第42話 出発
休日の新宿駅は、薄化粧になる。
日本の右へ倣え文化の賜物なのか、四半世紀前とは勢いが違う。前向きに言えば成熟したのだろうか。楽観視と悲観視、その絶妙なバランスは、片方を少し押せば、そちらへ転がる。
美咲との海外行きは言葉にできない。
『死ぬほど嬉しい』は、その一部を指している。だが今回に限り、『死』という言葉は不適切だった。
美咲はトランクと肩掛けのバッグを携え、旅慣れた格好で現れた。トランクの中身は、どれも見たことのないものだろう。不適切が、適切に置き換わった瞬間だった。
このまま出国して、海外で暮らすのも悪くない。そんな衝動は、晴天の日に出勤するたび何度も誘惑してきたが、一度も実行できなかった。今回は千載一遇。悪魔の囁きではなく、天使の囁きだ。美咲は、ほとんどノーメイクに見えた。
「おはよう。昨日は眠れた?」
「夜更かししちゃった。飛行機で眠るから平気」
どちらが寝ていないかの競争は次回にして、乗り場へ向かった。
片桐は秋帆と車で空港へ向かう。成田エクスプレス十五号、九時四十分発。成田着は十時五十三分。
搭乗手続きの列に並び、片桐から受け取ったチケットを美咲に渡した。
美咲はチケットを見て、少し声を出して笑った。
「和人さん、これビジネスクラスよ」
後ろで怪訝な目を向けている、数時間後には同じ飛行機に乗るカップルを残し、僕らは閑散とした窓口へ向かった。
「片桐には、丁寧に感謝するべきだった」
「感謝にクラスは関係ないわ」
手続きを終え、ラウンジで二人を待つことにした。
「片桐たち、遅いな」
そう言いながら、美咲とのラウンジを満喫していた。
「片桐さん、秋帆さんに叱られていなければいいけど」
秋帆から、搭乗前に話したいと言われていたらしい。
「こっぴどくやってほしい。飛行機なんだから」
「遅れても平気よ。二人だけで行けるじゃない」
美咲はそう言って微笑んだ。これは、まさしく天使の囁きだった。
ボーディングの時間が迫り、提供されたほとんどの食事を試さないまま、ラウンジを後にした。ビジネスクラスのボーディングは、うさぎ(仮眠していない)と亀だ。
「この見せつけ感、半端ないね」
「だって、値段も倍以上するもの」
「えっ、そんなにするの」
片桐には、出世払いにしてもらおう。
「片桐さんには、ドイツから戻ったらちゃんとお返ししましょう」
「……そうだね」
僕と美咲の席は、5のA/Bだった。
美咲が窓際に座る。広い座席の心地よさと、無数のスイッチの意味を探っていると、シャンパンが運ばれてきた。至れり尽くせりの待遇に、これから引くおみくじが大吉だと思えてくる。
「このまま、二人で行くのかな」
独り言のように呟いた。
「何を考えているの」
「今回のこと。ドイツへの旅の意味を考えていたんだ」
「どんな風に」
「どう言えばいいのだろう……」
秋帆が言った婚前旅行という言葉が、頭から離れなかった。こんなにあっさり漕ぎ着けていいのか。やり残したことは山ほどある。具体的に足りないものは思いつかない。ただ、何にでも助走があってこそ、羽ばたける。
「そんなに難しいことを考えていたの」
「いや、簡単に考えていた。それに気づいて、考え直している」
「変なの」
美咲は窓の方を向いた。彼女の目は見えないが、遠くを見ていることが分かった。
「お待たせ!」
もう待つ段階は、とっくに過ぎていた。
「片桐!」
「二人で行けると思って、わくわくしてたんじゃないよな。それもタダで」
「何を言っている」
「こんにちは。遅くなってごめんなさい」
荷物を仕舞いながら、秋帆が言った。彼女には常識がある。
「はらはらするわね」
美咲は微笑みながら秋帆に言った。
「搭乗って三十分前からでしょう。それなのに片桐さん、チェックインが三十分前だと思っているの。せっかくビジネスなのに、ラウンジにも寄れなかったわ」
秋帆は、僕の隣に座ろうとする片桐を見た。
片桐は何も言わず、靴を脱ぎ始めていた。
「そうそう、美咲さん。やっぱりドレスデンに行くのは、ちょっと無理ね」
「そうね。そこからプラハにも寄りたかったけど、今回は残念にしましょう」
「でも、美咲さんが言っていたレーゲンスブルグを調べたの。ドナウ川に架かる石橋では最古なのね」
「そうなの。一度、渡ってみたかったな」
二人は連絡先を交換し、旅の計画を話し始めていた。
「秋帆、言ったと思うけど、目的を果たせないと自由時間は取れないから」
片桐はスリッパを履きながら言った。
「分かっているわ。心配しないで。私、強運なの。すぐに目的は果たせるわ。その証拠に、今飛行機にいるのよ。美咲さん、ドレスデンも可能性ゼロじゃないわ」
確かに、その通りかもしれない。
僕たちには、女神の微笑みが必要なのだろう。
「沢村さん、ちょっと席を代わってもらえる? 誰かさんのせいで、美咲さんと話せなかったの」
秋帆は女神の微笑みを僕に向け、もう一人の女神が続けた。
「私も、確認したいことがたくさんあるの」
僕は自分の席にいる権利を奪われ、片桐の隣へ移動した。通路を挟んだ向こうで、美咲と秋帆は古くからの友人以上に盛り上がっていた。
二人が会うのは、今回で二度目だ。それでも、ここまで打ち解けられるのは女性特有のものなのか。それとも、僕と片桐が親友だから、譲れない部分の好みが似てくるのか。
交わることのなかったはずの人生の直線が、昔見たスプーン曲げのように、運命というトリックで向きを変えた。そして、交わったものは、今、異国へ向かおうとしている。
「何を考えている?」
一息ついて、片桐が言った。
「お前まで、美咲と同じことを聞くんだ」
「いつになく神妙だから。お前を困らせたか」
「いや……そうじゃないけど。この旅って、何かの始まりなのかな」
「何かの始まり……か」
片桐は靴を仕舞いながら言った。
「そんな気がするな」
「片桐、お前も変わり始めているな」
「毎日のように会っているのに、お前、鋭くなったな」
片桐は、自分が変わり始めていることを認めた。女性には、驚くべき力がある。
アナウンスに導かれ、飛行機のエンジン音がけたたましく音量を上げる。機体はゆっくり前進を始めた。それでも、隣の盛り上がりはガス欠とは程遠い。僕と片桐は、それがおかしくなった。
「この状況、バランスは取れているよな」
「陽と陰、SとNとか」
片桐らしい言い方だったので、僕は言い換えた。
「天秤が水平になる、とか」
片桐は眉を顰めた。
「天秤は違う気がする。隣の二人の陽気さはありがたい」
「そこまでは同意できる」
「でも、天秤だとしたら、俺たちは中心にいることになる。つまり、両方の重さを支える」
僕の目は、閉じかけていた。
「だから天秤じゃない。天秤そのものが宙に浮かないといけない。彼女たちの浮力で」
難しい話を続けるので、目を閉じて考え込み、言った。
「片桐、ビジネスクラスの料金、払わなくていいよな」
飛行機は迂回を終え、滑走路に入った。エンジン音が一気に上がり、機体は加速する。僕たちは座席に貼り付けられた。この感覚は、嫌いではない。




