第62話 そして
お風呂から上がると、華はプーさんを隣に従えて、リビングで絵本を見ていた。
美咲は寝室で、お肌のお手入れをしている。
「華、ホットココア飲む?」
「うん、飲みたい」
「ママにも聞いてきてくれる?」
僕はミルクを三人分、鍋に移した。
「パパ、ママも飲みたいって」
ホットココアの粉を取り出し、少しずつ鍋に入れていった。
牛乳で真っ白だった鍋の中が、徐々に茶色に深みを帯びていった。
牛乳の温度が上がるにつれて、ココアの香ばしい香りが広がっていった。
その香りに誘われて、僕の隣にプーさんが寄ってきた。
「プーさんは、はちみつ以外にホットココアも好きなの?」
「プーさんはホットココアを飲まないよ。華が飲むの」
「おいしいのを作るからね」
「ねぇ、パパはママのこと好き?」
僕は一瞬、頭の中で今、華が言ったことを処理できなかった。
「どうして、そんなこと聞くの」
華はプーさんを見た。プーさんに何か確かめているようだ。
「ママ、ときどき泣いているの」
「パパは、ママのこと大好きだよ。でも、パパが悪いの」
「どうして。なにかママにしたの」
「パパがママに泣かせるようなことをしたの。でもね、それはママと喧嘩したからじゃない。パパはママのことが大好きだから」
華は、ただ僕をじっと見ていた。
僕は華とプーさんを抱きかかえた。
そして、ココアの粉を足し、ゆっくりとかき混ぜた。
「華、パパのお願い覚えている?」
「なに?」
「もし、ママが泣いていたら、華にしてほしいこと」
「覚えているよ」
「それを、今パパにしてくれる?」
華はプーさんをキッチンに置いた。
僕は華を、できる限り強く抱きしめた。
「華、ママを呼んできて。ホットココアができたからって」
僕は華をそっと下ろし、ホットココアを僕と美咲のおそろいのコップに注いだ。
華のカップには、もちろんプーさんの絵が描かれていた。
「さあ、できたよ」
そう言った瞬間、家の電話が鳴った。
電話には僕が出た。
「沢村ですが」
それは、片桐からだった。
「家族水入らずを邪魔していいか」
「いいよ。お前の家族の邪魔もしているのだから、条件は同じだ」
「確かに、それは言えている」
美咲は、話の内容から片桐からの電話だとすぐに気づいた。
「実は、俺も電話をしようと思っていたのだけど、タイミングが合わなくて」
「それで、これから先、タイミングは合いそうだったのか」
「そうだな……それは微妙かな」
「変わったことはないか」
「ああ、いつもと同じ。俺のほうが意識過剰って感じか」
「仕方ないんじゃないか」
「秋帆さんと秀君は元気にしている?」
「秋帆も朝からいつも通りだし、秀も相変わらず言うことを聞かない。華ちゃんは、しっかりしているからな」
「子は親の背中を見て育つから」
「確かに。華ちゃんは美咲さんに似た」
片桐は、分かりきったことを言葉にした。
「ということは、秀君はお前に似たと認めるわけだ」
「ああ、俺は認める」
「でも、男の子はそれくらいの元気がないとだめだ」
「とにかく、秀には自由に生きてほしい。何にも縛られることなく」
「お前の遺伝子を引き継いでいるから、縛りようがないと思うけど」
「沢村、美咲さんは近くにいるのか」
「ああ、隣にいる」
「ちょっと代わってもらっていいか」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
「こんばんは」
美咲は、ある平穏な週末の夜に、友達からの電話を取り次がれたかのように言った。
「とんでもないわ。どちらにしても、和人さんが電話する予定だったのだから」
しばらく、美咲が発する言葉は、片桐が言ったことへの頷きに終始した。
しかし、美咲の受話器を持つ手は、長いあいだ堰き止められていた防波堤に、小さな亀裂ができたように震え始めた。
