第56話 五年後
二〇一二年十月二十一日(日)
自宅の庭で秋晴れに日向ぼっこの最中である。目を閉じて、夏の終わりと共にメイクを落とし始めた木々と太陽の光を浴びていた。リビングのドアは開いている。中から美咲と華の声が聞こえてくる。これまで色んな美咲を見てきた。そして、母親になった美咲の声は、初めてエレベーターで聴いた時より強さが備わっていた。華にはそれが愛情として感じられている。幾夜も共にしたにも関わらず、美咲との時間はいまだに普通にはなっていない。そして、この心地よい空間が想いを五年前のドイツへの旅へと誘った。
確か、最後の夜だった。僕は先に風呂に入り、ソファーで美咲を待っていた。
美咲はバスタオルのみを纏ってバスルームから出てきた。
「部屋の明かりを消して」
と言い、僕は部屋の明かりを全て消した。カーテンは開けたままだったと思う。月明かりがとても綺麗だった。
僕は美咲を抱き上げてベッドにそっと置いた。とても軽かったこと、彼女の香り、そして月光下の表情は今でも思い出せる。
僕は彼女に愛撫をした。そして美咲は目を閉じた。美咲の唇に自分の唇を重ねた。美咲の唇がゆっくりと動くのを、僕の唇が追った。
美咲の唇の動きが少しずつ激しくなり、僕の手を導いた。タオルは無抵抗に解け、進路を明け渡した。そして、その手は美咲の小さな膨らみの一つを包み込んだ。
僕の唇は美咲の吐息の加速を感じた。その吐息は僕を求め、その瞬間、美咲の吐息は僕の名前を言った。
『カサ』
木々のメイク落としは少し思いやりがない。僕の顔に木の葉が風に舞って当たり、現実の世界に戻された。
あれから五年の月日が経った。五年前、公開婚約会見から間もなく、美咲に再プロポーズをした。新鮮さは秋帆が台無しにしていた。
親しい友人と親戚で披露宴のみ執り行った。重村も例外なく仕事を休んで参加してくれた。日高は式の前に、僕がタキシードに着替えている最中に皆を集めて来た。
「お前たちに言っておかないと……うやむやにはしたくない」
と日高は切り出した。
僕は着替えを止めて言った。
「どうした。改まって。お前が結婚するわけでもないのに」
「ああ、今日の主役はお前だ」
と日高は思いつめた表情で言った。
「どうした。花嫁の父じゃあるまいし。泣くのが早い」
と言って最上は茶化した。
「どうしても言わせてくれ」
僕らはただ日高の言葉を待った。
「俺はお前たちが、探偵じみたことをやっているのが許せなかった。俺には守らなければならない家族があるからだ。お前たちとは立場が違うと思っていたし」
みんなそんなことは承知していた。
「本当は俺も怖かった。そして、自分が死ぬこと以上に、家族を残して死ぬことが耐えられなかった。だから、人間ドックで俺に癌が見つかった時は、正直嬉しかった。俺は本当に嬉しかった」
日高の目から光るものが零れた。
「でも沢村が結婚すると聞いて、俺は何て祝福すれば良いか……俺にお前を祝福する資格も、この場にいることさえも相応しくない」
日高は泣き崩れた。
「何を言っているんだよ。少なくとも俺たちの仲間が一人でも助かれば、それで良いじゃないか」
僕は本当の気持ちを伝えた。
「そうだよ。誰もお前のことを恨んではいない。正直、結果が出たときは腹が立ったけど……」
と言って最上は日高の頭を撫でた。
「俺は死ぬことを怖いとも思っていない」
と重村は言った。そして、
「俺は何と言われようと、何をされようと、自分の生き方は変えない。だから、お前は何も気にすることはない」
片桐が続けた。
「俺たちがこのことで亀裂が入ったら、佐久間に顔向できないだろう。そんなに悲観的になるな。俺も結婚するから死ぬわけにはいかないし、沢村も美咲さんを置いては死ねない」
あっさりと、片桐らしいやり方で結婚すると宣言した。
「ああ。片桐の言う通りだ。俺は死なない。結婚式を控えてこんなことを言うのは変だけどな。俺は佐久間から、随分と早い結婚祝いをもらったんだから」
「確かにそうかもしれないな」
重村が言った。そして続けた。
「お前は何としても生き続けるべきだ。お前が死ぬことは、俺が許さない」
重村が僕を見た眼は、今でも忘れることがない。あんな眼をした重村を見たのは、後にも先にもあの時が初めてだった。
僕には現在四歳になる女の子がいる。名前は華。その命の芽はドイツで生まれた。華は美咲の血を多めに引き継いでおり、可愛らしい。
美咲の結婚は、当時会社で一大ニュースとして騒がれた。もっぱら、美咲の選んだ相手への不満が大半を占めた。特に水野にはこっぴどく叱られたが、水野らしい祝いの言葉をくれた。
