19
「おまえ――」
彼女の真っ青なくちびるがわななきました。
「なにゆえここにいる」
彼女の驚きに反して、彼はあっさりと答えました。
「追いかけてきました」
「なんだと?」
「先祖が手助けをしてくれました」
それだけ言うと、彼は彼女のとなりに立つ男――あきらかに人間ではない存在に、視線を向けました。相手は彼と目が合うと、かすかに眉根を寄せました。
「なにゆえ人間がここにいる」
彼は全身が凍りつくほどの緊張に襲われました。さきほど彼女の記憶を見たときにも恐怖を感じましたが、やはり本物と対峙するのとはちがいます。あのときは逃げるという選択肢がありましたが、今は視界に入ってしまったが最後、太陽の神さまにすべてを委ねるしかないと諦めざるをえない、多大な恐怖と無力感がありました。
それでも彼は、なんとか太陽の神さまから目をそらしませんでした。ここまで来たからには、いくら神さまの前でも竦んでいるわけにはいきません。彼女が危険にさらされているのなら、なおさらです。
「彼女から離れてください」
太陽の神さまの表情が険しくなります。人間に命令されたのですから当然でしょう。
口の中がからからに乾いていましたが、彼はなるべくはっきりと続けました。
「彼女を失うわけにはいかないのです。私にはその責任がある」
太陽の神さまが、こちらへ一歩、踏みだしました。思わず退きたくなる足を、彼は必死で押しとどめました。
「『星の民』――」
太陽の神さまが彼の顔――正確には瞳の奥を探ります。えぐられるような苦痛に、彼は歯を食いしばって耐えました。
「おまえたちは『月』を捜しつづけてきたというが、人間などに何ができる。何も知らぬ愚か者どもが、おのれは神に選ばれし者と慢心し喚きたてているだけであろう」
「私は全部知っています」
彼はかすれた声で反論しました。
「たしかに、我々は何も知らずにきた。けれど、私はすべて知っている。遙か昔にあなたたちが何をし、どんな過ちを犯したのか。なぜ月が無くなったのか。なぜ女神が自分を化け物だと言うのか」
「知っているとして何ができる?」
また一歩、太陽の神さまが彼に近づきました。ごくりと彼の喉が鳴ります。
「人間ごときが口を挟むな。おまえには関係ない。去ね」
ぴり、と空気が震えて、全身をこまかく切りきざむような痛みが走りました。彼は完全に、肉食獣に狙いを定められた獲物でした。逃げることもできず、ただ相手がいつ自分の喉笛にかみつくのかじっと待っているしかありません。
それならば、彼は噛み殺される前に、できるかぎりのことをしようと思いました。獲物は獲物なりに、抵抗しようと思いました。
「関係なくはない。我々は女神を捜しつづけてきた。それがたとえ一方的な行為であっても、私は彼らの末裔として関わる義務がある。女神に危険がおよぶのなら、危険から遠ざけたいと願う意思がある」
それに、と彼は続けました。
「私はあなたたちの名を知っている」
ぴくり、と太陽の神さまの肩が震えました。彼女も動揺したようで、息を詰めて彼を凝視しています。
彼は乾いたくちびるを湿らせてから、ふたりの神さまに聞こえるようにはっきりと――けれどどこかうつろな口調で言いました。
「『名はそのものの本質。そのものの基礎であり、名をつけられた時点でそのものは名に縛られる。名は本質であり基礎であるから、名を支配したものはその存在さえも支配することができる』」
それはどこからともなく流れこんできた知識でした。けれど、彼にとっては霧を払う風でした。
どうして彼は彼女の名前を知らなかったのか。
それは、知られてはいけなかったからです。
彼は黄金に輝く双眸をまっすぐに射貫いて、言いました。
「私たちを地上へ帰してください。――飛輪」
「馬鹿な!」
とたん、彼女が叫びました。彼女の顔は雪よりもまっしろです。
太陽の神さまは驚きに微動だせず立っていましたが、ふいに喉の奥からこすれた笑い声をもらしました。
「おまえごときに朕の『名』をあやつれるとでも思うたか」
彼を見下す視線は、完全に怒りの炎を宿していました。唯一の抵抗だったはずが、墓穴を掘っただけのようです。
「邪魔だ。消えよ、『イシュメル』」
太陽の神さまの声が朗々と響きます。直後、彼の身体を白い炎が包みました。
