第44話 テロリズム
『バーン』
飛び起きた。
悲鳴が散乱している。眠る前、左手にあった感覚が消えていた。美咲が両手を挙げている。前の席のシート越しにも、同じ光景が見えた。
突然、男がそばに来た。
「お前は死にたいのか。手を挙げろと言ったら、さっさと挙げろ!」
考える前に、体が皆の真似をしていた。
一体、何が起きている。
直後、機内放送が鳴った。
『この飛行機は、我々がハイジャックした。お利口にしていれば危害は加えない。しかし、少しでもルールに背いたら、迷わず射殺する。
ルール一、席から動くな。ペットボトルを使え。
ルール二、話をするな。
破った場合、同じ列の全員が死ぬ』
放送が終わると同時に、機体が右に旋回した。
……ドイツに行かないと。
僕は美咲を見た。これはルール違反じゃない。
美咲はわずかにこちらを向き、前を見たまま小さく震えていた。
はっとして、片桐たちを見た。
片桐と目が合ったが、反応は薄い。
周囲を翳るように窺ったが、男の姿はなかった。
耳を澄ますと、ところどころでルールが破られている。多くは子供の漏れ泣きだ。
もう一つは、命知らずのコソコソ話をしている連中だった。赤子はもともと命を知らない。
視線を辿ると、反対側の窓際に座る男女だった。
両手を強く握りしめる。
——聞かれたら、片桐、秋帆、美咲が殺される。
『何をやっている、片桐! 早く注意しろ!』
心臓が締め付けられた。
振り向いた瞬間、
『はっ……!』
声が漏れそうになった。
後ろから、銃を持った男が近づいてくる。
黙らせないと。
だが、声を出せない。
再び振り返る。男の動きは遅いが、確実に近づいている。
焦り、手汗を膝で拭った。
もう一度、片桐を見る。
秋帆に隠れて見えない。秋帆は背を向け、片桐と見つめ合っているようだった。
心の中で叫ぶ。
『来るぞ……片桐!』
何度も。
『片桐!』
肘掛けを見ると、ナプキンが二枚あった。
一枚目に、大きく、分かりやすく伝言を書く。手が震えて上手くいかない。
もう一枚を、そっと、しかし力強く丸めた。
再び男を見る。
上着の模様が、はっきり分かる距離だ。
丸めたナプキンを秋帆に投げた。
直接片桐は狙えない。
秋帆の後頭部に命中し、肘掛けに当たり、僕の足元に戻ってきた。
秋帆は「はっ」と息を吐いて驚いた。
片桐が僕を見た。
秋帆にナプキンを見せようとした瞬間、肘を引かれた。
振り返ると、美咲が怪訝な顔をしている。
説明は後だ。
僕は秋帆を見て、メモを示した。
秋帆は眉を顰めた。
『くそ……』
叫びそうになる。
——目が悪いのか?
ジェスチャーで伝える。
秋帆は、オーケーのサインを出した。
片桐は驚くほど落ち着いていた。
そっと人差し指を口に当て、男女に示す。
男女は謝罪のジェスチャーをし、黙った。
僕はシートに凭れ、静かに息を吐いた。
その時、気配が首の動きを止めた。
——もう、そこまで来ている。
美咲に目で合図を送り、通り過ぎるのを待つ。
だが、男は立ち止まった。
視線の先は、美咲だった。
銃口が、美咲に向けられる。
「立て」
美咲は動けない。
声がパトカーのサイレンのように迫る。
銃が、容赦なく美咲の額に押し付けられた。
もう、下がれない。
ついに、美咲が声を上げた。
「やめて!」
男は一度、銃を下ろした。
「……ルールを破ったな」
再び、立てと命じる。
美咲は震えるだけだった。
「死にたいなら、望みを叶えてやる」
引き金に指が掛かる。
——その瞬間だった。
僕は、美咲の上に覆い被さった。
すっぽりと、彼女を隠す。
男は銃で、僕の左腹部を強く突いた。
動かない。
美咲は、涙を溜めて僕を見ている。
僕は、諭すように言った。
『大丈夫。まだ死なない。あと三年は生きられる』
美咲の涙が、零れた。
男が怒鳴った。
「お前も破ったな!」
銃で背中を殴られる。
三度。叩く場所は微妙に違う。
痛みは、ほとんどなかった。
毛布を、美咲との間に挟んだ。
男は逆上し、狙いを後頭部に変えた。
一振り目は、かすった。
勢い余って、銃は背凭れを叩く。
男は腕を痛めたようだった。
頭から垂れたのは、汗じゃない。
男は銃を持ち替え、引き金に指を掛け、微笑んだ。
次の瞬間。
『バーン』
右足に衝撃。
自由が奪われた。
美咲は無事だ。
微笑みで伝えた。
続いて、後頭部に向けて、もう一発。
『バーン』
熱が、広がった。
感覚が、ばらばらになる。
音が消え、視覚だけが残った。
『大丈夫……』
視界が消えた。
——暗闇。
いや、暗闇かどうかも分からない。
その中で、胸の辺りに、薄い温かさがあった。
左手の感覚も残っている。
叫んだ。
『美咲!』
——肩に、感覚。
次に、声。
『和人さん』
全身が戻る。
目を開けると、美咲がいた。
「大丈夫?」
「美咲こそ……無事でよかった」
美咲は微笑んでいる。
「魘されてたわよ。私の名前、二度も呼んだの」
左手を見る。
美咲の手を、強く握っていた。
右足も痺れている。
フットレストの溝に挟まっていたらしい。
「酷い夢を見た」
「私も出てきた?」
「……うん」
詳しくは話せなかった。
「私は何役だったの?」
「そのままの、君だった」
美咲は笑った。
「面白そう。映画より迫力ありそうね」
僕は否定した。
「短い夢だった」
時計を見る。五時半過ぎ。
二時間近く眠っていた。
ふと、胸元が光っていることに気づいた。
服の下に仕舞っていたネックレスが、読書灯を反射している。
——幸運の女神。
そして思い出した。
暗闇で残っていた、左手の感覚。
美咲の手だった。
「さっき、ヒーローは出てこなかったって言ったけど、訂正する」
「ジェームス・ボンドみたいなクールな感じ、それともシュワちゃんのような肉体派」
僕は困った。
「ヒーローは二人いた」
「へぇ。じゃ、メル・ギブソンとダニー・グローバーみたいな名コンビなんだ」
「そうだね。確かに名コンビだった」
「私も会ってみたいな」
「いつでも会える」
僕は美咲の右手を握った。
「ほらね」




