第49話 佐久間の絵
美咲と秋帆は料理を取り終えてテーブルで待っていた。僕と片桐を見つけると二人はそれぞれ、異なったぎこちない表情をして、『おはよう』と言った。
秋帆は片桐の前に、そっと部屋の鍵を置いた。
僕は片桐を横目に吹き出しそうになった。
通りの名前を見ると“Kleinbottwar Straße”と書いてあった。ドイツ語ではストリートのことをストラッセというらしい。それは永井の住所と合っていた。
片桐は住所を確認できるほど速度を落として走った。覚えていた番号と、家に表示されている番号が一致していることを確認した。
ついに来てしまった。片桐の言った、出たとこ勝負、が妙に響いた。
「片桐、止めてくれ」
片桐はハザードを焚いて車を横に寄せた。
「あのオレンジの屋根だ」
多くの家の屋根がオレンジ色だった。その家は永井が住んでいるとも思えぬほど、周りの雰囲気に溶け込んでいた。
「なかなか可愛いお家ね」
秋帆のトーンは少し違っていた。
「治安も良さそうね」
美咲も秋帆に同意した。
「とにかく行くか」僕は言った。
「ああ」と言って、片桐はエンジンを切って下を向いて、そして続けた。
「ふたりも来る?」
片桐は僕を見た。
秋帆は美咲を待っているようだった。
「いいのね」
美咲の表情は交際を申し込んだ時を思い出させた。
「もちろん」
秋帆はシートベルトを器用に外した。
「よし、みんなで行こう」
僕は嬉しかった。
片桐は家のドアをノックした。深く鈍い感覚だった。中から、意味不明の女性の声がしてドアが開いた。女性はそれほど驚いていなかった。
「マイ ナーメ イスト カタギリ。イッヒ コウメ アウス ヤーパン。イスト ナガイ ツハウザ(私の名前は片桐です。日本から来ました。永井さんいますか)」
片桐はドイツ語で挨拶をした。
女性はためらうことなく僕たちを家の中へ招いてくれた。
リビングルームには占い師、そして、佐久間の同僚の永井がいた。
以前の面影は残っていたが、別人のように顔色は良かった。
永井は一人がけの椅子から立ち上がった。
「沢村さんと、片桐さんでしたね」
これが本当の永井の声なのか。張りがあるじゃないか。
「佐久間から聞いたのですね?」
「ええ。そうです」
永井に、美咲と秋帆を紹介した。
永井は『なるほど』と言って微笑んだ。そして、
「はじめまして、アネットと申します。日本語うまくありません」
と先ほどの女性が名乗った。
コミカルな日本語が、この場の雰囲気を和ませた。一年間日本に留学していたらしい。
「私のかみさんです」
永井はそう言って、アネットに美咲と秋帆をダイニングテーブルに促した。そして、片桐と僕はリビングのソファに座った。リビングとダイニングの間に遮るものはない。
「何か飲まれますか。そうだ、美味しいワイン飲まれます」
一杯なら飲酒運転にならないと説明を受け、ワインを頂くことになった。
アネットがワインとチーズを運んでくれた。チーズが多めに乗ったものが隣にも見えた。
「どうぞ、ドイツヴァインを楽しんでください」
二人の日常は日本語なのだろうか。アネットの各駅停車が『ヴァイン』だけ急行になった。ワインは白だった。確か、昨夜、美咲がドイツは白が美味しいと言ってたっけ。
「飲みやすいです」
これは褒め言葉である。ソムリエのように表現豊かに言おうとすると、わざとらしくなる。
「このワイン、いくらだと」
永井は尋ねた。高価なワインかと思ったが、この質問はその予想を否定している。
「意外と安いのでしょう」
片桐がそう言うと、
「これで、六ユーロですよ。信じられませんよね」
「そこまでとは。日本だったら六倍はするだろう」
「ええ。日本のレストランで頼むと十倍ですから。頭にきちゃいますよ。それで、このワインを輸出しているんです」
永井はドイツで平穏に暮らしているようだ。身を潜めているわけではない。
「実は、昨日も訪問者が」
「しまった。先を越されたか」思わず吐いた。そして、
「雨宮ですか」
永井は怪訝な表情をしたので、片桐はファミレスで撮った永井の写真を見せた。
「ええ、そうそう、この方です。しつこい人で。でも、鈴木と言っていたような。どうして写真なんて?」
「どうしても、先にお会いしたかったのですが……」
片桐は昨日の喧嘩を思い出しているのだろうか。
「事情はわかりませんが、無駄足でしたよ。もちろん、ワインのコルクも開けていませんよ」
永井は笑顔を初めて見せた。