めらめらと燃える炎は灼熱のようであり、氷のようでもあり、彼は自分の身体や精神を侵す痛みに叫ぶことさえできませんでした。劫火が足下から全身に燃えひろがり、灰さえ残さずに完膚なきまで破壊していくのを、ただただ傍観していました。
これがただの死だったなら、彼は身体や存在を残すことができたでしょう。父や先祖のように、死者の国へ行くことができたでしょう。けれど彼に与えられたのは、身体も魂も残すことのできない、完全なる『無』でした。
「愚か者が!!」
彼女の怒声が響きます。彼は激痛と戦慄の合間にそれを聞きました。
「こちらへ来い、『ヘリオス』! それは捨てよ!!」
彼女の声に呼応し、白い炎の中から緋色の小鳥が飛びだしました。小さな鳥はひょろひょろと頼りなさげに羽ばたきながら、それでも彼女が差しだした腕にたどりつきます。彼女は太陽の神さまからかばうように、そっと小鳥を手で包みました。
「そなた――」
「動かれるな。『飛輪』」
太陽の神さまの動きがぴたりと止まりました。それでも彼を燃やす劫火は消えずに、ごうごうと音をあげて彼を消し去ろうとします。
「わたくしが持っているすべてを兄上にお渡ししましょう。そうすれば、多少は『繋ぎ』の役割をはたすはずでございます。あとは兄上の采配で事態をお収めください。わたくしとは二度と関わられますな」
花の彫られた衝立が、ぐにゃりと歪みます。彼女と衝立のあいだの空間に、ぽっかりと黒い穴が開きました。渦を巻きながら大きくなる穴に背中をあずけ、彼女は動けずにいる太陽の神さまに、哀しげにほほえみかけます。
「この世界で唯一の完全であられる、愛しき兄上さま。わたくしのことなど捨て置き、お好きに世界をお治めくださいませ。今後も永久に兄上のすべてが正義であり、兄上が絶対であられましょう。わたくしは兄上の不義であり、兄上の過ちでございますれば、地に堕ちて滅びるのが道理でございます。どうか二度と思い出されますな。兄上の世界が続くかぎり、どうかお忘れください」
それだけ言うと、彼女はみずから黒い穴へと飛びこみました。目の前でしゅるりと太陽の神さまの姿が消え、あたりが真っ暗になります。
「『イシュメル』」
彼女は両手に包みこんだ、小さな赤い鳥にむかってささやきました。
「おまえは鳥ではない。思い出せ、おまえは『イシュメル』だ。おまえが生まれ出でて死ぬ世界を思い出せ。おまえの居場所を思い出せ」
イシュメル、と彼女はくりかえし呼びつづけます。底の見えない闇を墜落しながら、彼女は唯一の色彩である赤い生き物にささやき続けました。
「思い出せ。帰りたいと思え。自分の場所へ戻ると強く思え。おまえの世界を引きよせろ」
消えようとしていた意識の中で、彼はぼんやりとその声を聞きました。母親のように慈しむ声に、彼は自分が何者であったのか、そしてなにをすべきなのかをおぼろげに考えます。
「おまえは『イシュメル』だ。ぼろのような私を拾ったのはおまえだろう。私を女神だとわかっていながら、見つけたくはなかったと言っただろう。枠を越えて追いかけてきたのは『イシュメル』だろう」
くりかえしささやかれる『名』に、靄がかかっていた彼の思考は、とたんにはっきりと晴れました。
生まれたときから住みつづけてきた石の城、そこから見下ろす町や人々の生活、郊外の畑や草原。今はもういない父や母の顔。唯一の家族である弟。子どものころからの友人である近臣。仕事真面目な騎士。難攻不落で教師のような大臣たち。
おまえが次の長なのだと言い聞かされて育ち、自由で気の強い弟をうらやましく思いながらも、兄として長男として努力にはげんできた日々。突然父を亡くしたときの衝撃と恐怖。緊張と責任で押しつぶされそうな夜。それでも、眼下に広がる町と草原の美しさに胸をうたれた夜明け。
「戻ると強く思え。おまえがあるべき場所へ戻るのだ」
光のように差しこむ声に、彼は強く願いました。帰りたいと思いました。帰るのだとはっきりと念じました。
あの世界へ、自分が生まれ育ち、死ぬ世界へ。自分が生まれた地へ。自分が責任を持って治める国へ。自分の居場所を作ってくれる人のもとへ。
ふいにあらわれた糸口のようなものを、彼はしっかりとにぎりました。それは小さな子どもの手のようであり、彼よりもしっかりとした壮年の男の手のようでもあり――。
ぐい、とひっぱられると同時に、彼と彼女は水の壁へ飛びこみました。




