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気づくと、彼はお城の寝台の中でした。
真っ白な布が、彼の視界をうめています。ふわりふわりとゆらめく布の動きが彼女のまとう布の動きに似ていて、とても綺麗だと彼は思いました。けれどいつも彼女が従えている、なんとも言えない甘くていい匂いがしないので、自分が寝ぼけているだけだと気づきました。
何度かまばたきをして完全に目覚めてから、彼はゆっくりと身体を起こしました。頭が少しずきずき痛むだけで、ほかには異常は見当たりません。どうやら特に問題は無いようです。
帳をそっとめくると、広い室内には女官が数人いて、あわただしく動き回っていました。それから彼と目があうと、全員がなかよく歓声を上げました。
「王さま、お目覚めになったのですね」
「ご気分はいかがですか?」
「今、医師を呼んでまいります」
次々と話しかけられ、目覚めたばかりの彼はうまく応対できなかったのですが、医師の診察が終わって騎士が訪ねてきたころには、やっとなにがあったのかを思い出しました。
「私はどうやってここまで戻ってきたんだろう」
騎士は彼が命じたとおり、神殿の外にいたはずです。当然、彼女が彼を運べるとは思えません。
彼の質問に、騎士は意外な答えを返してきました。
「いきなり目の前にあの方が現れて、陛下が倒れたからすぐに来いとおっしゃったのです」
以前の彼なら驚いたのですが、自分が小鳥にされた今となってはあまり動揺しませんでした。彼女ならそれぐらいできるだろうと、すんなりと受け入れられたのです。
「……彼女に会わなければ」
ぽつりと彼は言いました。
話したいことや聞きたいことが、彼にはたくさんありました。
本当ならば食事に誘ってもよかったのですが、彼女がかたぐるしい食事を嫌うので、夕食のあとに会話の時間をもうけることにしました。
庭に面した部屋には煌々と灯りがともり、彼と彼女のためにお酒や果物やお菓子がずらりと用意されました。
向かいあった彼女はいつもどおりうつくしく、黒い髪が夜空より深い闇をたたえています。こうしてみるとやはり夜の女神なのだな、と彼はつくづく実感しました。昼間もうつくしいのですが、夜の方が一段と彼女がうつくしい気がしたのです。
「神殿では失礼をしました」
彼が切り出すと、彼女はぴくりとも眉を動かさずに彼を見返しました。
「私は知らなかったが、いつもああなのか」
彼は苦笑しました。
「意識が飛んだのは初めてです。なにがあったのか教えていただけませんか」
「記憶がないのか」
「はい」
そうか、と彼女はうなずくと、質問に答えました。
「私にもよくわからぬことを言っていたが、おそらくおまえの先祖らだろう。すっかり身体を乗っ取られていた」
「……そうですか」
彼はそれだけ言って口を閉ざしましたし、彼女も黙りこんでいました。しかし彼女が何らかの説明を求めているのも事実だったので、彼は悩んだ末に、告白することを決意しました。
「……以前話したと思います。貴女が我々が捜しつづけてきた女神であると、私の祖先が、私の中で訴えていると」
それは彼女を拾ってすぐのことでした。目を覚ましたばかりの彼女は自分が神ではないと告げ、それを彼が否定したのです。
ああ、と彼女は思い出してうなずきました。
「それがあれだと?」
「はい。表に出てきたのは初めてですが」
彼女の表情に憂いがまざりました。
「あんなものが頭の中で騒いでいるのか」
彼は苦々しげに笑って返します。
「以前はそれほどうるさくはなかったのです。貴女と出会ったばかりのころは、まだ彼らは他人であって、血が騒いだり心がおちつかなくなったりしても自分で制御ができたのです。けれど最近になって、急に声が大きくなりはじめました」
「大きくなった?」
「耳元でわんわんわめかれているような感じです」
「うるさいな」
「かなりうるさいです」
すると彼の耳元でうわん、と空気がするどくゆがみました。鼓膜をじかに揺さぶられ、思わず耳を押さえます。その様子を見て、彼女の銀の瞳が眇められました。
「……申し訳ありません。今のはお気に召さなかったようです」
どうやら一度彼を乗っ取ったのに味をしめたのか、先祖たちは以前よりもかなり干渉してくるようになっていました。小僧の分際で生意気な、と何百人もの声ががなり立てます。
「そのようだな。おまえの周囲の『気』が乱れている」
彼女は立ち上がり、お酒の入った杯を手に取ると、彼に向かって中身をばらまきました。反射的に彼は目を閉じたのですが、ばしゃ、と音がしても冷たさは感じません。なぜかお酒は彼だけをさけて、あたりをぬらしていたのです。
「去ね。つけあがるな」
そして彼女が不機嫌に言い放つと、彼の頭の中は水を打ったように静まりかえったのでした。ひさしぶりの静寂に耳鳴りがするほどです。
「これでしばらくは寄ってこないだろう」
彼女は満足げに席に着きました。いちおう自分の先祖なので、虫のように追い払われたのには少々心が痛みましたが、静かになったのはとてもうれしいことです。
「もっと早くに相談すればよかった」
ぽろりと彼がこぼすと、銀河の双眸にねめつけられました。
「これは一時しのぎでしかない。あれらはおまえの一部を形作っているものだから、簡単に切れるものではないのだ。諦めるか、こちらが無理やり切るか、どちらかをせねば解決にはならない」
『諦める』はともかく、『無理やり切る』のはどうも穏やかではなさそうでした。みずからの一部を『無理やり切る』など、とてもできそうにはありません。
だから、彼はぽつりと、けれどもはっきりとした口調で言いました。
「または、彼らの要求をのむか」
