第54話 婚約会見
翌日、家を出たのはいつもより一時間ほど早かった。時差のお陰なのか、明け方から目が覚めた。
上司にはスイス製のチョコレートを買った。ザ・ドイツのカラフルなハリボーを選ぼうとしたら、美咲に『私が百合子に笑われる』と言われた。
四月の気候は日々移ろい、朝の一時間でさえ違う世界を見せてくれる。電車の乗客の雰囲気が異なるのは、新社会人と交差したからかもしれない。この変化に気づくのは、ドイツでのことを消化できているからだろうか。
額にほんのり浮かぶ汗は、ドイツの涼しさが影響しているかもしれない。
出社して、未読のメールが列になっていることは期待通りで、覚悟もしていた。いつもならげんなりする作業も、同じ境遇の恋人が七階にいると思うと、未読の中に良い知らせがあるのではないかと期待してしまう。
同僚が出社する前に、美咲にメールを書いた。
週末、日高の見舞いに行こうと思っており、一緒に行ってもらえないかと。
一週間不在後の最初の週末だったが、戸惑いはなかった。
美咲からはすぐに『いいわよ』と返事が返ってきた。
この短い返事の裏に、百合子の横槍を交わしながらメールと格闘している姿が見えた。
できることなら、七階まで行って覗いてみたい。
日高の手術は腹腔鏡手術で行われ、四時間程度で終わった。術式は脾温存膵体尾部切除術と言って、脾臓は温存することができた。
退院も手術から二週間足らずで、転移も認められず、化学療法も不要とのことだった。
そして、三日後には自宅で療養することになっている。
日高は結婚後、杉並に家を購入した。
双方の両親から援助してもらったと照れくさそうに言っていた。
引っ越し祝いを兼ねて一度だけみんなで訪ねたことがあった。
最寄駅が西永福だとしか記憶していない。
週末見舞いに行くことを片桐に伝えたところ、秋帆から一緒に行きたいと言われたらしい。
西永福駅で待ち合わせた。同じ電車に乗っているのではないかと、美咲と話していたが、僕たちの方が先に到着した。
待っていると、僕の携帯が震えたので画面を見ると未登録の番号からだった。
美咲は『出たら』と言ったのでそれに従った。
「沢村か。出てくれたか」
片桐だった。車で向かっていて、少し遅れるらしい。
僕は美咲に、秋帆さんの携帯だと告げた。
「確か、秋帆さんの携帯は090で始まるわよ」
と言ったので、僕は笑ってしまった。
「地球が壊れた」
この意味を美咲に説明しようとしたが、オチまで時間が足りず、先に片桐たちが到着してしまった。
「お待たせしました。すみません」
秋帆が助手席から降り、僕に席を譲った。見慣れた配置になった。
「車にしたのか?」
僕は言った。
「ちょっと野暮用があって」
後部座席には、DoCoMoと書かれた袋が美咲と秋帆の間に転がっていた。
美咲は小声で秋帆に言った。
「秋帆さん、携帯変えたの」
「そうなの」
と言いながら古い携帯をバッグから取り出した。
「沢村、何も言うな。言ったら飛行機代請求する」
と言いながら片桐はナビに集中していた。
日高は駐車場を空けてくれていた。妻の実家が近いらしい。
片桐は後ろを振り、後部座席の間にある袋に目を落とし、車を停めた。
木々たちは健やかに成長しており、日高の苔むすような住処は、日高と明子の分身であるかの如く、雨風さえ歓迎されているようだ。
日高と明子が家から僕らを迎えに出てきた。
ここに来る前に、日高から明子さんの前で『よかったな、癌が見つかって』なんて絶対に言うな、と念を押されていた。
リビングも様変わりしていた。
美咲と秋帆を二人に紹介した。明子は戸惑いもあるようで、適切な返事が思い当たらず、日高に飲み物の準備を頼んだ。
僕は大変な時にお邪魔したことを言葉で伝えた。
「何がいい」日高が言った。
少し痛みが残っているらしいが、軽い運動を医者から勧められていた。
「和菓子を持ってきた。緑茶にしようか」
片桐が言って、秋帆は紙袋から和菓子を取り出し、明子に渡した。
美咲はドイツで買っておいたお土産を渡した。
「どこかに行かれてたの」
明子は包みを開けながら、驚いたように言った。
さらに秋帆が驚かせた。
「婚前旅行に行かれたそうよ」
僕と美咲は隣り合ってダイニングテーブルに座り、カウンターキッチンを背に明子が座っていた。
片桐と秋帆はソファに並んでいた。
「お二人……結婚されるの。おめでとう」
僕は明子に返事をせず、美咲を見た。
明子は同じように日高を見た。日高にしてみれば、自分以外にも救われた者がいることで、気が安らいだかもしれない。
片桐と僕にとっては、破壊力を持った何かが着弾した思いだった。
美咲にとってはわからない。
「その前にちょっといいかな」
僕はそう言って片桐を見た。そして続けた。
「実は、もっと大事件がありました」
「これは十分に大事だと思うが」
カウンター越しに日高が言った。
「聞きましょうよ。大事件」
秋帆はソファから乗り出していた。
僕はゆっくりとみんなを見渡し、発表した。
「片桐が携帯を買った!」
日高は「痛っ」と言ってお腹を抑えた。
美咲は怪訝な表情をした。ソファに背を預けながら秋帆が言った。
「それのどこが」
「公平に判断すると……お腹が、片桐の勝ちだ」
日高が緑茶をテーブルに置きながら言った。
僕はすぐにお茶を口に含んだ。もう少し苦くてもよい。そして片桐を見た。
片桐は平然と緑茶を堪能していた。
そして、自分たちが持参した和菓子の封を切っていた。
「明子さん、今日初めてお会いしますが、秋帆さんが言ったことは本当なの」
と言って美咲は僕を見た。
皆は一斉に僕を見た。皆、異なる表情をして。
秋帆は早く認めろ、と。明子は女性に言わせて相変わらず、と。日高は夫婦ゆえ、お前が先にそう紹介すべきだろ、と。片桐は携帯のこと言う必要あったか、と。
美咲は自分の口から、結婚とか婚約とは言っていない。
僕はそっと美咲の手を取った。
「美咲、結婚しよう」
誰も言葉を挟まなかった。
「はい」
秋帆が勢いよく拍手を始め、皆がそれに続いた。そして、なぜか秋帆が大声で泣き出した。
片桐も立ち上がり『おめでとう』と言ってくれた。
「一杯だけ、乾杯しましょう」
明子はワイングラスを準備して、日高はワインを持って、「俺も一杯だけならいいだろう」と言って痛みを堪えながらコルクを抜いた。
お見舞いに来たのに、気づいたら僕たちの婚約会見になったことを詫びて、片桐の車で帰路についた。
次は婚約指輪を準備して、秋帆に気づかれないように、改めて正式にプロポーズしないといけない。




