窓のための扉 1
日が短くなって、あちこちに生えている雑草の活力がなくなりかける、そんな季節が好きだった。夏には緑の手をぐいぐい伸ばす時期が過ぎたあとの、掠れかけの生命力と乾いた茶色。変わっていると思われるかも知れないけれど、どんなに綺麗な景色を見るより落ち着くのだ。別に暗い性格ではないと自負しているけれど、鮮やかな紅葉みたく派手なものが好きな方でもない。
少し肌寒い。パーカーを引っかけて、私は外に出た。風には僅かに潮の香りが混ざっていて息が詰まる。朝に揚げられて放置された魚の臭いと海藻特有の香りが混ざって、港から漂ってきているのだ。
軽く息を止めながら伸びをして、家のすぐ目の前にある道路を渡る。信号もなければ横断歩道もない、ぎりぎり車が一台通れるくらいの道路には、左右の確認をするまでもなく車も、人すらいない。辺りの家々のペンキは剥がれて、全体的に灰色の景色が広がっている。
そんな道路を挟んだ向かいに、彼が独り暮らしをする家はある。
私の家と同じ、周りにある家々と同じ古びた平屋建てのそれも、海風の前では錆を浮かせることしかできない。ぼんやりと建つ彼の家からは、いつものように人の気配がないように思える。
「藍人」
彼の家も私の家も、道路より低いところに建っている。断面図にすれば丁度凸型に似ている。えっちらおっちら道路へ登り、そして降りる。降りてすぐのところには彼の家の窓があるのだ。しかも、彼の自室の窓が。玄関から入るにはぐるりと反対側に回らなければいけないのだが、私はそうはしなかった。彼の名を呼び、カーテンがぴったりと閉められた窓を軽く叩いた。
「藍人」
「……ああ」
私の指より真っ白で、でもやっぱり骨張った指がカーテンの隙間から覗く。日に当たってぼろぼろになった布を引いて、ぼんやりと虚ろな顔をした青年が現れる。窓ガラスを隔てているものの、意外にもすぐ近くに立っていたことに体が強張った。
かしゃん、と安い音をたてて窓が開けられた。急に風が背を押すように吹いてきて、部屋のなかに吸い込まれていった。彼の目を隠すくらいの長めの髪が、ほんの一瞬だけ風に踊る。
「おはよう」
「もう昼過ぎだよ。さっき起きたの?」
「いや、一時間くらい前かな」
彼はあまり表情豊かではなくなってしまったけれど、掴み所のない瞳の奥で何かが緩んだ。笑ったのだ。彼の人生のなかで一番付き合いが長い私だから分かる、ほんのわずかな変化。
「毎日悪いね」
「別に、義務で来てるわけじゃないから。家も近すぎるほど近いしね」
そうか、と小さく呟いた藍人は、ただ窓を挟んで私を見つめている。彼は優しい人だけれど、毎日、この瞬間だけは大好きな幼なじみの顔を忘れてしまう。窓は全開なのに、見えない窓ガラス越しに私を見ている。
いつもならつい屈して、また窓越しに会話を続けるところだ。親しくて身近な人だからこそ、踏み込みすぎることが怖くて仕方がない。壊れてしまう危険を孕む選択をするくらいなら何もしないほうがいいと、ガラスみたいに透明で脆い今を守るように。
それじゃいけないことも分かっていた。
母さんだって、多分私を頼りにしている。藍人と外の世界を結んでいるのは私なのだから、今の状況を打破するのは勿論私しかいないと思っているに違いない。でも、どうにかしようと無闇に動いて窓口を失うくらいなら動かない方がいいと、そう思ってしまうのも仕方ない。
結局は全て私だ。
私が決めなくちゃならない。
どうしてこんなことになったのか、大体の予想は出来ても確信はない。でも、このままでは何一つ変わらず老いていくんじゃないかと怖くなる。こうやってどこかに何かを隔てたまま向かい合う冷たさも、それに怯えて一歩引いてしまうこの現状も、私にとっては耐えられないストレスだった。きっと藍人にとっても。だからこそ私が倒れるわけにはいかない。倒れたら終わりだ。まだ何も決断しないまま倒れてしまうのは、なにより藍人に悪いから。彼を解放するのは私なのだと、とうの昔に気づいていた。
彼は待っている。
私が踏み出さなくちゃ。
珊瑚の誕生日プレゼントとして書きました。長い話ではないので、もしよろしければ最後まで付き合ってやって下さい。