第5話 ミートソース
二度目の偶然は、いまだに起こっていない。
素敵な回想は、虹のようにあっけなく消え去る。
輝きが増すほどエネルギーの消費は激しく、短命になる。
燃料の蓄えは、基礎代謝だけでもいっぱいなのに、憂いが横取りする。
エレベーターの幻想が充電に一役買ってくれたとしても、効果は薄い。
エネルギー枯渇の警笛が、僕の電話を鳴らした。
「はい、品川製作所、沢村です」
それが片桐からだとすぐに分かった。
夫婦でもないのに、心が共鳴した。
「俺だ。今日、何の日か覚えているか」
そんな聞き方をするな、と笑いを堪えた。
場合によっては焦っていたに違いない。
はなから誕生日は答えから除外されているから厄介である。
「いいや。誰の誕生日でもないよな。そういえば、新聞休みだったかな」
僕は彼の秘書ではない。苛立たせる権利はある。
「バカ言うな。新聞が休むのは月曜に決まってるだろ。占い師の言っていた最初の日だ。何か、嫌な予感がする」
お前は俺の恋人か、と僕は関係を格下げした。
「嫌な予感とは」
「それが分かれば電話はしない。忙しい社長が一介のサラリーマンに」
一介のサラリーマンは放っておけと思ったが、
「他のみんなは無事か」
咄嗟に無事という単語を使っていた。
「今のところは」
何が「今のところ」だよ。
「とにかく、もう切るぞ。今から会議があるから」
寂しげな口調で返事が返ってきた。
「分かったよ。じゃあな」
電話は切れたが、気持ちは切れなかった。どうにも後味が悪い。
粉薬が舌の根元に滞留し、水を飲んで流そうとしても、うまく届かないもどかしさ。
会議の進行に伴い、片桐からの電話は徐々に意識の隅に追いやられていった。
粉薬は時間の経過とともに溶け出した。
会議が終わり、片桐か、もしくは他の連中から連絡があるのではないかと、
電話が鳴るたびに反応した。
結局、誰からも連絡はなく、電話の音が色褪せていった。
そして、苦味も収まっていた。
僕は帰宅し、当てもなくテレビをつけた。
そして冷蔵庫からビールを取り出し、缶を開けた。
ひとりで家にいると、雑音がなくなり、音源が気に障り始めた。
この時間に電話するのは反則だと自覚していたが、僕は片桐に電話をしていた。
珍しくすぐに出た。
「どうした? 何があった? みんな無事なのか」
これも声を聞いたことになる。
でも、僕が犯した違反は、交通量が途切れることのない幹線道路で、
駐車するような行為ではなく、
明け方の田舎道で、鹿かイタチしか活動していない状況下で、
なぜか信号機がサービス残業していて赤を灯しているのを無視するに等しい。
だが、世の中には、この信号無視すら許容できない人はいるのだ。
言っておくが、片桐は、絶対に赤信号が変わるのを待つことはしない。
「それはこっちの台詞だ。お前がちょっと心配になって」
と偽って続けた。
「今日、おかしなこと言っていただろ」
電話をした責任を片桐に押し付けた。
「ああ、確かに。心配だったが、誰からも連絡がなかったし、
あと二時間で今日が終わるから、安心していた。そんな時に、お前から電話が来た」
封じていた感情に光を当てたのは、お前が先だろと、八つ当たり混じりに少し喉を鳴らした。
粉薬の最後の一粒が残っていたようだ。それを飲み込んで言った。
「まあ、さすがに何も起こりそうにないよな。
そういえば片桐、他の四人には連絡したのか」
「いいや。今朝、お前に電話しただろう。あの後、思い直してやめた。
俺はお前と違って忙しいからな」
社長に、サービス残業の概念はないのだろう。
ここは、先に行動を起こしてくれた片桐に感謝するべきである。
「実は、俺も本当は不安だった。朝の電話では平静を保っていたけど……」
「装えていなかったぞ。お前も、あの日、何か思うところがありそうだったし。
だからお前に電話した」
間を置いて、片桐は続けた。
「もう一度言うが、真っ裸だったぞ」
片桐に何を言われても、怒る気にはなれない。
正直に打ち明けたおかげで、今回のことが一層馬鹿馬鹿しく思えてきた。
あのインチキ占い師に、一週間も不安にさせられたことが腹立たしく思えた。
負と負が単純に足されるのではなく、それぞれの負はお互いの成分で構成されており、負にも個性がある。
ゆえに、相性によって化学反応で得られる結果に違いが出るのは、当たり前のことなのだ。
