20
水面から出たと同時に、彼と彼女はどさりと地面へ放りだされました。さいわい地面はやわらかかったので、背中を打っても悶絶するほどではありませんでした。
すう、と息をすると、うまく肺やのどが動いてくれず、彼はむせてしまいました。ひさしぶりに呼吸をして心臓が脈打つ感覚に、今までのことを思い出します。
咳がおちついてから、ゆっくりと自分の腕と思われるものを動かすと、はたして視界には見慣れた人間の腕がありました。
一本ずつ指を動かし、ひとつも欠けていないことをたしかめます。それから、そっと自分の顔をさわります。目がふたつに鼻がひとつ、口も人間のがひとつ。耳が両側にひとつずつ。髪の毛も記憶どおりの長さでした。
身体を起こそうとすると、なぜか動きません。もしやと彼が肝を冷やすと、もそりとなにかが彼の腹のあたりで動きました。
「……戻ってきたか」
なにかは彼女でした。彼女が身体を起こすと彼からも奇妙な重さが消え、思いどおりに足が動いてくれます。動かして確認したところ、どうやら無事に二本ついているようです。
「安心しろ。おまえは人間の形をしている」
その言葉に、彼はほっと肩の力を抜きました。そして彼女の声が、聞きなれた類であるのに、無性に安心しました。あいかわらず恍惚とするうるわしい響きなのですが、それでも彼が彼女を拾ってから聞きつづけてきた、慣れ親しんだ声でした。
ゆっくりと身体を起こします。あたりを見回すとそこは草原で、すでに空は真っ暗です。よくよく目をこらすと、近くの丘の中腹に見慣れた建物の影が見えました。どうやら彼のお城のようです。
もういちど、彼はほっと息をつきました。
「少しずれてしまいましたね」
彼女は静かに首を横に振りました。ほどけた黒髪もゆらゆらと揺れます。
「これほど近ければ充分だ。歩いて戻れる」
彼女にも特におかしなところはないようです。けれども安心したのもつかのまで、彼女は急に彼をじろりとねめつけました。
「私は隠れよと言ったはずだ。だというのに枠を飛びこえたあげく、兄上の『名』を操ろうとするなど、おまえは心底愚か者だな。術者でもないおまえがあつかえる技ではないであろうに」
彼は言葉に詰まってしまいました。今となっては、自分でも無謀だったと反省していたからです。
「申し訳ありません……。ですが、知らぬふりをするわけにはいかなかったのです」
「なぜだ」
「貴女が危険にさらされるだろうとわかっているのに、自分だけ隠れるようなまねはできません」
「それでおのれの命を無下にするのか」
冷たい口調に、彼は返す言葉もありませんでした。彼女の機嫌をうかがいながら、おそるおそる問いかけます。
「……それで、私はどうなったのでしょうか」
太陽の神さまの炎で灼かれるのを思い出し、彼はぞくりと身体を震わせました。たしかに彼は白い炎に灼かれながら、自分が跡形もなく消されようとしているのを、いやというほど感じたのです。そして太陽の神さまの怒りの炎は、彼を灼きつくしてしまったはずでした。
「私がおまえに与えたものが、今のおまえだ」
彼女が答えました。
「私がおまえに与えた『名』とそれにともなう『気』が、今のおまえだ。だが私が与えたものであっても、おまえが持っていたものであり、おまえのものでもある。本来のおまえは消えてしまったが、私が与え、おまえが『イシュメル』の一部としたものだ。おまえが自分は人であり『イシュメル』であると思うのなら、それがすべてだ」
彼はふたたび、自分の手をまじまじとながめました。生まれてからずっと見てきた自分の手と、まったくちがいはありません。鏡でたしかめてはいませんが、さわった感触も動かした感じも、以前とは変わりません。
「……私が貴女に助けられたのですね」
ぽつりと彼はつぶやきました。
「だが、おまえが戻りたいと思わなければ、戻れはしなかった」
彼女の言葉に、彼は自分がつかんだ手を思い出しました。この世界へと導いてくれた手は、間違いなく彼の父親のものだったのです。育て方を間違えたと言ったのが父の本音であっても、彼を連れもどしてくれたのが父であるのも事実でした。
「……太陽神は、どうするでしょうか」
こみあげてきた熱いものを隠しながら、彼女に問いかけました。彼女は彼の感動に気づいているのかいないのか、ふと銀色の双眸を夜の草原へと向けました。
