第57話 日常
三度目の前日、朝一番で出張に名古屋に向かった。東京の暑さから逃れるはずが、新幹線を降りるとその思惑は外れた。
ある企業に納めたソーラーシステムの確認に立ち会うためだった。
取り付けは数日前に終わっていた。
今回の目的は感謝と、今後のビジネスを話す形式的なものだった。
年に数回ある、サラリーマンの休息である。
ひつまぶしを途中挟んで、夕方には帰路に着いた。
帰りの新幹線で流れる風景を背景に、目を閉じた。
『間もなく終点の東京に到着します』
もう東京か。時間は思いに関わらず、過去を見ていてもそれを追い去ることがある。
家に七時前に着いた。
玄関の鍵を開ける瞬間が好きだ。
今日も美咲と華が迎えてくれた。華を抱きかかえ、右頬を差し出した。華の小さな唇が、僕の頬にそっと触れた。
お返しに、華のおでこにキスをした。華を抱いて廊下を抜け、リビングに入ると、肉じゃがとロールキャベツの匂いが、僕の華を擽った。
華とソファーに一緒に座って上着を脱ぎ、テーブルに着いた。
華も美咲も、待っていてくれた。
明日のことは、夕食の献立には無かった。
食事を終え、お土産のことを思い出した。
それは、ありきたりのものだった。
「華、はい。お土産」
「あけていい」
「ああ、いいよ」
華は興味深そうに、箱の重さと表裏を交互に見ていた。
まるで宝探しで目当ての宝箱を見つけ、中に何が入っているのか想像しているように。
包みを開けた時点で、華の目の輝きが変化した。と、同時に華はママを見た。
「華、パパのお土産はなに」
華はしばらく考えていた。
華の記憶の中にあるものと、今手にしているものを照合している。近いものは幾つか候補が挙がっている様子だったが、ずばり一致したものは無い。
「ようかんみたい」
僕は驚いた。華の口から「ようかん」が出るとは思わなかった。
「華、それは外郎って言うのよ。見た目は羊羹に似ているけど」
美咲は見ないで当てた。
「ママは、このういろう好き? 美味しいの?」
「そうね。不思議な味かな」
華は余計に困っているようだった。不思議な味って、と。
僕にとって「不思議な味」とは、あまり好きではないという意味だが、華にとっては不思議な味は、不思議な味なのである。
僕は華を抱きかかえ、不思議な味を説明した。
それは、ママがあまり外郎を好きでないこと。
お土産を買ってきてくれた人に対して気を使っていること。
そして、その場合、ユーモアを交えると場が和むこと。
華に対しては、いつでも真剣に話をする。
だって、華にちゃんと「不思議な味」の本当の意味を説明しないと、華は外郎の味を「不思議」と覚えてしまう。
砂糖は甘い。塩はしょっぱい。外郎は不思議――なんて、華の脳に記憶されては困る。
「パパ、そんなことまで説明することないのよ。今は外郎の味を不思議と覚えても、そのうち分かるわよ」
不思議の意味をちゃんと理解すれば、自然と外郎の味との関係は和解するだろう。
誤って記憶された言葉は、避難訓練で住人が一斉に避難し、終了後にそれぞれの正しい部屋に戻るかのように、華の成長につれて正しく割り当てられるのだ。
できるだけ多くのことを、華に伝えたかった。
華の記憶の片隅に足跡を残し、華が成長して、偶然その足跡に気づくことを願った。
砂浜に足跡を残しても、波に消されるし、風化もされる。だから、できるだけ多くの足跡を残したかったのだ。
ウミガメの赤ちゃんが捕獲されず、海まで到達できる数を確保する命との比較は無礼であるが、
華の未来が平和になるのなら、僕はいつだって非情になれる。
「パパ、華、たべてみたい」
華が外郎を食べて、美味しいと言ってくれることまでは期待していないが、
食べてみたいと挑戦する華を見ていると、外郎と不思議が繋がることは、やっぱり良いことなのかもしれない。
美咲の言葉も華に残るからだ。
そして、その記憶の端っこに、僕も登場しているかもしれない。
「華、外郎を持ってきて。切ってあげるから」
華は外郎を美咲に渡した。
美咲は外郎を切って、三つのお皿にふた切れずつ盛り付けた。
僕はそれを見て、四切れ食べる覚悟をした。
次の日、いつもと同じ時間に目覚めた。途中、一度も目が覚めなかった。美咲は、いつものように僕より先に起きていた。
いつもと違ったのは、僕が目覚めた時、隣にいたことだった。
いつもなら、寝室にはいない。
美咲が昨夜ずっと起きていたのかはわからない。でも、美咲の目は少し腫れていた。
「おはよう。なんとも無い」
「ああ。なんとも無い。ずっと起きていたの」
「朝食の準備は出来ているから」
美咲は寝室を出ていった。
華も既に起きていた。美咲が寝ないで作った、そして僕が食べてくれると信じて作った朝食の味は、
