第0章の1
人族と魔者という二つの種族が存在し、また、それらが対立する大陸、ムルーア大陸。
その北部に位置するとある農村にて、一人の青年が笑みを浮かべて目の前の青年へと話しかける。
「それじゃ、色々と大変だとは思うけど義姉さんと二人で頑張ってね。兄さん」
年の頃は、16、7歳ほどに見える。比較的細身の体型で、温和な顔立ちと深緑の瞳は見るものに理知的な印象を抱かせる。彼は学者であると言われれば信じてしまいそうな容姿である。
そんな彼は、魔法使いが着るローブを着て杖を携えていた。隣には、食料などが入っている皮袋を置いている。わかりやすいほどの旅支度であった。
「うむ。万事任せるといい。ケイト」
青年、ケイトの声に答える兄と呼ばれた男は、朗々とよく通る声で応じると。
「しかし、お前ももう16歳。あの、貧弱坊やだったお前が冒険者になるとは、この俺の慧眼でも見通せなんだな」
言って、しみじみとした様子で頷いた。
「いや、兄さん。兄さんと比較したら誰でも貧弱坊やだと思うけど」
ケイトは無茶言うなとばかりに頬を引きつらせる。
すると、ケイトの兄は大きく仰け反り。
「なんと! そのようなことがあるはずなかろう! 見よ! 我が筋肉! 現役時代と比べてこんなにも衰えてしまったではないか!」
ああ嘆かわしい! と悲嘆しながらケイトの兄は服を脱ぎ捨て、胸筋を見せ付けるようにしながら右の手で左手首を掴む。いわゆるサイドチェストと呼ばれるポーズを形作ると、筋肉を隆起させてケイトにグイッと接近する。
身長200センチほどの大柄な体格に一部のすきもなく作られた筋肉の鎧は、近くで見れば見るほど見事な肉体美、とそう表現できはするのだが。
考えてもみて欲しい。一部の例外を除いた普通の人族は、筋肉モリモリのマッチョに息がかかるほどに接近され、その肉体を見せられても嬉しくもなんともない。むしろ迷惑である。
そして、ケイトも筋肉フェチなどの一部の例外ではなく。当たり前のように、その鼻をヒクヒクと痙攣させて一歩後ずさる。
「何故に後ずさる!」
ケイトの後退に合わせ、一歩、兄が踏み込む。
その時だ。
「何やってんですか! このおバカッ!」
突如として現れた女性が見事な飛び蹴りを放ったのは。
「グボッ!?」
魔法による身体強化がかけられた見事な飛び蹴りは、ケイトの兄の顔面へと突き刺さると、その100キロを超える巨漢を優に10メートルは横にかっ飛ばし、近くにあった大木をドンと揺らした。
蹴りの反動をいなし、軽やかにケイトの近くに着地した女性は疲れた顔をしてケイトを見やる。
「ったくもぉ。この筋肉馬鹿につける薬はないものですかね。どう思います、ケイトさん?」
「あはは、兄さんの筋肉馬鹿は今に始まったことじゃないですからね。諦めてください、義姉さん」
ケイトの答えに、はあ、と疲れたようにため息をつく艶やかな銀髪を持った女性。彼女こそがケイトの義理の姉、つまりはケイトの兄の妻だった。
「ぬぐっ、痛いではないか、ヨーコ」
ケイトとその義姉が苦笑いを交し合っていると、古傷を除けば傷一つない見事な裸体を揺らしたケイトの兄が二人の近くへと戻ってきた。
「サルトさんの筋肉なら平気だと信じてのことです」
「おお、そうであったか。ならばよし!」
自分で言っておきながら、どこがよしなんですか、と嘆くケイトの義姉ことヨーコに、笑うケイトの兄ことサルト。
二人の常と変わらぬ夫婦漫才にケイトは軽く苦笑すると、己の義姉に視線を向ける。
「さて、義姉さんも見送りに来てくれたことですし、そろそろ僕は行きますね」
「……そうですか。さびしくなりますね」
ヨーコは憂いを含んだ笑みを浮かべてケイトに視線を送る。
「すみません」
「いえ、謝ることは……」
「そうだぞケイトよ。何も気にすることはない」
謝るケイトの姿に慌てるヨーコに、サルトが言葉を差し込む。
「人には人の生きる目標というものがある。そして、人はそれを果たすことを望む生き物だ。……無論、時には果たせず、志半ばで折れることもあるだろう。だが、お前はまだその段階にない。ケイトよ。突き進め。そして己が限界を試してみろ」
「兄さん……」
優しげな兄の言葉と視線に、ケイトは驚いたようにサルトを見返す。
「……そうですね。ケイトさん! 頑張って! 私たちが教えられる限りのことは教えました。きっと大丈夫です!」
「義姉さん……」
ありがとう、とケイトは嬉しそうに呟いた。
それにサルトは大様に頷き。
「だが筋肉は足りてないな。もっと鍛えるべきだ」
「ちょっとは空気読めよ、筋肉馬鹿ッ!」
「ゴボァッ!?」
笑顔で放ったケイトとヨーコの拳に腹を穿たれた。