Jana mejshesis 2
一度、彼は試してみたことがある。
婚約者である少女と、初めて顔を合わせた日のことだ。まだふたりとも幼く、婚約者が何なのかはっきりとわかっていなかった。
少女はふっくらとした頬をりんご色にして、彼に見入っていた。灰青色のつぶらな瞳がかわいらしかったのだが、あまりに凝視されると逆に気分が悪くなってくる。居心地が悪くて彼がごそごそしていると、乳母に視線でたしなめられた。
少女はずっと彼の顔を観察していた。次第に彼は疲れてきた。これから一生つきあっていくのだと聞かされていたので、将来を想うとうんざりしてくる。
彼が我慢の限界に達しようとする頃、ようやく父が少女の視線に気づいた。父と少女の父親はふたりだけで大人の会話をしていたので、子どもたちにまで気が回っていなかったのだ。
「何かめずらしいものでもあるのかな?」
父が笑って少女にたずねた。少女はくるりとした瞳を父へと向ける。やっと視線が離れたので、彼は安堵した。
「王子さまも女神さまといっしょで、このままなんですか?」
少女の声は、子どもらしい高く軽やかな響きだった。表情も純粋で、悪意や嫌味といったものは欠片も存在していない。
大人たちの空気が変わったのを、彼は敏感に感じ取った。少女の父親が慌てて娘を叱責した。乳母が父に無言で不満を訴え、父は頭を下げる少女の親を宥めている。
この場に母がいたらどうしただろうな、と彼はぼんやりと想像した。多分怒りはしないだろう。母はこういうことには無関心だからだ。
けれど彼は、ふと興味が湧いた。だから試してみることにした。
「だったら、どうする?」
視線が一斉に集中する。彼は少女の反応を待った。
少女は真っ正面から彼を見ると、くしゃりと顔をゆがめた。妹が虫を見つけて泣く時と同じ顔だ。
だから、とっさに彼は訂正した。
「嘘だ。冗談だよ」
からかったんだよ、と彼が続けると、少女はあきらかにほっとしていた。泣かれずに済み彼も安心したが、かわりにどんよりとした霧が胸に広がっていく。
父は彼を見て微苦笑していた。あとで注意されるだろう。その時には素直に謝ろうと、彼は苦い口をもごもごさせながら思った。
無性に、彼は母に会いたくなった。母のやわらかい身体に抱きつきたくなった。
――あの気高き母は、いつもこういう目に遭っているのか。
母は、自分のように否定できないのだ。
ついに彼が母の外見を追い越してしまった。
どこかで安心している自分がいて、彼は辟易していた。ほかの弟妹も順調に歳を取っていて、母のような子どもはひとりとしていない。孫が生まれても、やはり母は年頃の乙女のように清らかで、かつ威高かった。
父が死んで弟が跡を継ぐと、母は部屋に籠もるようになった。彼はその理由をすぐに知った。女神に添おうと願う男が絶えないのだと、弟が苦々しげに明かしたのだ。
逆に信奉者も絶えないと弟は告げた。彼は屋敷で静かに過ごしているためそれほど感じなかったのだが、弟さえも信仰対象に担ぎ上げる人々がいるらしい。
それを知って、自分には向いていないと彼は思った。母の言葉は当たっていた。
弟はいいのだろう。その子どもやその子孫もいつかは死ねる。けれど母は死ねない。弟の孫やその孫や曾孫が死んでも母は今の姿のまま、永遠に生きていかなければならない。そしていつか自分の子孫からも、血縁ではなく信仰対象として崇められるのだろう。
はたして、母は本当に父に救われたのだろうか。
父は女神を救った者として敬われている。長い間捜しつづけてきた女神を見つけ出した偉大な長だと。だが、救われたとされる張本人がこの状況下に置かれていて、それは救ったことになるのだろうか。
今や妻となったかつての少女は、彼が一緒に年老いていくことをどこか安心している節があった。身近で母の異質さを目の当たりにしているから、余計にその嫌いがある。
――結局、父は母を救えなかったのだ。
彼は自分より若い母に提案した。しかし、母はぴくりとも眉を動かさずに首を振った。
「おまえが救えるのは、私ではない私だ。目の前にいる私ではない」
私には必要ない、と女神は冷酷だった。
父の死後、自室に籠もっていた母が急に表へ出るようになったとき、彼はその時が来たのだと悟った。彼としては思ったより早かったので、弟たちとは別の意味で驚いていた。
母がひとりで旅に出ると言った。当然ながら周囲は反対した。供を連れていけだとか、国の外に出るのは危険だとか、それらしい理由を並べ立て母を引き留めようとした。だが彼だけがあっさりと賛成したので、批難の嵐だった。
彼は長男の権威を振りかざし、弟妹を説得した。そうして、臣下たちに気づかれないように密かに母を旅に出した。
損な子、と母はやさしくほほえんだ。母は父の遺髪だけを持ち、そしておのれの髪を残して去っていった。
彼は母の残した髪を神殿へ納めた。彼の所行を知った神官や臣下たちは、ありとあらゆる罵詈雑言を彼に浴びせた。語彙の豊富さに彼が感心するほどだ。
それから城ではさまざまな論争が起こり、弟は困っていたが、最終的には新しく神殿を建てようと結論が出た。
草原の真ん中に彼らは巨大な聖堂を建設し、父と母の像を祀った。一度彼も見に行ったが、出来には首を傾げる類だった。兄弟間でも評判は悪く、後継者の弟以外は最後まで聖堂から疎遠だった。
彼らにとって、母は女神である前に母であり、父は偉大な長である前に父であり、ふたりは崇める対象である前に両親である。母の異質でさえ当たり前の現象で、それが彼ら家族の特徴だったのだ。
彼らはただ、美しい母が辿る旅路の平穏を願った。