今日があと二時間もない事実も手伝っていると思うし、お互いもう帰宅しているわけだから、大地震や火事でも起きない限り、何の問題もない。
電話を切り、風呂に入って寝ることにした。
結局、占い師が言った最初の日には、何事も起こらなかった。
それから三日が経った。
僕は、いつもより早く仕事から帰宅した。
こんな時は決まって自炊することにしている。
今夜の献立に、スパゲティを考えていた。スパゲティは、カレーと並んで献立の人気ベスト三にランクしている。
この二つに関しては、それなりの拘りを持っているので、レトルトは使わない。
まず、パスタ用の鍋に浄水器から水を入れ、そこに塩を少々加えてコンロの上に置いた。
今日のスパゲティは、ミートソース。
冷蔵庫から出しておいた挽き肉に塩と胡椒をまぶし、それを揉んだ。
挽き肉は、まだ冷気を保ち、ひんやりとしていたが、練り込んでいくと、
挽き肉の温度が徐々に僕のそれに歩み寄った。
冷蔵庫を開け、にんにく、玉ねぎ、唐辛子を取り出し、玉ねぎをみじん切りにした。
必要以上に細かく、そしてにんにくは必要以上に大きめに刻んだ。
刻み終えると、それを厚手のフライパンに移し、にんにくと唐辛子にオリーブオイルを友に、ガスに火をつけた。
と、その前に、パセリを求めて冷蔵庫を覗く。
パセリより先に、セロリが挨拶をした。そうだった、セロリも入れないと。
パセリを求めて、セロリに会う。肝心のパセリとは縁がない。
パセリの香りは譲れないが、セロリの顔を立てるか。僕の拘りは、この程度なのだ。
フライパンからは、にんにくの香ばしい匂いと、セロリの独特の香りが、
胃袋を刺激し始めた。
にんにくと玉ねぎが狐色になると、先ほど揉んでおいた挽き肉をフライパンに移した。挽き肉の色が、どんどんとサーファーの肌のように変わっていく。
そこに赤ワインを加え、挽き肉が波乗りを始めた。
最近は、フライパンの扱いにも慣れてきたので、波を捕まえるのが上手くなった。
波は、とても穏やかだが。
ワインのアルコールが抜けるのを嗅ぎ取り、トマトソース、ドライトマトを加え、弱火で十分ほど煮込む。
その間に、スパゲティを計量し、塩水の入った鍋に火をつけた。
しばらく経って、今度はフライパンに、ウスターソース、醤油、バジリコ、マジョラム、ナツメグ、
そして、おまじないとして、ローレルの葉を一枚加えた。
あとは、再び十五分ほど煮込むだけだった。
先ほどの塩水が沸騰し始めたので、試合前のボクサーのように計量を終えたスパゲティを鍋に入れた。
スパゲティは、水を与え過ぎたサボテンのように、すぐに硬さを失っていった。
僕はソースを混ぜながら時間を潰した。
『よしっ、出来た』
腹の虫に言った。スパゲティとミートソースを皿に盛り、冷蔵庫からビールを手に取った。
テレビはバラエティー番組に変わっていたが、他の番組をチェックする前に、
スパゲティの出来栄えを確かめたかったので、チャンネルはそのままにしておいた。
味の方は満足できた。採点に評価基準はなく、とっても甘めである。
もう少し分かりやすく説明すると、
サッカー解説でお馴染みの松木安太郎氏のような感じで採点している。
料理に時間がかかった割に、スパゲティはすぐになくなった。
準備に時間をかけるほど、食べる時間が短くなるのは単純で、美味しいからである。腹の虫も泣き止み、眠りについたので、起きないようにビールで酔わせ、
とどめを刺した。
夏空の雲のようにまばらに残ったミートソースの皿と、
軽くなったビールの缶を持って、重みのある缶を取りにキッチンへ向かった。
携帯が鳴った。
腹の虫は眠っていたが、こいつは眠ることがない。
ただ、役目を果たしているだけなのに、八つ当たりをされる。
因果な商売、いや、因果な商品である。
片桐の言う通り、携帯に支配されている。
手に持っていた皿と缶をキッチンに置き、音の鳴る方へ急いだ。
最上からだった。
「はいよ」
「沢村!」
着信画面は最上だと告げていたが、携帯から流れてくる声は一致していなかった。
しかし、どんな状況でも、携帯の画面は冷酷に相手を確実に通知する。因果と名付けられる由縁である。
「どうかしたのか? 声が変だけど」
しばらく、最上から返事がなかった。
「佐久間が、佐久間が、死んだ……」
僕は、耳と心臓が直結していることを初めて感じた。まったく理解できない。
「最上、ちょっと待て。今、何て言った」
「佐久間が、逝ってしまったんだ」




