第9話 佐久間の過去
大学時代、佐久間には唯一無二の人がいた。彼女との未来は、地球がこれからも太陽の周りを回り続けるようなものだった。
佐久間は、その彼女と不思議な出会いをした。
――少なくとも、そう思っていた。
大学一年のある日。
試験の答案が返却された時だった。佐久間が教室を出ようとした時、
「佐久間君、ちょっと」
と声がかかった。
「何でしょう、教授」
教授は何も言わずに佐久間を待たせ、誰か他の人を探している様子だった。
「長谷川さん、ちょっとよろしいですか」
「はい、何ですか、教授」
「二人とも、今日、十二時三十分に私の部屋に来られますか。今日の答案を持って」
長谷川さんは驚いた顔で尋ねた。
「どうしてですか」
「それは今は言えませんが、今日の試験結果についてです」
「試験結果が、何か…」
「ですから、私の部屋でお話します」
佐久間は他人事のようにそのやり取りを見ていた。教授は佐久間にも尋ねた。
「佐久間君、あなたはどうですか」
「はい。伺います」
「それでは二人とも、時間に遅れないように」
教授はそう言って教室を出ていった。
「俺、佐久間と言います。はじめまして」
「あっ、長谷川です。よろしく。教授、何の用ですかね」
「さあね。さっぱり心当たりありません。結果は悪くなかったんですが」
「私も。……あっ、次の授業が始まるので」
「ええ」
その様子を見ていた僕は佐久間に尋ねた。
「どうかした?」
「教授が、あとで来いってさ」
「あの子も?」
「ああ、あの子も一緒にだと」
「なんで?」
「さあな。教授に聞いてくれ。理由は言ってくれなかった」
あの時の嬉しそうな佐久間の表情を、僕はいまも忘れない。
佐久間は時間通りに教授の部屋を訪ねた。
部屋にはすでに長谷川さんがいて、二人は世間話をしているようだった。
佐久間はドアをノックした。
「佐久間です」
「どうぞ。入りたまえ」
「失礼します」
「佐久間君、そちらにかけなさい」
佐久間は長谷川さんの隣に座り、教授を挟んでデスク越しに向かい合った。
教授の表情が、先ほどの柔らかいものから真剣な面持ちに変わる。
先ほどまで笑っていた長谷川さんの表情まで、鏡のように変化した。
「話というのは、今日返した答案の件です。お二人とも出してください」
佐久間と長谷川は答案を取り出した。佐久間が尋ねる。
「これが、どうかしたのですか」
長谷川も、重いものでも出すように答案を机に置いた。それを待っていた教授が言った。
「佐久間君、今回の結果は」
「八十九点ですが」
「えっ。佐久間君も?」
驚いた様子で長谷川が言った。しかし佐久間は、さほど驚きもせずに返した。
「これだけ生徒がいれば、同じ点数の生徒は他にもいると思います」
「ええ。確かに、あなた方以外にも同じ点数の生徒は他に一名いました」
この教授の試験は、難易度が高いことで学内では有名だった。
八十点以上を取るのは大変である。
僕の点数はここでは伏せておく。
「では、どういうことですか」
長谷川が聞く。
教授は種明かしをする気になったようだった。ただし、本当の種は別にある。
「私が言っているのは点数ではありません。二人とも、お互いの答案を比べてみなさい」
佐久間と長谷川は、答案を見比べた。佐久間の答案を追うほど、長谷川の目が大きくなり、驚きと怒りで手が震え始めた。
「佐久間さん、これはどういうことですか」
佐久間は申し訳なさそうに言った。
「それは僕の台詞ですよ」
「私があなたの答案を見たとでも言うの?」
「僕が言いたいのは――お互いにカンニングはしていないのに、なぜこうなったのか、ということです」
教授が二人の間に割って入った。長い教授生活でも、こんな経験は初めてだった。
カンニングするにしても、ばれないように全く同じ答案は避ける。
特に筆記問題では。
「君たちは、いつも同じ席に座るのかね。今日座っていた席に」
「私は大体そうです。試験の時も、今日と同じでした」
「僕も、試験の時は今日と同じ席でした」
「それでは、お互いの答案を席を立たずに肉眼で見ることは出来ないわけだね。
テレパシーでも使わなければ。しかし、ここまで答案が同じだと、ただの偶然とは思えない」
長谷川は、席が離れていたことを知り、佐久間がカンニングしたのではないと分かった。先ほど疑ったことが申し訳なかったのか、俯いた。
二人は無言で教授の言葉を待つほかなかった。
「しかし、カンニングをした証拠もない。今回は不問とするほかないようですね」
佐久間は、『申し訳ありませんでした』と謝るのも変だし、かといって『ありがとうございました』と礼を言うのもおかしいと思った。だから一番相応しい言葉を選んだ。
「それでは失礼します」
長谷川も言葉に迷ったらしく、オウムのように繰り返した。
「それでは失礼します」
「お二人は、挨拶まで同じなのですね」
教授は皮肉った。
二人はお互いを見つめながら廊下を歩いた。
長谷川が言う。
「佐久間君、正直言って、私、何か怖い」
佐久間は予期していた反応だった。
「挨拶をカンニングしたのは長谷川さんですよ」
佐久間は嬉しそうだった。
「からかわないで。そうじゃなくて」
「世の中、不思議なことが起こるものです。それを体験できた。いや――共有できたことは、素敵じゃないですか」
佐久間の、気にも留めない妙に落ち着いた寛大さが、長谷川を戸惑わせた。
今回のことは「素敵」と思うべきなのか、と。
これがきっかけで二人は付き合いを始めた。付き合いは大学四年の後半まで続く。
しかし、その終わりはあっけなくやって来た。
長谷川が通学中、バイクにはねられたのだ。
事故の直後、現場に駆けつけた佐久間は、汗だらけで血相を変えていた。
そして叫んだ。
「間に合わなかった。なぜ、俺は助けることができなかったのか!」
その言葉の意味は誰にも分からなかった。
長谷川の死以来、佐久間に特定の女性がいたことも、彼から女性の話を聞いたこともない。
そんな噂も入って来なかった。




