた気がしたんだけど、もう大人に見えるなあ。ガセだったのかな」
「ち、違います違います!私は近所に住んでるだけで……」
「ああ、そうなんだ。ごめんごめん」
にこにこと笑いながらとんでもない勘違いをしてきた青年は、ずいぶん若くて綺麗な顔をしていた。猫目はすうっと美しいラインで、でも、つんと気が強い感じは受けない。
「この家に用があるんだ。でも、どうやって入ったらいいのか分かんなくてさ……こう、すぐにこんにちはーって入ったらまずいんだよね?」
「はい?ええ、と……どういうことですか?」
「いや、俺ねえ、あんまり人の家に行くってことがないんだよ。そもそも他人と関わらないっていうか、子供としか交流しないもんだから一般的な礼儀とかが分かんなくなってんだなー……いや、駄目な大人だよ俺ったら」
それにしても暑いや、と首をさする青年を見つめながら、この変な人が藍人に何の用だろうと考えていた。これは簡単に中に入れない方がいいかもしれないとは思うが……なんせここは田舎の港町だ。日中は家の鍵をかける習慣がない。手をかけられたら終わりだ。
「あ、失礼。俺は後藤って言いまーす。姓は後藤、名はミツギね。どっちも苗字みたいでしょう?すんごい不便なんだなあ、これがさ。名前で呼んでくれると嬉しいなあ、ミツギの方ね、一応」
後藤を名前だって思う人はいないか、と一人で笑っている……。
何、この人。
「そいで、この家の主に呼ばれてるんだけどさあ、どうすれば礼儀正しく、普通の大人っぽく入れるかなあ」
「えっ、藍人に呼ばれてるんですか?」
こんな人を藍人が?見たことないけれど……一体どこで知り合ったんだろう。
ダメージ加工ではなく本当に擦りきれたのだろうジーンズにTシャツ、パーカーを羽織ったラフな格好のせいか、私達とたいして変わらない年齢に見える。
「そうそう、その藍人に呼ばれたんだ。どうすっかな……うーん、うーん……うう……おっ?」
ぴく、と青年が目を輝かせて顔をあげた。扉の向こうから微かな衣擦れの音と足音が聞こえたのだ。
戸が開き、見慣れた穏やかな顔が覗く。
「ようこそミツギさん……有理、いたんだね」
藍人の顔が少し曇った。
「人生の中で今日だけは、有理に会いたくなかった」
「何、それ」
「先週は嫌なのに付き合わせたろ」
はっとして藍人を見た。その言葉が何を指すか、事実が形作られていく。
「なーんか色々あったっぽいけどさ、藍人君、諦めてその子も同席してもらおうよ。俺としてはその方がいいなあ。ほら、話し合いにも華がないと」
「でも、ミツギさん……」
「そう怖い顔すんなってば。ここは年長者の言うことを素直に聞きたまえよ」
藍人はちらりと私を見て、声を出さずに「ごめん」と言った。謝られる筋合いなんてない。力になんてなれないかもしれないけど、彼を独りにしたくなかった。私は強い人じゃないけれど、それはきっと藍人だって同じだから。
「藍人君のことは知ってたけど、こうやって会うのは初めてだね。改めて自己紹介しようか……俺は後藤ミツギっていうんだ。こんな駄目な大人だけどよろしくね、君たち」
「もう知ってると思いますけど、夜鳴藍人です」
「私、田妻有理です」
「うん、よろしくね」
藍人は静かに頷いて、ミツギさんを家のなかに招き入れた。私の前を通りすぎたときに、どうしてか微かな線香の香りがミツギさんから漂ってきた。思わず身震いをする。揺らぎつつ藍人の後ろにくっついてリビングに向かう弱々しい後ろ姿に、藍人の幽霊を見た。
幽霊が振り向く。
「有理ちゃん?どうしてそこに突っ立ってんの?」
玄関に立ち尽くす私を見て首をかしげられた。今いきます、と返事をして、大急ぎでリビングへ飛び込んだ。
藍人はまた、台所で三人分の麦茶を注いでいる。その姿が一週間前と重なって、私は足元が溶けるような感覚と闘わなくてはいけなかった。なにも考えないまま当然のように座った位置は、それこそデジャヴを感じる席だった。
「ここいらは港町かあ。まあ海に面した町なんだから当然だけどさあ、俺、あんまり海って見たことがないんだ。ねえ有理ちゃん、どうしてだと思う?」
「どうしてって……」
救いを求めて台所を見るも、幼なじみはまだ忙しそうにしている。
「分かんないですけど……潮の匂いが嫌いとか、海風で建物はすぐ痛んじゃうし、そういうのが嫌なんですか?」
にやっと笑うミツギさんは、この上なく幸せそうだ。
「はっずれー!答えはねえ……人がいるからだよ」
「人……?」
「うん、海の近くには人がいるけどさ、山のなかにはあんまりいないだろ?だから俺は山のなかばっかりにいるんだなー。人里離れた山奥でひっそり生きてるわけ」
「流石ですね、ミツギさん。そこまで人を避けているんですか」
藍人が冷静に口を挟んで、それぞれの前に麦茶を置いた。またしても私の隣に座り――ミツギさんを正面に見る。その横顔には隠しきれない疲労と空虚な脱力感が漂っていて、きりきりと胸が痛い。
「ま、そういう生き方が俺には適していたんだな。でも、あくまでこれは俺の話。それぞれの性格に合った生き方を見つけてあげるのも指導者たるミツギさんのお仕事ってなわけ」
胸を張ったミツギさんが満面の笑みを浮かべる。一方藍人は静かに彼を観察していた。
「ただ、よーく考えたまえよ、藍人君。一度決めたらやっぱやめますとはいかない話なんだからね。普通に生きてればそりゃあしがらみで苦しむだろうけどさ、俺の世界にも別の苦しみが待っているんだ。苦しまないで生きるってのは無理な話だからね、気を付けなよ?」
「ええ、分かっています」
分かっていないのは私だけ。
藍人はこの人と何か取引をしようとしていると、それくらいのことしか分からない。そしてその取引が生半可な厳しさではないことも。
「覚悟があるのなら、有理ちゃんにも話したら?」
知りたいと思っていたのに、いざ藍人が私の方に向き直ると、瞳の奥にある揺るぎそうもない決意にたじろぐことしか出来なかった。ふわりと掴み所のない優しいベールが内包する冷静さ、その底にある意志。
「有理……僕は、夕をこの人に頼もうと思う。元従兄なんだ、一応」
「な、に……?え……?元従兄?」
「うん。今はもう違うけど」
理解できない私を置いて、藍人は元従兄に微笑みかけた。
「この人はね――もう、この世にはいない人間なんだ」