「もちろんよ。私たち、家族みたいなものよ。いいえ、もっと深いの」
美咲は、少し震える声で言った。
それから、美咲は再び沈黙した。しかし、受話器を持つ手は、ようやく素直に震えることを許されたようだった。
僕が秘密を打ち明けたあの日から、美咲が心を預けられる相手は、限られていた。
「そんなこと、和人さんが許さないわ」
そう言うと同時に、手の震えを抑えた。
「私たちは大丈夫だから」
美咲はそう言った。
そして、美咲は「ありがとう」と言って、受話器を耳から離し、僕に渡した。
「片桐、いろいろとありがとう」
片桐が美咲に何を話したのか、この電話を切ったあと、美咲に聞こうとは思わない。
片桐と出会ってから、築き上げられた自身から片桐へと伸びた体の一部が、運命を共にする者同士にしか存在しない接着剤で補強されている。
僕は片桐に言った。
「秋帆さんとも話をさせてくれ」
片桐は受話器を秋帆に渡した。
「秋帆さん、僕からも話をさせてください」
「はい、お願いします」
秋帆の声も、美咲同様、いつもと変わらないように聞こえたが、秋帆から「お願いします」と聞いたことはなかった。
「片桐と俺は、どちらが先かわからない。永遠に不変なものが、二人には存在しています。
片桐にとってかけがえのないものは、僕にとっても、その性質を変えることはありません。でも、
これは、俺たち二人の勝手な思いです。残された人にとって、俺が片桐の代わりになり得ないし、片桐も同じです。
一つだけ、小さな光があるとすれば、お互いのことを一番分かっている人が、そばにいてくれるということです。
もし、俺だった時は、美咲と華に、片桐の少しの時間と愛情を分けてもらえないでしょうか」
電話の相手は秋帆だったが、心の中では、美咲に対して言っていたのかもしれない。
『もちろんよ。私たち、家族みたいなものよ。いいえ、もっと深いのよ』
片桐も美咲と話はしていたものの、意識は秋帆のほうに向いていたのではないか。
「秋帆さん、ありがとう」
僕は、秋帆さんと自分の妻、美咲に言った。
秋帆さんは頷いてくれた。声には出さなかったが、僕にはそれがはっきりと見えた。
僕はその言葉を言った時、美咲を見ていたからだ。美咲は小さく頷いた。
電話を切った。片桐に代わることなく。
僕と美咲と華は、文字通り川の字を作って寝た。
華は、とても楽しそうだった。
華に、この寝方は川の字だよと説明すると、華はそれは違うと言った。
「“川”より、“州”のほうが近いよ」と言った。
華が「州」という漢字を知っていることに驚いたが、その理由には、もっと驚かされた。
華の隣には、プーさんがいたのだ。
ようやく、華の中に僕の遺伝子があることが分かった。
それを、こんなになるまで発見できなかったことが、僕の中のスイッチを押した。
屋根に積もった雪が、ゆっくりと溶けていくように、涙がこめかみを濡らしていくのが分かった。
そして、その流れが、だんだんとスムーズに落ちるのが分かった。
同じ道を通っていくのが分かった。
それが溜まり、枕の二か所を濡らし、その面積が広がっていくのが分かった。
後頭部が左右対称に濡れていくのを感じながら、眠りに就いた。
そして、眠りから覚めることはなかった。
気づくと、光が届かないところにいた。
浮いているようで、浮いていない感じだった。
三百六十度、見渡した。何も見えなかった。
目を凝らすと、淡い一点の光が見えた。
じっと見つめると、見覚えのある貌をしていた。
アブンダンティアのネックレスだった。
淡い光の中に、美咲が僕を揺すりながら泣いているのが見えた。
美咲の涙が、僕の顔にこぼれるのが見えた。でも、何も感じることができなかった。
美咲の頬に、軽く柔らかいものが触れた。
それは、華だった。
それを最後に、僕の視界から二人の姿は消えていった。
美咲がくれたネックレスと引き換えにして。




