第7話 スイッチ
佐久間の死は、特異なやり方で僕を傷つけた。物理的な何かを壊したわけではない。
防衛本能なのか、僕の頭の中で、幸せの象徴であるメリーゴーランドが回っている。その半径は限りなく長く、一度乗ってしまうと降りられそうにない。その時間は感覚的なものであり、僕は忘我することでしか抜け出せないのだと、無意識に悟っていた。
だから、その手段を僕は探した。限られた選択肢の中で最終兵器に立ち向かえるものを。コーヒーミルが目に留まった。素手で戦うしかなさそうだが、その工程は最適かも知れない。だって、目的は勝利ではない。
それに、コーヒーメーカーからろ過される水の落ちる様を見ていたかった。そして、その過程を視覚だけでなく、聴覚、嗅覚でも感じたかった。
当然、その骨はくっついていないのにリハビリを始めるのだから、痛みが伴う。
だが、少しでも痛みが欲しかった。
もし、この弱い痛みに耐えることで、自分への報いになるのだとすれば、それは明らかに甘えすぎている。
コーヒー豆は冷蔵庫に仕舞ってあった。いつもより多めに取り出し、
ミルに入れて取っ手を回したが、軽かった。
香りの拡散は嗅覚が正常であることを示していたが、むしろ、いつもより鋭い。
筋力と嗅覚は、期待に反して向上していた。
なぜ、もっと抗ってくれないのだろうか。
コーヒーメーカーのボタンを押すと、命が注入されたことがはっきり分かった。
君も正常だな。
タンクから勢いよく水を吸い上げ、フィルターをゆっくりと色づかせながら、一滴、また一滴と最終到達点に溜まっていく。
『いつも、こんなに速くできていたのか。おせっかいならもういいよ』
カップにコーヒーを注ぎ、いつも通り、少しだけ牛乳を足した。
インスタントコーヒーに比べ、牛乳の混ざり方に濁りがなく、
着色されているにもかかわらず透明に見えた。視覚までもが僕を愚弄している。
だが、視覚は僕に疑問を投げかけた。
――これ以上、機能が向上すると、透明には見えないだろう、と。
疑ってごめんな。
ひと口飲んだ。苦みを感じない。味覚が機能障害を起こしているのか。
いや、そうではない。コーヒーに苦みを感じないことは、
きっと人生で初めてではない。ふた口目で、ようやく少し苦みを感じた。
味覚よ、ありがとう。
それは魔法のように、体に重くのしかかっていた何かを取り去ってくれた。
僕はカップの中を覗き込んだ。表面がゆったりと揺れている。
その静寂は、思わぬかたちで乱された。
一滴の水が、カップの中に落ちたのだ。
それは、僕がじっと眺めていた光景と似ていた。
佐久間の死が、僕の中のスイッチを入れたのだ。
そのスイッチは、一度押されたきり長い間押されることはなかった。
十年ほど前、祖母が他界したときだった。
スイッチがどこにあるのかは分からない。
でも、それは確実に体の中に存在している。
そして、決してなくなることはない。
僕が僕である限り。
コーヒーをもう一度、飲んだが、味の違いは感じられなかった。
体から搾り出された涙では、コーヒーの味すら変えられない。
人の運命も、どんなことをしても変えられないのか。
今日は眠れそうになかった。当てもなく、コレクションのDVDを眺めた。
この中に、この終わりのないタイトル探しの旅を止めてくれるものがあることを期待して。
三分の一ほど目を通したところで、一つの映画が僕を引き寄せた。
『グリーンマイル』。
もし、僕にもこの映画の魔法が使えたなら。
確か、魔法を使った後には、途轍もない苦痛が伴っていたはずだ。
僕が引き換えにしようとした骨折の痛みなど、比較にならないほどの。
無知ゆえの望み、浅はかな思考。
今の僕には、到底耐えられない。
DVDをセットし、ベッドに横たわった。予告も飛ばさず、最初から通した。
大切な時間稼ぎだ。
次の一本を見つける自信がなかった。
意識の遠くで映画を見ていた。――そうだ、重村に電話しないと。
でも、その役目は片桐に押し付けたんだった。卑怯者。
『リーン、リーン・リーン』
久しぶりに聞く音だ。呆れるほど反復性のある、不変な時間の流れ。
時間の性質に降伏する僕の弱さ。
いつ眠ったのか覚えていない。再生カウンターはリセットされていたが、
コーヒーメーカーのように、搾り出された涙のおかげで目覚めは不思議と良かった。
シャワーを浴びた。強さは最大で。
今日くらい、資源を無駄にしても許されるだろう。
体の表面を余すことなく撫でられる感覚が心地よかった。
風呂を出て、日課の食パンを準備した。本来ならインスタントコーヒーだが、
昨夜のコーヒーが残っていた。期待通り、透明感はなく不味そうだった。
食欲はなかったが、ルーティンを優先した。水は無駄にしたが、パンと澱んだ色のコーヒーは残さず胃に収めた。
これでチャラにしてほしい。
支度を整え、昨日と同じジャケットを羽織って家を出た。
違っていたのは、豆挽き機が台所に残っていたことと、目が赤いことだけだった。
いつもの電車に乗る。そこには、変わらぬ日常があった。
――お前たちは、佐久間が死んだのに平気なのか。
もし無関心を装っているのなら、君たちにアカデミー賞を贈ろう。
会社に着き、同僚に挨拶を交わし、片桐からの電話を待った。
佐久間の死を共有できる、数少ない相手からの。
時計を見ると、もうすぐ昼だった。
「沢村、今いいか」
「ああ、ずっと待っていた」
「すまない。土曜日の佐久間の葬儀だが、十三時三十分からだ。
東京駅七時五十分発、のぞみで行く。チケットは人数分用意してある。
帰りは成り行きになるが、大丈夫だな」
「ああ、いろいろとすまない」
「チケットはどうする」
「今日は家にいるのか」
「ああ」
「じゃあ、帰りに寄る」
「分かった。出る前に一度電話をくれ」
「了解。じゃ」




