18
彼女は召使いに先導され、回廊を歩いていました。
朱塗りの柱に花鳥風月の描かれた欄間、さざ波のように続く黄金の瑠璃瓦。地上はあれほど天気が荒れていたというのに、ここは青空が広がっていました。
小鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてきます。甘い花の香りが鼻をくすぐります。みやびな音楽が、小鳥の声に色を添えます。
あまりにも懐かしく、そして変わっていない光景に、彼女はたとえようのない虚しさを覚えました。ここは下でなにが起こっていても変わらず平穏で、時間の流れもちがうのです。彼女が何百年と苦しみさすらってきた時間も、ここでは一年になるかならないかなのでしょう。
無言のまま部屋に通され、彼女は膝をつきました。室内には、地上ではとうてい存在しない宝物や絵画や大輪の花が飾られ、やはり変わりない香が焚かれていました。
顔を上げなくても、相手がこの歳月の間になにをしてきて、そしてどれだけ変わっていないのか、彼女には手に取るようにわかっていました。
「面を上げよ」
凛然とした声に、彼女は顔を上げました。そうして、やはり、と落胆しました。
彼女の兄である太陽の神さまは、記憶とわずかも変わらない、若々しく威厳に満ちた顔をしていました。この世界のなによりも美しく偉大な容貌と、それにともなう存在感。黄金色の太陽の瞳。どれも彼女が知っている兄神さまそのままでした。
「……お久しぶりでございます」
それにくらべて、自分はどれだけ汚れただろうと彼女は思いました。外見はどれほど飢えて苦しんでも変わりませんでしたが、中身は積み重なった恨みや苦しみや哀しみや悔しさでいっぱいでした。
太陽の神さまは彼女のそんな気持ちに気づく様子もなく、昔のように彼女に座るよう命じました。けれど、彼女はそれを断りました。
「わたくしは地に堕ちた身でございます。兄上と同じ目線でお話しするわけにはまいりませぬ」
「朕が座れと命じてもか」
「さようでございます」
彼女が動かないでいると、太陽の神さまは椅子を持ってきた召使いを手で追いはらいました。召使いは音を立てずに部屋を出ていきました。
「このわたくしに、何のご用でございましょうか」
ある程度の見当はついていましたが、彼女は太陽の神さまにたずねました。太陽の神さまは、彼女をまっすぐに見下ろして言いました。
「そなたを――『月』を戻したいと思う」
彼女はそっと嘆息しました。彼女の予想どおりだったのです。
「おかしなことをおっしゃる。わたくしを追放したのは兄上であったと記憶しておりますが」
「朕も覚えておる。だが、そなたがおらぬと煩わしいことを申す輩もおるのだ」
「……あと数百年気づくのが早かったのなら、うれしゅうございました」
思わず嘲笑がもれました。彼女にとっては何百年という時間でしたが、太陽の神さまにとってはほんのわずかな時間だったはずです。嫌味を言っても通じるはずがありません。
「わたくしがおらずとも、兄上の理想は実現いたしましょう。むしろ、わたくしが災いとなるから地に堕とされたはずでは?」
彼女の意見に、太陽の神さまは鷹揚にうなずきました。
「あのままそなたを放っておけば、近いうちに真の元凶となったであろう。だが、今のそなたはおのれの過ちに気づいているはずだ。同じ過ちはくりかえすまい」
「たしかに、愚かなことをしたと思っております」
どれだけ願いを叶えてやっても、人間は追放された彼女に手を差しのべてはくれませんでした。歳も取らず、常軌を逸した美しさを持つ彼女を、人間は化け物だと嫌いました。
「ですが、どうせ人間どもが必要とするのは『月』そのものだけでございます。兄上がかつてのわたくしを持っておられるのだから、好きになさればよろしいでしょう」
空に月が輝かなくなってから、太陽の神さまになにがあったのか――遠く離れていても半身なだけあって、彼女にはすべてわかっていました。
太陽の神さまの恩恵を直に受ける人間たちが、神さまに月を戻せと楯ついたのです。それでも彼女は人間たちが求めるのが、自分ではなく『月』だということを理解していました。
太陽の神さまは、めずらしく難しそうな顔をしました。
「ひとつの身でふたつを治めるのは無理がある。器が持たぬ」
「器などいくらでも再生されるといい」
彼女は平然と言いました。
「兄上も地上と関わりすぎたようですし、人の子のまねごとも暇つぶしになられてよいではありませぬか。今のように仮宿を設ければ、多少は楽でございましょう」
太陽の神さまの眉間にしわが寄ります。
「朕に人の身に堕ちろと申すのか」
「そのような畏れおおいことは申しておりませぬ。ただ、兄上は兄上で罪を犯されたということでございます」
それでも、この偉大な兄は自分の罪を自覚しないのだろうと、彼女は思いました。なにせ彼女自身、愚かなことをしたと理解していますが、いまだに罪の意識はないのです。ただ考えなしだったと、自分自身を罵っているだけなのです。
「朕が罪を犯したとは思わぬ」
太陽の神さまは、はっきりと言いました。けれど、彼女は落胆しませんでした。
神さまは神さまであって、間違いを犯す存在ではないのです。たとえ間違いを犯したとしても、それを神さまが自覚したり反省したりすることはないのです。なぜなら、神さまは世界の基礎であり絶対だからなのです。