『俺のアイドル本条さんに、デートの仕掛け人だと必ず伝えてくれ。それと、一度でいいから俺をお前の家に招待してくれ』
後半はまだ実現していない。
美咲と結婚して、占い師の言った日は徐々に意識の中から消えていった。
それは、華の成長と反比例するように。正直に言って、消えたというより、他のことが意識をごく自然に占領していったのだ。それは、ドイツでの最後の夜、美咲が僕を受け入れたように。
片桐は河本と契約を交わし、詳細は教えてくれなかったが、佐久間の保険金の調査は帰国後すぐに消えた。
占い師の言った二番目の日には、何も起きなかった。
それは、日高が癌細胞を摘出したのが原因なのか、そもそも何も起きなかったのか。
二番目の日、二〇一二年六月五日を迎えるにあたり、美咲と娘の華に手紙を書いた。
その遺書はというと、翌日、庭で燃やした。その灰は今でもこの庭に痕跡を残しているかもしれない。そして、その日だけは片桐と話をした。
「お前からの電話を待っていた」
片桐は正直に言った。
「なんとなくそんな気がした。それで」
「お前の電話を待っている気分か」
僕は少し笑ってしまった。
「そんなことは分かっている」
「正直言って怖かった」片桐らしからぬ発言だった。
「俺もほんの少し怖かった」僕も正直に言った。
「まあ、でも、日高のこともあるからな」
「俺もそんな気がしていた。不思議とその想いには自信があったんだ。つまるところ、本当に日高は運命を変えたのかな」
僕は遺言を書いたことは伏せておいた。
「何かを変えたと思う。でも、それが運命だったのかはわからない。運命なんて、そもそも存在するんだか」
「さあ、どうかな。見たことはないけど。でも、存在――いや、そのように仮定した方が楽じゃないか。いろんな場面において」
「運命という決まりごとがないと、人間、未練がましく前進できないってことか」
「運命なんてコロコロ変わる」僕は率直に言った。
「女心と秋の空くらいにか」
「なるほど。そんな感じかもしれないな。そうなると、全く信じられないってことになるけど……」
僕は続けた。
「秋帆さんが聞いていたらやばいぞ」
「大丈夫だよ。こんなこと、気にも留めない」
「運命、天命、偶然――こんなのは人間の想像力や、科学の限界から来たんだろう。そうやって行き詰まった時に便利な言葉だと」
「俺とお前の出会いは、どう説明する」
「それは簡単じゃないな。さて、はて、どう説明すればよいかな」
「偶然? それとも天命かな?」
僕は答えに困った。想像力の限界、もしくは科学の限界。
「便利だと思わないか?」僕は自分の限界を認めた。
「あまり使い過ぎると、癖になりそうだな」
「今回のことを言っているのか」
「そう思わないか」
「ああ。でも、今回のことだけは逃げずに答えを待ちたいな」
「それで、待ち人は来そうなのか」
「どうかな。来るというより、辿り着けそうな気がする。しかし、その時には誰にも伝える時間が残っているか……」
「お前はその答えと刺し違えるつもりか」
「そんなつもりはない。でも、それができたら、それはそれで幸せかも」
「片桐、お前の方はどうだ」
「俺か? 何でも、余裕や神秘的なものはあった方が良い。食事でも腹八分目って言うだろう。クッションがないと、人間ダメになってしまう。ベッドのスプリングのように、車で言うサスペンション、人間の関節にある、コラーゲンがたっぷり含まれている軟骨のようなものだ。それらがないと、すぐにガタが来てしまう。それに、人間には自然とリミッターが働く。解除は可能だが……もし、超人的な精神力があれば、の話だが」
「ようやく踏ん切りがついたか」
「そうだな」
少し間があって、片桐が続けた。
「そうそう、秋帆が企画部リーダーに就任した」
「それは、おめでとう。それで社員の反応は」
「上々のようだ」
忖度が働いた可能性もあるが。
「確かに、秋帆さんの方が部下の受けはいいだろうな」
「何より、ビジネスのセンスが良い。いろんな企画を立てて実行しているから」
「それじゃ、会社に関しては何の心配もないわけだ」
「ちょっぴり寂しい気もするけど……」
「ちょっと寂しいくらいが丁度なんじゃないか」
「なるほど、何でも腹八分目ってわけだ」
「そういうことだ。それで、二年後にはお前は会長にでもなるのか。俺にできることがあったら、何でも言ってくれ」
「ああ、そうだな。役員ポストを開けておく」
「何を言っているんだ」
「さてと、そろそろ夕飯の時間だ」
「それじゃ、また」
「ああ」




