窓のための扉 4
信じさせてほしいんですよ。
藍人が重ねて放ったその言葉が耳に入った瞬間、頭のなかでばらばらになっていた目の前の現実が急速に収束する。組み立てられていく。
「あ……藍人」
声が震える。
「駄目だって、そんなの……二人は、二人はどうなるの。可哀想だって」
「有理、あいつらはまだ小さいよ。6歳と5歳だぞ。現実を見て判断するのなんか無理だ。僕は三人の子供を養う力なんて持ってない……自分だけでも精一杯なのに、三人に不自由な思いをさせたくないんだ。幸い、男の子ならおじさんが引き取ってくれる」
冷酷に思えるほど淡々と語る彼を見て、おじさんはまた顔を歪ませた。
「どうしても、うちでは女の子しか出来ないから。妻も男の子が欲しいって言ってるし……」
「嫌ですそんなの!!」
気づかないうちに立ち上がっていた。コップの麦茶が波打っている。
「他に手がないってわけじゃないでしょ?藍人!」
「ああ、ないわけじゃないよ。色んな案があるだろう」
訳が分からない……あんなに二人を可愛がっていたのに、どうしてそんなに冷静でいられる?
「あるけど……どれも捨てたんだ、もう。僕の力ではみんなに不自由を強いるということくらい分かるから。自分の力がいかに弱いかくらいは判断できるよ。
だから――」
すっと目を細め、彼は私から視線を外した。嵐を内包したような荒々しい渦を湛えて、藍人は静かにおじさんを睨みつけた。あまりの威圧感にたじろいでいる。いつもは穏やかで優しい彼が放ったそれに当てられて、知らぬ間に冷や汗をかいている。
「あんたがちゃんと二人を守ってくれるか分からない……脅しておくくらいの能はあるんだ。可愛い弟二人を、父さんの絵を笑うわ子供が生まれれば憎むわ、どうしようもない夫婦に引き渡すんだ。これしか選べない自分が憎い……憎いですよ、本当に。だから言っておきますよ。父さんは遺言を遺した。今は弁護士が預かっていますが……この家にある父親名義のものの一切を僕に渡すとあったんです。今までは、父さんのものなのにあなたが好き勝手にしていた土地も、もう好きにはさせない。僕のものだ」
荒い言葉を紡いでいく。でも、私は知っているのだ。彼は本来とても優しい言葉を使うことを。つまり今、藍人は演じている。
負けないように。
「と、言いたいとこだけど、僕は正直、土地だの何だのに興味がない。それなのに僕の手のなかには要らないものが沢山あるんだ。欲しいでしょう?」
「……藍人君」
「欲しいならあげますよ。二人のことをきちんと養ってくれるなら、なんだって全てあげます。弁護士の方に契約書の制作は依頼していますから」
「……いやあ……大人になったね、藍人君」
苦し紛れの皮肉を返すおじさんは、もう笑わなかった。
「話は以上です。詳しい内容はまた後程。再度御足労願います」
そう言って、藍人は頭を下げた。
私はもう、ただだまっていることしかできなかった。しんとした室内が耳に痛くて、頭が静寂に沈んでいく。
そんな重い沈黙を、小さな泣き声が切り裂いた。隣の部屋で眠っていた夕が目覚めたのだ。
「あの二人は五月蝿いですよ」
ぽつりと藍人が呟く。
「……また来る」
おじさんはそう言って、席を立った。私達見送らない。動けなかっただけかもしれないけれど、家の扉が閉められる音がするまで動かず、一言も発しなかった。すぐに夕の泣き声がやむ。
二人はどうなるのだろう。
それは誰も知らない。
私達も、本人たちだって知らない二人の未来。誰のせいでもなかったし、もちろん藍人のせいでもなかった。
静まり返った室内は冷たくて、寒くもないのに身震いをした。あちこちにある儚げな風景画がこちらを見つめている気がする。私達は悪くないですよね?と心のなかで問いかけたけれど、返事をしてくれるはずもなかった。
「ごめん、有理。僕は嫌な思いをさせたろう。こんなの見たくなかったろうでも、有理がいなくちゃ駄目だった」
「――どういうこと?」
「僕の立場上、駄々を捏ねられないんだよ。聞き分けのいい子じゃなくちゃいけない。でも、あいつらをあんなろくでもない親戚に渡すなんてそんなこと、認めたくないに決まってる。有理ならきっと、僕のぶんまで反発してくれると思ったんだ。そうじゃなきゃ――気持ちの整理なんてつきっこない」
「それ……私が駄々っ子だって言ってるよね?」
藍人が、やっと瞳の奥で笑った。
「僕と有理が似てるってことだよ」
「だからそれって、駄々っ子だって言ってるじゃん」
「否定できない」
そよ風のような溜め息をつきつつ、彼は微かに笑っていた。どこかにほの暗い自嘲的な影を持つ笑みは、疲れを含んで一層重たかった。
彼の心の叫びを、弟と別れたくない願いを私が代弁した。彼は冷静にそれを否定し、自分も説得した。そんなプロセスを経ないといけないほどの苦痛が、藍人の心にあったのだ。
私は確かに否定されるためだけにここにいたけど、だからといって、本当は優しく脆い幼なじみの心を思うと文句は言えなかった。私なんかでは、彼の苦しみの1%だって分かってあげられないのだから。
「有理」
「何?」
「僕には力がない。幼い弟と妹を養う力がない。かといって、そんな三人の人生を決められるかっていったら、そういうことでもない。僕は僕の力を超えたことをしてる」
「……うん」
「でも、僕の他に誰がそれを決めてやるんだ?本人たちには無理なのに、おじさんが決めるのか?違うだろう……僕しかいない。全て、全て全て!……僕の一存で決まってしまう」
彼は立ち上がって、おじさんが口をつけなかった麦茶を流しに乱暴に捨てた。ぱしゃり、と水が飛び散る音がする。まるで涙を捨てるように。
藍人は、空になったコップを眺めている。
「いっそのこと――この世から消えてしまいたい。他人の人生とか、そんな大層なものを左右しなきゃいけない世の中なんか捨てて、生きるにしてもただ生きたいんだ。そう思ってもなお生き続けたいと思うのは、きっと生き汚いからなんだろうな」
なにも言えない私は、突っ立っていることしか出来なかった。
しばらくして、どたどたという足音と共に燐と涼が帰ってきた。双子みたいな彼らは何故か、ポケットに一杯の石ころを詰めている。
「兄ちゃん喉渇いたー」
と、涼。
「あ……有理ちゃん、こんにちは」
と、燐。
藍人はコップを流しに置いて冷蔵庫に手を伸ばしつつ、言った。
「新しいコップ出しな……あ、そこに置いてるのは駄目な。汚れてるからさ、どろどろに」