「兄上がほしかったものは私ではなく、『月』をあつかう手段だ。私の中にわずかに残っていた神の部分をすべて置いてきたから、おそらく近いうちに兄上は『月』を手に入れられる。おまえたちが望んだように、月はふたたび夜空に君臨する」
すると、彼女は色の戻ったくちびるを弧にゆがめました。
「私はますます化け物になったというわけだ。これでもはや、真実神ではない。私がいなくても世界は動き、月も満ちる。おまえが知っている『名』も、もう私の物ではない」
ふたりはしばらく黙りこみました。星明かりしかない中、彼女の顔ははっきりとはわかりません。けれど、伝わってくる声や雰囲気から、これまでになく悲しんでいるのがわかりました。
彼は長いあいだ悩み抜いたのち、静かに彼女に言いました。
「城へ帰りましょう。いつまでもここにいては危険です」
彼女がゆったりとこちらを向きます。その美しい顔には疑問がうかんでいました。
「私は出ていくと言ったのだぞ。忘れたのか」
「覚えています。けれど、このまま何の準備もなく出ていかれるのは、いくら貴女でも無謀です。一度帰りましょう」
彼女の表情がみるみるうちに嫌悪にゆがみます。
「おまえはすべて知っていると言っていたな。どこで知った」
彼は正直に答えました。
「世界の狭間から、貴女たちのところへ行く途中に見ました」
「ならばわかるだろう。私は死なぬ。いくら飢えようが傷つこうが死ぬことはない。準備など必要ないのだ」
「たしかに死にはしませんが、苦しみは人間と同じようにあります。人間ならとっくの昔に死に至るような苦しみも、貴女は味わってきたはずです」
人なら死という安息が訪れますが、彼女にはありません。終わりのない苦痛を、人間と同じ時間の流れで受けとめなければなりません。このあいだ「一年などまたたきほどの時間だろう」と言った自分はなんて無神経だったのだろうと、彼は後悔しました。
「死なないからとなにも持たずに旅に出る貴女を、私は見過ごせません。この地を離れるのなら、当分の食料と資金を持っていってください。なにかあったら戻ってきてください。少なくとも、私が生きているあいだは手を貸すことができます」
彼女は侮蔑するような声音で言いました。
「私は化け物だ。今のおまえならよくわかるだろう。なのになぜ関わろうとする」
「貴女が化け物なら、私も同じです。私は貴女からもらったもので存在しているのですから」
彼はひるむことなく、まっすぐに彼女の視線を受けとめました。以前の彼ならば彼女の怒りに畏れを抱きましたが、今は不思議と恐ろしくはありません。それだけ腹が据わったのかもしれません。
「おまえこそ私を疎んでいただろう。見つけたくはなかったと言ったのを忘れたのか」
「見つけたくなかったのは事実です。私は貴女を見つけたくはなかった。神は神で、目の前に現れず理想として存在しているだけでいいと、私は思っていた」
彼は素直に認めました。そして、自分の気持ちを彼女に素直に伝えたいと思いました。伝えなければ、今後自分がどうしたいのかも伝わらないのです。
「私は、自分がなにかのきっかけになるのが恐ろしかったのです。平凡な私より使命をはたすべき長はたくさんいたはずなのに、彼らがはたせなかったことを私ができるわけがないと、逃げていたのです」
実際、今でも彼らより自分が女神を見つけるのにふさわしかったとは、とうてい信じられません。先祖の中の、誰か優秀な長の方が、よっぽどうまく立ち回れたでしょう。
けれど、なにも知らなかった時とちがい、彼は彼女の事情を知りました。だから、凡才な彼なりの答えも出すことができます。
「貴女を我らが女神として迎えいれるのが、貴女を信仰しつづけてきた一族の長としてなすべきことなのでしょう。けれど、貴女はもう神ではないと言う。それなら、私は貴女を貴女として迎えいれたい。信仰対象ではなく、貴女という存在として」
彼女はわずかも視線をそらさずに、彼を見ていました。彼女は固まってしまったかのようにぴくりとも動きませんでしたが、彼はいっこうにかまいませんでした。
「なぜ理由が伝えられていないのか、ようやくわかった。見つけることこそが意義だった」
星の結晶である彼女の瞳に、彼は新緑の双眸をやわらかく細めました。こんなに気分がすっきりとしていて、そしてほがらかに笑うのはひさしぶりでした。
「やっと、見つけた」
◇◇◇