いつもと同じだった。
いつものように顔を洗い、三本並んだ歯ブラシを見た。青が僕の歯ブラシで、ピンクが美咲の歯ブラシ、そしてプーさんの絵が入って一回り小さいのが華の歯ブラシだった。
鏡で自分の顔を見ながら歯を磨いた。こんなに長く自分の顔を見るのは久し振りだった。じっと自分の目を見た。こんなに茶色い目をしていたかな。
今日、会社を休もうと思っていた。
数日前、美咲に相談した。美咲もそれを望んでいるとばかり思っていたからだ。
「いつも通り会社に行って。だって、何だかそんな事をしたら、もしかすると、何かを導きそうなの。だから……」
言葉の代わりに、美咲の目から大粒の涙が零れた。
「美咲、行くよ。それで、いつもの様に帰ってくる……」
僕は、結婚して美咲を幸せに出来ているのだろうか。
「パパ、約束してほしいの」
何を言われても、僕は承知する。
「今日は残業せずに帰ってきて」
「ああ」
「それと、朝、会社に着いた時と、お昼と、それから会社を出る時に電話をして」
「うん。必ず、するよ」
美咲は僕に電話が欲しいと頼んできた。メールではなくて、電話だった。
いつもより慎重に会社まで向かった。何気ない信号が大きく見えた。
自分の席に着いたので、美咲に電話で伝えた。美咲は「わかった」と言って、すぐに電話を切った。
先に来ていた水野が不思議そうに僕の方を見ているのが感じられたが、彼と目を会わすことを避け、仕事をこなした。僕はいまだに、水野を自宅に招待していない。
お昼にも自宅に掛けた。再び水野の視線を感じた。美咲は今度は「ありがとう」と言った。
いつも通り、お弁当を自分の席で食べた。
水野は「これが本条さんの愛妻弁当」と言って、じろじろお弁当を見ていた。
もう本条ではない。
水野は未練がましく見ていたが、一口も譲らなかった。
これは、僕のものだ。
お弁当を食べ終わると、約束はしていなかったが、自宅に電話をした。
言える時に、お弁当のお礼を伝えたかった。
電話には華が出た。華が出るということは、ママも家に居る。
華は僕に「どうしたの」と訊ねたので、ドキッとした。
僕は、ママの声が聞きたかったから電話したと華に言った。
華が中学生くらいだと、何て言われたのだろうか。
馬鹿なオヤジ? それとも、素敵なパパ。
華が中学生になった時に、試してみよう。
その日の夕食のテーブルには、美咲の得意料理が並んでいた。
かぼちゃスープ、ズッキーニのフリタータ、バナナブレッド、イタリア風チキンサラダ。
美咲の作った得意料理は、地球の大地が幾重にも渡り創造した天然石のようだった。それは、現在の人間には到底辿り着けない、秘境にのみ存在が許される。それらには勿論、美咲の手が入っていたが、自然な姿より自然に見えた。
お前の本当の姿は、どんなだったの?
僕は、お皿に盛られた原石に問うた。
お前達は何をされたのか、と。
原石は、僕に答えてくれた気がした。
『僕らは、ただお風呂に入ってさっぱりしただけだよ』
僕はその答えを聞いて、思わず笑みがこぼれた。
「とっても美味しそうだ。食べるのがもったいない」
「何を言っているの。今まで散々食べてきたくせに」
今まで、迷わず食べてきた。問い掛けることもせず。
気持ちが変われば、見え方も変わるのだろうか。どちらが本当の姿なのだろう。
僕は今、幻を見ているのか、それともようやく本当の姿が見えたのだろうか。だとしたら、今まで何を見てきたのか。過去を振り返ってどうする。今、見えているモノが本当の姿じゃないか。そして、今まで見てきたものも、本当の姿だ。
朝食も夕食も、いつもと同じなのだ。毎日が特別なら、それはもう普通なのか。
普通をなくしてしまう美咲の思いに、どうやって答えることができようか。
「よし、手を洗って食べようか」
「さっきは食べない、とか言ってなかったかしら」
「やっぱり、食べることにした」
「パパ、これ運んでくれる」
僕は、かぼちゃスープを三つ、お盆に乗せて運んだ。このかぼちゃスープの透明度は、シンデレラのガラスの靴に匹敵する。
「華の好きな、かぼちゃスープだよ」
家族はみんな、美咲が作ったかぼちゃスープが大好きだった。
「パパ、何ともない」
僕は目を閉じて、少し間を置いて言った。
「うん、美味しいよ。凄く上手く出来ている」
「……」
華は不思議そうな目元をしていた。
僕は心のなかで思った。
『もし、この記憶が大人になって蘇ったら、美咲が怒ったわけをママにきいてみて』と。
美咲は振り向いて、少し上に目をやった。そこには時計が飾ってあった。
美咲はその時間を声には出さなかった。声に出すと何かを導くかも知れないのと、声の調子を僕に悟られないように。




