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窓のための扉  作者: Ria
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窓のための扉 2


「藍人」

 いつも通りに私を見つめる覇気や気力も失った瞳を見るたびに、どうしようもない苦しさに寂しくなる。こんなことにさえならなければ、私は今日も彼と二人で外を歩いていたのかも知れない。私の決断が遅いせいで、今がある。

「――ごはん、食べた?」

 二回連続で瞬きをした彼は、しかし表情を変えない。

「いいや、まだ」

「ふーん……そっか」

 藍人は特に朝に弱い。独り暮らしを初めてからは朝食を抜くこともしばしばあるようだ。起きて一時間程度で食事をしているはずがないという読みは、当然のように的中する。

「まったく、ダメだよ。いつもそんなんだからひょろひょろしてるんだよ。ちゃんと食べないと」

「そんなこと言ったって……」

「私が作ってあげる」

 彼の体がゆらりと揺れた気がした。いや、私がよろめいただけかもしれない。

「玄関開けて。藍人でも食べられるようなのを作ってあげる。これでも料理の腕が上がったんだよなあ、想像つかないでしょ」

「いや、でもね……」

「大丈夫、大丈夫だよ」

 私は無理矢理笑って窓から離れた。玄関開けて、と繰り返す。足はもう歩きかけている。

「有理!」

 彼は私を止めようとしてくれている。彼自身のためでもあるだろうけれど、間違いなく私のためでもあったのに。

「ごめん、本当に……玄関開けて」

 そうとしか言えなかった。

 私はあえてゆっくりと一歩一歩踏みしめて歩いた。枯れかけて萎れた草を踏んでは踏み、どんどん足の感覚が無くなっていく気がする。ぐるっと回って窓の反対側に行くだけなのに、いつまでも着かなきゃいいのになんて思う。我ながら馬鹿だった。結果なんて分かっているくせに、どうしてわざわざ意味のないことをする?

 ごく普通の玄関だ。私の家と同じ、がらがらと大きな音がするだろう引き戸。そこにとうとう到着して最初に見たのは、手をかけるところに、積もるはずのない埃が積もっている光景だった。砂ともつかない白いそれを拭うように、そっと触れる。それからわずかに力を加える。びくともしない。

「――藍人」

 今日、何度目か分からない彼の名前を呼んだ。

 やっぱり意味はなかった。分かっていたのだ。それでも――ほんの少しでも新しい風が欲しかった。彼の部屋に潮の香りを届けようとしただけなのに。

「どうして……いつになったら開けてくれる?私のせい、だよね」

 扉を挟んですぐ向こうに彼が立っていることは分かっていた。足音はしなかったけれど、微かな気配がすぐそばにあるのを感じる。

「有理……僕はどうしようもない人間だ。外とも自分とも、上手く折り合いがつけられてないんだ。母さんや父さん、二人の幼い弟と生まれたばかりの妹との折り合いはつけられても、どうしても、君を入れるわけにはいかないんだ。そこだけは譲れない」

「なんでよ……」

 なんで。

 責めてはいけないと知りつつ放った言葉と共に、扉にすがるようにして崩れ落ちた。私のせいなのだと思っていながら、それでもどうにも出来ない何もかもが理不尽に思えた。

 毎日通っているのに――どんどん窓ガラスは厚くなっていく。向こう側をありのままに見ることすら叶わないくらい、屈折していく。

「帰りなよ……風邪引くよ」

 さっきよりも声が近い。私に合わせてしゃがんでくれたのだと分かると、彼を解放してあげられない自分が嫌になった。

 目からは、熱いくらいの涙が流れる。

 でも、決して目を閉じずに、声もあげずにただ目を見開いて涙を溢した。心の奥まで風が染み込んで、それに負けまいとどこかで戦って、私は今日も孤独だ。閉じ籠り、閉じ込められて世界から切り離されているのは私の方なんじゃないかとも思う。

 扉の向こうで、押し殺したようなすすり泣きが響いている。



 私も藍人も普通の人間で、今と変わらず昔から子供だった。

 私には兄も弟も、まして姉も妹もいない。父は遠い海に出てばかりで、一年のうち会えるのは1ヶ月にも満たないくらいだった。実質母と二人暮らしである。でも、不自由はしていなかった。母は時折何かしらのパートタイムに出掛けつつ、私の幼なじみであり独り暮らしをする藍人を気にかけては、母親代わりになっていた。

 彼の独り暮らしはおよそ一年前から始まっていた。

 それまで藍人には父と母が、二人の幼い弟と生まれたばかりの妹がいた。二人の弟はそれなりに人懐こくて、兄によく似た整った顔をしていたことを覚えている。ひとつ違いの弟二人はいつも一緒で、まるで双子みたいに見えた。

 一方妹の方は、まだ生まれて一年しか経っていないくらいの可愛い女の子だったけれど、あまり泣かない大人しい子だった。手がかからなくていい、それに比べてこの二人ときたら、と藍人の母は彼の弟二人を眺めつつぼやくのが常で、言葉とは裏腹に幸せそうだった。

 そんな親と弟、妹に囲まれて、藍人は今より笑うことが多かった。元々口数少なかったけれど、でも、確かに笑っていたのだ。

 わずか一年前までの話。

 彼の両親の乗った車が、どうしてだろう、夜道の運転を誤って海に落ちてしまうまでは。

 理由を知っている人はもう死んでしまっているのだ、何をどう間違ったかなんて誰も知り得ない。やれ外灯が少ないからだの何だのと考えることはできるけれど、推測なんてものは、本当は要らないのだ。私でさえもそんなことくらい分かるのに、自殺なんじゃないかという噂がたつのは早かった。四人の子供を置いて自殺をするような人達じゃないと、みんな知っているんじゃなかったのか。彼も酷く傷ついた。

 そしてなにより彼は、弟と妹を養える力がないことを心の底から悔やんだ。そう、一年前、彼は19歳で大学生だったのだ。周辺にある数少ない大学のひとつに通う彼は、同じ大学に進んだ私のひとつ上の先輩でもあった。成績は優秀で評判も良かったけれど、それでもやっぱり学生だ。養う力はない。弟と妹はそれぞれ引き取られることになった。

 彼がひときわぼんやりとし始めたのはその頃からで、心はいつも遠くをさまよっている。

 私の母の知り合いが入院したということで出掛けている間、彼はふらっと家に来て、「明日家に来てくれないか」と言った。毎日通っているのにわざわざ呼ぶということは、何か特別な用事でもあるのだろうと踏んでいたけれど……そしてそのまさかが的中するわけだけど、今でも私は悩んでいる。あの時のこと、今のこと。


 ああ、やっぱり私は悩んでいる。

 あの時、私達が世界を知らなかったなら――その境を知らなかったなら、今頃どうしていたんだろう。




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