彼はいつものように、庭に面した部屋で仕事をこなしていました。彼の目の前の問題は山積みで、ここ最近は睡眠時間もけずって働いています。それは、ほとんどが『女神』に関することでした。
女神は彼の説得に応じてお城に戻ると、そのまま旅には出ずに住みつづけていました。彼としてはまた彼女が飢えたり傷を負って苦しんだりするのは心苦しかったので、彼女がお城に留まると言ったときは、うれしくて思わず笑みがこぼれてしまったほどです。
けれど彼女がお城に住みつづけるのなら、彼女を神さまとして公表しなければなりませんでした。彼女を『女神』として迎えないと言った口で、この人が我々が捜してきた女神ですと公言するわけにはいきません。どうするかと彼が頭を悩ませていたら、あるとき突然、彼女があっさりと『女神』であることを認めてしまいました。
それからは神殿からの問いあわせや女神に会いたいと集まってくる人の処理や、女神の処遇について臣下たちと話しあったりそもそもなぜ隠していたのか追求されて言い訳を考えたり、女神について質問攻めにあったり、彼は朝から晩までてんてこまいです。
一方、彼女は彼女で大変そうでした。特に神官が彼女に会いたいと、毎日山のような申し出がありました。彼はそれらしい言い訳を考えて拒んできましたが、彼が拒めば拒むほど神官たちは躍起になりました。
最近ではどこでかぎつけたのか、彼が彼女を気に入ったからお城に住まわせたという噂を仕入れ、どういうことだと問いつめてきます。流したのは彼自身でしたが、つけがこんな形で回ってくるとは予想外でした。
すっかりなかよしになってしまった頭痛をやわらげるために、彼は眉間をぐりぐりともみほぐします。とりあえず山積みになっている問題を優先順に解決してきたいのですが、こっちが先だ、いやこっちの方が先だと横槍を入れられるので、なかなか思いどおりに進みません。
はあ、と彼が重いため息をついたときでした。人目を盗むようにこちらへ向かってくる存在を感じ、そしてすぐに彼女が姿を現しました。
彼女は出会ったころと変わらず、我を忘れて魅入ってしまう美しさでした。けれども、よそよそしさやふれるのをためらうような棘はありません。
彼女は部屋に入ると、うんざりした様子で口を開きました。
「もうつきあいきれぬ」
「……はい?」
思いがけない発言に、彼は聞きかえしました。すると彼女はくっきりと柳眉をひそめてくりかえします。
「つきあうのは疲れたと言っているのだ。私は姿を消す」
彼は落胆しました。そして落胆した自分に驚きました。
「……どこへ行かれるのですか?」
気取られないように気をつけながらたずねると、彼女はまたまた突拍子もない発言をしました。
「そうだな。とりあえずあの白い集団の住処へ赴いて、祭壇を壊してやろう」
ぱか、と彼は口を開けて呆然としてしまいました。彼女の白い視線に気づいて我に返ると、あわてて口を閉じます。
「罰当たりな」
ようやっとそれだけ言うと、彼女は心外そうに続けました。
「何が罰当たりだ。祀られている張本人は私だ。おのれの理屈に囚われ、目の前の『神』と崇めるものに礼を欠いて、何が神官だというのだ。私みずから道を正してやるのだから、奴らにとっては身にあまる名誉のはずだ」
彼女も彼と同じように、神官から迷惑をこうむっていました。特に噂については、彼が申し訳なくなるほどです。ごめんなさいと土下座してもいいぐらいでした。
彼女の目がいたずらに輝いているのに彼は気づきました。そして、彼の腹の底で、むくむくと衝動がうずきました。
「…………たしかに、たしかにそれはいい案です」
賛成すると、彼女は満足そうにうなずきます。
「おまえもついてくるがいい。姿を消すことぐらいはできる」
彼は彼女とこっそり神殿へ侵入し、立派な祭壇をめちゃくちゃにしてしまうのを想像しました。今までなら畏れおおくて考えもおよばないでしょうが、神である彼女みずからが破壊するというのだから、畏れることはありません。それに、横槍を入れてくる神官たちには頭を悩まされつづけてきたので、お返しをしたくもありました。
「本当に忍びこむのですか?」
「私に二言はない」
彼女は不敵にほほえみました。以前、お城の人たちを騙して彼女を捜させたときのようでした。
「おまえも鬱憤がたまっているだろう。われらで逆襲してやろうではないか」
彼女の誘いに、彼は興奮で胸をわくわくさせながら答えました。
「はい」