「それは……」と、僕は言って続けた。
「どうしても佐久間の事を知りたくて。永井さんとはこれで三度目ですよね」
永井はワインを飲みながら答えた。
「いいえ。実はこれで四度目なんです」
理由なき不安を覚えたので、慎重に振り返っていると、片桐が言った。
「俺も四度目ですか?」
「いいえ」
「一度目は占いの時。二度目は佐久間の葬式。そして今日。沢村に同意する」
「覚えていないのもしょうがないです。だいぶ前ですから。それに、お会いしたといってもほんの一瞬ですから」
「失礼ですが、お年は」
僕はワインを飲んで答えを待った。
「姉の二つ下で、今は、二十五歳です」
二つ下という事は、大学時代に会っていたことになるのか。
「片桐は覚えているか」
「いいや、俺も思い出せない」
「片桐さんとは、これが三度目です」
どうしても思い出せなかった。片桐より会っているとは……
片桐は続けていた。
「今、姉がいると言われましたよね。今も日本に」
「十三年前に亡くなりました」
「すいません。余計なことを聞いてしまって」片桐が言うと、
「いいえ。この事も話さないと……
姉はバイク事故で亡くなりました」
手からワインがすり抜けた。グラスは無事だったが、少し残っていたワインが床に毀れた。美咲が心配そうにこちらを見ている。
「あなたは……」片桐は永井を透き通るように見て言った。
永井は深い安堵感に包まれているようだった。
「ええ。私の姉です」
片桐が再び、
「でも名字が違いますよね」
「両親は離婚していて、姉は母方の姓を引き継いだのです」
「そして、貴方は、父方の方を継いだ」
片桐は永井の代わりに付け足した。
「離婚後も姉とは頻繁に会っていました。姉は僕のことを一番に思ってくれていました。そして、僕も……」
永井の言葉が再び始まるまで時間を要した。
「僕は姉を慕っていました。そして、姉が大学に入って佐久間さんと出会い、姉に紹介された時は本当に嬉しかった。
姉はとても幸せそうでした。佐久間さんのことをとても愛していましたし、佐久間さんは姉をそれ以上に大切にしてくれていました。二人は大学を卒業したら結婚すると約束していました。そして僕にも承諾して欲しいと。
姉がいなくなってからも、佐久間さんは就職のサポートもしてくれました。佐久間さんには人望がありましたから」
僕は機械のように言った。
「それで、佐久間は自殺だったのですか?」
「それは、違います。私も正直分かりません。でも、佐久間さんは命を粗末にしません」
片桐はダイニングに目を向けてから、
「あの占いは佐久間から」
「はい。助けたいから手伝ってくれ、と。私に断れませんよ」
「佐久間は助けたいって言ったのですね」
片桐は尋ねた。
「ええ、真剣でした。だからあんな真似をするしかなかった。むちゃくちゃでしょう」
「五人だったので驚いたでしょう」僕は少しおかしくなった。
「びっくりしました。無愛想でいろと言われていたので。何人か占って欲しいと来るし。私にですよ。
でも、本当に佐久間さんが私の言った日に亡くなるとは……
ここに来る時も金銭面で援助してもらいました。何で、そこまで僕の為に……」
永井は声を出して泣いた。アネットが永井を大きく抱きしめた。
美咲と秋帆も僕たちに寄り添った。
アネットがドイツ語で何か言って、永井は顔を上げた。美咲はうるっとしていた。永井は続けた。
「やっぱり、佐久間さんが正しかった。二人が来るとは思っていませんでした。
婚約者までは佐久間さんも予想をしていなかったでしょう」
永井は雨後の虹に似た表情になっていた。
佐久間の絵にはこのシーンが収められていた。高価な額でなくとも未来を買っていた。婚約者が描かれているか、という問いへの答えは誰も知らない。
「本当に佐久間がそんなことを」
片桐は婚約者に触れなかった。
「ええ。確信しているようでした」
永井は佐久間が描いた絵はたった一枚だったと教えてくれた。
「だから、みなさんに黙って、日本を出ることに抵抗はありませんでした」
なぜか残ったワインにも手が伸びなかった。
「素敵じゃない。和人さん」
美咲は優しく手を握ってきた。
「ほんと」
秋帆は片桐に抱きついた。
ここを出るタイミングのようだ。
リビングに飾られている工芸品の時計が昼を指していた。
アネットは振る舞ってくれたワインをお土産に渡してくれた。
そして、ドイツ流の別れをした。
ぎこちないハグだったと思う。