だから、太陽の神さまの反応は、彼女にとっても神さまにとっても当たり前のことでした。
「だが、状況が思わしくないのは事実だ」
太陽の神さまは怒るでもなく言葉を続けました。やはり淡々と、けれど従わざるをえない威圧的な声音でした。
「そなたも知っておるだろうが、そなたの『器』が暴走して由々しき事態になっておる。あれが人間であるせいもあるだろうが、それだけではあるまい」
ぴくり、と彼女の柳眉が動きました。
「……何がおっしゃりたいのですか?」
「『繋ぎ』がない」
黄金の双眸がそっと細められます。
「『繋ぐもの』が無ければ、朕でも治めることはできぬ。そなたにしかあれはあつかえぬのだ」
彼女は眉間を歪めました。
「ですが、わたくしが地に堕ちてから長い時間が経ちました。わたくしは地上の穢れにまみれ、とても天上のものをあつかえる器ではございませぬ」
彼女の中にさまざまな負の感情が積み重なっているのと同じように、長い時間に飲んだり食べたりさわったりしてきた地上のもので、彼女はすっかりと染まっていました。
本来なら神さまは天上のものにしかふれませんし、天上のものしか食べません。だからこそ外から世界に関わることができますし、神さまはとても綺麗で完全な状態でいられるのです。けれど彼女は世界の流れの中に放りこまれ、そこでさまざまなものを取りこみました。外のものだけでできていた、綺麗で完璧な状態ではありません。
ですから、太陽の神さまに取られてしまったものを返してもらっても、とうていあつかえるはずがないのです。彼女は外のものでありながら、中のものでもあり、どちらの枠にも入れないまさにはずれ者なのです。
「『器』が暴走しようが壊れようが、わたくしにはもう手に負えませぬ。どれほど力を尽くそうが、兄上のご期待には応えられませぬ。どうかわたくしのことはお忘れくださいませ」
しかし、理解していないわけがないのに、太陽の神さまは首を縦に振りませんでした。
「そなたでなければ誰があれを治める? たとえ朕が『器』の暴走を抑え我が身に取り入れても、この身は長くは持つまい。そなたの言うとおり、人のまねごとをしても限界がある。あれはもともとそなたなのだから、そなたにしかあつかえぬのだ」
「兄上にもおわかりのはずです。わたくしはすでにちがうものと成り果てました」
「そなた以外にはおらぬのだ。放っておけば、いずれ暴走も手に負えなくなる」
彼女は床に跪いたまま、わずかにうしろへ退きました。
「わたくしには無理です。この身に受ければ、今度こそ存在もろとも消え去るでしょう」
「そなたしかおらぬ」
その揺るぎない態度に、彼女はさっと立ちあがりました。全身を虫がはうような怖気が襲います。
「目を覚まされよ! 兄上は間違っておられる!」
「穢れているというのなら清めればよい」
「そのような単純なことではありますまい!」
しかし太陽の神さまの態度は変わりませんでした。太陽そのものの瞳でしっかりと彼女を捕らえ、彼女を従わせようとします。その圧倒的な力に、彼女はまともに抵抗することさえできません。
やはり兄は絶対なのだと彼女は思いました。太陽の神さまには間違いなど存在せず、神さまの間違いによって苦しんだり悲しんだりするのは些細なことなのです。
なぜなら、太陽の神さまが世界の絶対であり、正義なのだから。
その正義に反する者は、自然と不義であり排除されるものなのです。
彼女は恐怖に震えました。神さまであった彼女が死という『無』を意識したのは、このときが初めてでした。
「兄上は、初めからわたくしを消すのが目的であられたのか。わたくしを重苦と地上の穢れでまみれさせ、枠からはずし、最後には滅ぼすために地上へ堕とされたのか!」
「そのような思惑はない。だが、そなたが抵抗すればそうなるやもしれぬ」
彼女の全身から血の気がひきます。太陽の神さまが立ちあがり、一歩、彼女へと近づきます。
彼女はすそをひるがえしてその場から逃げだそうとしました。けれど、恐怖と絶望が彼女の足から逃げだす勇気を奪ってしまいました。
兄であり半身であり夫である太陽の神さまに殺されるなど、彼女にはとうてい信じられませんでした。しかも、相手は自分の行動が彼女に死をもたらすなど思っておらず、そしておそらく結果として彼女が死んでしまっても、ぴくりとも眉を動かさないのでしょう。
あまりの哀しみに、彼女の口からかすれた悲鳴がもれました。けれど、太陽の神さまは気にしませんでした。
太陽の神さまの手が、彼女のまるい頬にふれます。彼女は神さまから目をそらすことも、まばたきすることもできずに、石のようにたたずんでいるしかありません。
太陽の神さまは、昔のように慕わしげに彼女の頬をなでました。彼女はいっきに奈落の底へと叩きつけられました。
全身ががたがたと音を立てて震えます。毛穴という毛穴から汗が滝のように流れます。彼女の白いかんばせもいまや色を失い、真紅のくちびるもかさかさに乾いて青ざめています。
太陽の神さまが、ゆるゆると薄いくちびるを動かします。その一瞬が、彼女にははてしなく長い時間に思われます。
――『名』を呼ばれたと同時に、私は消えるのだ。
目の前が真っ暗になる直前、彼女の名前を呼ぶ声がしました。
「だめだ、玉鏡」
それは、この場にはいないはずの人間の声でした。