「……どういう意味だ」
するどい視線のまま問われましたが、彼がひるむことはありませんでした。表情を変えずに淡々と話します。
「我らの願いは、貴女を神として迎え、ふたたび夜の女王として君臨していただくことです。神殿で弟が申したとおり、我ら一族は貴女を何百年も捜しつづけてきました。理由は語り継がれていませんが、捜してきた意味はあると私は思います。幾星霜の年月を重ね、数え切れない人々の想いを繋げてきた意義が、貴女にはあるのでしょう」
ふ、と彼女は紅色のくちびるをゆがめました。
「それはおまえたちの勝手な思いこみでしかない。そもそも私はおまえたちと関わった記憶さえない。だというのに勝手に捜され勝手に復活せよと? すべておまえたち人間の妄執ではないか」
「たしかに、貴女は祀りあげられることをいとんでいる。ですが、神とはそういうものではないですか? 我ら人間が勝手に信奉し、勝手に願い、勝手に神であれと望むのです」
彼は彼女から視線をはずし、自分の手のひらを見つめました。特に何の変哲もない、どこにでもある手です。そのへんの臣下や兵士や商人や職人や庶民や、はてには奴隷とまったく変わりない、ただの人間の手でした。
けれども彼の手には、少なくともこの国の命運がにぎられているのです。彼の判断ひとつでこの国は栄えるかもしれませんし、または滅びるかもしれません。
王さまとして、彼はこの国を繁栄させなければなりません。少なくとも穏やかに暮らせるような国にしなければなりません。
「我らはただの人間です。ですが、貴女は我らとはちがう。我らとは比べものにならない美貌や寿命を持ち、そして不思議な力を持つ。そのような存在を神と崇め、讃えるのは、人間として当然の行動ではないですか」
「イシュメル」
名を呼ばれ、彼の全身に衝撃が走りました。雷に打たれたかのようなしびれに、息を止めてはっと顔を上げます。
卓の向こうには、怒りに肩をわななかせている彼女がいました。結いあげられたぬばたまの黒髪は闇にしっとりと溶け、なめらかな肌は怒りのせいかうっすらと上気しています。そんな彼女は鼓動さえも止めてしまうぐらいうつくしかったのですが、同時に地面に額をこすりつけたくなるほど恐ろしいのでした。
しかし彼の身体はどちらの行動もせずに、彼女に相対していました。けっこう図太いものだと彼はこっそり感心しました。
「おまえの言うとおり、人間は神を崇めたがる生き物だ。そして神は崇められてこそでもある。我らはおまえたち人間を卑下しながらも、おまえたちに崇められなければ『神』ではないのだ」
だが、と彼女は普段よりも熱のこもった声で続けました。
「私は神であったかもしれないが、もう神ではない。はるか太古には夜空を皓々と照らして道標となったし、または月の巡りに従って生きる者たちを慈しむこともした。しかし私が地に堕ち、月が存在しなくなっても、おまえたちは変わらないだろう。月が無くとも平然と生きているのに、今さら私になにを求める」
「私にはわかりません。理由は教えられていませんし、私は月を知らないのですから」
「ではなおさらではないか。無くともいいものを、なぜ無理やり求めるのだ」
彼女は完全に怒っていました。そして彼女の言葉の裏側にふくまれる意味を、彼は受け取っていました。
けれどもこればかりは、彼にどうこうできる問題ではありません。彼のただの手のひらではどうしようもないのですから。
「……正直に言います」
彼は爛々と輝く彼女の瞳をまっすぐに見ました。彼女もまっすぐに彼を射貫きます。
「王として、私は貴女を我が国の神として迎えたい。貴女を信仰する国はこの国だけではなく、周辺にも散在しています。長の一族は私たちだけですが、ほかにも『星の民』であった人々が様々な国に散らばり、そして貴女を求めているのです。私は『長』として、そしてこの国の王として、貴女を手元に留めておきたい」
「政の駒に使うか」
く、と嘲笑が聞こえました。ですが彼は気にしませんでした。
「ほかの国に貴女の存在を奪われることは、あってはならないことです。彼らが貴女をどう使うかはわかりませんが、少なくとも私たちの『長』としての権威は失墜するでしょう。この国は乱れます」
「逆もありえるな」
はい、と素直に彼はうなずきました。
「私個人としてはその気はありませんが、戦になる可能性はあります」
「その場合は、私を旗印にでも使うか」
「そうすれば、こちらの正当性を証明できます」
急に、弾けたように彼女が笑いだしました。そんな風に笑うのは初めてだったので、彼は瞠目しました。
「おちぶれたものだ。たかが人間の諍いに巻きこまれるなど、とても考えられぬ」
彼女はくすくすと笑っていました。いっそすがすがしいほど明るい様子だったのですが、彼は申し訳なくて直視することができませんでした。
神であれと求めているのに、実際には『神』の部分は必要ではないと言い放ったのです。軽やかな笑声が痛々しくてなりませんでした。
「……王として、私は貴女を神として迎えたいと願います。それがこの国のためだからです」
彼は胸の痛みを無視して、ふたたび顔を上げました。それが彼女に対する礼儀だと判断したからです。
けれど、と彼は言葉を紡ぎました。
「けれど、私個人としては」
このあと、なにが起こるのかは彼の想像の範囲外でした。それで神の怒りを買って命を落としても、しかたがないと思いました。
けれども、先祖たちが離れている今だからこそ、彼は言うことができるのです。たとえ彼女の傷をえぐる行為であっても、彼は言わずにはいられないのです。
それは、彼が『長』であり、王であると知った時からの願いだったのです。
「私は、貴女を見つけたくはなかった」




