第52話 二百五十キロの世界
ラインガウ=タウヌス=クライスは、美咲と訪れるべき場所である。
傾斜に広がるワイン畑の中腹に車を停めた。美咲と秋帆は試飲の定義を破壊していた。昼間のアルコールを浴びた妖精の悪戯をVIP席で観戦する。
ライン川の緩やかな流れと所々に点在する古城など。オーケストラに似ている。
僕らはソリスト的ホテルに一泊し、翌朝、ドレスデンに向けて出発した。
ハンドルは片桐が握った。助手席に座ることも、方向指示器の操作のように板についてきた。
アウトバーン(高速道路)A6に乗り、片桐は快調に飛ばした。
アウトバーンの走り方なのだ。
A6の数字には意味がある。奇数は南北(縦)を、偶数は東西(横)を示している。
日本に近づいている。
片桐はゾーンに入っていた。嫉妬心を覚えながら、最後にこの姿を見たのはいつだったか考えた。
僕は後ろに座っている秋帆をちらっと見た。
僕は片桐にちょっかいを出したい衝動に駆られた。
片桐は『くだらないこと聞くな』で終わらせるだろう。
でも、後部座席で違う意味でゾーンの中にいる相棒、秋帆なら躊躇なく聞くのではないか。お前は彼女のパートナーであり、僕にはそうする権利はあるのでは、と早送りされる景色を観ながら考えていた。
そんな折、秋帆が話し出したから驚いた。
「トラックが追い越し車線にいないわね」
高速は三車線あり、片桐は真ん中の車線を順調にトラックを追い抜いていた。
まったくもって秋帆らしくない。秋帆から積極的に片桐がゾーンに入った理由を聞きたがるのではないか。
「ドイツ人はルールにはうるさいの」
美咲はドイツ人の気質を言った。
美咲にも、『そんなことより、昨夜どうだったの』と話題を変えて欲しい。ただ、美咲が言うと、自爆になる。おあいこである。厳密に言うとおあいこにはならない。片桐には一悶着の結論を伝える義務があるし、こちらの方は真実を伝えたところで、中身は空っぽに近い。
「日本人が一番ルールにうるさいと思っていたけど」
僕は適当に言った。昨夜の僕が何かしらのルールに従い、その結果何もなかったように。
ゾーンに入っていたはずの片桐は言った。それは、とても滑らかなハンドル捌きに似ていた。
「俺らは先人に恵まれていた。車の登場は最近だろう。出来損ないの世代からは暗黙のルールは構築されない」
秋帆が後ろから身を乗り出して、
「片桐さん、私たちは社員じゃないのよ」
そして、げんなり感を浮かべて美咲を見た。
「まだ、学生だしね」と言って美咲はそっと笑った。
片桐は黙ってハンドルを握っていた。
「学生だからこそ心配で……
いや、この先、滅びても仕方ないか。俺たちを作ったのも先人なんだし。俺らには責任ない」
美咲が沈黙を破った。
「片桐さん、先人たちは世界から保護されてたんじゃないかな」
片桐はゾーンを解除したかのように声を出して笑った。そして、
「美咲さん、何が大事だって。それは、今こうやってドレスデンに向かっていることだよね」
「片桐、急に、カッコよすぎないか。俺ら世代を貶していたくせに」
片桐はわざわざトラック後方に車線変更し、ミラーで後ろを見てから、
「だって人はいずれ死ぬ。
沢村、そう言うことだよな」
僕は片桐を見た。彼の目はずっと閉じられているように見えた。
何を見ているのか。
この速度においてそれに値するのは秋帆であり、僕にとっては美咲である。
片桐が目を開けた時には、彼の中心は入れ替わっているのか。
僕は目を開けるよう、片桐に、
『ありがとう』
と心の中で言った。
お前から言ってくれたこと、そして、この宣言の場に立ち会い、共に生きていくことを望んでくれた美咲を幸せにしたい。
「片桐さん、あたり前じゃない。私だって明日のことわからないわ」
バックミラー越しに見えた美咲の目が震えているように見えた。僕は唖然とした。確かに可能性はゼロではないのだ。
「そうよ。私も片桐さんを悲しませないわ」秋帆の涙は表面張力を超えた。
「片桐、どうにかしろ」
「了解」
そう言って、片桐は追い越し車線に移動して加速した。
「みんな、本来のBMWを知りたくない?」
「ええ。本当の姿、見たいわ」
美咲は言った。それは、車のことなのかそれとも僕に対してなのか。
僕は美咲を求めると決めた。
「二百キロ出てる」秋帆の声は少し涙声だった。
「みんな、どう思う。エクセルを文章書くのに使ったら哀れだろう」
「……」
「……」
「……」
「このBMWは泣いている」
秋帆はため息混じりに言った。
「啜り泣きさえ聞いたことないわ」
片桐が懲りずに続けた。
「それと、顔もしかめっ面をしている」
僕は秋帆に任せることにした。少し間があって秋帆が言った。
「車は人じゃないの」
片桐は諭した。
「これは学生には難しい話」
僕はたまらずに言った。
「夫婦の会話に聞こえる」
「……」
片桐は構わず、
「ドイツ車の顔って老けないだろう。ずっと、あれは、遠慮なく前の車を煽るため」
と言いながら追い越し車線に移った。同時に、アクセルを踏み込んだ。あっという間に二百六十キロに到達した。不思議なことに、体感速度は日本で経験した最速以下だった。浮いている感覚だったが車はとても安定していた。地にへばりつく様な感じである。美咲は感じていることを言葉にした。
「ピボットテーブルってところ」
片桐はミラーを見て真ん中の車線に移った。と、同時に一瞬で後続車が追い越していった。
「遠くに見えたんだけどな。あのポルシェ、三百キロは出てるな」
休憩を挟んで運転を代わった。
旧東ドイツに入ったところで僕は片桐を超えたくなった。それは独立宣言に対するお返しとして。同時に三百キロの世界が見たくなった。あのポルシェの後ろ姿に何かを感じたのだ。
アクセルさえ踏めばそこに行ける。簡単なことだった。
二百五十キロを超えたあたりから、視界が定まらなくなってきた。さらに加速すると、視界が歪み始め虚像が鮮明さを増し、三年後の日に飛んでいく恐怖に体内が麻痺し、もはや制御できなくなっていた。
「和人さん! もうやめて!」
美咲の声が僕の足をアクセルペダルから解放してくれた。
「沢村、やりすぎだ」
片桐が隣で笑っていた。
僕は心のどこかで感じていたのだ。高層ビルから飛んだらどうなるのか。時速二百キロで対向車にぶつかっても片桐と僕は一生ベッドの上かも知れないが、死ぬことはないのだろうか、と。でも、二人が助かっても美咲と秋帆が助かる保証はない。
美咲はそっと僕に言った。
「沢村さん、あなたが望めば……」
「ごめん」
と僕は返した。
残り六〇キロの道のりは、ビルから落ちる程に短い時間に思えた。
そして、今日の終わりはおとぎの国の夜景である。
エルベ川に架かる橋越しに観えるドレスデンの夜景は、五百キロの旅を正当化した。
あの橋の向こうには異次元の世界が広がっているように見えた。
橋は途中で引き返すことなく渡り切る必要がある。これは運命の普遍に唯一対抗できる魔力を備えているようだ。後部座席の美咲を見た。美咲も僕と同じ様にその美しさに心を躍らせている。でも、美咲も秋帆も美しさは幻想で留め、この体験を共有することにしか役立てるつもりはなさそうだ。
ドレスデンを選んだ二人には脱帽だ。




